2013年、6月23日。
11R、春のグランプリである第54回宝塚記念。
その本馬場入場を前にヒシケイジの鞍上に、相棒である石破 志雄が跨った。
どこか吹っ切れたような、相棒が頼もしい。
俺は昂ぶる気持ちを抑えながら、入場を待っていた。
息を吸って吐くたびに、鼻から息が毀れた。
「ケイジ、入れ込んだんだって?」
「ブヒ!?」
「そうなんですよ。スタンドにいた女の子に声を掛けられて、ファンサービスみたいな感じで」
「ブヒィ~~~~!?」
いうなよ土井さん……
アレは正直、我を忘れそうになるくらい。嬉しかったんだ。
あの肌に視線が張り付くような――
心を締め付けられるような時間の中で、俺は久々に走る意味を思い出していた。
「大丈夫ですよ。土井さん……むしろ、いい息抜きになったみたいです」
「ブヒ!!」
「ならいいっすけど――ギョロ、石破ジョッキー……頼みます!!」
「土井さん、おやっさんと、門田さん達によろしく!!」
俺は返事と共に相棒の扶助を受けて、一歩一歩地下馬道を歩いていく。
「ケイジや、ケイジが来た!!」
「ケイジ~~~~~~~~~~~!!」
「豪駿!!」
「「「石破クン~~~~~~~~~~!!」」」
俺達がゆっくりと、本馬場のターフを横切る時。
パラつく雨の中、気づけば空には晴れ間が見えていた。
「ケイジ、楽しもうぜ。やっぱ、お前と走るなら楽しんでいきたい……」
「ブヒッ!!」
『阪神競馬場です』
ゲートに日の光が差す中――
俺達は、大歓声の元、清々しい気持ちで普段通りの返し馬へと繰り出していった。
◆◇◆
『熱いグランプリにGⅠ7勝馬が二頭、更には二世代の三冠馬が揃うなか――豪駿は春の古馬三冠の栄誉を勝ち取れるか!!』
『第54回 宝塚記念、本馬場入場です』
『八枠十番、まず先に馬場に姿を見せましたGⅠ四勝、ゴールドシップ、これはいつもと同じです』
(ゴールドシップ、涙を経てお前は強くなった――いや、もっともっと強くなろう)
『たった一度の敗戦でその輝きは色褪せません、ドリームレースで即反撃。ゴールドシップと
『ケイちゃん先輩――今日は俺が勝つ!! ゴルシ様が勝つぜぇ!!』
『二枠二番、悔し涙を飲んだ大阪杯と安田記念の連続二着。一度だけでいい頂点を!! ショウナンマイティ、
「ヒシケイジ――きっとこれが最後のチャンスだ!! 行くぞ、ショウナンマイティ!!」
『三枠三番、駆けろ黒き怪物。ヒーローになる準備は出来ているぞ、フェノーメノ、パートナーは
「フェノーメノの怯えが消えた。この距離だろうと――お前を信じる!!」
『四枠四番、ご覧ください。夏のターフに輝く光は閃光一閃のダービー馬。GⅠ四勝エイシンフラッシュとミルコ・ディムロス!!』
「
『五枠五馬、本日唯一の三歳馬。新たなる鞍上と共に勇躍なるか。ヒシテンケイとワンダー・龍神です』
「石破志雄、悪いな。テンケイは俺向きの馬だ……この素質馬でいい騎乗を見せて、菊花賞の鞍上も貰う!!」
『六枠六番、ダービー五勝の鞍上、期待されるは復活劇のアンコール!! 太陽のような一着を、トーセンラーと日本のタケ!!』
「ウフフ……トーセンラー。前回は、悔しかったね……でも今日は、頑張ろう、頑張ろうね!!」
『七枠八番、安田記念で見せた快走、ハーツクライの血が叫ぶ。この道を往け、ジャスタウェイと
「芝田です。ジャスタウェイ――今日はいい走りを、どうか菅井調教師に届けさけてくれッ!!」
『八枠九番、クラシックで涙をのんだシンデレラ、三つ目の冠はグランプリの快走で!! ヴィルシーナはジャン・ニコラ ・ピエタ!!』
(
『そして八枠十一番、豪駿を捕らえ、暴君を打ち倒し、不沈艦すら封じてみせる』
(ヒシケイジ、オルフェーヴル――この際、ジェラシーはなしだ。)
『牝馬を超えた牝馬。GⅠ四勝ジェンティルドンナと
「勝って、全てを覆そう――ジェンティルドンナ!!」
『お待たせしました一枠一番、最も自由な三冠馬、昨年度の優勝馬、黄金の暴君は世界の頂点を掴んで帰ってきた』
『王者は世代に二頭もいらない。GⅠ七勝、第七代目の三冠馬はオルフェーヴル、鞍上は武者修行を終えた
「ヤバ、期待され過ぎやろ……なぁ、オルフェーヴル。どんな気持ちや――?」
「……うひひひひ」
◆◇◆
(今日は勝ちたい――)
俺は雲間に差し込む光を見上げていた。
生まれてから今まで、今日ほど勝ちたいレースはなかった。
勿論今まで、負ける気で走ってきたレースなど一つもない。
どんなポカをやらかそうと、他の馬に塩を送ってこようと――
いつだって真剣な気持ちでレースを走ってきたのは事実だ。
けれど、今日は違う。
今日の宝塚記念ほど、今この場で勝ちたいと願うレースもない。
今になって、走る意味に気づいてしまったからか、それとも――
(今、俺自身、今日のレースで勝つイメージが思いつかないからか)
「ケイジ、今日、負けるかもしれない」
だが、普段通り、淡々と馬場をチェックするような返し馬が終わった後――
口を開いた相棒は、耳を疑うようなセリフを吐き捨てた。
「ブヒ!?」
おいおい相棒、何言ってるんだ。
石破 志雄、お前が諦めたら本当に終わりだぞ!?
「お前、オルフェーヴルに大逃げで勝てるイメージあるか?」
「ブヒ……」
「あと、この距離で差しでエイシンフラッシュにも勝てるイメージがない」
「先行で750mダッシュ……そろそろ読まれる頃だ。打田騎手に通じるかどうか……」
だが何時になく、弱気な発言を淡々と続ける相棒に、俺は不思議と言い返す気は起きなかった。
『さて、七枠八番には――日本中、誰もが知るこの馬が入りました』
「ま、いわゆる年貢の納め時ってやつかな?」
「ブヒ~?」
そうか――俺も、内心で分かっている。
今日の宝塚記念は不利な条件が詰まっている。
大阪杯までのような準備期間がしっかり取れたわけではない。
なのに相手は、春の天皇賞以上ともなれば、相棒が匙を投げたくなる気持ちも分かる。
『一昨年――歴代初、三歳での春のグランプリ制覇を果たした豪駿は、既に春古馬三冠を二冠獲得しています』
くく――と、相棒が笑う。
それにつられて、俺も何故か妙に笑えてきた。
「あはははははははははは!!」
「ブヒヒヒヒッヒヒヒ!!」
『新たなる伝説を見せてくれ。ヒシケイジ、鞍上は石破 志雄です!!』
「そうだ!! 良いこと考えた……」
なんだよ、相棒。
俺はどんな指示にも従うぜ。
「今日は奇策で行く。ゲートの後、一番後ろに付けよう」
「ブヒ!?」
「ああ、最後方から行く。大分つらいレースになると思うがお前の脚を信じる」
「ブヒ……!!」
「細かいことは後で指示する。最初は後方に付ける形でいい」
「ブヒ!!」
ヒシケイジに、もう手段を選ぶという選択肢はなかった。
その日、豪駿はゆっくりと不気味なオーラを纏いながらゲート前へと歩いて行った。
『戦前の段階では四強と呼ばれている宝塚記念でありますけども――』
周回する馬達の中、既に心は弾んでいる。
追い込み走法で勝てるのか――そんなことはどうでもいい。
『五番手はエイシンフラッシュ、六番手にヴィルシーナ、ショウナンマイティ挟んでジャスタウェイ』
そうだ、違うな。
追い込み走法で勝つんだ。
今日の宝塚記念はそういう“挑戦”なんだ。
そういうやり方を見せたうえで、最終直線で勝つ。
『フェノーメノにトーセンラー、ヒシテンケイは単勝万馬券と言った形になっています』
思えば、去年とも一昨年とも違う競馬だ。
自分より強い馬に胸を借りるわけでもない。
オルフェーヴルのように走る強い競馬を真似ようなんて思いはない。
今日の競馬は、今日の挑戦は――追い込まれたからこそできる未知への挑戦だった。
『さぁ、スターター台上です。それでは生のファンファーレをお送りします』
時は来た。
生演奏で鳴り響く阪神競馬場、ファンファーレを聞きながら俺は応援の拍手に耳を傾ける。
会場は変わらず十三万人。
ライブビューイングの会場に集まった十二万人。
彼らに夢を届ける。
そのために勝つ。
『最強馬決定戦の始まりを付けるファンファーレが鳴り響きました』
湧きあがる会場の全てが俺の背中を推すような全能感。
もう、プレッシャーなんて何も感じない。
だったら、もう全て忘れて楽しもう。
『今年は出走十一頭。ですがグランプリに相応しく、出走馬のGⅠ勝利数は合計30勝!!』
他の馬の邪魔にならないように、ヒシケイジは枠に入る。
「おいケイジ」
先ほどまで精神を集中させていた「石破 志雄」が口を開く。
いつも通り、レース前の指示確認だ。
『先ほどまで降っていた雨は、ビックレースを前に上がりました。上空は青空も見えています』
俺は耳を立てて後方に向けて、相棒の話を待つ。
「段取りを忘れるなよ」
「ブヒ!!」
『4コーナーで枠入りが進んでいます。偶数番の枠入りが進んでいます。6番ゲートにトーセンラー、4番ゲートにエイシンフラッシュ』
何を言いたいかは、もう言葉にしなくても分かる。
分かっていることだけが、互いに伝わればいい。
俺は――相棒を信じている。
相棒も俺を信じて、今日の作戦を立ててくれた。
『最後のゲートは11番ジェンティルドンナ――収まって係が離れます』
ジェンティルドンナが収まって――ゲート前、一瞬の静寂。
――ガタンという音と共に、俺の目の前でゲートが開かれた。
『スタートしました。ヒシケイジ、いいスタートを切りましたが……』
その瞬間、俺は飛び込むようなスタートを切る。
ぐん――っと、飛び出すようなスタートに各馬が追従する。
ヒシケイジのスタートに期待する馬は、間違いなく居ただろう。
だが、残念だ――俺は他の馬に速度が乗ったの所でぐっと内ラチ沿いに進出していく。
狙いは最後方……トモの速筋を徹底的に残すための“追い込み”のための定位置だ。
『ジェンティルドンナが前に出て、続いていくのはヴィルシーナ』
「ええっ、嘘でしょ!?」
いつ以来か分からないが、真中騎手の驚きの声を俺は聞いた。
毎度毎度、驚かせて悪いな――だが、今日は後方からの競馬で行かせてもらう。
『おおっと、ヒシケイジが、どんどん下がって……最後方からのスタートです』
真中騎手とショウナンマイティを前に出して、俺はすっと最後方に収まる。
もう、自分の脚を疑っている暇はない。
遅い遅い巡航で目の前のショウナンマイティについて行くんだ。
『番のヴィルシーナが先頭、ジェンティルドンナが二番手でスタートを切りました』
問題ない――この状態からでも俺の挑戦は始まっている。
息を整えて、脚の負担を極限まで減らす。
『ウチ並んで四番エイシンフラッシュ、四番十番ゴールドシップがそれに続く』
楽しく、楽しく、走ろう。
後悔のないように己の歩む一歩一歩を芝に刻み付けるように進む。
『二番ジェンティルドンナ少し下がった形で追走――』
ほら来た……來る。
俺はこの位置方だろうと、“本気”で楽しく楽な走りを全力で行える。
細かいペースは相棒が調整してくれる。
だから、後で“全力”を出して俺は追い上げることを考えればいい。
『五番手トーセンラー、遅れて八番ジャスタウェイ』
俺はそれほど固まっていない前方の馬達を見る。
ゴールドシップ以外は、前に見たような競馬の運び方をしている。
『三番フェノーメノが中団外め』
いいぞ、それが普通だ。
全力で――普段通りのレースを走って勝てるならそれが一番だ。
『一番暴君、オルフェーヴルが内ラチにつけて、外に五番のヒシテンケイ』
でもな、オルフェーヴル――
お前に勝つためには、昨日までの自分じゃダメなんだ。
相棒はそれが分かっているから、俺にこのポジションを取らせたんだ。
『二番、ショウナンマイティと、今日の豪駿は最後方、八番ヒシケイジがつけています』
ヒシケイジはスタンドに集った競馬ファンの困惑の声を聞きながら、今はただ後方で耐えていた。
競馬は我慢だ――そうだ。それでも、楽しめないと決まったわけではない。
『一コーナーから二コーナー、ヴィルシーナはテンを取るが冷静に進めています』
すべての観客が信じていた。
すべての騎手と競争馬が感じていた。
ヒシケイジがこのまま何もしないなど、ありえない――
背後に立つその馬の異様なオーラを、この場に居る全員が感じ取っていた。
誤字脱字、感想お待ちしております。
明日も1800投稿予定です。