ヒシケイジさえ居なければ   作:ハシダ シュンスケ

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誤脱報告、感想ありがとうございます。

今日二回更新します。
よろしくおねがいします。

(12/25日分:前:1/2)


2012秋、ジャパンカップ(後:3/4)

 2012年11月25日。

 一頭一頭、思いを胸に東京競馬場のゲート前に優駿たちが集まり始めていた。

 

 晴れ間が見えた東京競馬場。

 正面スタンドを埋め尽くす観客が求めるのは、三冠馬と三冠牝馬同士の対決。

 そして、凱旋門賞一着馬、二着馬、三着馬のリターンマッチであった。

 

 豪駿と暴君、鬼婦人が並び立つゲート前に歓声が響く中、ヒシケイジは観客席に目を向ける。

 

(ヒシケイジ、こっち見てる)

(マジでファンサービス分かってるよな)

 

 入れ込む気はない。

 オルフェーヴル、ジェンティルドンナ、ソレミア、トーセンジョーダン、エイシンフラッシュ――

 

 並み居る強豪との対決は望むばかりだ。

 ゆっくりと返し馬を終えて、ゲート前に集まった。

 

「人ヤバっ」

「ブヒッ」

「何するか、忘れるなよ」

「ブヒッ」

 

 スタート台にスターターが上がり、観客が手拍子で迎える。

 馬を抑える立場であるジョッキーからすると、この会場の盛り上がりは決して良いことばかりではないだろう。

 

 だが、俺は普段通り、マイペースにファンファーレを待つ――

 

 しばしの後、流れるのは生演奏のファンファーレだ。

 

 人々の手拍子が重なる。

 会場に届くのは三十万の手拍子だ。

 

 当然、会場に来れなかった人々はこれ以上に多いことは間違いないだろう。

 彼らの夢を背負うんだと、実感するような時間は歓声と共に終わる。

 

『今日ここから目にすることは、決して一人の胸にとどめてはいけません。全会場合計30万の大観衆、語り手となって――未来の競馬ファンに伝える使命があります』

 

 俺はあっさりとゲートに収まり、他の馬を待つ。

 

 おかしいな。

 俺は今日――もっと、緊張する気で来たのに。

 

 早山のおやっさん。

 土井さん――門田さん。

 

 綾部オーナー、雅秀社長――

 

 相棒、オルフェーヴル、クリストファー・ソロモン、新たなライバル。

 楽しみだ。今日のレースは、楽しみで仕方がない。

 

『最後に染め分け帽です。オルフェーヴルが収まります――』

 

「ケイジ、楽しむぞ!!」

 

 一瞬の静寂。

 

『史上最大決戦ジャパンカップ!!』

 

 ガタンと音が鳴りゲートが開く。

 俺の目の前の景色が開いた!!

 

 間髪入れずに俺はスタートを切る。

 十分に暖まったトモがうねりをあげて、誰よりも早くスタートを切る。

 

『ゲートが開いた、スタートになった!! ヒシケイジ今日も完璧なスタート!!』

 

 最高の時間の幕開けだ!!

 左右の馬の事なんて、一切分からない。

 

 誰かが遅れたのか悲鳴が上がるが、関係ない。

 

「ケイジ、いいぞ、このペースで逃げろ!!」

 

 相棒の声が聞こえる――分かったぜ。

 俺はまだまだいけるが、ペースは問題なし。

 

 主観に頼るな、相棒を信じろ。

 相棒を信じる俺を信じてただ脳をクリアにしろ――

 

『さあ、一コーナーを目指していく各馬の位置取りから注目して見ていきましょう』

 

 ヒシケイジは猛烈な圧力を受けながら、軽々と飛ぶように脚を回していく。

 

 地面が酷く震えるような、衝撃が背後から迫る。

 

 俺の背後から二番手に馬が殺到する。

 

 いいぞ、どうせ二番手だ、断言してやる――誰が来ても変わらない。

 

『ヒシケイジは止まらない。ジェンティルドンナの早め前、トーセンジョーダンがそれに並びかけていく』

 

 ヒシケイジは、そう思えるほど今、脳内に唐突な歓喜が襲ってきていた。

 

 それにしても――なんだこの全能感!!

 普段よりも見られているからか、あるいは俺が楽しんでいるからか!?

 

 走っていて、これほど楽しいことは初めてだ。

 前へ、前へ、前へ、ペースを保って――最強の俺を750mまで連れていくんだ。

 

「ケイジ、楽しいか、楽しいな!!」

 

 ああ、楽しい!!

 

『さあ、そしてオルフェーブルは落ち着いてというところで』

 

 第一コーナー、柵までの距離は10cm。

 他の馬との接触を含めた安全マージンを考えればギリギリもいいところだ。

 

 後方の何処かから「crazy(イカれてる)」なんて声が聞こえてくるが知らないね。

 

 どんな馬よりも早い俺達にとってはこの走行ラインがベストだ。

 

『その他の各馬を見ながら中団をやや後ろといったポジションにつけました』

 

 息が切れるほどの速度ではない。

 

 出し切れる全力を発揮しているわけじゃない――だが、これがベストだ。

 

 そうか、分かったぞ――相棒!! 

 

『遅れたルーラーシップ、しかし、ここはウチにぴったりとつけていきました』

 

 ヒシケイジは、己が走りの中で理解した真理を自らの肉体で表現する。

 

 それは競馬という長距離有酸素運動だからこそ可能な思考に他ならない。

 

『さあ、今や凱旋門賞馬となったヒシケイジが一コーナーを先頭で入っていきました』

 

「ケイジ、バカかお前――今更気づきやがったのか――そうか、俺も今なら分かるぜ」

 

 相棒の笑顔で分かる――そうだ、これが正解か。

 

 俺は勘違いをしていた。

 レースにおいて“本気”っていうのは、ただ全てを出しきることだって思い込んでいた。

 

『そしてトーセンジョーダン、その後ろにジェンティルドンナ、ジェンティルドンナは三番手』

 

「ケイジ、そのままゴールまでそのままでいろ!!」

 

 分かったぜ、相棒。

 フローってのは、そうか、プレッシャー抜きに挑戦し続けることなんだ。

 

 今の俺なら、きっとできる。

 去年日本ダービーから凱旋門賞まで、挑戦してきた俺達ならできるかもしれない。

 

 いや、もうできている――しているという確信があった。

 

『そしてご覧のようにオルフェーヴルは後方から今四、五頭目というところです』

 

 その日、会場に集まった二十万人競馬ファンは見た。

 ヒシケイジの走りが、リズムミカルに、それでいてシンプルな美しさを増していく。

 

「すごい、すごいすごいすごい!! ヒシケイジ――王様みたい!!」

 

 その日、少し背が伸びた少女は――向こう正面へと差し掛かったヒシケイジの姿に底知れぬ「自信」を見た。

 

「ケイジ、なんか変わってね……」

「すげえ、マジで違う馬だって」

「おい、俺達じゃ分からねぇ、なんかコメントしてくれよ!!」

 

 その日、会場に集まった人々は、まるで生まれ変わったように走るヒシケイジの姿に見ほれながらも動揺していた。

 

「ムホホ……分からない……過去、こんな馬が居ただろうか――いや、居た……」

 

「あぁ~、おっさん。ていうか、今のケイジみたいな馬が居たのかよ」

 

「いや見た。ガキの頃に見たシンボリルドルフ、テレビ越しに見たオグリキャップのラストラン、日本総大将と銘打たれた日のスペシャルウィーク、あの日、確かに飛んだディープインパクト!! ヒシケイジ……お前は、そこまで行くのか、行けるのか!?」

 

『向こう正面の二コーナー直線コースに入っていきました。早くも縦長の展開になっています』

 

 馬主席、車いすに座る綾部 雅一郎オーナーの目の前で、ヒシケイジは悠々と逃げていた。

 

 思えば、長い馬主人生で多くの馬に夢を託して来た。

 

 多くの馬が夢を果たせず、沈んでいくのを見てきた。

 

 ヒシケイジ、初め見た時から――あの馬には何か他の馬とは違う“何か”を感じていた。

 

 その“何か”が見たくて、あの馬には酷い無茶をさせてきた。

 

 そして、今、私は見ている。

 かつて日高で見た荒々しい走り、あの日感じたオーラはそのままに美しい均質な走りでヒシケイジは逃げている。

 

『先頭は豪駿ヒシケイジ』

 

「親父、ケイジが、ケイジが走ってるぞ」

 

 ああ、分かっている。

 

 なのに、涙で視界が滲む。

 折角のヒシケイジの走りを見届けられない。

 歓喜が、哀想が、彼を見ていると心から湧き上がってくる。

 

「ああ、雅秀……ケイジは走っているよ。本気の走りだ――良かったな。今日来て、本当に良かった」

「ああ、親父……ケイジ、石破くん頼む……このまま、俺達の夢を先頭のまま届けてくれ」

 

『そして十六番のトーセンジョーダンが二番手、三番手からレースを図るのはジェンティルドンナ』

 

 軽い、体が軽い。

 ヒシケイジの体は、既にフローの中にあって最高のパフォーマンスを発揮していた。

 

 そうだ、この走り、この走りの正体を俺は知っている。

 オルフェーヴル、誰でもない――アイツの走り、アイツのイメージがチラついていく。

 

『オルフェーヴルの前で前でレースを進めています』

 

 なぁ、相棒教えてくれよ――どうして今俺はこんなにレースが楽しいんだ?

 

『ソレミアが、その後方にフェノーメノが行きました』

 

「ケイジ、いいぞ――今のお前とならオルフェーヴルに負ける気がしねぇ!!」

 

 そうか――分かった。

 今になって俺が本当に開花した理由が分かった。

 

 オルフェーヴル、今の俺は、お前と対等なんだな!? 

 

『前半千メーター58秒.5にさあ、そして九番のオウケンブルースリが続きます』

 

 ヒシケイジは理解した。

 

 怒涛のような速度に乗って、後方五馬身を開けて逃げる。

 

『二番のスリプトラはイギリスの馬、そして八番のエイシンフラッシュ続きました』

 

 俺の“本気”は、オルフェーヴル、お前に勝つための本気だった。

 けれど、俺の“フロー”は、オルフェーヴル、お前に勝つためだけのフローじゃないんだ。

 

 お前のことなんて、心底どうでもいいと思わなきゃいけなかった!!

 凱旋門賞でお前という恐怖をぶっ飛ばして、俺が自由になった今じゃなきゃいけなかった!!

 

『緑の帽子はローズキングダムと日本のタケ』

 

 ペースを維持、極限まで学んだこと全てを吐き出せ。

 

 脚を貯めろ、手前を変えろ。

 一息ついて、クールダウンしろ、精神を統一しろ。

 レースを楽しめ、軽やかに歩め、楽しんで肉体の疲弊を無視しろ。

 

『五番のマウントアトスがいて、そしてその外を通りましてレッドカドーです』

 

「ケイジ、嘘だろ――」

 

 嘘じゃない。

 俺は余裕だ――これが、フローだ。

 

 そうだ。普段通り走るんだ。

 普段通り走るのが、本気になるように――本気の積み重ねが、俺を変えるんだ。

 

『さあ、そしてピンクの帽子の染め分け帽オルフェーヴルと生添賢治がいる』

 

 準備は整った、後方には五馬身。

 

 脚は完璧、結局こういうレースになるのはご愛敬だ――

 

『その後方には十三番のルーラーシップが続いています』

 

「ま、お前らしくていいけどな……ケイジ、もう少しキープで、ひきつけろ」

 

 了解だ、俺は脚を貯めながら後方との距離を読むように走る。

 

 トーセンジョーダン、エイシンフラッシュ――

 悪いが、この距離で俺に勝てると思うな。

 

『さらには十一番のジャッカルベリーがいて、十番のダークシャドウです』

 

「クソゥ……イシバシユー、ヒドいレースをしやがる――まるでアイスエイジだぜ」

 

 聞こえてくる悪態も、今はただ心地いい。

 だが不気味なのは、未だに飛び出してこないオルフェーヴルだ。

 

『黒い帽子、三番のジャガーメイル、あとは七番のメイショウカンパクと続いて三四コーナ中間大ケヤキは既に過ぎました』

 

 かまわない。後方との距離が徐々に縮まる中――

 俺は最後のコーナーを、なぞるように歪曲する。

 

 スピードは落とさない……スタミナは十分だ、もう焦燥はない。

 相棒は全てを分かっている――俺は全てをただ、託す。

 

 走ることの幸せだけを、トモに込めて――西日が輝く最終直線を目指して走る。

 楽しむ、楽しむ、楽しむ――そうだ、楽しむんだ。

 

『さあ、ヒシケイジ、いつ出るのか』

 

 脳裏に浮かぶのは俺の走りの原点。

 日高町のあの広い広い放牧地だ。

 

 あの場所から一歩一歩歩いて、今この東京競馬場を走る俺は――あの頃から何も変わっていない。

 そうだ、すべてが変わったが、あの頃の走る楽しさを、生まれた意味を俺は忘れちゃいない!!

 

「おい、ケイジ―ー六ハロン棒だ、よく我慢した!!」

 

 相棒!!

 

――パァン!!

 

 直後、一発鞭が入った直後、俺の背を稲妻が押した。

 

 ああ、行くぞ――楽しむ、楽しむ、楽しむ!!

 楽しんで前に、前に、前に行く。

 

 誰が何と言おうと最終直線からの700mは、俺の独壇場だ!!

 

『来た!! 来た!! 豪駿の世界に通用した脚が火を噴いた!!』

 

――パァン!!

 

 直後、一発鞭が入った直後、俺のトモが弾丸シュートのように地面を蹴った。

 全力を出し切っていいと分かっているならば――俺には我慢する理由がない。

 

 もうワクワクが止まらない。

 あの日の、宝塚記念よりもっと素敵なレースを俺は走っている。

 

『十六頭世界の強豪を引き連れて、ヒシケイジが最後の直線コースに向かってまいりました』

 

 ヒシケイジの中で、歓喜が躍動する。

 

 一歩一歩が軽い。

 

 もっと軽く、もっと早く、もっと前に、もっと楽しい。

 

 もっと瞳から雷が迸るような――自分の走りで全てを塗りつぶすような――

 悔しかったあの日のレースより、辛かったあの日のレースより、ずっと素晴らしい走りが出来る。

 

「ヒシケイジ!! 飛べ!!」

 

――パァン!!

 

 直後、一発鞭が入った直後、俺の体に奇跡が宿った。

 相棒の剛腕が、俺の走りのリズムを極限まで跳ね上げる。

 

 ストライドの加速は止まらない。

 会場にいる誰もが俺の翼を見ている。

 

 そうだ、俺が――この俺が葦毛の豪駿だ!!

 ヒシケイジは、己を見つめるスタンドの大観衆を前にして、ただひたすらに全力のスパートを見せつけた。




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