俺は今契約している学生アパート……の隣の部屋のリビングにいる。
見知らぬ天井の下、スプリングはふわふわと柔らかめのシングルベッドの上だ。
更に四肢まで拘束されている。
手足は手錠……が無かったのか100均で買えるようなビニール紐で二重に縛られ、ベットで寝かされた俺は人様の家のテレビを見るだけのインテリアと化していた。しかし目隠しも付けられてしまっているため音声でのみの視聴である。頭の中は釈然としないままキッチンからほのかに漂うインスタントコーヒーの香りに鼻腔が擽られた。
要約すれば俺は拉致監禁されていた。
マンションの隣人の女子学生に誘拐されていた。
逃げ出すとか考える以前に唐突すぎる展開だったし、その状況の不可解さも相まって色々と理解を拒む。
下手人は同じ学校に通う女子大生だ。まあ学生マンションに住んでるからそれは当然として。
全く動機が分からん。
私怨でも無ければ金でも無さそうだし。
何故こんなことになっているのだろう。
遡ること一時間前、俺の一日の始まりは至って変わりない平凡な日常だった。
まず俺は目を醒ました。大学が始まる2時間前、つまり朝6時半。ここは学生アパートなので当然ながら通っている大学までの距離も近い。電車で一駅、通学所要時間は15分から20分といったところだろうか。
だからそんなに朝早く起きる必要性は皆無なのだが、残念なことに俺は寝起きが弱かった。ちゃんと頭が回るまでに一時間以上は掛かる。寝ぼけ頭で言ったところで一限を寝過ごして単位を落とすのは去年経験済みなので、その対策としてこうして早起きを習慣づけている訳である。
その後、まず冷蔵庫に赴いては立ちながら紙コップで牛乳を飲み、バナナを二本房から千切っては食べた。朝のニュースは男性キャスターが電車で最近多発している痴漢冤罪のコラムを読み上げていた。それを流し見しながら歯磨きをして顔を洗って、服も普段着に着替えて、よーし今日も一日頑張るぞーという元気付けの為にベランダに出て折り畳みチェアに座って日光浴をしながら読書をしていた時のことであった。
不意に手を後手にされて縛られた。凄まじいテクニックだった、きっとプロの強盗か何かだろう。手際良く足まで縛ると俺を俵のように持ち上げてベランダ越しに隣の部屋へと拉致された。その部屋間には壁があったはずだが、緊急時外に逃げるための避難壁は綺麗な長方形にいつの間にか刳り貫かれていて、抵抗する間もなく俺は拉致されてしまった。そのままベッドに丁重にうつ伏せにされると目隠しを取り付けられて放置。今に至る。
俺の人生で最も判断が難しい瞬間だった。
どうしよう。交渉か、イチかバチかで逃げるか。まずは話し合うのか先決かもしれない。逃走は犯人の琴線に触れて、失敗したその後の交渉を不利に運ぶ可能性が高い。
まずは相手が何を考えているかを知るべきだ。犯人とて人間、余程のサイコパスとかでなければ理解がし合える存在のはずだ。
「目的を聞いてもいいですか?」
少しの沈黙を経て、キッチンから向かってくる足音と同時に返答が来た。
「衝動的に……同級生くらいの男の子を初めて見たのでつい……」
サイコパスの類だったかもしれない。
いや、これはどちらかと言えば電波か?
大学生になるまで生きてきて男を見たことがないってどれだけ過保護ならそうなるんだ。
「そもそも男の子が一人暮らしする方が悪くないですか? 私悪くないですよね? 訪問してくれ襲ってくれ縛ってくれと言ってるようなもんじゃないですか」
「はい?」
絶対言わないと思う。
「そちらの責任ですよ! よく今までそんなのほほんと朝日のもとで生きてこれましたね貴方!」
逆切れか!?
しかも何か犯罪者相手に言われるセリフを吐かれてる気がするが、普通に俺は前科0犯だ!
「言わせておけばだな、そんな風に言われる謂れはないと思うが! というか男を見たことがないとか嘘でしょ、俺と甘羽さん結構すれ違って挨拶してただろ! てか学部も同じだろ一応!」
「はい?」
惚けた返事を寄越してきた彼女だが、俺は知っている。1年以上も隣人なのだから。
フルネームで
だが攫われる謂れはないよなあ。
そう思って見ていると(正確には目隠しで封じられた視界越しなので何も見えないが)、息を呑む音が聞こえた。
「学部が一緒……? 挨拶……?」
「覚えてないの!? 昨日だってゴミ出しの時にすれ違ったよな!?」
その言葉は思春期大学生にあまりにも効く。
確かに燃えるゴミを2週間ほど溜めて7袋纏めて捨てに行った不清潔で生活力皆無だった昨日の俺の姿は、甘羽さんから見ても記憶を消し去りたい対象だったかもしれない。
でもだからと言って本気で困惑する演技までしなくていいと思うんですけども!?
「知らないですけど……というか私の大学に男子なんていませんよ?」
「え?」
「というか男性なんてどこにもいませんよ。全員黒部政策保護特区に住んでますし、偶に男の子が生まれてもすぐに役人に回収されちゃいますし」
「どんなディストピアだよ!」
SF……というかもうそういう官能小説とかエロゲーみたいな世界観だ!
あと現代日本にそんな保護特区も存在しないし黒部って何県だったか忘れたわ! 長野とか岐阜とかその辺りか!?
甘羽さんは長い前髪を指で流すと(勿論その光景は見えていないので俺の脳内補完による妄想であるが)、乾いた笑い声を立てた。
「あははー。男の子なんて普段の生活圏内に居ないのでびっくりしてつい攫っちゃいました。驚かせてごめんなさい」
「……仮に一旦甘羽さんの話を受け入れるとして、攫う必要あった?」
「だって野良の男性なんて歩く金塊ですよ。足が付いた金銀財宝ですよ」
なるほど、俺の事を守ろうとして……。だとしたら俺は甘羽さんのことを強く責めにくい。
「闇市で換金すれば一生安泰なので誰だって近くに居たら狙います」
「なるほど。突然だけど催したからトイレに案内してほしいな」
さてどうやって逃げようか。何かおかしなことをされる前にトイレの出窓からでも何でも脱出を図らねば。
「トイレの場所なら同じマンションなんだから分かりますよね」
「この目隠しを見て言ってるの?」
「ああそれは失礼。あ、でも逃げられたら困るので私も後ろから見学してますね」
「それは辞めてもらえませんか?」
「男性の排尿行為を見るのは初めてなんです私。興味があるのですみませんがしげしげと観察しますね」
「本当に辞めてもらえませんかね!? あと俺のトイレを具体的な単語にするのも辞めて!?」
何なんだこの子はもう!?
しかも羞恥心も無く研究対象を観察するみたく淡々と呟く感じ、本当に付いてきそうで怖い。俺が言うのもなんだけど女子力は相当終わっているようだ。
「だって男性の身体って知らないから後学の参考にしたくて」
「嫌だよ! ああもう、話したことなかったけど甘羽さんそんな人だったんだな!」
「……? それよりトイレは大丈夫ですか? 良ければ手繋いでエスコートしましょうか?」
「もう大丈夫になった! 尊厳破壊の危機にそれどころじゃなくなったから!」
「そうですか……」
残念そうな響きを伴わせて甘羽さんは言った。俺は漸く理解する。これは未知との遭遇だ。俺が今までの人生で出くわしたことの無いタイプの女だ。
まあ俺の中でどこのカテゴリに甘羽さんをカテゴライズするかはさて置こう。
結局、重要なのは妄想の話でもなければ甘羽さんの性格でもない。
「───で、本当のとこどうなんだ?」
「どうとは?」
「俺を拉致監禁する理由だよ。冗談はともかく俺も今日は一限があるんだ、用件があるならさっさと済ませてほしい」
俺はもぞもぞとミノムシみたいに起き上がり、向きあって甘羽さんと目を合わせる(つもりである。何故なら俺には目隠しが以下略)。
甘羽さんは少し間を置いた。変わらず俺の視界は塞がれたままだが、不思議と戸惑ったような雰囲気を感じる。
そして、20秒ほど経って少し乱れた声音で甘羽さんは言った。
「私、本当のことしか言ってませんよ?」
「………………はあ?」
「何だかまるで違う世界の話みたいに聞こえますね」
しみじみ呟く甘羽さんに俺は唐突にパチリと閃きが脳裏で瞬き、愕然とした気持ちになる。
───まさかそんな訳。
いや馬鹿げた話だ。有り得ない。この世界はネットに転がっている同人小説とかやっすいエロゲじゃないんだぞ。
そうは考えつつも、抑えられぬ予感から無意識に俺の口は動いていた。
「一応念のため、とんでもなく馬鹿馬鹿しい質問をするけどさ、俺の苗字分かる?」
自分を人差し指で指してみるが、恐れからプルプル震えてしまう。
何となく、もう俺は察していた。
昨日までは一年以上俺の隣人だった甘羽さんだった。
しかし多分、今の甘羽さんは違う。別人だ。
「知りませんよ! 男性の方の名前なんて聞いたこともないですし、今日初対面で何を言ってるんですか!」
「そんなに男って珍しい?」
「だから何でそんな常識が欠如してるんですか! 男性なんてこの世に10万人といないって習わなかったんですか! 良く真っ当にこれまで生きて来れましたね!」
やはり間違いない。
この甘羽さんは俺の知っている甘羽さんではない。
そして───この甘羽さんはきっと男女比率が著しく偏ったヘンテコな世界から来たのだと。
短編を思いついたので書いたやつです。