ヒシケイジさえ居なければ   作:ハシダ シュンスケ

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2013年6月中旬

 2013年6月も半月が過ぎた頃――

 

 スキャバル・ロンダナのネイビースーツが身の丈に合うようになった石破 志雄が座っていたのは、一年前、ある男から教えられて数か月ぶりに阪急梅田沿線の小料理屋のカウンターであった。

 

 衣にまだ油が仄かに光を帯びた、鮎の天ぷらが、白い京焼の長皿に、青じそを一枚添えられただけのシンプルな仕立てで供される。 

 尾びれの先端が繊細に反り返り、背びれは揚げられた衣の中でも存在感を保つ全長15センチほどの若鮎――その、黄金色と呼ぶには薄い白金色の衣をまとった若鮎の天ぷらを――なんと、大将が遠慮せずに手で行けとジェスチャーした。

 

(ま、大将が言うならそれが正解か――)

 

 そう思いながら、鮎をそっと持ち上げると、カラリと乾いた衣がかすかな音を立てる。

 

 口に入れ前歯で軽く噛むと、カラリとした衣が繊細な音を立てて割れる。

 ほのかな甘みを帯びた蒸気と共に感じられるのは鮎特有の清流の香りだ。

 

 舌の上で衣と身が分かれる。

 身は驚くほど柔らかく、舌で押し潰せるほどだった。

 

 表面は弾力を残しながらも、中は火入れが絶妙で、しっとりとした繊維が口の中でほどけていく。

 

 川魚特有の泥臭さは微塵もない。

 若鮎特有の苦みは控えめで、代わりに上品な脂の甘みが広っていく。

 

 染みわたるような味わいだ。

 野菜が美味い店なんだから――魚が美味くて当然である。

 

「めっちゃ美味いっすね」

「せやろ~、ユウちゃん」

 

「自分!! なんでボクが来る前にもう、始めてるの!?」

 

 石破 志雄が、玄関の方を振り向く。

 

 そこに居たのは、数か月ぶりに姿を見たポロシャツ姿の生添 賢治騎手の姿であった。 

 普段通り、悪態をついて現れた生添騎手は、まるで家のダイニングかのように、ドカっと音を立てて椅子に座った。

 

「ケンちゃん、久しぶりやね……フランス帰りのお得意様が通ってくれないお陰でね、ウチはもう干上がるかと思ったわ」

「なんや!! おっちゃん……そういうのは、そこの石破くんにおねだりせな……この人、GⅠ今年もう二回勝っとるんよ!?」

 

 何言ってるんだこの人は、と思わなくもないが――

 そういえば、この人はこういう人だったなという安心もある。

 

 まずは一杯――

 

 石破 志雄が注いだ冷酒を生添騎手は、ぐっと流し込む。

 俺は残った鮎の天ぷら、塩を振って齧り付いた。

 

「石破クン……野菜もくわなあかんよ」

「いや、食べたから……」

 

 俺は鮎に向き合いながら思い出す。

 生添騎手は、見た目以上に不器用な男だ。

 

 なんだかんだで自分は――彼に気を掛けてもらっている。

 

「石破クン、ダービーは、その……残念やったな」

 

 そらきた。

 

「まぁ、上が強かったんで、しょうがないっす」

「タケさん復活は、もうしゃーないて――あの勝ちに、立ち会えなかったのは残念やったな」

 

 残念といえば、残念――妥当といえば妥当な結果だった。

 青葉賞を勝ったヒシテンケイの日本ダービーは三着。

 

 テンケイはケイジのようにはまだ行かない。

 もう少し時間が、必要な馬だが、まずは――

 

「生添武者修行、おつかれさまでした」

「ま、石破クンも去年似たようなこと去年、やったしな」

「今年は――」

「ああ、今年は何とか生枝センセが話通してくれたらしい。宝塚でオオゴケしなければ、やね」

 

 その言葉にを聞きながら、俺はなみなみと注いだ猪口を傾ける。

 

 喉を通る米の甘み、キリっとした飲み口。

 前よりも、ずっと美味い酒だ――良いことがあった日に傾ける酒は矢張り美味い。

 

 それは、ここ一年。

 どんな場所で飲んできた一杯よりも美味い、染みるような酒の味だった。

 

「ああ、約束やったな。石破クン――いつの間にかボクと君も、ケイジとオルフェーヴルと一緒に競馬の顔になってもーた」

「ええ、そうなると誓った日から、出来る限りをやってきたつもりです」

「愚直な男や、石破志雄……ま、借りは返さんでええで、ケイジのことは大分研究したからな」

 

「そうですか……」

 

 石破 志雄は生添騎手を振り向く。

 飄々とした男の顔に、紛れもない戦う意志が宿っている。

 

 思えば、クラシック戦線。

 菊花賞の落馬の後、有馬記念での激走。

 

 春の天皇賞の後の約束――

 ジャパンカップでの決着は、ある意味で公平な形で流れた。

 

「なんや、石破クン、戦う漢の顔やん……嫌やわ、そう言うのは――」

「ええ、まったくです」

「要らんところで真剣(マジ)になってまう――にしても、互いに苦労は尽きんわ」

 

 一触即発。

 御猪口を手にした石破 志雄と、腕を組んでだ生添 賢治は共にカウンターに向き直る。

 

 俺達の関係は、傍目から見てもいい先輩と後輩。

 同じ苦労を分かち合える友人同士――

 その上で、互いに一歩も譲れないライバル同士――

 

 手に持った酒だけが、互いに掴みかかって殴り合いになる熱量を抑え込む理由であった。

 

「春古馬三冠、距離違いで二勝が決まってる馬が來る……そら冷えるわな」

「そうですね。その上で去年の牡牝両方の三冠馬が來る」

「テンケイ、出るって聞いたけど――鞍上、譲ってよかったんか? あんまいい気はしないやん」

 

 石破 志雄は黙ったまま、一杯、喉に冷酒を流し込んだ。

 

 ダービーを終えたあと、綾部オーナーから直接言葉を聞いたとき――

 考えたことがないわけではなかった。

 

 ヒシテンケイは、兄のヒシケイジと違い――酷くズブい性質はあるものの決してヨレる馬ではない。

 

 ヒシケイジとヒシテンケイ、可能なら両馬を同じレースに走らせたい。

 そう考える綾部オーナーの方針も、分からなくもない。

 

(ケイジと走った馬は、走りの何たるかを知る)

 

 その絵空事のような噂を、聞いたことがないわけがない。

 

 ヒシロイヤル、ヒシパーフェクト。

 エイシンフラッシュ、ギュスターヴクライ。

 ジャスタウェイ、ヴィルシーナ、ゴールドシップ。

 

――オルフェーヴル。

 

 ヒシテンケイもまた、ケイジの熱のおこぼれを受け取った馬の一頭だ。

 

 だが、俺は一人しかいない。

 テンケイに俺以外が乗れば、俺が乗れる馬が減る。

 

「それでも――ケイジはそれを望んでいる気がしたんです」

「ケイジが、か」

 

 そうだ、最近のケイジは――どうにも、俺達だけじゃなく馬のために走っているような気がしてくる。

 

 俺達が馬に気持ちを伝えるように――馬も俺達に伝えてくるものがある。

 凱旋門賞を経て成長したケイジは、今や走る楽しさを全身で表現する馬となった。

 

 ケイジだって、生き物だ。

 血のつながった弟には――活躍してもらいたいだろう。

 

「ま、そう言う稼業ですから」

「で、誰が乗るか、決まってるの?」

「テンケイの性格ですから、リュージさんに頼むことにしたみたいです」

「ワンダー・龍神か……まったく、数奇な話やな」

 

 そうして、俺たちは笑いながら、小さな御猪口を突き合わせた。

 酔いが互いの敵意を抑え、今日だけは――平等な関係でいることが許されていた。

 

「負けへんで、石破クン」

「勿論です――生添さん」

 

 そうして、2013年6月23日。

 第54回、宝塚記念――

 

 豪駿と暴君は、ターフの上で並び立った。

 2013年の宝塚記念は第三次競馬ブームの春のグランプリとは思えない11頭、たった11頭だけのレースとなった。




誤字脱字、感想お待ちしております。
明日も1800投稿予定です。
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