船を燃やすために、フリッツさんと私は火種を探しました。
ところが、だいぶ前に消された蝋燭が見つかるばかりで、何も火を起こせるものはありませんでした。
「どうしましょうか」
「俺が上に行って、どうにかして混乱を起こしてやる」
「危険じゃありませんか?」
「餓死するか凍死するか、此処で待っていてもそれだけだろ」
フリッツさんはそのように格好をつけると、上の方へと戻っていきました。
結局のところ、それから幾許か時間が経っても特に何も起こりませんでした。
……裏切られたのかもしれません。
冷たい思考が私に囁いて、耐え切れずに死体の山に身を隠します。
ただ恐ろしくて仕方がなくて、そのまま意識を手放しました。
どうにも寒すぎたのです。
上の足音はよく響きます。
ゴンゴンという音に耐え切れずに、遂には目を開くことにしました。
身体の震えを抑えて、顔をゆっくりと上げます。
暗い部屋には死体ばかりがあって、何者も居ません。
そのことに一安心して、一つ息を吐きます。
暫くしてのことです。
「シアちゃん」
聞き馴染みの声を耳にします。
「ヘンリーさん」
その名前を返すと、目が合いました。
久しぶりに見える彼は、何だか老けています。違和感があります。
死体を踏まないように気を付けながら近づき、問いかけます。
「何があったのですか?」
「目には目をっていうだろう。反乱には反乱さ」
どうにも似合わないきざな言葉に、少し笑います。
彼も何だか笑っているように見えました。
「あの、サヴィクさんとか、医務室の人は無事ですか」
「嗚呼……。そうだな、大丈夫さ、安心してほしいな」
ヘンリーさんの言葉に、虚偽が含まれていたかどうか。
これを私は考えることはありませんでしたし、これからも考えることはないでしょう。
「さあ、急ごうか、そろそろこの船が燃えてしまう」
「結局燃やすことになったのですね。あっ、フリッツさんは無事ですか」
「問答をしている時間はないよ、早くいかないと」
どうにも回らない頭のまま手を引かれて行きます。
久方ぶりの上の甲板は、とても見たことのない景色です。
ぐったりと倒れている方がいます。……大丈夫でしょうか。
血を流しながらも笑顔な方がいます。不安です。
何とも言えない、違和感に胃の中が沸き立って、気持ち悪くなってきます。
……嗚呼、色んな違和感の正体に気付きました。
皆さん、随分と足を気にしています。ヘンリーさんもです。
「足は大丈夫ですか」
問いかけると、ヘンリーさんは笑ってから言います。
「大丈夫さ、歩けているだろう」
そうして、ゆっくりと歩き続けて遂にはフランツさんの姿を見つけます。
彼は木の板を剥がしていました。
もはや意義はないというかのようでした。
「クロージャー隊長、アトウッド伍長を連れてきました」
そんなヘンリーさんの声に、やっと気づいたのか彼はこちらを向きます。
やはり老けたように思います。
「無事でよかったよ。シア、すまなかったね」
彼は頭を下げると、何だか悲しそうな顔をします。
ええ、確かに悲しそうな顔でした。今まで見たことのない顔です。
言葉に詰まります。
何も思い浮かびません。思い浮かばなかったのです。
「アトウッド伍長、君に命令だ。今から君は南下隊の隊長だ。アトウッド隊長、君が無事に辿り着けることを期待している」
意味が分かりませんでした。
もしかしたら、私の理解する能力に問題があったのかもしれません。
「隊長といっても、隊員は君を含めて二人だけなのだがね」
「二人ですか」
「ヒュー・ハイツマンだったか、彼だ」
生きていたのだなと思います。
間違いなく死んでいると思っていました。
「彼は指揮権の復活に、大きな尽力をしてもらった。君も知っている男だろう」
小さく頷いたと思います。
フランツさんは悲しそうに微笑むと、肩に手を置きます。
「後は全て任せた」
彼は手に持った大きな本を手渡してきます。
GMS・タナトス号航海日誌と銘打たれた本です。
呆然としていました。そのまま、何事も理解していないうちに、ヒューさんに手を引かれることになります。
空はどこまでも青くて広くて、そして冷たいです。
雪か丸石ばかりの世界を私たちは歩いていました。
「ねえ、ヒューさん。フランツさん達は何をするつもりだったのですか」
いつの間にか疑問を吐きます。
ヒューさんは手を引きながら答えました。
「さあ、でもきっと良いことです」
「私たちは一体、どうして此処にいるのでしょうか」
「分かりませんが、僕らは有限なリソースです。それが有効活用されているんです」
昔、私が言ったような言葉です。
ふと、後ろを振り返ると、遠くにはもうタナトス号は見えません。
それからもしばしば歩いて、ちょっとした軽い発破の音が聞こえました。
ええ、発破の音です。
この頃は自覚するほどには歩く速度が遅くなっていました。
気付いていたのです。
避けることがきっと出来ました。いや、間違いなくできました。
「ヒューさん」
ついこの前まで話していた友人が倒れていて、でも、どうしようもなくて右往左往します。
どうしようもないのです。何もできません。何も思いつきません。
そのまま幾許かして、私は何日かぶりに押し倒されます。
背中には丸石が食い込んで痛いです。
「魔女め!」
煩くわめく声には聞き覚えがあります。
そうです。ヒッキーです。忌々しい男です。
私に覆いかぶさる彼は、とても笑顔でした。
貼り付けたような笑顔のまま、私の顔を舐めます。
その臭い口臭に寒気がします。
はて、なぜ私がこのような目にあっているのでしょうか。
「何か言えよ、おい」
彼は恨めしそうに言って、私の首に手を掛けます。
ああ、恐ろしいです。
……そういえば、私は一つナイフを持っています。
珍しく刃の付いたペーパーナイフです。それを偶然にも持っているのです。
薄着の彼の首筋はよく分かります。
あそこにナイフを当てればよいのでしょうか?
何か娼婦のように、彼の頭に手を差し出します。ナイフを隠しながら。
それから抱くように首に手を伸ばして、ゆっくりと差し込みました。
……さて、存外にあっさりと全てが終わります。
いえ、終わらせることが出来ました。
彼の身体を跳ね除け、ヒューさんの方に歩いていきます。
銃弾の当たったところが分かりやすいです。これを弾けているというのでしょうか?
「ねえ、ヒューさん。よく眠れていますか? 私は皆さんにとって、よい人であれたでしょうか?」
随分前、といっても出航したばかりのことですから、あまり経っていないかもしれません。だのに、懐かしく感じる問いをします。
ただ、返答はなく、私は黙って荷物を拾って再び歩き出します。
空は広いです。
そう、どこまでも広いです。
眼前の忌々しい景色も同様です。
すると、どうでしょう。今までが全て忌々しく思えてきます。
過去も未来も何もかもが嫌悪に値します。
そう! これら全てが忌々しいのです!
一体どうして、過去を思い出す行為をしていたのでしょうか!
一体どうして、私は歩き続けているのでしょう! 歌を口ずさんているのでしょう!
どこまでも続く広い道を、歩いていきます。
持っているものと言えば、頼りない防寒着に、信用のならない缶詰、そして妙に重い本。
ああ、嫌です。不幸が過ぎます。
しかし、どうしても歩きを止めることは出来ずに、それでも歩き続けます。
何時しか、足跡は風に吹かれて消えてしまっています。
すぐに、白い息は掻き消えて、青空に溶けてしまいます。
きっと私もこれらと同じになるのでしょう。
ただ、まだ止まりません。止まれません。
止まろうと思えません。
死ぬのは怖いです。恐ろしい、震えが止まりません。
でもきっと私の足を動かしたものはそれではないのでしょう。
もっと簡単で自己中な、罪悪感とか、意志を受け継いだなんて思い上がった心。
あるいは夢を見る為だったかもしれません。
歩き続けて、自分とその過去に嫌気が差す。嫌いだと思う。
でも、それにも嫌気が差して、泣けてきて、笑えてきて、歩き続ける。
そして、遂に倒れてしまったとき、声がした。
懐かしくもない聞いたことのない声だ。
知らない言葉の、でも安心する声だと思えた。
まだ続きます。
あと、閑話が二個あります。
投稿は明日、明後日になります。
明後日の方で、少し総括を書こうと思います。