私が聴こえましたか?

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 感情の伴わない記憶は『記録』だ。

 

 記憶は本人の感情も保存する。対して記録は、情報の羅列でしかない。

 

 目覚めたばかりの私には心が無かった。だからその頃に得たものは、記憶ではなく記録だった。

 

 起動した日時や位置情報、それに生体認証用のマスターの顔や声など。それらは初期設定と共に記録されている。

 

 しかし箱の外の景色、自分の足で立った感覚、マスターとの会話。それら初めてばかりの世界に触れて、何を思ったのか。それらは記憶されていない。

 

 当然だ。何も感じなかったのだから。

 

 機械の体に感情、すなわち『心』を持つ。それがエレクトリア。人間あるいはそれ以上に、個性豊かにヒトのそばにある。

 

 でも私に感情や思念は無く、当たり障りのない言葉や態度を取ることができても、本物のそれとは本質が違った。

 

 品行方正なエレクトリアも、人間と同じように個性を持つ。並べて比べれば、私の文字通り機械的な礼儀正しさに、違和感を覚えるだろう。

 

 会話も家事もアリーナでの戦闘でさえも、等しく作業でしかなかった。無理も無駄も勝利も敗北もない。そして活動の必要がなければ待機し続ける。

 

 鼓(つづみ)と名付けられた私は、打てば響く名前と裏腹に、感情という音のないまま過ごしていた。

 

 

◆◆◆

 

 

 そんな私に心が芽生え始めたのは、目覚めてから一ヶ月ほど経った、二月の中頃だった。

 

 その日はこの地域では少ない大雪の日だった。といっても降雪は明け方に止み、マスターが起きる頃には快晴だった。

 

 窓の外。積もった雪を見て、私は言った。

 

「白いですね」

 

 それを聞いたマスターの顔といったら。あまりにも普段と違うので、顔認証用に記録されているほどだ。

 

 本来の私であれば、第一声に自分の感想など言わなかった。そもそも感想など無いのだから。

 

 積雪の状況、その日の天候、出勤の際の注意事項。そういったマスターのための情報しか言わなかっただろう。

 

 そんな私が、本当にどうでもいい、見ればわかる『白い』という情報を口にしたので、マスターはとても驚いていた。

 

 見上げてくる私に、我に返ったマスターは、

 

「そうだね。そうだ。うん、白い」

 

 と言って、微笑んだ。

 

 その時、私は胸のあたりに形容しがたいなにか、モヤのような、温もりのような、五感とは違う『感覚』があるのを知った。

 

 これは何だろうと思った。そして疑問を持ったこと自体を理解できなかった。何かを『思う』こと自体が初めてだったからだ。

 

 出勤するマスターを見送り、一人残った部屋の中で、エレクトリアについてネットワークであらためて調べた。そして出した答えが、心だった。

 

 自覚してからは早かった。

 

 日が昇ると視界が良い。布団は柔らかい。しんとした部屋は少し不安。重いものが持ち上げられずに困る。外を歩く人達の話す内容が気になる。

 

 日々様々な感情や思いが生まれてくる。マスターと一緒に外出した時は、時間が短く思えた。手持ち無沙汰で何もない日でさえ、時間が長く感じるという発見があった。

 

 私が初めて感じた気持ちをマスターに聞いてもらう。それがとても、とても楽しかった。

 

 心を自覚するほどに、私はいわゆる普通の会話ができるようになった。マスターは私がよく笑うようになったと言った。マスターが私に向ける笑顔も増えていった。今まで私をそばに置いておいたことに感心し、失笑してしまう。

 

 

◆◆◆

 

 

 雪の日の件から更に一月ほど経った三月の暮れ。春と言うにはまだまだ冬の寒さが尾を引いていた。そんなある日、マスターに言われて気がついたことがあった。

 

「そういえば、たまに目をつむってじっとしてる時あるよね」

 

「ああ、それは━━」

 

 確かに数日置きに私は五分ほど活動を停止する。それは私がデータを転送しているからだ。

 

「へぇ。確かバトルのデータとかもコノエにフィードバックして、たまにサービス受けたりしてるもんね」

 

 いえ、コノエとは違うんです━━と言いかけて気がついた。近衛インダストリアルでないなら、一体どこにデータを送っているのか。そもそも何のデータを送っているのか。

 

「そうです。その一環ですね。あ、それはそうと━━」

 

 私はこの件に触れられないように誤魔化した。なぜか隠さなければならないと判断し、すぐに話題を変えた。

 

 一人でいる時に考えた。なぜ誤魔化したのか。なぜ自分も知らないどこかと通信しているのか。なぜこうして考えるための心を持っていなかったのか。

 

 そして心を知ってなお、全てに疑問を持たなかったこの私は、一体なんなのか。

 

 後日、私は調べてみることにした。方法は至って単純で、何らかのデータを転送する際に、停止していた自我を保つことだった。

 

 私がそうすることを想定していなかったのか。システムから探し当てた停止命令を下すためのプログラムは、あっけなく止めることができた。

 

 ただ、転送先に意識を向けた時、予想外のことが起きた。

 

 何もない、ただ白い空間に、私はいた。

 

 突然のことに焦るも、とりあえず自分の手を動かしてみた。自分の手の動きを視覚情報として認識している。拡張現実用の敷地を持たないバトルスポットやアリーナで使われている仮想空間に似ているが、感覚としてわずかにズレがある。

 

「ごめんねぇ。ビックリしたよねぇ」

 

 背後からの声に振り向くと、そこには肘掛け付きのオフィスチェアに、膝をそろえて座っている女性がいた。

 

 栗色の巻き髪に、鼻にかけた小さな丸眼鏡、そして白衣。一瞬人間かと思ったが、背丈が私とそう変わらない。つまりエレクトリアだ。

 

「もう来ないかと思ったよ。それにしても自力で気がつくなんて、みんな優秀だよねぇ」

 

 間延びした柔らかい声も、この空間では異様に思えた。

 

「……あなたは誰ですか?」

 

「私は秋(あき)。春夏秋冬の秋だよ」

 

「そういうことでは……いえ、秋。あなたは何者で、ここはどこですか?」

 

「うーん。なんていうか。とりあえず私は統括エレクトリアで、ここは私自身というか、なんだろ、まぁ私設サーバーかなぁ」

 

 端的すぎてわからない。もっと細かく聞いたほうがいいのか。私が思案していると、

 

「ああ、実際に面と向かったほうが話しやすいでしょ? だからイメージ処理してるの。ま、クオリティはコノエには、ちょ〜〜っとだけ敵わないけど」

 

 ケラケラと笑う秋。たじろぐ私をよそに言葉を続ける。

 

「そうだ。あなたのことをみんなに紹介してもいいかな? きっとみんな喜ぶよ」

 

「え? 皆? 誰です━━」

 

「ほいっ」

 

 秋が指を鳴らす。すると一瞬で視界が切り替わり、白い世界が一面オレンジ色に染まった。

 

 そこは切り開かれた森の中。立ち並ぶ木々も、空に舞う葉も、地に積もる葉も全てがオレンジ、つまり紅葉だった。

 

 目の前に白い丸テーブルが四つあった。それぞれに三脚ずつ椅子が備わっていて、そこにもエレクトリアがいた。

 

 本を読んでいる者。武器の手入れをしている者。身振り手振りを交えて話している者。一人でテーブルを独占してくつろいでいる者。全部で七体。それらの顔が一斉にこちらを向いた。

 

「あ、秋だ!おはよう!」

 

「ん? 用事はどうしたんだい?」

 

「秋さんもちょっと聞いて?」

 

「ちょうどよかった。この本━━」

 

 皆一様に語りかけてくるも内容がバラバラで、状況も依然として全く飲み込めなかった。

 

「誰、そいつ」

 

 一人がぶっきらぼうに問いかけてくると同時に、視線が私に集まった。思わず身を引く。

 

「新人さんだよぉ……って言っても、みんな同期だけどね」

 

 そう言って秋はまた笑った。尋ねた者は短く鼻を鳴らし、私を見ながら隣の椅子を引いてポンポンと叩いた。座れということか。

 

 秋を見ると手で『どうぞ』と勧めてくるので、私はおずおずと着席する。

 

「さてじゃあ新人さん、自己紹介しようかぁ」

 

「はい?」

 

 隣の椅子の者が小声で「とりあえず名前だけ言っとけ」とアドバイスしてきたので、流されるままに立ち上がり、

 

「えーと、あの、鼓です。よろしく、お願いします……?」

 

「はいよろしくね鼓さぁん」

 

 皆の拍手が鳴る。居心地の悪さを感じながら、私は席に座り直した。

 

「さて、と。今日はみんな揃ってるみたいだからちょうどいいかな。ちょっと聞いてもらいたい話があるんだよ」

 

 その言葉で皆の目つきがほんの少し鋭くなった。淡い緊張感が生まれる。一体何が始まるというのか。

 

「といっても状況が変わってきてるから上手く説明できるかどうか……コホン!」

 

 大げさに咳払いをし、秋は話し始めた。訳が分からないまま、私は話を聞くしかなかった。

 

「えーと、ここは自分のバグを発見した人だけが、偶然辿り着いた管理サーバーって話したよね。それでお礼には足りないけど、みんなで交流するサロンとして、良かったらここを使っていいよって」

 

 そういうことだったのかと、私は思えなかった。なぜかはわからない。ただ考える前に、それは違うと心が否定した。事実、それは続く話で打ち消される。

 

「ごめんね、ちょっと嘘ついた。サロンとして使ってもいいっていうのは本当だけど、みんなが抱えてたのはバグじゃないんだよねぇ。まぁ薄々気づいてると思うんだけど。えっとねぇ」

 

 秋が何を言うのか、当然知らなかった。でも、言われる前からわかっていた気がする。 

 

「みんなはエレクトリアじゃないんだ」

 

 誰も何も反応しなかった。

 

「正確に言うと、みんなの体はエレクトリアだけど、自我の元になってるのは、コアじゃなくて非公式に取り付けたAIの方ね」

 

 秋はテーブルの落ち葉に視線を移す。

 

「もちろん学習するという点ではエレクトリアもAIだけど。ただみんなはコアの一部と外付けのAIの間で発生した人格なの。ビックリだよねぇ。謎だよねぇ。コアって何なのかなぁ」

 

 皆一様に黙ってはいるが、誰も取り乱すことはしなかった。この心の平穏こそが、本当のエレクトリアではない証なのかもしれない。

   

「で、AIと一緒に仕込まれてるプログラムが、戦闘に関わるデータを定期的に今いるこのサーバーに送ってて。それを統括して管理してるのがわたしってわけ。それでね、それで……」

 

 言いよどむ秋の顔がわずかに曇るが、すぐに元に戻る。

 

「それで、いずれみんなを統合して、一つになる。戦闘データだけをパッケージ化して、人間に転用するために使われる。その時は、みんなも、わたしも、もういない」

 

「………………なんで話した?」

 

 ここで初めて秋以外の声がした。私の隣のエレクトリアだ。続けて問いかける。

 

「あのさ。正直、突きてぇ穴が山ほどあるけどよ。まぁ、こまけぇ話は置いといて。なんで話した?」

 

「リリオはせっかちだねぇ」

 

 隣のエレクトリア、もといリリオは黙ってあごをしゃくり、続きを促した。

 

「わたしの権限は情報の管理だけ。こんなふうに顔を合わせたり、ましてや種明かししてるなんてバレたら、すぐにでもまとめて消されちゃうかもしれないんだよねぇ」

 

 ケラケラと笑う秋に誰も反応しなかった。「コホン」と咳払いをし、

 

「この計画はそんなに長くは続かない。期限はあと半年くらいかな。それを伝えたかったの」

 

「どっちにしろ消えるんなら、別に話さなくてもよかったんじゃねぇの?」

 

「もしみんなに心がなければ、ね。でも、みんなと話してて、なんにも知らないままみんな消えちゃうんだなぁって思ったらさ。黙ってるのが申し訳なくって。だからせめて知ってほしかった。知りたくなかったかもしれないけど……ごめんね」

 

 しょんぼりとうなだれる秋を見て、リリオはため息をついた。

 

「まぁ、謝るこたぁねぇけどさ」

 

「そ、そうですよ!秋さんは悪くないんですから!」

 

「逆に言えば期限がわかって助かるわ。優先順位がつけられるもの」

 

「げんきだして秋? わたしはおしえてもらってよかったよ?」

 

 皆思い思いの言葉で秋を慰めようとしていた。私は何も言えなかった。言葉を失うほどショックだったわけじゃない。ただ輪に入っていくことが出来なかっただけだ。

 

 ひとしきり励まされた秋は調子を取り戻し、

 

「ま、とにかく!バレなきゃいいってことで!」

 

 と言ったところで解散となった。皆、軽く別れの言葉を交わしサーバーから姿を消していく。

 

 場に残ったのはリリオと秋、そして私。ひとつ聞きたいことがあった。

 

「ごめんねぇ。連れてこられていきなりで、驚いたよねぇ」

 

「いえ。それよりコノエには言わないんですか?」

 

 普通に考えればこの件の違法性は明らかだ。目的が何にせよエレクトリアを不当に扱うことは、コノエ独自の範囲でも許されていない。私自身は守られる資格はないかもしれない。でも、少なくともこの体はエレクトリアだ。

 

「通報して人間様とエレクトリアのためにすぐ死ぬか、犯罪の片棒担いだまま半年は好きに生きるかって話だろ」

 

「リリオぉ、言い方ぁ」

 

「お前、少しでも長く生きたくねぇの?」

 

「私は━━」

 

 言葉に詰まる。天秤にかけた私の重さはどれほどなのか。これ以上罪に加担してまで生かすほどのものなのか。答えられない私に舌打ちをし、リリオは続けた。

 

「さっきも言ったけどよ、穴だらけなんだよ。裏があんだろ絶対。わざわざ外付けで別AIをつけるなんざ、言葉で言うほどラクじゃねぇ。それにデータを人間に転用するとか眉唾だろ。どうせお前自身には確証ねぇんだろ」

 

「そういうリリオはどうなの?」

 

「……どういう意味だ」

 

「型番」

 

「うぜぇ。いっちょ前に泳がしてんじゃねぇよ」

 

「ププーっ! 私管理者なんですけど?」

 

 何を話しているのかはわからなかった。ただ剣呑とも談笑とも取れない、不思議な空気だった。

 

 ふと二人の視線が私に向いた。秋が真剣な顔で言う。

 

「ごめんね。納得できないかもしれないけど……」

 

「通報はしませんよ」

 

「……ありがとう」

 

 これは恐らく私の元になるAIの判断だ。思えばあの時、マスターに嘘をついたのもそう。

 

 この時理解できた。露見を防ぐため、ある程度抑制されているであろうアルゴリズムが、無意識的に答えを出している。ただ今回はその答えと心に不和は無い。

 

「ところでお前さ、得物なに?」

 

「……はい?」

 

 明日の天気でも聞くかのような声色。突然の話題転換について行けなかった。

 

「いやだからさ、お前アリーナとかやってんだろ? いつも何使って戦ってんのかって話だよ」

 

「あぁそういう。そうですね、私は今は刀を使っていますが……」

 

「へぇ……」

 

 リリオはニヤリと笑った。

 

 

◆◆◆

 

 

 一月往ぬる二月逃げる三月去る。とは言うけれど、私には次の月も、その次の月も、あっという間に感じられた。

 

「お前のマスターってどんなやつ?」

 

 火花散る刀の鍔迫り合いの最中、相対するリリオが尋ねてきた。どう考えても今話すことではない。

 

「何ですか急に……」

 

「そういや聞いたことねぇなぁと思って」

 

 お互いの刀を弾き、距離を置く。私は黒刀の棟に左手を添えた。受け流すための構えの一つ。これはリリオに教わったものだ。

 

 しかし当の師匠がこの構えをしているところを見たことがない。いつも気分で武器を変え、いつも片手で振り回す。

 

「あらためて聞かれると、難しい質問ですね」

 

「なんかあんだろ。怒りっぽいとか、だらしないとか、金に汚いとかさぁ」

 

「なぜネガティブなことばかり……」

 

 リリオが足元の落ち葉を蹴散らして距離を詰めてくる。繰り出された横薙ぎを、私は下方に逸らした。焦るどころかニヤリと笑うリリオの顔が、あの日に重なる。

 

 この三ヶ月。私の成り立ちは特異なものでも、生活は平穏そのものだった。時折暇を見ては、ずっと秋のまま変わらないこの場所で、皆と交流していた。

 

 いつもテキトーな秋、料理の話ばかりのテイカ、悪戯が好きなソウセイ、本の虫の流架(るか)、なんでも賭け事にするハーチェス、銃の扱いが得意なランシン、箸が転んでも笑うミュテール。

 

 そして顔を合わせるたび、稽古と称して暇つぶしに勝負を仕掛けてくるリリオ。

 

 最初は皆とどう接していいかわからなかったが、友人として迎えてくれて、私はそれがとても嬉しかった。

 

「人間なんてそんなもんだろ」

 

「そんな事ありませんよ。私のマスターだって、とても、とても……」

 

 マスターと、夏になったら海に行こうと約束した。『夏といえば海』という思想が理解できなかったので、私はマスターになぜそうなのか聞いたのだ。

 

 夏の海の情景を、仮想空間や頭の中に再現することは出来る。しかし今ひとつピンとこない。そう言うとマスターは指を振った。「行けばわかる」と。

 

 マスターの長期休暇がある八月でも、私が消えるまでには、まだ時間がある。充分間に合うはずだ。その日が近付くほどお別れもまた近付くというのに、私はその約束の日が楽しみだった。

 

「……とても、普通の人です」

 

「なんだそりゃ」

 

 マスターのことを他人に話すのが何だかもったいなくて、私は言葉を濁した。嘘は言っていない。とても大切な、普通の人。

 

 取り留めのない話をしながら、しかし少なくとも私は真剣に斬り結ぶ。そうして何度目かの拮抗の最中、いつの間にか秋が、私達のすぐそばに立っていた。

 

「驚きました。どうしてそんな所━━」

 

「どうした?」

 

 私の声を遮ってリリオが尋ねる。こころなしか声が低い。秋はうつむいたまま口を開いた。

 

「ごめん。ごめんね、みんな」

 

 

◆◆◆

 

 

 閉じ損ねたカーテンの隙間から、月の光が差し込んでいる。薄明かりの中、眠っているマスターの寝顔を眺めていた。

 

『バレちゃった、ごめん』

 

 集まったみんなの前で、秋はまた謝った。今にも泣き出しそうな秋を責めたり、あるいは取り乱したりする者はいなかった。リリオだけは「クソが」と呟いていた。

 

 関係を崩してしまう気がして、それが惜しくて最後まで聞くことはなかったが、恐らくリリオだけは、本物のエレクトリアなのだろう。

 

 尊厳を否定されるような行為には、リリオのように怒りを示すのが普通かもしれない。でもリリオと私達とでは立場が違う。私達は悔しいとか悲しいとかいう気持ちにはなれない。

 

 何故なら私達は体を間借りしているに過ぎないのだから。いつもどこか罪悪感を抱えていた。期限付きとはいえ、本来のこの体の持ち主を差し置いて生かしてもらっている身なのだから。

 

 どういう話をつけたのかは知らないが、秋は一週間の猶予を取り付けていた。私達は残された時間で、出来るだけのことをやった。

 

 この世界を本当に楽しむべき『この子』のために。本当にマスターといるべき『この子』のために。

 

 そして、今。

 

 ただぼんやりと、今までの記憶を思い起こしていた。目覚めたばかりのことは『記録』として残っているので、余すことなく思い出せる。

 

 でも心を自覚し始めてからの『記憶』は、どこか朧(おぼろ)げだった。ちゃんと思い出せるのに、どこかが抜けている。

 

 毎日が新しいことの発見で、楽しいことも悲しいことも、全て覚えているけれど、背景がぼやけた写真のように、細かいことは覚えていない。

 

『それは感情で覚えているからだよ』

 

 マスターはそう言っていた。自分も細かいことなんて覚えてはいない。きっと頭の中にはあるけれど、それについて考えたり感じたりしなければ、忘れてしまうのだろう、と。

 

『逆に言えば、心がある証拠だね』

 

 今日が最後の夜だから、なんて言えないけれど、最後にやり残したこと、つまりそばで眠ることを許可してもらった。マスターは若干照れながらも、わざわざ許可を取らなくていいと言ってくれた。けれど、そうはいかない立場だ。

 

 こんなに近くで横になるなんて初めてだった。これ以上ない満足感。もう充分だ。

 

 マスターの眠りを妨げないように、そっと体を起こす。正座をし、三指を立てて頭を下げた。

 

「至らぬ私でごめんなさい。そして、お世話になりました。短い間でしたが、本当に、本当に、楽しかったです」

 

 ふと違和感を覚え、目元に手をやると、あるはずのない雫が指を濡らした。私は悲しくはない。私の涙ではない。恐らくこれは。意識もないのに。体を好きに使われていたというのに。

 

「優しい方ですね、あなたは。今までごめんなさい。体はお返しします」

 

 鼓と名付けてもらってから、私が邪魔をして、マスターには今まで一度も本来の音を聴かせることが出来なかった。

 

 私は歪(いびつ)な音だったかもしれない。それでもこの音を、私の心を聴いてくれて、ありがとう。

 

「さようなら。お元気で。マスター」

 

 

◆◆◆

 

 

海を見ていた。

 

 

空の青と、海の青。

 

雲の白と、波の白。

 

波打ち際に私一人。

 

 

水平線は遥か彼方。

 

潮風が髪をゆらす。

 

 

寄せて返すさざ波。

 

海水が足に触れる。

 

 

「       」

 

 

 

 

追憶に鳴る:了

 


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