2010年、3月末。
職業、騎手。
美浦寮、芝田厩舎所属。
好きなスポーツは、野球。
趣味は、ゲーム。ジャンルは何でも。
嫌いな食べ物は野菜全般。
結婚一年目。重賞勝利回数、二回。
世間的評価、良くも悪くも中堅騎手。
現在位置、栗東トレーニングセンター、駐車場。
そんな自分が敬愛する芝田騎手のいる所属厩舎を離れて、一人栗東にいる理由。
ただ一言、自分をどうしても必要としている馬がいるからだ――と聞かされている。
(どーせ、また癖馬だろうな。それもトビキリなやつ……)
丁寧な騎乗だと、前は良く褒められた。
馬を見る目は、良い方だと自負している。
強引だとしても、やるべきことをやって定石というレールの上に乗せる。
それが8年間騎手をやってきて、学んだ“強み”だと自負している。
とはいえ、それだけでレースに勝てないことは嫌でも知っている。
初勝利まで重賞111連敗。我ながら、酷い記録だと自負している。
たとえば、初勝利、今年一月のフェアリーステークスだって――自分の力で勝利を掴めたとは、言い難いものだった。
◆◇◆
『第四コーナーのカーブ直線コースに向いてまいりました』
あの日の中山競馬場のことは、夢で何度だって見てきた。
第四コーナーを曲がった時点で、目の前にいたのはカホマックス。
それを馬群で追う展開、それは普段通りの良い競馬。
中段の好位置について、あとはセオリー通りに押し切る。
言葉にすれば簡単だが、押し切れる力をすべての馬が持っているわけじゃない。
自分が乗る青鹿毛の牝馬、コスモネモシンは、ティアラ戦線を前に体重も440kg――決して恵まれた馬じゃなかった。
『後方15頭は一団です。直線に向かいました。カホマックス先頭リードはまだ六馬身ぐらい、あとは二番手の視線からアプリコットフィズ追い込んでくる!!』
他の馬が加速を掛ける。
明らかにコスモネモシンは力不足だ。
セオリー通りの展開なのに、攻めきれない。
だが、せめておいて行かれないように――と、コスモネモシンに発破をかける。
鞭を振り上げて、降ろし、叩く――前へ前へと全力を引き出す。
調教師から期待されていた分、せめて順位がよくなるように、鞭を振るう。
ビシバシシューなんて、渾名が名誉ばかりじゃないことは知っている。
馬は馬が持つポテンシャル以上の力を発揮できるなんて、夢物語だと知っている。
持ちえない才能は加えるしかないと知っていても――
自分だって、本当は騎乗技術だけで、重賞の舞台を競り合いたいと思っている――
『間からコスモネモシンも追い込んでくる!! カホマックス、そしてアプリコットフィズ、アプリコットフィズ!!』
分かっている――コスモネモシンはあきらめていなかった。
不相応に期待されているのは、こいつも一緒だ。
「そうだ――行け、コスモネモシン!!」
そうだ、分不相応な願いを持って何が悪い。
勝ちたいよな。勝つための全力を出したいよな。
だが、それを自然に引き出す術は、まだ自分の中にないことも分かっている。
どうすれば、トップジョッキーに技術面で追いつける?
どうすれば、才能の有るサラブレッドに肉体面で追いつける?
正しい答えなんて分かりはしない――だが、コスモネモシンは、それでもあきらめていなかった。
「そうだ。走れ、コスモネモシン!! お前が勝つんだ!!」
そうして、自分はコスモネモシンのやりたいようにさせてやった。
思えば、その細い体に似合わずコスモネモシンにはガッツがある馬だった。
馬を信じて、ただ、馬に任せて、馬自身の全力を引き出す。
それで勝てれば、苦労はしないことは分かっていた。
『あとは外から追い込んでくるコスモネモシン、コスモネモシン!! あとはテイラーバートン三番手、コスモネモシン、ゴールイン!! コスモネモシン最後捉えきりました!!』
◆◇◆
初めて重賞で勝った日のことを、二カ月経った今でも思い出す。
確かにコスモネモシンは自らの力で勝つために奔った。
だが――それは決して、自分の手で引き起こされた結果ではなかった。
結局、3月20日のフラワーカップではコスモネモシンを勝たせてはやれなかった。
力不足は明白だが、不器用な自分はどうにもならない。
刻一刻と牝馬三冠が迫る。
コスモネモシンにとっては一生で一度の、牝馬三冠が迫っている。
自分は、コスモネモシンの鞍上で結局何ができるのか?
そんな思いがぐるぐるして止まらなくなったころ――
遠く栗東の早山厩舎から騎乗依頼が舞い込んできた。
面食らったが、芝田さんは新しい環境でこそ見つけられるものがあると言ってくれた。
俺は初めて自分を重賞に勝たせてくれた馬の思いに応えてやりたい。
だからこそ、自分に足りないものを見つけるため――
新幹線から特急を乗り継いで、栗東のトレーニングセンターまでやってきたというわけである。
(それにしても、急な出張でお泊りコース、帰ったら、絶対ドヤされる……)
ちなみに、出張が増えて嫁はカンカン。
今から、お土産選びに苦戦しそうだと苦悩しつつ――まずは馬に集中しなければ話にならない。
そういう意思を込めて一発自分に渇を入れた――
石破志雄は我ながら重い足取りで、ヒシの名を冠する馬が集う早山厩舎へと脚を踏み入れていた。
「石破騎手、待ってましたよ!!」
「はい」
「ギョロ……ヒシケイジはこっちっす!!」
「はい」
オニギリみたいな中年厩務員、土井の雑談を受け流しながら厩舎を進む。
ちなみに自分は会話は苦手だ。
馬はそういう点は楽だ、顔を見ればあらかたわかる。
さて、どんな気性難の馬が自分を待ち受けるのか――と、辟易しながら厩舎に入る。
だが、どういうことか――
自分の前に現れた葦毛の馬は明らかな優等生タイプであった。
(なんだこの馬は……)
正直、苦言を抑え込むのに必死だった。
正直に言えば、第一印象は、違和感の塊だった。。
元気なく、飯をもしゃもしゃと喰らっているが――
きちんと愛情を受け、生き物として群れの輪に入っている。
だが、サラブレッドという生物とはかけ離れている違和感がある。
聞いてはいたが、典型的なディクタスアイ。
ていうか、絞り方がマジでおかしい。
まだ新馬戦すらやってないのに、古馬みたいな筋肉がついている。
(でも、なんていうか、くよくよしてるな)
なるほど、事前情報と大きく逸れてはいない。
これだけヘコんでるのも、こいつが下手に利口なせいだろう。
自分が引き起こした何らかのミスによる厩務員や調教師の不安が馬に伝わる。
結果として委縮して自然体を崩し、後は負のスパイラルに陥り変なクセになる。
こう書くと、よくあるスランプの症例だが、こいつがそんな風にへこむタマには思えない。
調教師の早山先生も綾部オーナーも名伯楽で通ってる。
何より美浦から自分を呼び出すほどに、適正のあるジョッキーが少ない状況と考えると――
当然、セオリー通りの対応は、試したうえで効果がないほど重大な問題があるのだろう。
「ヒシケイジ号、見ての通り良く走るんだが、最近スランプでな……ちょっと乗ってみてくれ」
「はい、わかりました」
とりあえず、二つ返事で言葉を返し――実際にコースで乗ることにする。
雇われ&ご指名の身だ。
こういう馬は実際に乗って問題を認知したい。
「よろしくな、ヒシケイジ」
「……」
おいおいおいおい、待てよ――と。
ただ静かにこちらを見つめる視線に、我ながら言葉が詰まった。
(コイツ、こっちを気遣ってやがる)
そうだ、こいつに抱いていた違和感が、やっとわかった。
筋肉ダルマかってくらい絞られているのに、どこか小さく見えるのは「態度」のせいだ。
コイツは、分をわかってる。
馬のくせにいっちょ前に気を使っている姿が実にアンバランスで気持ち悪い。
資料でもボス馬だって書いてあった。
デカくて強いなら、普通馬は付け上がるものだ。
それにもかかわらず慢心せず、この馬はここにいるすべての馬と人間の顔色を窺うなんて――
この馬は……筋金入りの「馬鹿」だ。
「どうだ?」
「こいつはバカです」
「ブヒーッ!!」
その言葉に反応して、ヒシケイジが拗ねる。
この反応で疑念は確信に変わる、こいつはバカだ。
自分が何をしているかわかっていない飛び切り頭のいいバカだ。
そうなると更に疑問が浮かぶ。
ボロボロのラジオ、残さず食われた飼い葉。
寝藁の中、奥の一画にまとめられたボロとションベン。
(こいつ、本当に馬か……まぁ、今は関係ないか……)
「あの、石破騎手ぅ……ギョロは繊細なのでぇ、あんまり悪口はやめていただけると……」
「だからこそですよ。土井さん。自分みたいな部外者が指摘してやらないと」
なるほど、こういうタイプは――正直やりやすくて助かる。
単純で、素朴で、馬鹿な馬の実力をいかに効率良く引き出すか?
こいつは、良いテストケースだ。
この馬で出来なきゃ、他の馬で出来るわけがない。
このバケモノを叩きに叩いて――
必ず、この手でコスモネモシンにティアラを献上してやる。
「おい、バカ。喜べ――今から俺が、お前に競馬を教えてやる」
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明日も1800投稿予定です。