ヒシケイジさえ居なければ   作:ハシダ シュンスケ

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誤脱報告、感想ありがとうございます。

プロローグ前の最終話なので、ひたすらに長いですご容赦ください。


2012秋、凱旋門賞(後:3/3)

 錦の舞台、凱旋門賞。

 石破 志雄は葦毛の豪駿ヒシケイジを馬群から先んじて抜け出させた。

 

『さぁーッ! 最後の直線、今最後の直線に各馬が入ってきます!』

 

 観客席からは、歓声と共に悲鳴が湧き上がる。

 いいぞ、ざまあみろ――ブックメーカー共に乗せられて、ヒシケイジを買わなかった罰だ。

 

『行け、日本二強!! 日本の夢を乗せてさぁ行け!』

 

 俺はノーマークのヒシケイジを唯々、自由に走らせた。

 よどみない動作のお陰で、一完歩が妙に遅く見えるケイジと、ロンシャンのストレートを駆け抜けていく。

 

 誰もが先頭に立つヒシケイジを見ている――

 快感だ、そうだ、俺はこの光景を馬たちに見せる為に走ってきた。

 

 周囲から聞こえる歓声、罵声、すべてが競走馬に降り注ぐ――

 必死に走る馬に、先頭の景色を見せるために、ジョッキーになることを選んだんだ。

 

『残り520mだ! 先頭は、ヒシケイジが先頭だ!! 父の奇跡、あの菊花賞をロンシャンで見せるのか!?』

 

 だからまだ油断はできない。

 ケイジが勝ったと確信したとしても、奴らは来る。

 

 ヒシケイジの馬としての本能を殺さないように、俺は必至の無酸素運動を継続していく。

 

 来る――クリストファー・ソロモンは、そんな甘い相手じゃない。

 どんなに姑息な手段でマージンを作っても、オルフェーヴルが完全につぶれることはない。

 

『そして外からも栗毛の馬体が来たぞー! 日本のオルフェーヴル!!』

 

 今日のオルフェーヴルは明らかに焦っている。

 幾らオルフェーヴルとはいえ、あれだけ焦った馬が、フローに入ったケイジに追いこすことが出来るのか。

 

 いや、出来る。

 大賞典で20馬身を詰めた馬だ。

 オルフェーヴルなら出来る――出来るかもしれない。

 

(手負いの獣は恐ろしい――ケイジ!! 頼む、あと一歩伸びてくれ!!)

 

 石破 志雄が縋るように手綱を扱く。

 

 すると、ぐん――と、背中を押されるような加速の衝撃が、俺に加わった。

 

 こんな奇跡が、競馬にはあるのか。

 

 俺の騎乗の限界を、馬が自らの意志で越えるように――

 

 まるで、ケイジ自身がオルフェーヴルと決着を付けるかのように――

 

 ケイジのストライドのギアが一歩ごと、前へ、前へと進むように上がっていく。

 

 そうか、ケイジ――やる気なんだな!!

 

「そうだ、勝つぞ、俺たちで勝つんだ、ケイジ!!」

 

 俺は、その瞬間――声を張り上げてケイジを鼓舞していた。

 

 来い――来い――俺の声に合わせて、奇跡よ来い!!

 

(来た!!)

 

 ヒシケイジは鍛え上げられたトモの速筋を爆発させ、鞍上の俺が分かるほど強く――地面を踏みしめる。

 

『残り300m、ヒシケイジが先頭だァ! ヒシケイジ、先頭は変わらない!!』

 

 ケイジはただ流星のように――脚のように脚を送り込み飛んでいく。

 

 前へ、前へ、前へ、前へ、勝つために駆け抜ける。

 

『抜けた、抜けたッッッ!! ヒシケイジィ~~~~~~~~、リードは三馬身と開いた!!』

 

 辛い、辛過ぎる。

 

 息を吸う暇がない。

 

 脳がバチバチとスパークしている。

 

 ああ、でも、静かだ。

 

 直後、俺はルールで許された四回目の鞭を振るっていた。

 

 いいぞ、飛べ、お前の幸福は今このターフの上にある。

 

 愚直に、ただゴールへと馬鹿正直に全力を出し切れ。

 

『栄光まで残り200メートルッ!! 豪駿!! ヒシケイジ!! シルバーコレクターのッ下剋上なるか!!』

 

 そうだ、勝てるぞ――ケイジ。

 

 お前は馬としての全てのポテンシャルを出した。

 

 明らかにオルフェーヴルの加速が悪い。

 

 今、この瞬間、遮二無二に奔ることができれば――

 たとえ、オルフェーヴルの最高速に届かなくても――このマージンは守り切ることができる。

 

『しかし、追いつく、外から、外からオルフェーヴル!!』

 

 だから、今はただ――この全力を全開にして、前へ、前へ――!!

 前へ、前へ――前へ、前へ、前へ、前へ――!!

 

『先頭はまだ、ヒシケイジ、だがオルフェーヴル来る、先頭二頭は日本の二強!! 全世界を置き去りにする両者の差は一馬身!!』

 

 前に行くんだヒシケイジ!!

 

 俺は残された鞭を一発、懇親の力で叩き込んだ。

 

――パシィ!! とステッキの音が響く。

 結局何だかんだ、ヒシケイジにはこれが効く。

 

 直後、俺の意志が伝わったように、ヒシケイジが躍動し、肉体に残ったすべてをスピードに変えたかのように飛ぶ。

 すげえ――すげえよ――ヒシケイジ、やっぱりお前は誰が何と言おうと俺が知る限り最高の馬だ。

 

 だが、悪いな、もう限界だ――もう何もできない。

 気力を使い果たし糸が切れたように体が重くなる。

 

 それでも、ヒシケイジは――一歩、一歩と速度を維持しながら猛進する。

 

 そうだ、この場で今、一番勝ちたいのはケイジ――お前だよな。

 勝ちたいよな。勝つための全力を出したいよな。

 

 なら、ここで倒れるわけにはいかない。

 あと一秒――あと一瞬だけでも、俺が崩れなければ勝てる――勝てるんだ。

 

『暴君が迫る!! 王子が粘る!! 半馬身!! 半馬身!! ヒシケイジか、オルフェーヴルか!! どっちだ~~~~~~~ッ!!』 

 

 オルフェーヴルがみるみる外側を駆け抜けていくなか、俺とヒシケイジはゴールを駆け抜けていた。

 

 直後、ケイジの歩法が乱れ急に速度が落ちていく。

 

 いけない――ダメだ、ケイジ……

 俺は手綱を引き、ケイジが怪我をしない様にペースを押さえていく。

 

 クソッ、我ながらへたくそだ。

 ケイジにこんなに無茶をさせて勝ったって、そんなの――馬が辛いだけだ。 

 

 もっとうまく乗れれば――思えばもっとペースを維持したまま好位に付けていれば……

 もっと手綱を上手く扱えていれば、手前を変えるタイミング、他の馬との駆け引き――

 

 反省点はいくらでもあった。

 こんな多くの事、ヒシケイジが居なかったら、きっと気づくこともなかった。

 そうだ、今度――芝田先生にあったとき、タケさんたちと飯を食いに行ったとき、教えてもらおう。

 

(頭を下げて、教えて貰おう――馬鹿にされながら、もっといい騎手になるんだ)

 

 俺が心の中で、安堵するように息を吐き下ろしたとき―― 

 ヒシケイジがよたよたしたトロットから、とぼとぼとした歩みにすら戻せず脚を止めたところで――俺は気づいた。

 

 おいおい、ケイジ――気づいてないのかよ。

 

 俺は誰でもない愛馬に分かるように、右手を高々と上げていた。

 

『着順が出ました──1着はヒシケイジ!! ハナ差、ハナ差です!! 日本のヒシケイジが二強対決を、凱旋門賞を制しましたッッッ!!』 

 

 少し躊躇した後に、しっかりと腕を掲げるようなガッツポーズ。

 

 春の天皇賞の時と同じ、勝利の証だ。

 分かるだろう――なぁ、ケイジ。

 

 そうして、石破志雄が空に手を掲げたとき――

 その脳裏に浮かび上がってきたのは、初めてケイジと出会ったときの申し訳なさそうなヒシケイジの表情であった。

 

――「よろしくな、ヒシケイジ」

 

――この馬は……筋金入りの「馬鹿」だ。

 

――「おい、バカ。喜べ――今から俺が、お前に競馬を教えてやる」

 

――「お前は――凄い馬だよ。第一印象から、バケモノだと思ったけどな」

 

――「乗ってみると、お前はさぁ、誰かのために走れる『名馬』だってわかったよ。お前は自分なりに頑張って、出来ることをして、それでも満足できなくて、たどり着かない場所に手を伸ばそうと必死に、我武者羅に足搔いていた」

 

――「俺は、出来ないことを出来ない理由を知らないで足掻こうとするから、お前はバカだって言ったんだ。不器用なバカは――俺と一緒だ――」

 

――「また乗りに来てやるよ。その時は、俺を信じてくれ」

 

 男の脳裏に、愛馬と歩んだ日々の光景が、走馬灯のように、ありありと浮かんでいた。

 

――「おい、馬鹿。今日は馬鹿らしく仕掛けるぞ」

 

 メイクデビュー福島。

 

――「ホエールキャプチャと頭を取り合うぞ。もう一回、ガッツリ逃げる」

 

――「っし……!!」

 

 芙蓉ステークス

 

――「おい、ヒシケイジ。一番人気のサダムパテックぶっ飛ばして、絶対勝つぞ」

 

――「ヒヒッ」

 

――「はぁ……ケイジ、ありがとな……」

 

――「ブヒヒヒヒヒッ」

 

 朝日杯フューチュリティステークス

 

――「すまん、ケイジ――俺は、お前を本気にさせて、やれなかった……」

 

 決して、順風満帆な日々ではなかった。

 

――「ごめんな、皐月賞で負けたのは、俺のせいだ」

 

――「ブ、ヒ……」 

 

――「お前が『本能』のままに走れるように、俺も頑張ってみるよ。だから負けることなんて怖がるな――お前の『集中力』と『負けん気』は、俺が一番わかってるから、また、オルフェーヴルに『挑戦』しよう」

 

 何度だって、無茶ぶりばかりさせてきた。

 

――「俺を信じろ。前に言っただろ――大丈夫、途中で一発鞭を入れる。そのあと指示に従え」

 

――「ケイジ、そのまま『集中』して、レースの中で『本気』の出し方を掴むんだ!!」

 

――「奇跡は、自分で起こして掴め!!」

 

 日本ダービー。

 

――「ケイジ、前に、好位置につけろ――」

 

――「ケイジ――行け!! 行け!!」

 

――「ヒシケイジ――行け、そのまま行け!!」

 

 宝塚記念。

 

 お前は、どんなに辛い挑戦も乗り越えて、凄い馬に成長したよな。

 

――「ケイジ、ヨレるな、落ち着け――!!」

 

――「すまん、ケイジッ――」  

 

 それなのに、俺、お前の脚を何時だって引っ張っちまった。

 

 菊花賞。

 

――「ヒシケイジ!! 楽しめ、楽しむんだ――お前のための最高のレースが来たぞ!!」

 

――「ヒシケイジ――勝て、オルフェーヴルに勝て!!」

 

――「ケイジ――笑ってやがるのか……はぁ、あんだけ啖呵切ったのにな……」

 

 有馬記念。

 

 もっと俺が上手いジョッキーなら、お前は全部勝ってたかもしれなかったのにな。

 

――「とりあえず、勝ててよかったな」

――「ブヒッ」

 

 そう思えば、阪神大賞典。

 

――「ケイジ、加速だ」

 

 春の天皇賞。勝てるようになってからのレースは楽しかったな。

 

――「でもな、ケイジ。俺たちバカはさ、バカなりに――やってきたはずなんだ」

 

――「だからケイジ、俺達で『挑戦』してみよう。フローにだって『上』があるはずなんだ」

 

――「だから、ヒシケイジ、明日は――俺を信じてくれ」

 

 二度目の宝塚記念。

 俺の馬鹿に、お前は付いてきてくれた。

 

――「ケイジ、オルフェーヴルに勝つ方法は必ずある――」

 

 フォワ賞で、負けてもお前はへこたれなかった。

 悔しさをバネにして、俺と一緒に、走ってくれたよなぁ!!

 

――「ケイジ、悪いけど……やっぱ、オルフェーヴルには普通の競馬じゃ勝てない」

 

――「だから、馬鹿をやる。俺の指示に従え。斜行は絶対にするなよ」

 

――「夢をかなえるぞ。ヒシケイジ」

 

――「行けッ!! 行けッ!! ヒシケイジ!!」

 

――「行け、行け、もっとだ、もっと行け!! お前の『全力』の先に行け!!」

 

――「いいぞッ、ケイジ!! あとはお前が思うよう走れ!!」

 

――「そうだ、勝つぞ、俺たちで勝つんだ、ケイジ!!」

 

 そうだ。俺、勝ったんだ。

 

 早山先生、土井さん、門田さん。

 綾部オーナー、やっと、あなたに受けた恩を果たせました。 

 雅秀社長――やっと、あなたの願いにこたえることが出来ました。

 

 そして誰でもない相棒、ケイジ、やっと俺はお前を最高の舞台に連れていくことが出来たぞ。

 

 そう思った瞬間――すべてが報われた気がして。

 

 気づけば俺の視界はもう何も見えなくなるくらい滲んでいた。

 

 息が苦しい。鼻が止まらない。

 

 こんなに嬉しいのに笑顔一つ作れない。

 

 ダメだ、ダメだろ――この喜びを伝えるべき奴が、目の前にいるんだぞ!!

 

「おい、おい……やったな……やったなぁ、ヒシケイジ!!」

 

 俺は何とか、平静を保ったまま、相棒の首筋をゆっくりと撫でてやった。

 

「ブヒヒヒーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン!!」

 

 ヒシケイジが誇らしげに首を上げ、勝利の雄叫びを轟かせる。

 前脚が上がり、「クールベット」のような姿勢になろうとして――俺は慌てて左手で手綱を取った。

 

 瞬間、シャッターが切られる。

 あとで見返してみて笑ったが「サン=ベルナール・峠を越えるボナパルト」みたいな構図になっていて俺は笑った。

 

 勝利の美酒、待ちに待った直接対決での勝利。

 俺は確かにケイジと最高の栄誉を、このフランスで手にしたんだ!!

 

『皆さん、目の前の光景は真実でしょうか――夢では、夢ではありません……日本のヒシケイジ、石破志雄騎手がガッツポーズを掲げています』

 

 歓喜が心を包む。

 歓声が、周囲を包んでいる。

 

 そんな中、俺は背後から迫る馬が一頭いることに気づいて扶助を送った。

 ケイジはかろうじて動く体に鞭を打って。ぐるりと振り返る。

 

『世界の高い壁を越えて、日本馬のワンツーフィニッシュという結果――まさに日本の誇り!! ついに、日本のサラブレッドが凱旋門賞という夢を叶えました!!』

 

 そこに居たのは残念そうな表情を浮かべながら、笑っているクリストファー・ソロモン。

 そして、明らかに不満げなオルフェーヴルの姿だ。

 

『いやしかし、オルフェーヴルは残念でした。ちょうど彼がペースをつかむかといったタイミング……ヒシケイジのスパートで

折り合いが崩れてしまったのでしょうか』

 

 クリストファー・ソロモン。

 あんたが、いや、あなたが居なければ――俺はここまで来ることが出来ませんでした。

 

 本当に、本当に、ありがとう。

 

 俺は、クリストファー・ソロモンに一礼し――せめて握手を求めた。

 クリストファー・ソロモン、尊敬できる先輩ジョッキーが痛いくらいの強さで俺の掌を握った。

 

 ああ、最高の気分だ――と俺が声を上げそうになったところで

 

 周囲の歓声と拍手に反比例するように、ヒシケイジが明らかにおびえていく。

 

(おい、ケイジ、喜べよ――今日勝ったのは、お前なんだぜ)

 

 そう思って顔を落としたとき――

 

 俺は、目の前のオルフェーヴルの姿を見た。

 

 いや、見てしまったという方が正しい。

 

 目の前にいる尾花栗毛の暴君の態度は明らかに競走馬のそれを逸脱していた。

 

 ギラギラとした瞳に明らかな殺意が宿っている。

 

 【ヒシケイジさえ、居なければ】――と、その馬は並々ならぬ熱意を持って、俺たちへの復讐を誓っていた。

 

 戦いは、まだ終わらない。

 臥薪嘗胆――王の誓いし復讐は、果たされるまで終幕が訪れることはない。

 

 石破志雄は、この瞬間、ヒシケイジとオルフェーヴル。

 二人の馬が、決定的な決別を迎えてしまったことを知ってしまった。

 

『今ロンシャン競馬場は大きな拍手に包まれています、ヒシケイジの栄光と、それから日本のオルフェーヴル、仏国のソレミアの健闘をたたえる拍手です、この三頭、四着とは相当な差がありました 着順掲示板には一着八番ヒシケイジ、二着日本のオルフェーヴル。感無量でございます。両馬とも古馬戦線、一年目です――今後の日本二強の対決に注目していきたいですね』




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