段々と肌寒なってきたこの頃、思い立って街へと出てきていました。
といっても、何か大きな理由というのがある訳ではなかったです。
この街の見納め、というとまだ早い話で少し違ったような気もします。
ついこの間、ヘンリーさんから何時頃に国を出るかを伝えられました。
五月の中頃だそうです。
ですが、そのような考えがあったのも事実です。
この帝都ランダインには、結構な期間いましたから。
何やら悲観的な気持ちになって、見て回ろうと思いました。
しかし、実際に街に出てくるところまでは良かったのです。
けれども、それから大いに頭を悩ますことになりました。
私の足だけではいける範囲というのも狭いですし、何か見るべきものも特には思いつかなかったためです。
チャールズ男爵の屋敷や学校の中では、あれをしよう、これをしようと沢山頭にあったのですが、実際それが可能になると何をどうしたものか、と思われて……。
そうこうして歩いていると、懐かしい建物が目に入ります。
そこは初めてこちらに来た時にお邪魔した喫茶店でした。
一瞬ばかり、お邪魔をしてよいものかと迷います。
ですが、こう悩んでいても仕方がないので足を向けます。
喫茶店の扉を開くと、店主の方と目があいます。
彼はこちらを驚いた様子で見た後、すぐに視線を外しました。
どうやら入店が許されたようです。
店内を見回すと、人は一人もいませんでした。
時間帯の問題かな、と思いながらもカウンターの席に座ります。
「そうですね……」と、メニューを見ます。
以前はチャールズ男爵の紅茶を頂きました。珈琲を飲むことができずに。
恥ずかしい思い出が蘇ったところで、何を頼むかを決めました。
「珈琲を一つお願いします」と、店主さんにお金を手渡します。
彼はそれを受け取ると、すぐに作業に取り掛かりました。
既に豆を挽いていたでしょう、湯を注ぐ様子を眺めます。
珈琲の良い香りに期待を膨らませていると、カップが目前に置かれました。
「ありがとうございます」
御礼を言いながら、ウキウキとした気持ちで口に含みます。
……やはり、苦い味がしました。
しかし、全身が粟立つ寒気はありません。
どうやら以前飲んだ時より、確かに成長をしているようです。
それに少しばかりの嬉しさを抱きました。
チビチビと珈琲を飲んでいると、店主さんが唐突に口を開きました。
「アンタ、確かチャールズさんと一緒に来てなかったか?」
一瞬間ばかり誰に対して声をかけたのかが理解できず、反応が遅れました。
けれど、どう考えても私以外にはありえないので、頷きます。
「あっ、はい。だいぶ前ですが……。よく覚えていましたね」
「あの人は常連様だったからね。それにしてもだいぶ変わったな。記憶違いかもしれないが、雰囲気が落ち着いてる」
「そうですかね? ありがとうございます」
本当に彼はよく覚えていたものだと思います。
当時は彼と一度たりとも話をしてはいませんし、そもそも認識すらしていませんでした。
「あの後、彼がここに来たことがあったんだが、アンタをよく褒めてたよ。利口だとか、意欲があるとか」
「はあ」
チャールズ男爵に、そのように見られていたのは予想外でした。
正直なところ、私は利口とは正反対の人間です。はっきり言って、愚鈍でしょう。
「あの人はどうだい? 最近はこっちに来ないから、噂ばかりしか聞こえないんだ」
「ええと、元気ですね。よく遊んでくださいます」
「そうか、それは良かった」
店主さんは、安堵した様子で何度も頷いています。
その様子に疑問がふっと湧きました。
「調子が悪いと噂されているんですか?」
私の質問に、店主さんは迷いがちに小さな声で言いました。
「あの人、よく思想家のところに行ってるって聞くんだ」
「えっ、そうなのですか?」
「噂程度しか知らんが、大陸から逃げてきた頭の可笑しな奴に会ってるらしい」
チャールズ男爵は大丈夫か、と心配になったことを覚えています。
何時かこのことを聞こうと決めたことも……。
しかし、結局のところチャールズ男爵と詳しく話をすることは出来ませんでした。
何か大きな理由があったわけではありません。単純に話し難かったのです。
思うに、チャールズ男爵に一つを除いて特別な思想はありません。
誰もが最低限人として生きるべき、という貴族らしからぬ考えです。
ですから、思想家に感化された可能性を除けば、何かしらの計略があったはずです。
けれど、私には計略を含め、何ら関連はありません。
だのに一体どうして、踏み込むことができたでしょうか?
さて、喫茶店を出た後、私は気ままに教会に訪れました。
ここは以前、死刑囚との面会で訪れた教会です。
一度、建物を見上げます。
曇天を一際高い尖塔が貫いています。
そして、やはり大きくて素晴らしい建物です。まさに圧巻です。
少しの間そうしたあと、教会の中にお邪魔します。
すると、掃除をしていた修士の方と目があいます。
彼は、小さく頭を下げると、直ぐに仕事に戻りました。
ゆっくりと歩いて、長椅子の一つに腰を掛けます。
以前言ったように、私自身神様はきっと信じていませんでした。
仮に神様がいるのだとしたら、世の中には不幸が多すぎます。
しかし、この時はお祈りをしようと思いました。
先に待ち受けるものが全く分からないとき、人は人知を超えた存在に縋るものです。
このとき、私は神というものに縋ろうと思いました。
ふと、恐ろしくなりました。
私は今が好きでした。愛していました。
お父様やお母さまがいないのは嫌なことです。悲しいことです。
でも、この生活が好きになっていました。
けれど、目前にこれが壊れる未来が迫っています。
出来ることなら、北方にはいきたくありません。恐ろしいです。
逃げてしまいたい。けれど、逃げていろんな人の期待を裏切りたくはありません。失望されたくはありません。
時間が止まってほしいと思います。
現実にありえないことはわかっています。
ですから、私は小さく祈りました。
「未来が晴れ渡りますように」
さて、教会を出た時、空はいつの間にか快晴になっていました。
縁起が良いな、と微笑んだのを覚えています。
しかし、一つ失念していたことがあります。
曇天は一体どうして曇天なのでしょうか?
これはいたって簡単です。晴れがあるから、曇り空は初めて曇り空となり得るのです。