遠い潮騒。揺れる窓。ペンの音。
道行く人の喧騒。軋む床。話し声。
この中にあって、ただ日記を書いている。
日記は好きだ。面白い。
ペンを走らせるとき、そのコツコツとした硬さが好きだ。
昔のことは悲しいけれど、思い出すこともきっと好きだ。
焼き立てのパン。草原の香り。潮風。白波。船の軋み。
あるいはもっと身近な、ベッドの香りとか、埃の臭い。
そのどれもがきっと新しい生活の香りだ。
欠伸をして、窓を開く。
潮騒と喧騒がよく聞こえる。
そのどれもが豊かな生活の音だ。
広がる空に一つ深呼吸をする。
パンでも食べようかと思うが切らしている。
買いに行くのは面倒だ。
世界は本当に綺麗だ。
空は澄んで、人々は生きている。
「先生!」
遠くから声が聞こえる。
それに手を振り返す。
さて、今日は何をしようか。
新しい今日を考える。
取り敢えず外に出てみようか?
あるいは面倒だがパンを買いに行くのも良いかもしれない。
今考えている心は一つだったと思う。
目前にある諸問題、そして日常が一つの大きな風で吹き飛ばされる妄想だ。
ただ、この心には一つ違和感もあった。
この諸問題、あるいは日常と呼ばれるものはどうやら厚い雪で覆われている。
私はこのために強い風が少し恐ろしくもあった。
私は新しい生活が好きではある。
間違いなく愛しているのだ。
しかしながら、果たして私の心というのはどこにあるのか。
あるいは私には最初から心というものがなかったのかもしれない。
何か大きな舞台のための一つの装置だったのかもしれない。
舞台なんてものは、殆ど見たことのないものだがそう思えてしまう。
私の心はきっと遠い場所に置いてけぼりだ。
古い友人を思い出す。
彼らあるいは彼女らは、果たして今どのような生活を送っているだろう。これからどのような生活を送るだろう。
いずれにしろ私には関係ないことなのだが、その興味はなくならない。
ところが手紙を書こうと思うと、それもまた心苦しい。
彼らが得た新しい生活は、きっと私の闖入を許さないだろう。
きっとその逆も同じように。
思うと、私は随分と長い人生を歩いている。
そしてこれからも変わらず歩いていくことだろう。
「北でも行こうかな」
一言呟く。
古い知人を弔いに行くのも良いかもしれない。
今の生活を知らせにでも行ってしまおうか。
尤もらしく言えば、私の心を取り戻しに行こう。
さて、これからの生活を一つ決めた。
古い友人、知人。もう氷の下だろうが、それはもはや関係ないことだ。
私は心を躍らせた。
辞表をしたためる。
そして、最後にこう署名をするのだ。
シア・アトウッドと。
一体完結した作品を、また書いているということは不思議なことです。
しかしながら、私には主人公がどうにも可哀そうに思え過ぎた。