ヒシケイジさえ居なければ   作:ハシダ シュンスケ

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ありがとうございます。


2012秋、ジャパンカップ(前:1/4)

 2012年11月。

 

 ヒシケイジの長いようで短い短期放牧が終わろうとしていた。

 栗東へと戻り、検疫を受け――11月26日のジャパンカップに臨む。

 

 すべては、オルフェーヴルとの再戦のために行う俺なりの努力であった。

 

『なぁ、おい!! なぁ、おい!! ヒシケイジさんよぉ……だからってゴルシ様のこと無視してるんじゃねぇぞ!!』

 

 そんな俺が今日も今日とて、放牧地で草をもしゃもしゃと食んでいると、相も変わらず一頭の馬が近寄ってくる。

 その葦毛の馬は影はブルブルと鼻を振るわせて、度重なる威嚇を繰り返して来た。

 

 もうこの時点でソイツが誰か、分かってしまうのは――

 ついこの前の菊花賞で、史上八頭目のクラシック三冠馬となったゴールドシップだった。

 

『次のレース、ぜぇったいゴルシ様がケイちゃん先輩を叩きつぶ~す!! トーセンジョーダンが居ない今、本気やら何やらで先輩面して来たケイちゃん先輩をぶっ飛ばせば、俺が栗東のボスとなることは、確定的に明らかなのだ。分かるかね。ゴルシ様は栗東でボスになりたいの!! あと次のレースも勝ちたい!! ゴルシ様に歯向かうありとあらゆる馬を、何処かの星のようにドデーンと破壊したい!!』

 

 俺はため息をつこうとして馬の体だとそういうのは無理なので、憐みの視線で鼻息を噴く。

 

 今年の春に突っかかってきた生意気な後輩を鍛えていたら、気づけば三冠馬になってしまうとは。

 まさに塞翁が馬である。馬だけに。

 

 だがよく見ればコイツの蹄鉄、まだ新しいのに大分すり減っている。

 毛ツヤもよく、馬体も本格化を果たし――競走馬として大分完成した。

 

 俺を倒すために――

 ライバルに勝つために――

 

 ゴールドシップも努力しているのだろう。

 

 けれど、残酷なことにこいつはバカだ。

 俺が次走るレースがジャパンカップであることを、多分まだ知らないのだ。

 

 それから数日後、俺が翌日栗東に帰ることを聞いた日、十一月の曇り空の下で――

 ヒシケイジは信楽ノーザンファームに現れた早山のおやっさんに連れられて、ウッドチップの周回コースへとやってきていた。

 

「いやぁ~、神様仏様――早山様。凱旋門賞馬ヒシケイジでウチの馬と追い切りしてくれるとは感無量!!」

「ま、最終は栗東でやるがな……」

「それにしても、この菅井。早山先生にこれ程贔屓されるとは思っておりませんでしたぜ」

「まったく、俺だって生枝のとこの馬とやるとおもってたさ……でも、避けられてるんだもの。どーしようもないわなぁ」

 

 俺は一か月ぶりに鞍上に石破 志雄を迎えての追い切りを始めようとしていた。

 

 目の絵にいるのは、ゴールドシップ。鞍上は打田 博士。

 

「ウン、風の噂じゃ生枝調教師はオルフェーヴルの敗北を、ヒシケイジという馬に依存し過ぎたことを第一原因と見ているらしい。オルフェーヴルはヒシケイジがいるから走る。逆にヒシケイジが普段通り走らなきゃ、オルフェーヴルも走れない……ならば、離して問題を解決する。生枝調教師らしい合理的な判断だ」

 

 普段より半テンポ口の回る打田 博士の声は俺には届いていなかった。

 

『……』

 

 そこには、静かに目を伏せる一頭の競走馬がいた。

 

 “黄金の浮沈艦”ゴールドシップ。

 

 彼はその普段の粗暴な空気は鳴りを潜め――静かにその場に立っている。

 

 以前見た時よりも、デカい。

 何よりも、自らの脚で走ろうという意欲が感じられる。

 

 普段のおちゃらけた姿を知っているからこそ、異質で不気味な姿だ。

 

『なぁ、ケイちゃん先輩』

 

 ゴールドシップの目線が俺を射抜く。

 

『これでも、結構ゴルシ様は尊敬してるんだぜ。ケイちゃん先輩はデカいし速いし――知る限り、どの馬よりも強いしな』

 

 それはゴールドシップの中から、ゆっくりと走ろうとする意志が形になっていくような有様だった。

 気迫を形にして、走る。

 

 今だけは俺を見ろと、言っている。

 

『分かった分かった。レースを一緒に走るのは、待ってやる』

 

 その代わり、本気を出せと言っている。

 

『だが、その代わりと言っちゃなんだが、聞いてくれ。これは俺様、ゴルシ様の頼みだ。一頭の馬が、本気でアンタに頼むんだ――先輩……いや、ヒシケイジ、今日だけはお前が持ちうる本気で走ってくれ。今日が今日こそが――俺とケイちゃんが走る真の有馬記念だ』

 

 いいぜ――ゴールドシップ。

 

 お前に手加減はしない。

 

 手を抜いて勝てるとも思わない。

 

 お前が今持つすべてを俺にぶつけて来い――

 

「わるいがね……石破 志雄、早山先生。ゴールドシップは本気だよ」

「でぇじょうぶ。そのつもりで石破 志雄連れてきてるから――んじゃ、石破、ヒシケイジ。やってやれ」

 

「そのつもりです」

「ブヒ」

 

 その言葉と共に、俺は石破 志雄の扶助を受け走り出す。

 六ハロン、暖まった脚が剛柔自在に俺の体が生み出すパワーをコースに伝えてくれる。

 

「ケイジ、加速だ」

 

 俺は相棒の言葉に併せて加速する。

 真の意味で己からハミを取り、ぐっと相棒の意志に合わせて己を引っ張る。

 

「早山先生、なんですかあれ――」

「石破志雄スペシャル。多分、ケイジ専用だ」

 

 馬なりにも関わらず、俺の脚は寧ろペースを上げていく。

 ヒシケイジはフランス遠征を経て、確実に成長していた。

 

 己の限界を完全に理解したスパートから生み出すスピード。

 

 血統によって受け継がれた世界屈指レベルのスタミナ。

 

 調教によって獲得した筋骨隆々の肉体が生み出すパワー。

 

 好敵手との数々のレースが鍛え上げた鋼鉄に例えられる根性。

 

 そして、他の馬とは一線を画す理解不能の追従性と勝負勘を備えた賢さ。

 

 残り五ハロン――世界最高の舞台で開花したヒシケイジの才能は凡馬であれば一目でその自信を砕くものだ。

 

「やるね、何をしているのか想像がつかないヨ」

『だからって、ゴルシ様が諦めると思ってるのか? 分かるぜ、ケイちゃん先輩――お前の本気はまだこの先にある。俺達が完全に暖気するまで待ってやがるたァ……最高じゃねえの。分かってるぜ。手なんて抜いてない。お前が自然体すぎて遅く見えるだけなんだろ――!!』

 

 だが、ゴールドシップは寧ろ闘志を湧きたてられたかのように加速する。

 

『スローハンドたぁ、粋な演出だぜ――ヒシケイジ!!』

 

 残り四ハロン――相棒は、しっかりと脚を貯める。

 凱旋門賞と同じように、差しの動きでゴールドシップを沈めるつもりだ。

 

『面白くなってきたゼッ!!』

 

 俺の背後で感じるプレッシャーが一段跳ね上がる。

 ワザと脚を貯めていたゴールドシップの打田騎手の指示に乗ったのだ。

 

 徐々に始まる加速の中、俺の目の前、幾分と奥かにハロン棒が見えてくる。

 

「ケイジ、700mきっちり回せ!!」

 

 直後、相棒が俺に合図を送るように鞭を入れる。

 

 普段通り訪れるスパークに合わせて、走る俺を急かすように――

 相棒が手綱をしごき、俺の歩法のペースを上げていく。

 

 なるほど――今日冷静な頭で何をされたか考えてみて分かった。

 相棒、ものすごく高等なテクニックを、凱旋門賞でやってやがった。

 

 前に、ただ前に歩こうと考える俺よりも高等なテクによる一心同体。

 最高だ――そういう頭のいい頑張りを、俺はただ本能的な走りで凌駕して行きたい。

 

 前へ――前へ、前へ――

 前へ、前へ、前へ――前へ、前へ、前へ、前へ――!!

 

 残り三ハロン。

 俺の加速はまだ止まらない。

 

 ストライドの一完歩の間に大地が揺れ、肉体が直進のためだけに躍動する。

 来い――どうした、来ないのか――ゴールドシップ!! お前の本気はその程度か……?

 

『ンなワケないだろうが――ケイちゃん先輩、ケイちゃん先輩!! やっぱすごいぜ、クソ野郎が!! 苦しいぜ、どんだけコソ練してきても、手ェ抜いてないんだから、そりゃ簡単には、差は縮まるなんて思ってねぇが!! このゴルシ様は諦めるつもりなんてねぇ――!!』

 

 直後、ヒシケイジは背後から、まるで叫ぶようなゴールドシップの圧を感じた。

 打田 騎手の剛腕は今すべてゴールドシップを驀進させるためだけに使われている。

 

 ヒシケイジの加速はゆるやかに、それでいてスムーズに――

 過去のどのヒシケイジよりも速い速度域へと突入している。

 

 だが、それはゴールドシップも同じだ。

 受け継いだ黄金の血統を、毎日一切の妥協鳴く磨いてきた。

 

 残り二ハロン。

 ヒシケイジの背後にゴールドシップが追い付いていた。

 

 追い付きたい、追い付こうとして離される。

 俺の背後、一馬身が遠い。

 

 あまりにも遠い――決定的な差だ。

 

 思考が加速し、肉体が万全だからこそ――俺には分かる。

 ゴールドシップは今、自分が出来ることをすべて試す勢いで加速している。

 

 少しでも呼吸のいい呼吸、全身の筋肉句を使っての加速。

 たった一歩でもいいから、前に、前に!!

 

『そうだゴルシ様伝説を――感じろ!!』

 

 残り一ハロン。

 背後にぴったりとつく、ゴールドシップが俺に圧を掛ける。

 

『ケイちゃん先輩、負けるなよ!!』

 

 それは、まるで俺に向けられたエールのようだった。

 

『来年ゴルシ様と走るまで、負けるなよ!!』

 

 ああ、分かってる――俺は負けない。

 負けるつもりはない、そんな気持ちで走ってなんていない。

 

『俺様がお前に勝つまで、お前はずっと最強でいろよ!!』

 

 ああ、だから見せてやる。

 前に、もっと前に――俺の“本気”は、今この瞬間だけは世界一だ。

 

「くっ、ゴールドシップ……がんばったヨ」

「ケイジ、行くぞ!!」

 

 俺はそのまま、もう一歩、トモに残った力を振り絞ってゴール板を踏み抜き――

 ゆっくりと減速しながら、早山のおやっさんの前に戻った。

 

「石破……どうだ、ケイジの調子は」

「こいつ、やっぱり自由にさせてた方が走りますよ。来年はケイジメインで行きましょう」

 

『あああああああ~~~~~~~~~~~~!! 負けたぁあああああああああああああああああ!!! ケイちゃん先輩に、ま~~~~~~た負けた!!!! いったい何が足りんのか、分かんなくなるわ!! コソ練か!? それとも特訓か!? 護摩行でもやればいいのか!? マグロ漁船で半年過ごさないとダメなのか!!』

 

 お、それ嬉しいな。

 

 と思いながら――俺は、凹むというか思考をのたうち回らせているゴールドシップを見守ることにした。

 

「ケイジ、流石にこれでオルフェーヴルにも勝てるだろ」

「ブヒッ!!」

 

◇◆◇

 

 かくして、2012年11月26日。

 東京競馬場と降り立ったヒシケイジをその日――現地のみで20万人の大観衆が迎え入れた。

 

 三冠馬の暴君、オルフェーヴル。

 今年の牝馬三冠、ジェンティルドンナ。

 そして、凱旋門賞馬、ヒシケイジ。

 

 2012年国内決戦と銘打たれたジャパンカップが、今、熱狂の中で始まろうとしていた。




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