Asyl perspective
廊下へ出ると、空気がひんやりしていた。
窓の外は、もうかなり白み始めている。
夜明け前。
吸血鬼としての眠気は、さっきよりも濃くなっていた。
「お嬢様、寝室までお送りします」
「ありがとうございます。正直、今なら廊下でも寝られそうです」
「寝ないでください」
「はい。寝室までは頑張ります」
「そこは頑張るところなのですか……」
ヴァルターと並んで廊下を歩く。
胸の中には、さっき聞いた話がいくつも残っている。
人間。
妖怪。
紅魔館。
ワルプルギス。
ローマ。
契約。
畏れ。
信仰。
吸血鬼。
流水。
覚えることが多すぎる。
でも、全部を今すぐ理解しなくてもいい。
私は記憶喪失の吸血鬼。
この世界の初心者。
初心者は初心者らしく、まずはチュートリアルから始めればいい。
……そのチュートリアルで溺れかけるのは、難易度が高すぎる気もするけれど。
2階の奥。
私の寝室の前で、ヴァルターが立ち止まった。
「こちらがお嬢様のお部屋です。私は隣におりますので、何かあればすぐに呼んでください」
「はい。ヴァルターも、何かあれば来てくださいね」
「私が、ですか?」
「もちろんです。怖い夢を見た時とか、寂しくなった時とか、小悪魔さんが夢に出てきた時とか」
「最後のは本当にありそうなのでやめてください」
「その時は私が撃退します」
「夢の中までですか?」
「庇護範囲内です」
「広いですね……」
ヴァルターが小さく笑った。
その笑顔を見て、少し安心する。
「おやすみなさい、ヴァルター」
「おやすみなさいませ、アズールお嬢様」
ヴァルターは丁寧に頭を下げ、隣の部屋へ向かった。
扉が静かに閉まる音を聞いてから、私は自分の寝室へ入る。
寝室は、広かった。
天蓋付きのベッド。
月光を模した淡い魔法灯。
小さな本棚。
星の意匠の飾り。
ただ、この部屋には窓がなかった。
外の景色は見えない。
その代わり、壁や天井には夜空を思わせる淡い装飾が施されている。
月光館は吸血鬼の館。
夜を愛する者のための住まいであり、太陽から身を守るための場所でもあるのだろう。
私はベッドに腰を下ろす。
ふかり、と身体が沈んだ。
「……すごい」
寝心地が良すぎる。
このまま沈んだら、今度はお湯ではなく布団に溺れそうだ。
それなら歓迎です。
私はそのまま、ゆっくりと横になった。
まぶたが重い。
けれど、眠りはすぐには訪れなかった。
今日起きたことが、次々と頭に浮かんでくる。
森で目覚めたこと。
自分が吸血鬼らしいこと。
ヴァルターと出会ったこと。
名前を与えたこと。
グニールさんと紅魔館。
月光館。
小悪魔さん。
魔法。
お風呂。
そして、流水に沈んだこと。
「……お風呂に負けた吸血鬼」
ぽつりと呟いて、少しだけ笑ってしまった。
笑いごとではない。
ないのだけれど。
こうして笑えるのは、ヴァルターが助けてくれたからだ。
隣の部屋には、そのヴァルターがいる。
そう思うだけで、胸の奥が少し温かくなった。
新しい家。
新しい従者。
新しい先生。
新しい世界。
新しい弱点。
……最後のは、できれば新発見したくなかった。
不安はある。
分からないことも山ほどある。
でも、少し楽しみでもある。
この世界で私は、何を知って、何を選んで、どう生きていくのだろう。
眠る前に、少しだけ整理しよう。
今日、何が起きたのか。
私は何を知っていて、何を知らないのか。
そして、これから何を考えなければならないのか。
窓のない寝室の天井で、星を模した魔法灯が小さく瞬いている。
私はその光をぼんやりと見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。
……さて。
まずは、何から整理しましょうか。
私は誰なのか。
これについては、正直お手上げ状態だ。
前世の記憶はある。
日本にいたこと。
魔法やオカルトを研究していたこと。
幻想郷を追い求めていたこと。
けれど、肝心の自分自身については、なぜかぽっかり抜け落ちている。
名前も。
顔も。
家族も。
どんな生活をしていたのかも。
思い出そうとすると、白い霧の中へ手を突っ込んでいるような感覚になる。
何かがある気はする。
でも、指先には何も触れない。
……まあ、分からないものは仕方ない。
焦ったところで、記憶が突然ぽんと戻ってくるわけでもないのだ。
それに私は、どうやら吸血鬼らしい。
吸血鬼。
不老不死。
長命種。
言葉だけ並べると、とんでもなく物騒で、とんでもなく便利だ。
日光には弱い。
流水にも弱い。
鏡には映らない。
血の問題も、たぶんそのうち向き合わなければならない。
弱点は多い。
多いのだけれど。
時間だけは、たぶんある。
なら、自分のことはおいおい思い出していけばいい。
今日分からないなら、明日考えればいい。
明日分からないなら、来週考えればいい。
来週でも駄目なら、来年。
来年でも駄目なら、100年後。
吸血鬼の時間感覚として、それが正しいのかは知らない。
けれど、今の私は、それくらい図太く考えないとやっていけない気がした。
次に、ここはどこなのか。
最初は本当に分からなかった。
知らない森。
知らない空。
知らない身体。
知らない世界。
それでも、ここがただの幻ではないことだけは、もう分かっている。
ヴァルターへ名を与えた時の、あの激痛。
あれは作り物ではなかった。
骨の奥にまで焼きつくような痛みが、この世界は現実だと私に叩き込んできた。
仮想空間、という可能性も一応考えた。
前世では、一般人が月面旅行ツアーに行けるくらいには技術が進んでいた。
なら、これほど精巧な仮想現実が存在していてもおかしくない。
……と、思ったのだけれど。
多分、それも違う。
あの痛みは、娯楽で許される範囲を完全に超えていた。
それに、この世界には妙な遅延も、感覚のズレもない。
匂いがある。
温度がある。
重さがある。
痛みがある。
そして何より、ヴァルターがいる。
あの子の耳がぴこぴこ動くのも。
尻尾が感情に合わせて揺れるのも。
私を見上げる赤い瞳も。
全部プログラムになんて感じない、本物だと思える。
だから結論。
ここは現実。
たぶん、異世界に近い場所へ来てしまって何らかの事故で記憶を失ってしまった……多分そんな感じだ。
……それにここは、ただの異世界ではない。
私が前世で追い求めていた【幻想郷】へ、どこかで繋がっている世界だ。
スカーレット伯爵。
紅魔館。
程度の能力。
ここまで揃っていて、無関係です、はさすがに無理がある。
もちろん、私の知っている幻想郷に関する情報と完全に同じとは限らない。
むしろ違う部分の方が多いかもしれない。
なにせ、今は私の知る幻想郷より、ずっとずっと昔の時代だ。
ローマという名前がまだ現実の重みを持っていて、人間の王国や部族や教会勢力が入り混じっている。
妖怪も、悪魔も、吸血鬼も、オカルトな存在が人間社会のすぐ隣にいる。
おそらく、時代は古代の終わりから中世へ向かう頃。
前世の歴史で言えば、西暦400年か、500年前後か。
正確なところは分からない。
けれど、1つだけ分かることがある。
私の知っている幻想郷は、まだ遥か未来だ。
レミリア・スカーレット。
フランドール・スカーレット。
紅魔館。
そして、紅い霧の異変。
そのすべては、今の私から見れば、気が遠くなるほど先にある。
100年や200年では足りない。
たぶん、1000年以上。
普通なら絶望するところだ。
遠すぎる。
長すぎる。
待てるわけがない。
でも。
私は吸血鬼だ。
不老不死かもしれない存在だ。
なら、話は変わる。
1000年先に夢があるなら、1000年待てばいい。
……。
いや、冷静に考えると、だいぶおかしなことを言っている。
1000年待てばいい、とは。
前世の私が聞いたら、たぶん「発想が長命種」と真顔でツッコミをいれるだろう。
でも、今の私はその長命種である吸血鬼なのだ。
仕方ない。
吸血鬼なら長命種らしく、時間を贅沢に使ってみよう。
当面は、少し図々しいかもしれないけれど、グニールさんのお世話になる。
そして月光館でほのぼのと暮らして。
小悪魔さんに魔法を学んで。
たくさんの本を読んで。
この世界のことをもっと知る。
ヴァルターと一緒にお茶を飲んだりして。
お風呂には、毎日入って……でも、流水には気をつける。
これは重要だ。
お風呂で死にかける吸血鬼とか、あまりにも情けない。
そして、のんびり待つ。
記憶が戻ることを。
いつか紅魔館が幻想郷へ辿り着く日を。
その日まで、ほのぼのスローライフである。
記憶喪失吸血鬼の、魔法研究つきスローライフ。
響きだけなら、結構楽しそうだ。
実際は日光で灰になりかけたり、流水で沈みかけたり、謎の組織に狙われる可能性があったりするので、難易度は高めだけれど。
まあ、そこはそれ。
人生、いや吸血鬼生、楽しんだ者勝ちである。
そして、いつか幻想郷へ行く。
前世の私が憧れた場所へ。
幻想郷の可愛い子たちを、全員抱きしめてなでなでして甘やかす。
それが、私の今生の大きな目標。
……大丈夫。
目標がないよりは、あった方が精神衛生上いい。
たとえそれが少し欲望に寄っていたとしても、ないよりはきっとましだ。
たぶん。
前世の自分の記憶を取り戻すのはついでくらいに考えよう。
私は誰だったのか。
どうして幻想を追い求めていたのか。
どうしてそこまで幻想郷に惹かれていたのか。
それも、いつか。
今すぐでなくていい。
私は吸血鬼だ。
時間はある。
記憶も。
夢も。
未来も。
焦らず、のんびり、拾い集めていけばいい。
「ふぁ」
……そう結論づけたところで、眠気が一気に押し寄せてきた。
今日1日、あまりにも色々ありすぎた。
森で目覚めて。
ヴァルターと出会って。
紅魔館へ行って。
グニールさんと会って。
月光館をもらって。
小悪魔さんに会って。
お風呂で沈みかけた。
……最後のだけ、できればなかったことにしたい。
でも、それも含めて私の現実なのだろう。
私はゆっくりと瞼を閉じた。
身体が、布団に沈んでいく。
意識が、夜の底へ落ちていく。
深く。
…………深く。
……………………深く。
……。
——その時だった。
『――――』
誰かの声が、聞こえた気がした。
とても近く。
枕元で囁かれたような、静かな声。
……誰?
ヴァルターが部屋に入ってきたのかな。
そう思ったけれど、違う気がした。
気配だけが、そっと伝わってくる。
影のような。
霧のような。
それでいて、確かにそこに在るもの。
私は目を開けようとした。
けれど、瞼はもう鉛のように重くて、少しも動かない。
指先ひとつ、持ち上げられない。
声を出そうとしても、喉の奥で言葉が溶けて消えていく。
誰……?
問いかけることさえできないまま、私は眠りの底へ沈んでいく。
不思議と、怖くはなかった。
その気配は何も語らず、ただそこに在る。
なのに、その静けさが妙に心地よかった。
まるで、ずっと昔から知っているような。
何度も、こんなふうに見守られていたことがあるような。
懐かしい。
けれど、胸の奥が少しだけ痛い。
どうしてだろう。
私は、この気配を知っているのだろうか。
それとも。
この気配が、私を知っているのだろうか。
……。
…………。
『おやすみなさい、良い夢を』
最後に、そんな声が聞こえた。
優しくて。
遠くて。
少しだけ、悲しそうな声だった。
意識の糸が、ふわりとほどける。
私はそのまま、深い深い眠りの谷へ落ちていった。
月光館の静寂の中。
眠りについたアズールの枕元に、一筋の亀裂が生まれた。
何もない空間が、音もなく裂ける。
その隙間の奥には、無数の目があった。
まばたきもせず。
声もなく。
ただ、眠る少女をじっと見つめている。
やがて、その亀裂から、ひとりの女性が姿を現した。
金の髪。
薄紫のドレス。
赤いリボンのついた帽子。
手には、閉じた扇子。
夜の闇に浮かび上がるその姿は、まるで古い絵画から抜け出してきた貴婦人のように優雅だった。
女性は、眠るアズールを見下ろした。
静かに。
長い時間をかけるように。
その表情には、微笑みがあった。
けれど、それは楽しげなものではない。
懐かしむような。
慈しむような。
そして、ほんの少しだけ痛みを堪えるような。
そんな微笑みだった。
女性は扇子で口元を隠し、眠るアズールへそっと囁く。
「……やっと、見つけた」
その声は、あまりにも小さかった。
眠るアズールの意識には、もう届かない。
それでも、言葉だけは確かに部屋の中へ落ちた。
女性は、アズールの頬にかかった髪へ指を伸ばす。
けれど、触れる直前で、その手は止まった。
ほんのわずかに、指先が震える。
触れてしまえば、何かが壊れてしまう。
あるいは、まだ触れるべきではない。
そんな迷いを抱えたまま、女性は静かに目を伏せた。
「今はまだ、眠っていなさい」
それは命令ではなかった。
祈りに近い声だった。
「おやすみなさい。良い夢を」
次の瞬間、亀裂は静かに閉じていった。
無数の目も。
金髪の女性の姿も。
そこにあったはずの気配も。
すべてが夜の隙間へ溶けるように消えていく。
まるで、何事もなかったかのように。
月光館には、再び静寂が戻った。
部屋の空気は、先ほどまでと変わらず穏やかだった。
けれど。
眠るアズールの表情だけが、ほんの少し変わっていた。
安らかではある。
けれど、完全にはほどけていない。
閉じた瞼の奥で、忘れてしまった何かを探しているように。
穏やかな眠りの中に、かすかな悲しみが滲んでいる。
その頬を、月光に似た魔法灯の淡い光が静かに照らしていた。
The beginning of the story of reunion