早春の晴れ晴れとした栗東トレーニングセンター、ウッドチップコース。
あらゆる場所でサラブレッドが駆ける轟音が鳴り響く中、ヒシケイジは初めて自らの壁へと直面していた。
「うわぁ!!」
鞍上に乗せた大の大人が、情けない声を上げながら手綱を引く。
おかげで、ヒシケイジはその日一番の馬鹿面を晒して急停止を余儀なくされた。
鞍上に命じられるがまま、とぼとぼとギャロップをキャンターに戻し、トロットから、とぼとぼとした歩みへと変える。
(いやー、良い感じだったのに、急に止めるなよ……)
「お前、ヤバすぎ……まぁ、凄いけどさ……」
モブ騎手Aは、誠にモブらしいセリフをこぼし、奥からおやっさんが血相を変えて走ってくる。
ヒシケイジも、それじゃ何が起きたのかわかんないよ――と文句をこぼしたくもなる。
だが、逃げずに、ちょっと申し訳なさそうな表情を浮かべて早山のおやっさんが来るのを待つ。
「早山のおやっさん。ケイジの奴本気で走らせたら言うこと聞きません!!」
「そこをいうこと聞かせんのが、お前の仕事だ馬鹿野郎が!!」
騎手や馬が失敗したことではなく、勤務態度に激怒した早山のおやっさんが騎手へと爆発する。
涙目で逃げさる騎手Aを背に、早山のおやっさんはヒシケイジの肩をポンポンと叩く始末だった。
「まったく――やってられないぜ」
どれだけ申し訳なさそうな顔を、自分がしていたかもわからないのだが――
おやっさんも怒るに怒れずため息をつくばかりだ。
いったい何が起きたのか分からぬまま――
ヒシケイジは、腕で頭を抱えようにも両の前脚はちょうど地面に着いたままだった。
◆◇◆
「にしても、想った以上のじゃじゃ馬が来やがった……優等生のじゃじゃ馬たぁ……具合が悪い」
当然、この事態は老将「早山」にとっても、予想外の事態であった。
一月から今までのトレーニングにおいて、ヒシケイジは父親であるヒシミラクルとは似ても似つかない優等生ぶりを見せていた。
このヒシケイジという馬は基本的にノせてさえいれば、この馬は全く調教を嫌がることがない。
ディクタスの血統に由来する長距離馬としては、適正な手法とは言いがたい高速調教や、高強度インターバルトレーニングを繰り返しても、ヒシケイジは一切弱音を吐くことはなく――むしろ自らの成長を楽しむように、一般的なサラブレッドの倍近いメニューをパスしても平気な顔をしてきた。
厩務員の土井の話ではここ一か月強、毎日15kgは飼い葉を平らげながら下痢一つない健康体だというのだから、末恐ろしい。
運動強度の関係から、さすがにコズミこそ出るものの、だ。
その上でヒシケイジは、多少マイペースなところはあるが、栗東のサラブレッドの中でも利口な優等生として常にふるまっていた。
栗東に来てから大きなトラブルを起こしたことはなく、調教中に騎手が折り合いに苦労したという話は聞かない。
常に人や馬に気を配り、馬群は好むしゲートは得意な部類だ。
ここまで典型的な優等生も珍しいのに――
その優等生に、まさかこんな癖が隠れていたとは……
「つまりは、こいつは今まで真の意味で本気じゃなかったってことか……だがケイジ……おめぇさん、相当上手い奴にのってもらわねえとレースは無理だぞ――」
その事実に気づいたとき、早山はヒシケイジというサラブレッドのスケールに開いた口が塞がらなかった。
◆◇◆
老将「早山」が苦悩の表情を見せて初めて、ヒシケイジは自分が失敗したことに気付いた。
馬に転生して、必死にやってきて――言われた通りにやって、問題が起きたのはこれが初めてだ。
追い切り調教と呼ばれていたこのトレーニングは、鞍上の騎手の指示に従い、指示があれば“全力”で駆ければいいのだと理解していた。
だが、結果は見ての通り、自身の全力疾走には何らかの欠陥があり、騎手はそれを制御できず、騎乗体勢を維持できなくなってしまうのだ。
【きにするなよ――】
という、調教相手のヒシロイヤルの視線がちょっと痛い。
クラシック戦線から降りてスケジュールが開いているとはいえ、同じ厩舎のサラブレッドに助けてもらっているのに調教が滞らせてしまっている。
他人に迷惑を掛けないことを心がけてきた俺としては、胃に……もうすでに、キリキリとした痛みを感じる。
「さて、くよくよ悩んでも仕方ねぇ――さっきのヤツは下手すぎたな。上手い騎手を探してどうにかしような」
「早山のおやっさん――でしたら、僕はどうですか」
その言葉にヒシケイジは面持ちを上げ、早山が振り向く。
そこに立っていたのは、白地に青のラインが入った服を纏うベテランジョッキー門田 光一騎手。
そして、杖をつきながら此方へと歩いてくる綾部オーナー当人であった。
「早山のおやっさん、アポなしだけどね。追切やるって聞いたから門田くん連れて来ちゃったよ。どうだい、ヒシケイジは!!」
「一言で言うならスーパーカー。乗りこなすのが大変」
「ははは、それはすごいなぁ……僕でどうにかできるなら、いいんですがね」
「門田くんは、できるならミラクルとの親子二代で、騎乗してほしくてね……先日、調教師の免許を取ったところ悪いが、少し騎手の引退を待ってもらったんだよ」
そういって、子供のように笑う綾部オーナーを余所に、ヒシケイジの鞍上へと壮年の騎手が跨った。
あまり多くのジョッキーを載せていないヒシケイジであるが、自分でもハッキリわかるほど、門田という男の覇気は言葉にならないほど伝わってくる。
「大丈夫だ、ヒシケイジ。分かるよ。お前は凄い――」
「どうだ、走れそうか」
「もちろんです。早山のおやっさん。オーナーが見ている前だから、恥かくような騎乗はしませんよ」
ヒシケイジは背に乗った男の合図通り、調教の中で、今まで学んできたことを表現していく。
彼の指示に合わせて、だんだんと体の調子を上て、芝の上で出来る最高の走りを淡々とこなしていく。
にしても、この人、予想通り俺に乗るのが上手い。
何より、自分から走ろうって気にさせてくれるのが気持ちいい。
ヒシケイジは余裕の表情で八割くらいの力を発揮して、ぐるっとコースを一周回る。
当然、何も問題は起きず、門田さんの表情はどんどん高揚していく。
早山のおやっさんの表情も明るく、綾部オーナーに至ってはまるで子供のように生き生きと目をきらめかせていた。
「どうだい、門田くん!!」
「今のところ、最高ですよ。もうヒシミラクルとは正反対です。これは一度乗れば、誰にも鞍上は譲りたくなくなりますね」
誉め言葉と共に門田が頭を撫でてくるものだからヒシケイジは随分いい気分になっていた。
それこそ、門田さんが一緒なら、何が何だか分からなくなる前に、自分でも問題が何か分かるんじゃないかと思えてくる。
「そりゃいい。門田ジョッキーで良かれば話が早ぇんだがよ……」
「うんうん!! それじゃあ、このままもう一周だ。次は上がり三ハロンも計測してもらうから一杯に走ってくれ!!」
「分かりましたよ、綾部オーナー。それじゃ、ヒシケイジ、もう一周――次は全力で行くからな」
その言葉と共に、門田が合図を送り――ヒシケイジの体が躍動する。
ああ、望むところだと軽く嘶いて、馬体をみるみると加速させた。
さっきのように、加減するの必要もないだろう。
ヒシロイヤル、 ヒシパーフェクトがいる意味を考えろ。
早山厩舎の力を一丸にした、綾部オーナーの夢のバトンが自分にわたっているんだ――
「いまだ、ケイジ――いっけぇえええ!!」
運命の瞬間は訪れた。
門田の声に答えるように、ヒシケイジがついに全力疾走へと移行する。
調教を初めてから確実に強靭にはぐくまれたトモの速筋は、ヒシケイジの肉体に時速60㎞の壁を悠々と越えさせた。
ヒシケイジはギアを上げ、馬体は機能的に美しく自然的に躍動する。
スパートの速度だけで見れば、既にクラシック級。これが2歳の馬の実力かと門田は驚嘆した。
ヒシケイジですら、会心のスパートであった。
走り出した瞬間、これはいける――と確信する躍動がワクワクと共に湧きあがってきた。
加速と共に脳髄がスパークし、背後に流れていく光景が静かにゆっくりと沈みこんでいく――
例えるなら、瞳から雷が迸るような――自分のアイデンティティが世界を浸食するかのような一瞬が来るようなスパート。
「「「は!?」」」
けれど、走りの快感に意識が飲まれた一瞬の後――
ヒシケイジは自身の馬体がハッキリわかるほど、内ラチ側に斜行していくことに気づいた。
「くっ――ケイジっ、すまない……!!」
気づけばヒシケイジの鞍上で、門田が姿勢を崩している。
このまま進むべきか、あるいは立ち止まるべきか!?
引き延ばされた意識の中でヒシケイジが目の前の現実にパニックを起こしかけた直後、門田はかろうじて体勢を立て直す。
そこからの彼の判断は、ヒシケイジが思うより早かった。
彼は驚くほど冷静に、ヒシケイジを前二頭の内側のスペースに滑り込ませた。
何が起きたのか、分からない。
ヒシロイヤルとヒシパーフェクトに乗っていた騎手達が閉口する中、ヒシケイジはその血と才能の暴力を爆発させていた。
栗東ウッドチップコース、ラスト、三ハロン。
騎手が手綱を動かし一杯に走った三歳馬の上位五%が、36.3秒の世界。
ヒシケイジ、一杯、35.9秒。
衝撃的な時計であったが、その場に広がっていたのは、波紋だった。
呆然と立ち尽くすヒシケイジの上で、門田が力尽きて馬上で崩れる。
ヒシケイジが見たのは、息を切らした馬と男の元へ、綾部オーナーと早山のおやっさんが血相を変えて駆けよってくる姿だった。
「だいじょうぶか、門田くん!!」
「驚きましたよ……斜行でしょうか、ヒシケイジは、結構感覚派なところがあるのかな。文字通り全力で走ったとき、体を振ってしまうクセがあるようです……綾部オーナー。今回はたまたまです。悔しいですが、私にはこの馬は無理です……」
「そうか――門田くんがそういうなら、仕方ない……君の調教師としての夢を、せめて応援させてほしい」
「ですがオーナー、これだけは言わせてください。この馬は、ヒシケイジは本当に良い馬です。ミラクルを超える『豪駿』で間違いありません。私は、力不足でしたが――鞍上を気遣って、この馬をクラシック戦線に出さないのは惜しい。ですから、彼に会う、良い相棒をどうか探してください……」
「わかった。それが君の意志なら、善処させてもらう。必ず、ヒシケイジが全力を出せる騎手を探してくるからね」
かくして門田のお陰で間一髪、自身の問題に気づき、首の皮がつながったヒシケイジであったが――
この失敗体験は、利口な転生馬であるからこそ、ヒシケイジの性質に確かな禍根を残すこととなる。
その日の夜、ヒシケイジはもしゃもしゃと牧草を齧りながら、自らを震わせた最高の瞬間と最低なミスを思い出していた。
斜行、俺が越えるべき壁か、考えるだけであまりにも悲しい気持ちになるので、ヒシケイジは早々にその場に寝っ転がり窓の隙間から見える月を眺めていた。
この全力を出したヒシケイジの最高の瞬間に訪れる、本能的な走りに由来する縦横無尽の斜行の克服。
この命題は、彼の競走馬生にとって、長きにわたる問題として付きまとうことになるのであった。
誤字脱字、感想お待ちしております。
明日も1800投稿予定です。
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結局ヒシケイジは、ヨレ問題を真に解決するのに、2012年の秋までかかってしまいました。
でも大丈夫。明日の更新で、ヒシケイジの問題を解決してくれる鞍上が来ます。