……本当に滅びるやつがあるか!
世界が滅びてしまった。
四方の壁が取り払われて、とても開放的になってしまった便座に跨りながら勇者は頭を抱えた。
魔王から、『〇月×日にどこそこで世界破滅魔法の発動儀式を執り行う』という予告状を受けとった勇者は、決して遅れないように余裕を以って現地入りをした。
ただ出発するのが早すぎたようで、予告の三日前に現地についたところ、魔王とその側近たちの姿はまだ影も形も見当たらなかったのだ。
街道の渋滞や突然のトラブル(勇者稼業にはよくある事だ)に巻き込まれる事を想定して、旅程にはかなりの余裕を持たせたのだが、予想外なことに勇者の旅程はほぼ当初の計画通り進行してしまったのだ。
街道の渋滞もなく、中継地でトラブルに巻き込まれる事もなく、勇者の二頭立てキャンピングカーは予定通りに目的地に到着した。
さて、これは困った。
このまま戦いの地で待ち伏せて、魔王達が儀式の設営を始めたところに襲い掛かる、というのは実に勇者的ではない。 勇者というのは魔王に立ち向かう者であって待ち受ける者ではないのだ。
かといって、「準備が終わるまで手出しはしないから、ゆっくり世界破滅魔法の発動儀式に取り掛かってくれ」というのも格好がつかない。 宿敵に見られていては準備をする方だってやり辛いだろうし、魔王たちの仕込みが終わっていざ決戦、という段になっても、準備する様子を横からずっと眺めていたのでは戦いの緊迫感というものに欠ける。 勇者と魔王の戦いにはサプライズ感が重要なのだ。
暫く考えた末、勇者は一度この場を引き払って、最寄りの村に逗留する事に決めた。 もし村でなにがしかのクエストが発生しても、最終中継地点ならばタスクマネジメントも容易だろうと考えていた。
決戦地の最寄り、サイハテ村は勇者の逗留を歓迎してくれた。
とはいえサイハテ村は末梢街道の袋小路のそのまた先、物流の極北である。
不慣れな歓迎は実に手作りの温かみに溢れた(オブラート表現)もので、勇者は逆に気を使いながら二日間をサイハテ村で過ごした。
三日目の朝。
勇者は恐ろしい腹痛で目を覚ました。
危機を感じた全身の筋肉が収縮し、手足が得体の知れない痛みから身を庇うように縮こまる。
――腹が、痛い。 猛烈に痛い。
隙間の目立つ壁からは涼やかな秋風が吹き込んで来るが、勇者の顔面は真夏の炎天下に放り出されでもしたかのように汗まみれだった。
這うようにしてトイレへ転がり込む。
便座に跨って勇者は祈った。 精霊神アークィラよお助け下さい。
この時、他に考えを回す余裕など勇者にはなかった。
明かり取りから差し込む日の角度が高くなってきた頃。
勇者はまだ便座の上に蹲っていた。
とはいえ、腹の激痛は朝に比べればまだマシになっている。
顔に手を当ててみると死体のように冷たいが、それでも全身の水分を絞り尽くす勢いで流れていた脂汗は収まってきていたし、絶える事の無い甲高い耳鳴りも遠くへ去ったし、トイレの個室の隅で踊り狂っていた小人たちの姿はもう見えない。
便座の上からまるで移動できる気はしないが、それでも思考にリソースを回せる程度に勇者は復調した。
腹痛の原因には心当たりがあった。 特別な来賓にしか出さない、特別な食材。 先日村長が、自慢げに床下から取り出した何某かの干物。
スープで戻して頂いたところ、言いようのない不思議な味であった。 しかしよくよく思い返してみれば、このサイハテ村に前回「特別な来賓」とやらが何時訪れたのか、聞いていなかった。 痛恨事である。 多分、間違いなく、あれが激烈に腐っていた。
トイレから出たら、即刻破棄を提言したい。
「……そういえば、魔王の儀式」
激痛によって一時的に優先順位の引き下げられていたタスクを思い起こして、勇者は窓を見上げる。
正午は回っていた。
魔王が儀式をできるだけ長ったらしく行ってくれる事を、勇者は祈った。
差し込む日差しが赤く色付いている。
勇者はまだ便座に跨っていた。
これまで何度か立ち上がりかけてはいるのだが、足に力を込めようとする度に胃腸が癇癪を起こし、結局便座に腰を落ち着けるという事を繰り返している。
事ここに至り、勇者は最早開き直りの境地にいた。
もしこれで世界が滅んだとしても仕方がない。
腹を下しているからといって、まさか勇者が下を垂れ流しながら魔王と戦うわけにもいかない。 よしんば戦って勝てたとしても、後世に醜聞が語り継がれてしまうのはごめんだ。 クソを漏らしながら戦わなければ滅びてしまう世界なら、いっそ滅びるのが天命というものだ。
勇者の胸中は今、鏡面のように澄み切っている。 思惑の一切が断ち切られた透明な感覚。 これが求道者が目指すという、明鏡止水の境地なのかもしれない。
西日の残光が床に溶けた。
腹痛は収まったが、動く気力と体力をごっそりとひり出してしまった勇者が、やがて空に昇るだろう星々に思いを馳せていた時である。
世界は滅びた。
ドアを木っ端微塵にした閃光の迸りは瞬く間にトイレの壁という壁を破壊すると、一瞬で遥か後方に去って行った。
勇者ですら死を予感する、恐ろしい破壊エネルギーだった。 咄嗟に尻に敷いた便座を守ってしまったのは、焼け出された人間が薬缶やら枕やらを後生大事に持ち出してしまうのと同じ心理であろう。
◇◇◇
何もかもを粉微塵にした破壊痕を遡れば、爆心地まで辿り着くのは容易かった。
今や巨大なクレーターの中心と化した儀式の地で、魔王はひとり唖然と立ち尽くしていた。
「うおおおおおおッ!! 魔王覚悟ッ!」
不意打ちで放った勇者の一撃を、魔王はろくすっぽ防御もしなかった。 聖剣の威力に吹き飛ばされた体が二転三転し、頭から地面に突き刺さる。
しかし幾度となく刃を交えた経験から、勇者は魔王のしぶとさをよく知っていた。 不意打ちのファーストヒットなど、勇者と魔王の戦いにおいては挨拶のようなものだ。 クリティカルヒットに慢心せず、地面に突き刺さった魔王に向けて油断なく聖剣を構える。
身体をよじらせて根菜のように植わった頭を地面から引き抜いた魔王は、数度頭を振ると、まるで信じ難いものを見たような目をして、言った。
「お前、遅いわッ!!」
「ぐうッ!!」
呪いの言葉が的確に勇者の急所を抉ってくる。 人の疚しさを見抜き攻撃するのは魔王の十八番だ。
たまらず膝を付く。 一撃貰うのをを覚悟して身を固めた。
……だが絶好の隙を晒してしまったというのに、追撃が来ない。
顔を上げると、口撃を放った魔王も力なくその場に座り込んでいる。
なんだか梯子を外された気分になって、勇者は思わず声をかけてしまった。
「お前、なんだ今日は。 随分やる気がないじゃないか」
「今しがた世界を滅ぼしちまったばっかりなのにやる気なんぞ出るかい。 お前こそ、世界が滅んだというのに随分と元気があるようじゃな」
「例え世界が滅びたとしても、俺にはやるべき事は残っているからな。 魔王の打倒が勇者の使命だ」
さあ来い、と立ち上がって聖剣を構えるが、魔王が乗ってこない。 座り込んだまま、深い深いため息で返答された。
まるで糠に釘を打ち付けるような手応えである。 いざ決戦を始めようという時に、肝心の魔王がやる気の欠片も見せないのでは、勇者としても行動に困ってしまう。
このまま斬りかかってしまおうか。
ちらりと考える。 しかしやる気のない相手を一方的に打擲するのは勇者的にNGな行為であるし、このままやる気のない魔王を討ち取ってしまったら、それは長きに渡る勇者と魔王の因縁の幕としては、あまりにも尻すぼみであるように思われた。 できれば避けたい。
こういう時こそ、周りの賑やかしが場を盛り上げるものではないのか。
勇者は辺りをうかがう。
「四天王はどうした、お前の取り巻きは。 いつもなら小型犬みたいにきゃんきゃん噛みついてくるのに、今日は随分と静かじゃないか」
「魔法が発動して全員吹っ飛んだわ」
「おう、そうか……」
四人が四人とも殺しても死にそうにないキャラをしていたが、世界を滅ぼす魔法の爆心地にいては流石に命がなかったらしい。 あいつ等まで死んでいるとなると、いよいよ勇者と魔王以外の生存は怪しかった。
それではなんと言葉をかけたものか、聖剣の切っ先を迷わせていると、すっかり俯いて頭を抱えてしまった魔王がぼそりと、
「お前、どこで何しとった」
言葉に詰まる。
まさか食あたりでトイレを出られなかったとは言えない。 世界の危機よりも自分の生理事情を優先したのかとツッコまれれば、はいそうですと答えるしかないからだ。 問答を受ければ詰みルートである。
確かに便座の上で「世界くらい滅ぶなら滅べ」とは考えはしたが、勇者だってまさか魔王が本当に世界を滅ぼすとは思っていなかったのだ。
「お、お前こそなんだ! 自分の企てが成就したってのに、この世の終わりみたいな顔しやがって! 実際終わったんだからもう少し喜んだらどうだ!」
「世界の破滅なぞ真面目に企てる奴がいるか! お前が阻止する前提のハッタリだったに決まっとろうが!!」
「はあ!?」
つまりはこういう話であった。
世界破滅魔法の儀式は本来であればただの見せ札。
聖剣のひと振りで簡単に破壊できてしまうその術式は、発動を阻止される事を前提にしてこの地に敷設されたのだという。
本命の罠を別に張り、のこのことやってきて世界破滅魔法の阻止に動く勇者の後背を攻める、というのが当初の作戦であった。
作戦は盤石。 仕掛けは流々。 此度こそこの地に勇者の墓を立ててやると、魔王たちは大いに盛り上がったそうだ。
ところがどっこい、勇者が来ない。
日が中天にある頃は「ククク、怖じ気づいたか」などと嘯く余裕もあったそうだが、陽光が傾き赤く色付く頃になると、誰もが口数を減らして薄っすらとした緊張が漂い始めていた。
東から夜闇が広がるのに反比例して世界破滅魔法の術式が放つ鈍色の輝きはいや増し、漏れ出る魔力が紫電となって空へと奔り、大地は不気味な鳴動を始める。
ここに至り魔王はようやく計画の中止を宣言した。 宣言したは良いがこの時には既に魔力の充填圧縮をほぼ完了させていた術式は、単純開放の余波だけで辺り一帯が更地になる事は間違いなしのどうしようもない危険物と化していた。
破壊エネルギーの塊と化した魔力の絶対確実な解体方法は、聖剣による浄化のみ。
翼のある者達は勇者を探して辺りに散ったそうだ。
残った者達も術式にキャパシティ増設の記述をするなどしてなんとか爆発を遅らせようと努力したそうだ。
そして勇者はトイレに篭もっていた。
「どうするつもりじゃ! 世界破滅魔法発動しちまったじゃろがい! この責任どう取ってくれるんじゃ!」
魔王に詰め寄られて、勇者はたじろいだ。
だが、(少なくとも実行犯の魔王には)勇者には責められる謂れはない。
口から泡を飛ばして言い返す。
「確かに間に合わなかったのは俺も悪い! だがそもそも世界破滅魔法なんて物騒なものお前が持ち出さなきゃ世界滅亡なんて大惨事は起きなかっただろうが! お前にだけは責められる筋合いはないぞ!」
「うるさい! 規模を日和ったらお前予告出しても来るかわからんじゃろ! わしが寒村を人質に取った時の事覚えとるか!? 結局来よらんかったじゃないか! あのいたたまれない空気は忘れもせんぞ!」
「勇者稼業は日々トラブルが舞い込んでくるんだ! 身体が一つしかない以上ブッキングしちまったら優先順位付けるしかないんだよ!」
「ほれ見ろ! お前がそういう人間だからわしの犯行がエスカレーションしたとは思わんのか! 世界が滅亡したのはお前のせいじゃ!」
「世界を滅ぼした元凶に言われることではないわいッ!!」
勇者と魔王は壮絶な罵り合いを続けた。
それは当然のように掴み合いが始まり殴り合いに発展して、最後にはもう、互いに言語の理解すら放棄した動く土饅頭となり果てて勇者と魔王は地面を転げまわった。 それは傍から見ていたら猫の喧嘩がままごとに見えるような、それはそれは大変な大喧嘩だったに違いない。
気付いた時には大の字に寝転がって、勇者は空を見上げていた。
魔王も同じく、精魂尽き果てたといった様子で横に転がっている。
勇者は魔王を見た。
魔王も勇者を見ていた。
もう一度拳を握り込もうとして、力が入らない事に気付く。
「――ハハッ」
どちらが先、とはもう考えなかった。
「イヒッ、イヒヒッ!」
何がおかしいのかもわからないのに、どうしようもない笑いが腹の底から込み上げてきて我慢ができない。
勇者と魔王は、すっかり土まみれになった身体を丸めて、その場で笑い転げた。
「ハハ、ハハハハ、アッハハハハハハハハッ!!」
「イヒヒッ! イヒッ! イヒヒヒヒヒヒッ!!」
「わしらはもっと早くに、こうするべきだったのかもしれんな」
もう、笑うのも苦しくなってただただ喘いでいると、魔王がぽつりとそんな事を言った。
「……そうだな」
深く考えずに同意する。
もう考え事をする体力は残っていない。
ただ、思えば魔王と殺意を伴わないただの喧嘩をしたのは、これが初めてだな、とぼんやりする頭の片隅で考えていた。
疲れ切った顔で、魔王が手を差し出してきた。
身体をごろりと横にして、その手を握り返す。
勇者と魔王の歴史的和解だ。
勇者と魔王はそれから、殺し合った過去を忘れたように長く語り合った。
先に口を滑らせたのは魔王である。
「しかしな。 話していて思ったが、世界が滅びたのも案外悪くなかったのかもしれんな。 お前の話に先ほどから度々出てくる婚約者な、バッテン伯爵と浮気しておったぞ?」
「はあ!?」
すっかり穏やかな心持ちになっていた勇者は、それは聞き捨てならないと飛び起きた。
「やはり気がついていなかったか。 まあ婚約者が自分を放ったらかしにして勇者稼業で世界を飛び回っておるのだ。 寂しくなるのも仕方があるまい」
「お、お前魔王!? デタラメを言うなよ! 世界が滅びたからといって放言にも見過ごせるものとそうでないのがあるぞ!」
魔王は憐れむような目をした。
「あの姫はたまにお前が帰って来ている時以外はな、四六時中伯爵を部屋に招いてそりゃもうすごい事を、」
「やめろ! 聞きたくない! 世界が破滅した後でそんな話を聞かされて俺は誰に怒ればいいんだ!? 第一、どうして魔王のお前が人間のスキャンダルに詳しいんだよ!」
魔王は得意げな顔をして、
「詳しくて当然じゃろ。 わしの仕込みじゃもの」
勇者の表情筋が死んだ。
勇者の様子に気付くこともなく、魔王は手柄話を語るように舌を回す。
「大変じゃったぞ、箱入り娘に火遊びを覚えさせるのはな。 まず火遊びとは何かというところから教えなければならんかった。 姫の目につくところにえっちな本を置いたりしてだな、おしべとめしべをだな。 勇者よ、言ってはなんだがこういう事はまずお前が教えねばならんかったのと違うか?」
放っておけばいつまでも上機嫌に喋り続けそうだった魔王の言葉を遮る。
「……お前のさ、話に出てきた、いなくなった娘さんっていただろ?」
話を遮られた魔王は少し眉をしかめたが、娘と聞いて、
「……我が娘ソレスか? ああ、命よりも大事なわしの一粒種よ。 あれがわしの手元から霞のように消えてしまってからというもの、世界は色を失ってしまった。 あれの声がなくなった魔王城のなんと空虚だったことか。 それを考えれば、やはり世界なんぞ滅ぼしてよかったわい。 あれをわしから奪った世界へのむくいじゃ」
「そう、そのソレスさんのな。 駆け落ちを手伝ったの、俺」
魔王が目を剥いた。
どす黒い喜びが勇者の腹の底に湧き出してくる。 胸の内に収めていた秘密を今、洗いざらい開陳する。
「お相手は秘密で文通をしてた人間。 文通が続く内に、お互い好きになっちゃったんだって。 でも束縛の激しい親は絶対認めてくれないからって、思い余った娘さんは俺にSOS飛ばしたわけ。 いや、俺も一度ちゃんと親に話してみた方が良いとは言ったんだよ? でも話したら絶対お相手の人殺されちゃうって言うじゃない? まあ、それなら仕方ないかって。 一度、俺が戦いすっぽかした事あっただろ? あの時だよ、城から娘さん連れ出したの」
わなわなと震え出した魔王の手を見て、勇者は満面の笑みを作る。
「まあ、安心しろって。 お相手は虫も殺せないような優男だったけど、女を泣かせて平気な奴には見えなかったからさ」
とどめのひと言だった。
「貴様あぁぁッ!!!」
魔王の迸る怒りは光を飲み込む紫電の滾りとなって爆発した。 必殺技の黒雷招来。
しかし今さら必殺技のひとつやふたつでやられるようであれば、長年魔王の宿敵などしてはいない。
素早くマントを翻せば、黒雷はその上を滑りあらぬ方向へと消えた。
魔王が魔力を纏った。
勇者は聖剣を構えた。
間に流れていた雪解けの雰囲気など、遥か遠い過去の出来事だった。
今ここにいるのは、互いにどうしようもない憎悪を向け合う二匹の獣である。
「やはりあり得んのだ、和解など! 勇者よ、貴様のハラワタを食いつくし、せめて我が悲しみを慰めよう!」
「こちらの台詞だ、魔王! 言葉を交わして理解した! やはり貴様は、生かしてはおけない邪悪の権化だ!!」
勇者と魔王。 滅びを迎えた世界に残された二人が今、雌雄を決するべくぶつかり合う。
クライマックスバトルが始まった。
終わり