レース明日から走る予定です。
ダノンバラード、ごめんッ!!
2013年6月23日
小雨まじりの阪神競馬場に、ヒシケイジが現れたのは午後一時のことであった。
今日は待ちに待った、二カ月ぶりのレースだ。
俺にとって春の天皇賞から、二カ月が過ぎるのはあっという間だった。
春の天皇賞において、俺は実際、全てを出し切っていた。
酷く痛むコズミに動けなくなって約半月――
早山のおやっさんが「時代が時代なら“笹針”を使っていた」なんて言い出すほど俺の体はボロボロになっていた。
「ギョロ……つらいよなぁ」
「ブヒィ~~~」
そんな俺を支えてくれたのは、やっぱり土井さんだった。
「ギョロ、体が痛いってよりもさ、走れないのが辛いのか?」
「ブヒ!!」
その答えに、土井さんは遠慮なしに笑い出した。
「ハハハ、やっぱギョロはレース馬鹿だな!!」
「ブヒ~」
「大丈夫だぜ、そういう心の辛さは……いつか体がどうにかしてくれるもんだ」
「ブヒ?」
「大丈夫だ、必ず治るからな、俺達を信じて待ってくれ。そしたら、きっと良くなるからな」
「ブヒ……」
5月の間、土井さんは常に常に俺を世話し続けてくれた。
後先を考えてないんじゃないかと思うほどの体の使い方の理由を俺は聞けなかった。
俺はただ只管、周りにいる大人たちに甘えるように時間を過ごした。
いつしか俺の肉体は、周囲の人々の尽力ですっかりと回復していた。
文字通り全力で疾走した体が機能停止したのは、骨格に似つかないほど膨れ上がった筋肉のせい。
だが、かろうじてサプリメントや栄養によって回復できたのも体についていた筋肉のお陰であった。
テンケイと一緒に日々の調教を再開してからは、プールを嫌がるテンケイを押しながらまずは只管プール調教で粘った。
来る日も来る日も、体にかかる負担を減らしながら負荷を如何に掛けるかだけ考えてきた。
テンケイがプール調教に文句を言わなくなったころ、テンケイの日本ダービーの追い切りがやってきた。
俺は全力で走った。テンケイもそれに応えてくれた。
だが、最後――俺はテンケイに自信を持たせるために、ヤツが俺を抜いた後、少し走りを緩めてしまった。
兄は馬鹿だった。
テンケイは本番、最終直線で先頭に立ったところで脚を緩めてしまった。
挙句、二頭、キズナとエピファネイアにアイツは抜かされて三着。
甘い、俺なら――そんなミスはしない。
当然だ、テンケイはただの馬で俺のように人の意思が入っているわけじゃないんだ。
失敗して当然だ。
敗北したのにケロッとしているテンケイだが、六月の調教では思うところがあったのか――
少しずつであるが、闘志が芽生えている。
嬉しかった。
テンケイは走れる馬だ。
まだまだ――いくらでも教えることもある。
けれど、自分で走る楽しさに気づいたお前はいくらでも成長できる。
だが、俺は心配だ。
新しいテンケイの鞍上にきた、あのリュージって騎手とテンケイは相性がよすぎる。
そして俺は後何度、お前と走れるか分からない。
次は、次のレースではオルフェーヴルが來る。
俺を狙う馬は、大阪杯から、春の天皇賞からさらに強くなってくる。
それでも――それでも――俺は走るのを辞められない。
今日は宝塚記念、すべての馬が敵になる。
「ギョロ……いこうぜ」
「ブヒッ」
結局雨が上がることはなかった。
俺はパラつく雨の中、一回りくらい横が縮んだ厩務員さんの土井さんに曳かれながら――たった11頭しかいないパドックにやってきた。
『回避が続き、たった十一頭――それでも集まった夢の数は変わらない。第五四回、宝塚記念のパドックです』
馬、すくなっ
もう、見た顔しかおらんやん……
「ブヒ……」
「ギョロ、仕方ないぜ。お前ら強すぎるんだから……」
ヒシケイジは七番、後方に見える馬、前方に見える馬。
もう、知っている馬しかいない。
ラジオで回避が続いたと聞いたが、目にしてみると――それはそれで、別の感想が浮かんでくる。
だが、この場に集った馬が俺に向けるプレッシャーは本物だ。
二番、ショウナンマイティ。
大阪杯で俺に迫ったお前が、俺と走るために今日来ているんだろう。
全てを出し切ったお前を、あの時、俺は見ることが出来なかった。
だが、今ならわかる。
お前は俺に勝ちに来た。
三番、フェノーメノ。
春の天皇賞、後少しでもマージンがなければお前に差し切られていた。
漆黒の馬体は天皇賞よりも確実に磨き上げられている。
得体の知れない不安が漂う怖い馬だ。
四番、エイシンフラッシュ。
思えば、去年も一昨年も、お前と俺はこの宝塚記念で走ってきた。
聞いたぜ、陣営は俺と走らなければ勝てると思っている。
その上で、今日、俺に勝つために俺と走ることを選んである。
五番、ヒシテンケイ。
ちらちらこっち見るなよ。観客にアピールしろ。
今、俺が一番知る馬はお前だ――だが、レースの場で俺はお前に譲る気はない。
弟だからと言って、手加減する気はない――
勿論、手加減して抜きされる相手ではない。
六番、トーセンラー。
もう幾度となく走ってきたお前に油断することは出来ない。
クラシックでも、春の天皇賞でも――お前は本気で走ってきた。
今日も同じだ、お前と、お前の鞍上は怖い。
後ろを振り向けば八番、ジャスタウェイ。
安田記念で王者になったお前とも、俺は何度も走ってきた。
あ、俺が見たから笑顔を見せた。
そんなことしても、手加減はなしだ。
九番、ヴィルシーナ。
今も、こっちを見てる。
大阪杯で、俺に見せつけた脚を、今日も俺で試しに来たんだろう?
いいぞ、今日も逃げるお前と走ってやる、それがお望みならな。
十番、ゴールドシップ。
今日は、ヤツが纏う空気が違う。
敗北は馬を変えるが――ヤツは、いい方向に変わったと見える。
『おい、ケイちゃん先輩』
なんだ。
『いや、ヒシケイジ』
どうした?
『今日も、お前に勝つための方法を考えてきた――勝負だ』
分かったぜ、楽しみに待つ。
その後方、十一番、ジェンティルドンナ。
後々、ドバイターフで一着を取ったと聞いた。
ジャパンカップでの借りは、俺の手で返させてもらう。
それにしても、すっごいプレッシャー。
俺への意識はあるが、落ち着いているのは流石女傑といったところか。
そして、一番、オルフェーヴル。
お前だけだ。今日はお前だけが俺を見ていない。
他のどの馬も、俺に敵意を向ける中――お前だけが一頭、孤高に普段通りに、王として、挑む者たちへと覇気を放っている。
オルフェーヴル――
お前と走るために、今日はここに来た。
そうか、思えば半年か。
ジャパンカップ、あの日、付けられなかった決着を付ける日が今日なのか。
なぁ、オルフェーヴル。お前は――どれだけ強くなった。
俺はあの日から、どれだけ強い馬になることが出来ただろうか。
言い訳は、幾らでもできる。
結果は、今日の走りの中で決まる。
「……」
パドックが、いつになく静かだ。
馬の発するピリピリとしたプレッシャーを、人々が感じているようだ。
「ヒシケイジ、頑張れ……」
そんな中、ぼそりと、誰かが呟いた。
目線を向けると、そこには少し背伸びをして白い馬のぬいぐるみを抱きかかえた少女が立っていた。
「ブヒヒヒヒ!!」
「おい、ギョロ、頼むぜ? 疑われない程度にな!!」
俺は、彼女にアピールするように声をあげた。
彼女の瞳が輝く――そうだ、どんな状況でも俺達の仕事は変わらない。
「それでも、ケイジかな」
「ま、7-1-10かな」
「いや、オルフェーヴル。一択」
「あー、ジェンティルドンナ……信じさせていただきます」
「ムホホ……ヒシケイジ、やはりお前はいい……夢を背負える馬だ」
走ること――夢を伝えること――いつだって俺はそのために走ってきた。
ヒシケイジは、春古馬三冠が掛かる今日のレース、パドックで入れ込む姿勢を見せたものの、普段と変わらぬ一番人気に推された。
誤字脱字、感想お待ちしております。
明日も1800投稿予定です。