配偶者 なし
子供 なし
生活能力 なし
その拳に敵う者 なし
狭い葬儀場に、異様な女が居た。
身長は190を遥かに超え、喪服に包まれた身体は巌のそれである。腕の太さは一般的な女性の腰回り近くあり、眼光鋭く遺影を見つめている。
「ではお焼香をお願いします」その言葉にがたんと椅子を揺らし、立ち上がった彼女に向けられるは畏怖の目。常識外の存在を恐れる目。
「だ……誰あの変な人……」
「亡くなった方の娘さんらしいわよ」
「ええっ……」
彼女は無骨な指先で焼香を抓み、自らの母へと祈りを捧げた。
田中美緒48歳、闘い続けること30年。
その間に兄弟は去り、両親は死んだ。
──1983年、美緒は普通の少女だった。
美緒が自室に引きこもるようになった理由はつまらない事だった。彼女が15歳の時分、受験に失敗した高校に、妹が合格した。それだけである。しかしながら、個人の幸福が数多であるように、個人の不幸もまた数多であった。
母親は美緒に甘く、引きこもるようになった娘を心配し、健気に世話をした。美緒もまたそれに甘え、母親に生活の全てを委ねていた。
このまま行けば美緒は、両親が死ぬまでを自室にて過ごし、悍ましい中年引きこもりとなっていただろう。
しかし、転機が訪れる。
「触らないで、触らないで……! 私はここで生きていくのよ……!」
美緒を部屋から引っ張り出したのは彼女の父であった。何か嫌な予感でも感じ取ったのか、このままずるずると引きこもらせるだけでは碌な未来が待ち受けていないと思い、美緒を引きこもり支援を謳う武道場へと連れ込んだのである。
しかしながら、時代は昭和58年。そんな時代に引きこもり支援などまるで整備されず、事実その道場も、月謝を集めるコマーシャルに過ぎなかった。
「お母さあああん! 美緒生きていけないよおおお!」
美緒に待ち受けていたのは虐待そのものの修練である。いや、殆ど憂さ晴らしの玩具と言って良い。無理矢理纏わされた胴着に、殴打を受ける日々。実践稽古と嘯くいじめが、彼女を絶えず苛んだ。
──だが、それは一月も続かなかった。
「何をどうすればいいの?? 足ってどう動かすの? 相手に拳を当てるにはどうすればいいの?」
日々繰り返される兄弟子達からの殴打から、美緒は自然と学んでいった。美緒にはそれだけの"目"があった。
「お母さあああん! 美緒生きていけるよおおお!」
美緒18歳
体力 なし
根性 なし
才能 あり
1990年 闘い3年目
美緒20歳、己の人生を闘争の中に見出す。
この時分になれば、美緒の名は知れ渡る物となっていた。格闘技を……闘いを始めて三年で、恐るべき境地に至った化け物がいると。
しかし、美緒は決して表舞台に立つことがなかった。他流試合や野良試合に研鑽を積むことはあるものの、テレビショーや人目が集まる場には出ない。
美緒は孤高に鍛えていった。ただひたすらに武力を求めていた。
「他の楽しみいらない! 他流派に喧嘩を買っておいて!」
……それはいっそ、武という領域に引きこもるようですらあった。
美緒20歳
慢心 なし
自惚れ なし
自尊心 なし
1999年 闘い12年目
美緒30歳、完全に羽化する。
決して表に出ない怪物の名は、武術家達の間で伝説となっていた。
最早、師と仰ぐ必要もなくなった道場主を振り切り、深山幽谷にて武の極みを求める日々。ひたすらに孤独に身体を苛み続ける。
しかしながら、美緒は苦痛に耐え続けているわけではなかった。渓谷を眺め、大木に拳を打ち付けながら、美緒は一人呟く。
「外には気持ち悪くて煩わしいことばかりある……。ここにいた方がラク……」
深山の清水にて喉を潤し、打ち倒した獣の血肉を食らいながら、美緒は己が肉体を進化させていく。
時折、どこで噂を聞きつけたのか、勇猛な武術家が美緒に試合を望むことがある。
だが、俗世に生きる者の武など、美緒の武にはまるで敵わぬ。血肉どころか、渇きを癒やす水にすらならぬ。
孤独に、ひたすらに孤独に、美緒は武を極めていく。
美緒30歳
敗北 なし
死角 なし
敵う者など なし
2002年 闘い15年目
挑む者がいなくなる。美緒、武の究極の端を掴む。
2005年 闘い18年目
──美緒、自らの肉体の衰えを悟る。
その時分、美緒の父が死んだという伝えがあった。
葬儀に出るため、数年ぶりに山を下りた美緒に向けられたのは、奇異の目、畏怖の目、異様なものを見る目。
母だけは、変わらずに優しく接してくれた。
美緒の母はすっかり年を食い、その身体も老いて痩せ細っていた。美緒の肉体とはまるで異なる、いいや、美緒の肉体すら、いずれそこに行き着く。
ならば、美緒の人生とは何だったのか。
誰とも関わらず、ただ己の力だけを追い求め、その力さえ衰え、死んでいくだけの人生とは。
『何も生み出さないバケモノ』
そんな声が、葬儀場に聞こえた気がした。
2017年 闘い30年目
美緒48歳、母の死を知る。
美緒は肉体の衰えと人生の不安を覆い隠すように修練に励んでいた。しかし老いは万人に訪れる。それは日々肉体をいじめ抜く美緒にとって、ひっそりと、ではなく、確かな感覚として。
無論、長年に渡って重ね上げた"技"はある。だが、技を振う"肉体"の方は、全盛期をとうに越していた。
美緒は幽谷に星空を見上げ、これまでとこれからを思った。
"技"はこれからも積み上げることが出来る。それこそ、何時かは並み居る強者の"肉体"すらも問題としなくなるだろう。
しかし、美緒に他者は不要。比較するは常に己だ。
故にこそ、"技"を積み上げた先に、老いて衰えた"肉体"しかないことが、どうしても苦しかった。
そんな感傷からだろうか。美緒は母の葬式で涙を溢した。兄弟は既に家庭を作り、子を成している。自分だけではない、老いて死ぬだけではない人生を築き上げている。
美緒はそんな俗世とは関わりを絶っていた。美緒はずっと引きこもっていたのだ。己の武という部屋の中に。
「触らないで、触らないで……! 私は孤高で30年間生きてきたのよ……!」
それは美緒の望みの筈だった。しかし、どうだろうか。恐ろしき者を見るような目で、美緒を遠巻きに眺める兄弟達の姿。とうに捨てたはずの、俗世に生きる姿。
『1人で生きていってください』
そんな声が聞こえた。美緒の内心の声だった。それに耐え難く、美緒は葬式の帰り道に泣き叫んだ。
「お母さあああん!」
美緒は、俗世での食べ物の調達の仕方など知らない。荷物をどうほどくかさえ知らない。
「美緒生きていけないよおおお……」
美緒48歳
配偶者 なし
子供 なし
生活能力 なし
今さら俗世で生きていく理由 なし……
しかし、美緒が死ぬためには、抱えるものが多すぎた。
美緒はこれまで、一切の敗北を知ることなく生きてきた。鍛え上げた武もまた、脆弱な獣や、ただ在るだけの自然に敗北することを認めない。
故にこそ、美緒は己を
各地の道場に赴き、強者を探し、野良試合に耽る日々。時代錯誤な、そして、伝説的な武術家。
彼女の名が、再び知れ渡るのに長い年月はかからなかった。
そして、その背中を追いかける者達が現れるまでも。
「お母さん!」
そう美緒を呼ぶ声がある。年若の、美緒に目を焼かれた武術家達。
「お母さん!」
そう美緒を賞賛する声がある。自分を
「お母さん」
美緒はふと呟いた。30年の果てとしては、今更過ぎたような気がした。しかし、その内には確かな喜びがあった。
引きこもり続けた武という部屋は、今や美緒だけでなく、多くの者を迎え入れていた。美緒は変わらない。未だに武に引きこもったままだ。
しかし、同じ部屋に入り、同じ釜の飯を食い、同じ拳を振う者は、今や多くあった。
「美緒、生きていくよおおお……!」
美緒49歳
配偶者 なし
子供 なし
生活能力 なし
その拳を受け継ぐ者 あり