【完結】跡に残るは雪ばかり。   作:朝日橋立

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第三十二話 小さなお祈りをしましょう。

 段々と肌寒なってきたこの頃、思い立って街へと出てきていました。

 といっても、何か大きな理由というのがある訳ではなかったです。

 

 この街の見納め、というとまだ早い話で少し違ったような気もします。

 ついこの間、ヘンリーさんから何時頃に国を出るかを伝えられました。

 五月の中頃だそうです。

 

 ですが、そのような考えがあったのも事実です。

 この帝都ランダインには、結構な期間いましたから。

 何やら悲観的な気持ちになって、見て回ろうと思いました。

 

 しかし、実際に街に出てくるところまでは良かったのです。

 けれども、それから大いに頭を悩ますことになりました。

 私の足だけではいける範囲というのも狭いですし、何か見るべきものも特には思いつかなかったためです。

 

 チャールズ男爵の屋敷や学校の中では、あれをしよう、これをしようと沢山頭にあったのですが、実際それが可能になると何をどうしたものか、と思われて……。

 

 そうこうして歩いていると、懐かしい建物が目に入ります。

 そこは初めてこちらに来た時にお邪魔した喫茶店でした。

 

 一瞬ばかり、お邪魔をしてよいものかと迷います。

 ですが、こう悩んでいても仕方がないので足を向けます。

 

 喫茶店の扉を開くと、店主の方と目があいます。

 彼はこちらを驚いた様子で見た後、すぐに視線を外しました。

 どうやら入店が許されたようです。

 

 店内を見回すと、人は一人もいませんでした。

 時間帯の問題かな、と思いながらもカウンターの席に座ります。

 

「そうですね……」と、メニューを見ます。

 以前はチャールズ男爵の紅茶を頂きました。珈琲を飲むことができずに。

 

 恥ずかしい思い出が蘇ったところで、何を頼むかを決めました。

「珈琲を一つお願いします」と、店主さんにお金を手渡します。

 

 彼はそれを受け取ると、すぐに作業に取り掛かりました。

 既に豆を挽いていたでしょう、湯を注ぐ様子を眺めます。

 

 珈琲の良い香りに期待を膨らませていると、カップが目前に置かれました。

「ありがとうございます」

 御礼を言いながら、ウキウキとした気持ちで口に含みます。

 

 ……やはり、苦い味がしました。

 しかし、全身が粟立つ寒気はありません。

 どうやら以前飲んだ時より、確かに成長をしているようです。

 それに少しばかりの嬉しさを抱きました。

 

 チビチビと珈琲を飲んでいると、店主さんが唐突に口を開きました。

「アンタ、確かチャールズさんと一緒に来てなかったか?」

 

 一瞬間ばかり誰に対して声をかけたのかが理解できず、反応が遅れました。

 けれど、どう考えても私以外にはありえないので、頷きます。

 

「あっ、はい。だいぶ前ですが……。よく覚えていましたね」

「あの人は常連様だったからね。それにしてもだいぶ変わったな。記憶違いかもしれないが、雰囲気が落ち着いてる」

「そうですかね? ありがとうございます」

 

 本当に彼はよく覚えていたものだと思います。

 当時は彼と一度たりとも話をしてはいませんし、そもそも認識すらしていませんでした。

 

「あの後、彼がここに来たことがあったんだが、アンタをよく褒めてたよ。利口だとか、意欲があるとか」

「はあ」

 

 チャールズ男爵に、そのように見られていたのは予想外でした。

 正直なところ、私は利口とは正反対の人間です。はっきり言って、愚鈍でしょう。

 

「あの人はどうだい? 最近はこっちに来ないから、噂ばかりしか聞こえないんだ」

「ええと、元気ですね。よく遊んでくださいます」

「そうか、それは良かった」

 

 店主さんは、安堵した様子で何度も頷いています。

 その様子に疑問がふっと湧きました。

 

「調子が悪いと噂されているんですか?」

 

 私の質問に、店主さんは迷いがちに小さな声で言いました。

 

「あの人、よく思想家のところに行ってるって聞くんだ」

「えっ、そうなのですか?」

「噂程度しか知らんが、大陸から逃げてきた頭の可笑しな奴に会ってるらしい」

 

 チャールズ男爵は大丈夫か、と心配になったことを覚えています。

 何時かこのことを聞こうと決めたことも……。

 しかし、結局のところチャールズ男爵と詳しく話をすることは出来ませんでした。

 何か大きな理由があったわけではありません。単純に話し難かったのです。

 

 思うに、チャールズ男爵に一つを除いて特別な思想はありません。

 誰もが最低限人として生きるべき、という貴族らしからぬ考えです。

 ですから、思想家に感化された可能性を除けば、何かしらの計略があったはずです。

 

 けれど、私には計略を含め、何ら関連はありません。

 だのに一体どうして、踏み込むことができたでしょうか?

 

 さて、喫茶店を出た後、私は気ままに教会に訪れました。

 ここは以前、死刑囚との面会で訪れた教会です。

 

 一度、建物を見上げます。

 曇天を一際高い尖塔が貫いています。

 そして、やはり大きくて素晴らしい建物です。まさに圧巻です。

 

 少しの間そうしたあと、教会の中にお邪魔します。

 すると、掃除をしていた修士の方と目があいます。

 彼は、小さく頭を下げると、直ぐに仕事に戻りました。

 

 ゆっくりと歩いて、長椅子の一つに腰を掛けます。

 以前言ったように、私自身神様はきっと信じていませんでした。

 仮に神様がいるのだとしたら、世の中には不幸が多すぎます。

 

 しかし、この時はお祈りをしようと思いました。

 先に待ち受けるものが全く分からないとき、人は人知を超えた存在に縋るものです。

 このとき、私は神というものに縋ろうと思いました。

 

 ふと、恐ろしくなりました。

 私は今が好きでした。愛していました。

 お父様やお母さまがいないのは嫌なことです。悲しいことです。

 でも、この生活が好きになっていました。

 

 けれど、目前にこれが壊れる未来が迫っています。

 出来ることなら、北方にはいきたくありません。恐ろしいです。

 逃げてしまいたい。けれど、逃げていろんな人の期待を裏切りたくはありません。失望されたくはありません。

 

 時間が止まってほしいと思います。

 現実にありえないことはわかっています。

 ですから、私は小さく祈りました。

 

「未来が晴れ渡りますように」

 

 さて、教会を出た時、空はいつの間にか快晴になっていました。

 縁起が良いな、と微笑んだのを覚えています。

 

 

 しかし、一つ失念していたことがあります。

 曇天は一体どうして曇天なのでしょうか?

 これはいたって簡単です。晴れがあるから、曇り空は初めて曇り空となり得るのです。

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