クリスマス休暇が終わり、初めての月曜日。ルークはハリーを半ば引っ張るように、通い慣れた地下牢教室へと向かっていた。
「今からでも先生を変更できないかな」
「スネイプ先生に教わることがそんなに嫌?」
「すっっごく嫌だ」
「……はぁ」
どうしてハリーは僕の好ましい人と悉く相性が悪いのだろうか、だなんて今更ながら思わずにはいられない。
「じゃあ訓練を早く終わらせることだよ。さっさと習得しちゃえばいい……まぁ、言うほど簡単じゃないだろうけど」
ルークとて、憂鬱は憂鬱だ。落ちこぼれはきちんと自覚しているため、この忙しい時期に新たな課題を抱えるのは頭が痛い話である。
二人揃って足取りも重いまま教室の扉を叩く。待ち構えていたスネイプもまた、心底不愉快そうな表情を浮かべていた。──誰の得にもならない人選だ。ルークは何度目か分からない溜息を零した。
「閉心術に関して少しは予習してきたかね?」
頷くルークの隣で、ハリーがそっと目を逸らした。
「杖や呪文の詠唱は必要が無いと」
「その通り。閉心術を会得する上で大切なのは文字通り心を閉ざすことだ。思考や感情を無にすることで唯一、開心術から逃れることが出来る」
「開心術?」
「他者の心に入り込み、思考や記憶を読み取る術のことだ」
改めて、ルークは背筋の冷える心地がした。
心の内というのは本来、
「その、開心術をヴォルデモートが使うんですか?」
「その名を口にするな、ポッター」
スネイプに睨み付けられ、ハリーは憮然と顔を顰めた。
「確かに、闇の帝王は開心術の優れた遣い手だ。閉心術に余程長けていない限り、虚言の類は一切通用しない」
「……じゃあ今この瞬間も、『例のあの人』が僕たちの心に入り込んでくるかもしれないってことですか?」
「……それは恐らく無いだろう」
スネイプは慎重に言葉を選ぶように声を潜めた。
「本来、他者の心へ侵入するには目を合わせる必要が有る。……だが、ポッターの場合はその傷が──」
スネイプの指先がハリーの額を指した。
「その傷が呪いとなり、帝王との間に奇妙な絆を生み出している……と校長はお考えだ」
ルークは思わずハリーを見た。もしも自分がハリーの立場に置かれてしまえば、恐怖で発狂しかねない。あんな恐ろしい存在と呪いの絆が結ばれているなど。
しかしハリーの横顔は至極──いっそ奇妙な程に冷静だった。ただ静かに、怒りに耐えるように唇を引き結んでいる。
「閉心術を学べば、ハリーと『例のあの人』との
「根本の解決とは言えない。……だが、対処にはなる」
「…………どうやって学ぶんですか?」
ようやく本題と言わんばかりに、スネイプは立ち上がった。
「訓練は一人ずつ行う。単純だ。我輩が開心術を使ってお前たちの心に侵入を試みる……それを防いでみせろ」
「っ、やり方は?」
「心を無にし、思考や感情を空にすることだ。まずは兄の方から行う。立て」
スネイプは鋭く命じ杖を抜いた。弾かれたようにハリーも立ち上がる。
「行くぞ──レジリメンス」
直後、ハリーは苦しげに身を撓めた。必死に抵抗を試みるも、スネイプはハリーの心の深いところまで無粋に足を踏み入れていく。
その様子を、ルークはゴーストのように蒼褪めながら眺めていた。
スネイプに開心術を仕掛けられる。
思考や記憶を読まれる。
つまりは抱えている秘密──例えばドラコとの関係が暴かれてしまう。
膝の上で握りしめた拳が震えていた。何としてでも抵抗しなければ。
もし全てをスネイプに知られてしまったらどうなる?
彼はダンブルドアに話すだろうか。
ハリーに話すだろうか。
ルシウス・マルフォイに、話すだろうか。
突如、教室に轟音が響いた。
ハリーが我武者羅に振った杖から放たれた光線が、壁をぶった音だった。
「余計なことを考えるな。思考を、空にするのだ──レジリメンス」
その後も二度、三度とスネイプは繰り返しハリーの心へ押し入った。その度にハリーは魔法を暴発させて荒々しい抵抗を見せたが、開心術に対する効果的な手段とはとても言えなかった。
スネイプが覗き見たハリーの記憶を嘲笑するのを、ルークは心臓が凍るような思いで聞いていた。
「これ以上は無駄だ。……雑念が多すぎる。来週までにはもう僅かにも冷静さを保てるようにしておくことだな」
ハリーはスネイプを射殺さんばかりに睨みつけたが、言い合う気力は残っていなかったらしい。ふらふらとルークの隣の席に座りこんでしまった。
「次だ」
スネイプの目がこちらに向いた。ルークはまるで絞首台に向かう罪人のような心地で立ち上がった。何重にも枷が付けられているのかと錯覚するほど足が重い。
ルークは杖を構えなかった。血の気の引いた顔でスネイプと向き合う。心から尊敬する彼を前に逃げ出したい衝動に襲われるのは初めてだった。
「レジリメンス」
視界がぐるりとひっくり返った。強制的に脳から記憶が引きずり出される不快感は、一瞬にしてルークをパニックに突き落とす。
──ダドリーがいる。丸々とよく肥えた顔に意地悪な笑みを貼り付け、拳を振りかざしている。怖い。こわい、怖い。助けて、と情けなくハリーに助けを求める己の幼い声が、どこからともなく響いた気がした。
バチン。視界が切り替わった。
今度は大量の手紙が見えた。悲鳴をあげるペチュニアおばさん、怒り狂うバーノンおじさん、楽しそうに笑うハリーの横で、ルークは立ち竦んでいた。何が起こっているのだろうという恐怖。何かが変わるかもしれないという期待に、ひたすら混乱するばかりだ。
バチン。
ドラコ。
今よりずっと幼い。ホグワーツ特急の中で、彼はハリーに向かって手を差し伸べていた。友達は選んだ方がいいなどと傲慢な言葉を投げかけている。ルークの存在にはまるで気付いてもいない。……寂しい。虚しい。僕も見て──僕
────これ以上は、ダメだ。
本能が激しく警鐘を鳴らした。既のところで正気を取り戻した頭は、急く心と裏腹に一周まわって酷く冷静だった。
目を閉じる。地下牢教室の静けさに耳をすませば、濁流のように押し寄せていた記憶はピタリと止まった。
頭を空っぽにしろ。考えないことは得意だろう。目を逸らすのも耳を塞ぐのも得意なはずだ。侵入者も、自分自身さえも締め出してしまえばいい。
ルークは深く息を吸った。そしてゆっくりと吐き出す。もう頭の中に、スネイプの気配は感じられなかった。
「……悪くない」
低く響く静かな声が、ルークを本当の意味で正気に返した。目を開けると、スネイプは杖を下ろしてこちらを見ている。その瞳には僅かな動揺が映っていた。
まさか、たった一度でルークが成功させるとは思ってもいなかったのだろう。
「もう一度──レジリメンス」
二度目はもはや、僅かな不快感や衝撃さえ感じられなかった。ルークはスネイプを見つめ返したまま、静かに心を閉じる。
誰の侵入も許すつもりはない。恩師も、親友も……恋人や双子の片割れさえも。
ルーカス・ポッターの心の最奥──一番脆く、柔く、醜い部分は誰にも晒してはならない。
ルークの人格を作り上げる根底。表に見せている部分は氷山の一角に過ぎないのだ。深く深く根を張る劣等感。そして、それでもなお愛されることを希う浅ましい強欲。
自分自身でさえ直視を拒んでいるそれらを、易々と明け渡してなるものか。
「……充分だ」
スネイプは杖を下ろした。その声色には驚きを隠しきれていない。
彼は暫し、何か言いたげな顔をルークに向けた。しかし結局その口からは何も語られることなく、淡々とハリーのみ訓練を継続する旨が告げられる。
そうしてさっさと寮へ帰れと追い出されるように教室を出されてしまった。
「……閉心術、どうやったの?」
「言われたまんまだよ。頭を空っぽにした」
ハリーは不審げに眉根を寄せた。
「僕もやってるつもりなんだけど」
「感覚的なものだから、コツさえ掴めば直ぐに出来るようになるんじゃないかな」
「……だといいな」
それっきり、ハリーもルークも黙り込んだ。
まだポツポツと人影のある廊下を無言のままに歩きながら、ルークは胸に巣食う漠然とした不安感に襲われていた。
閉心術は予想外にも上手くいった。スネイプ先生は、ルークの抱える秘密には気づいていないはずだ。
──ならどうして、こんなにも気持ちが落ち着かないのだろう。
身体は指の先まで冷えているのに、神経はピリピリとどこか焼け付くように忙しなく爆ぜている。
いっそ、気付かれていた方が良かったんじゃないか。
ふとそんな考えが頭を過り、ますます不安が深まっていく。
足元から漣のように押し寄せるこの不安は、果たしてどこから来るものなのか──分からないことが何よりも恐ろしかった。