ほんの数ミリ普通だったら   作:ぞんぞりもす

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夜の底は、いまだに暗く

 イチカが目を覚ますと、カアナの姿はすでになかった。家中を隅々まで探して、何度も同じ部屋を見た。

 生活の痕跡は、温度は、昨日から一直線に続いている。しかしカアナの姿だけが忽然と消えた。

 

 ライフルケースとリュックサックがなくなっていて、弾薬箱の中身がごっそり減っていて。彼女は何も言わずに出ていったのだと、確たる証拠は見つかっていないのに、虫の知らせが胸をざわつかせた。

 

 玄関のスニーカーを確認して、とうとう悟る。

 呆然と立ち尽くした。我に返ってシューズケースを開けても、カアナの普段遣いのスニーカーはない。

 フローリングにへたりこむと、後ろからミズタキの声がした。

 

「……どうしたんすか、ミズタキ」

 

 ミズタキはイチカの足に念入りに体をこすりつけたあと、満月のような瞳をイチカに向けた。

 強烈な懐かしさが目頭に上りつめる。呼吸が塩辛かった。

 

 朝起きたら姿が見えなかっただけ。そんなたった一つの事実には確信めいたものが宿っていて。

 

 カアナの心はもうずっと昔に置き去りにされているのかもしれなかった。

 

 一人のリビングは広かった。内装は何も変わっていないのに、心だけが引っ越しをしたみたいで、すべてが空っぽに見えた。カアナはたった一人で、この家に何年もいた。

 拳が震えた。でも、どうにもならない。

 

 

 結論の先延ばしにしかならないのに、イチカは一縷の望みで学校に行った。

 カアナはすでに退学となっていたからトリニティにはいない。しかし背の低い正義実現委員会を見るとどうしても目で追ってしまう。現実に引き戻されるたびにため息をついた。

 

 澄み深まった初夏の空に、太陽は輝く。

 何かの間違いだと、何をどう直せば正解になるか分からないまま、イチカは闇雲に願う。

 そよ風が吹いた。風に乗ってどこかから声が聞こえてきてほしかった。耳に届くのは別種の明るさを放つきらきらした女子高生の声ばかりだ。

 

 

 家に帰ってもカアナの姿はなくて打ちのめされた。自分がカアナの家を『家』と思っていることに気がつき、イチカは再び打ちのめされる。

 

 足もとでミズタキが鳴いた。おやつの時間だったろうか。

 

 正実の予定がない日は早めに帰って、カアナと話しながらいろんなことができた。それから献立を話したり買ってくればいい食材を話したりして、家を出た。

 今日は一向にやる気が出ない。カアナとともに背骨ごと引き抜かれたような気がした。

 

「待つっすよ。今持ってきますから」

 

 ミズタキが執拗に絡んでくる様子に根負けして、イチカは力なく笑う。

 

「変わらないっすね、ミズタキは」

 

 手に持った袋が左右に不規則に振れる。ちっとも力は湧いてこないけれど、日常が続くことを叩きつけられている気分になる。

 ミズタキは袋の底まで食べ尽くそうと必死になっていた。やがて満足だと言いたげに鳴いたあと、テレビ台にひょいと上る。端正な顔がイチカを振り返った。

 

 テレビ台には四つ(・・)の人形が置かれていた。

 

 精巧な人形だけ土の汚れがあって、ほつれが目立っている。何が起きたのかイチカにはすぐに分かった。

 

「だから、お腹が空いてたんすか? 遠出したから?」

 

 傷つけられた心がほんの少しだけ慰められた気がした。ミズタキはカアナがいつも座るソファに移動して丸くなった。

 

 

 夜にミカからいきなり通話がかかってきた。ミカはイチカの返事を聞いた瞬間に一気に声音を険しくした。

 

『なに? イチカちゃん大丈夫?』

「……分かるもんなんすね」

『そりゃ分かるって! そんな、今お葬式の会場にいます☆ なんて声で出られたら』

 

 喉の奥で唸るミカは、沈黙が訪れないように気を遣っているようだった。意味のない音だろうと、とにかく耳から刺激が入れば思考が中断されると思っているのかもしれない。

 

『まぁ、大変なのは分かるけどさ。今日はもう寝たら?』

 

 心配そうな声音がぱっと明るくなる。

 

『とりあえず行くからさ、明日の朝にはそっち着けるんじゃないかな? それまで通話つけっぱなしでもいいから、ほら、寝たねた! 朝方駅まで迎えに来てほしいし! 遅れちゃ駄目だよ?』

 

 人の心なんてなんとも思ってなさそうな明るい口調だった。でも太陽みたいに無責任な明るさじゃなくて、地に足のついたヒマワリみたいな明るさで。

 

『駅チカのカフェとか調べといてよ☆ ほら、気に入ったら通うかもしれないし? できるだけ評判いいところ探してね! あとおいしい紅茶も飲みたい! こっちそういうの全然ダメでさ、もうほんとちょーサイアク。おいしくないの。あとあと、カフェなら店員さんが紅茶に詳しくて――』

「ミカ様」

『ん? 声出す元気出た?』

「……元気はまだ、全然出てないっすけど」

『じゃあダメじゃん☆ もうちょっと私の明るくなれる魔法の話聞く?』

「あ、元気出たんでいいっす」

『ちょっと!?』

 

 悲しいときでも笑えてしまった。刺されるような痛みが心臓に走った。

 カアナのいなくなった場所で笑うことは、カアナがいなくなったことを笑うみたいで居心地が悪いけれど。いつかカアナと会えたときに笑い方を忘れていたら困るから、笑おう。イチカは自分の笑みをそう言い訳した。

 

「おやすみなさい、ミカ様」

『うん、おやすみイチカちゃん。こっちも今から新幹線』

「……やっぱり走ったほうが早いんじゃないすかね?」

 

 返事もなくぶつ切りにされた。それから少し経ったころ、何時ごろつけそうか送られてくる。

 

 イチカはリビングに立ちつくした。どこで寝るべきか迷って、階段に足を向ける。ソファからミズタキが飛び降りた。

 

 カアナがいない部分は誰が、何が埋めてくれるのだろう。

 再び出会えたとき、その場所にはすでに他の誰かがいるのかもしれないというのに、どうして出ていけたのだろう。

 それでも、カアナを愛していると、愛していたと言えるだろうか。

 

 イチカは自信がなかった。

 何も言わずに出ていったのだから、何も言わずに戻ってきて、そしてカアナと両親のようになるのだろうか。そんなこと考えたくもなかった。

 

 ルイによって掃除された清潔な廊下に、静寂と同化するような足音がまざる。廊下の暗闇と寝室の暗闇が繋がった。

 着替えもせずに制服のままベッドに倒れこんだ。

 

 体は勝手に明日に向かってしまう。どうしようもないほどの期待で膨らむ(・・・・・・)胸が、明日へ向かってしまう。何度赤く染め上げられようと、宝箱から取り出すことはないだろう。たとえ鍵すらなくしても持ち歩くのだろう。

 自分にこんなにうまくできないことがあるなんて、知らなかった。

 

 これから襲い来る日常が、怖くて怖くて仕方がなかった。

 

 

 ブラックマーケットの周辺をほっつき歩いていると、サオリはすぐさま見つかった。

 彼女に頼みこんで一緒の生活をするようになってから二ヶ月が経った。

 

「アリウス自治区の近くを通ったんだが、帰りに回収してきたものがある」

 

 サオリはぱんぱんに膨らんだトートバッグやリュックをどさっとテーブルに置いた。

 

「なんです、これ。また変なものじゃないでしょうね」

「見るといい。そういったものではない」

 

 年上だと思っていたサオリは、私と同じ年だった。そして社会生活を営む能力が思っているより終わっていた。すべてに真剣なのは彼女の美点だけれど、その真剣さのまますっとぼけたことを抜かしやがるので目が離せない。

 

 色褪せたエプロンをつけるサオリを尻目に、私は中身を検分する。

 サオリは冷蔵庫を開けてがさごそやったあと狭いキッチンの前に立つ。キッチン周りは彼女が来たときからすでに薄汚れていたらしい。

 

「ぬいぐるみ、絵本、ペンケース、図鑑、化粧品……統一性がないですね。アリウス自治区から使えそうなものを引っ張ってきた感じですか?」

「いや。それは姫崎夫妻がお前のためにと取っておいたものだ。おおかた誕生日プレゼントだろう。私はもらったことがないので予想だが」

「へぇ……」

 

 彼女と過ごしているうちは忘れることのできた愛が、唐突に降ってきた。もはや私は何も感じることができなくなっていて。器が完成したのか疲れているだけなのか麻痺しているのか分からない。

 

 当時は嬉しさと痛みを覚えることができたイチカからの贈り物を今もらったら、どんな気分になるだろう。何も感じなくなっているかもしてなくて、私は急に立っていられなくなった。

 椅子に座っても足裏とお尻から暗闇が這い上がってくる心地がする。冷房の効きが悪いこの部屋は妙に蒸し暑く、床や座面に冷たさがない。

 

「これ、いりません。売ってください」

「……いいのか?」

 

 包丁を止めてサオリが私を振り返る。包丁の音が聞こえ始めたタイミングに私は気がつかなかったらしい。

 

「それはお前の親の――」

「構いません」

 

 痛くないわけがない。受け取ることに対して何も思わなくても、捨てることはちゃんとまだ痛かった。

 でもその痛みは、愛されている実感へのものじゃなくて、愛を捨てていることへの痛みであってほしい。そうであれば、私は自分のことをほんの少しだけでも肯定できる。

 

 取り出したものすべてを、そっと、元の場所に戻した。

 

「家計の足しになればいいです。毎日かつかつじゃないですか」

「銀行口座というものを作れれば少しは楽になると思うんだがな」

「まぁブラックマーケットの中でも比較的まともな企業は振り込みですからね。あるとないとじゃ受けられる仕事の幅が段違いでしょうけど。私たち作れないじゃないですか」

 

 片や壊滅した学校の生徒で、片や退学した生徒だ。社会からの信用など皆無だろう。

 

「もう一回行ってみてはどうだろう」

「そんな三回目はオッケーみたいなシステムじゃないんですよ審査って。ていうか五回も六回も行ってるし。そのうち出禁になります」

「黒くて目が大きいやつか」

「それはデメキンでしょうが」

 

 サオリはお玉で鍋をかきまぜながらくつくつ笑った。ポニーテールが穏やかに揺れた。それがミズタキの尻尾みたいに見えて、懐かしさがこみ上げる。

 

 このボロアパートは薄汚れていて色褪せていて最近では雨漏りとかもひどくなったけれど、人生の倦怠感みたいなものからは遠く離れていた。

 私の家はルイのおかげで常にぴかぴかだった。シーリングライトも窓から差す日光も穏やかで。でも私はその穏やかにさえ耐えられなかった。

 

 懐かしさに口もとが弧を描く。みんなが元気にやっていてくれたら――と考えて続きは封じる。私が思っていいことじゃない。

 

 

 私が愛を受け取りたいと思う人は、たった一人だ。その一人を傷つけて、今日も私は生きている。

 本当は、一生癒えることのない傷になれたらよかったのかもしれない。忘れられない傷となって、あんな女二度と相手にしないなんて思ってもらえたら、イチカはこれ以上傷つかないで済むだろう。

 

 それでもいい。

 でも、イチカは優しい。

 じゃあ、双方で愛を向け合えるほうがきっといい。

 

 私の心より他人の心が壊れたほうがいいなんて、とっくの昔に決まっていた覚悟と同じ温度になれなくてごめんなさい。温度差で火傷してしまったんです。いつかあなたの温度と量に耐えられるようになるまで、花嫁修業みたいなことをして生きるんだ。

 もう少しだけ待っていてください。

 

 厚手のミトンが鍋を運んでくる。立ち上る湯気が天井にぶつかり、行き場を失って左右に広がる。そのうち部屋がかぐわしい霧に包まれてしまいそうだ。

 

「今度は火傷に注意してくれ」

「あなたがめちゃくちゃ食べるからでしょうが! 私だってお腹が空くんですよ!」

 

 今は必死に生きてみるよ。

 

 

 トリニティ自治区を歩いているときに見かけたイチカは少し痩せていた。

 彼女はスマホをスクロールして、ときおり空を見上げてため息をついて。雨宿りをしているようだった。

 

 足を止めて露先と傘地で顔を隠しながら覗き見てしまう。

 

 私とサオリも傘を持っていなくて、任務が終わったときに気のいいクライアントからお褒めの言葉と一緒にいただいたのだった。

 迷ったすえに、傘からはみ出たスニーカーは雨に打たれた。

 

「よかったら使ってください」

 

 イチカは目を見開いた。彼女の手をむりやり開かせて、傘を押しつけるみたいに握らせた。……あぁ、やっぱり昔より骨ばってる。

 

 何かつけ足そうとしたけれど、声が情けなく震えてしまいそうで飲みこんだ。雨がビルの屋上を打って、木の葉を濡らして、傘に跳ね返って、アスファルトに落ちる。

 

 このまま秒針の動かない世界にいることもできたと思う。

 しかし私はそれを選ばずに身を翻した。濡れた踵から水が飛んだ。もしかしたらイチカを濡らしたかもしれない。

 

「待ってる……す、から」

 

 声は鮮明に聞こえた。雨と人に飲まれてしまうはずの声だった。

 私は振り返ってほほえんだ。

 

「ありがとう」よりも「ごめんなさい」が先に浮かんだ。だから何も言えなくて。

 

 仰げば雲が広がっている。私はそのまま雑踏にまみれた。

 道路脇のビラは四すみの一箇所が破けていたり剥がれていたりした。薄汚れた常夜灯が私を待っている。

 

 

 傘を握らせたカアナは、近くだけれど手の届かない場所にいた。

 歩いていてぶつかった人がその後もやけにはっきり見えるみたいに、カアナの姿は際立っていた。

 

 イチカは呆然と、歩き去る様子を眺める。ふとサオリが目の前に現れた。彼女はカアナを隠すようにして立つ。

 

「連絡先を、そういえば交換していなかったと思ってな」

 

 サオリの口調はわざとらしかった。笑顔も作り笑顔みたいに不器用だった。でも下手くそな優しさで絆を守ろうとしているのが伝わってくる。

 

 ひび割れたスマホが差し出された。イチカはフィルムに気泡すら入っていないスマホを取り出す。

 電源に触れた途端に映し出された安らかな寝顔を見て、サオリが軽く笑った。

 

「私の部下にも似たようなやつがいてな。足枷をつけることでどうにか今も生きている」

「……なん、すか」

 

 イチカの声は掠れていた。ミカやコハルといるときは話の流れで口を開くことが多いけれど、それ以外のときはめっきり口を開かなくなっていた。

 だからカアナに声が届いたのか怪しい。あれでよかったのだと今は自分を納得させた。

 

 サオリは手早くモモトークを交換した。

 

「心配だろうが、今は一人でいる時間が必要なんじゃないか? カアナがお前たちのことを大切に思っているのは、一緒に暮らしていればとても伝わってくる。きっとよくなるだろう」

 

 それだけを言い残して、サオリはカアナと同じ方向に向かう。サオリの傘はすぐに人に飲まれてしまった。

 

 何を見るともなく歩けずにいたイチカに、ルイから連絡が入る。料理を一緒に作る約束をしていた。

 重い体を引きずるみたいに動かすと、視界の下にミズタキのおやつが見えた。スマホをしまって買い物袋からおやつを取り出す。

 

「……これ、好きなんすよね」

 

 カアナがよく言っていた。視界が滲んで、文字が読めない。

 

 

 長い間雨宿りをしてすっかり乾いてしまったローファーの底が濡れた。低い音がたくさんの足音に飲まれた。傘が雨を弾く音は万人となんら変わりなくて。いつかとなりを歩いてくれそうな人を思って、イチカはちょっぴり傘を傾ける。はみ出した翼が濡れた。

 やがて濡れ重くなった翼から雫が落ちる。ぴちゃんと跳ねて、後ろの人にすぐに踏まれた。

 

 東の空に夜が昇る。星がきらめく。夜は晴れても、朝方にはまた雨が降るだろう。

 

 イチカは四人を模したてるてる坊主を作ることにした。人波を逆行して、百貨店に向かった。







 最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
 またどこかで。
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