うどん屋とかそば屋に行くと、ついつい丼ものも頼んでしまう筆者です。
出汁が良いのかやたら美味しいのが悪い。
極東系ファミリアによる大騒動──後に「豆腐戦争」と呼ばれる
庭の池に水を飲みに来た鳥の囀りと心地よい日差しが差し込む縁側にて、ひなたぼっこで寝そべりつつ本を読むという王女失格の姿と共に、リリアは極東風スローライフを満喫していた。
朝の家事は終わって、いつも通り伊奈帆たちは
初めの頃は得体のしれない同居人と2人きりで遠慮しがちな千穂だったが、
そんな千穂は趣味である読書仲間を増やしたいのか、近頃リリアに自分の蔵書を貸し出しており、リリア本人も読書に抵抗は無く、こうして暇つぶしがてら読書に励んでいるという訳だ。
「豚汁に佃煮、煮魚……どれも美味しそう、じゅるり」
そんなリリアが読んでいる本の題名は『極東の料理とその製法』といい、その名の通りこの世界での和食についてまとめたレシピ本である。
前世で食べた懐かしの味を思い出しては、レシピの後に書かれた筆者の味の感想を読んで笑顔を浮かべるリリア。
パタパタと足を揺らしながら本を読み、まだ今世では食べたことのない極東料理を楽しみにする姿は幼子のように可愛らしいものだったが、生憎それを目にする者はいなかった。
「ふむふむ、丼料理……」
和綴じの紙が擦れる音とリリアの独り言だけが、穏やかな日差しが差し込む縁側から庭へと流れていく。
──だが、ウィーシェの森を出てから手に入れた「新しい日常」を楽しんでいた彼女が悲痛な叫びをあげたのは、その直後の事だった。
「あぁっ……!?」
まるで悪夢から目覚めたかのように勢い良く飛び起きたリリアは『極東の料理とその製法』のとあるページを見つめながら、愕然とした表情で呟いた。
「こ、こんなに大事なものを忘れていたなんて……!」
深い後悔を声色に滲ませながら立ち上がった彼女は、さながら悲劇のお姫様といったところか。
しかし、いつまでも嘆いてばかりではいられない。
今ならまだ間に合うと本を片手に縁側を飛び出したリリアは、まだ幼い体から力を振り絞り、拠点の中を
急な大声に驚いたライスインパクトが抗議の意を込めて嘶くのを尻目に、彼女は目的地へ──千穂がお昼ご飯の献立を考えているであろう厨房へと向かうのであった。
鶏卵。
それは数多くのビタミンを始めとした栄養素を含み、現代日本では「完全栄養食」と呼ばれることもある素晴らしい食材のひとつである。
適齢の
迷宮都市オラリオでもメジャーな食材として名を馳せている鶏卵は、オムレツやスクランブルエッグなどの卵料理として様々な家庭や飲食店で提供され、多くの人の舌を楽しませている。
「うーん……どうしようかなあ」
そんな鶏卵がたくさん入った籠を前に、
今朝食材の買い出しに市場へと赴いたところ、かなり手ごろな価格で売られていたこの卵たち。
中に詰め物をされた形跡もなく、程よい重さもある良質な卵であり、千穂自身も「良い買い物ができた」とは自負出来る品なのだが……肝心の献立を思いつかないのだ。
普段なら即決で卵焼きにしてしまうところだが、この前の豆腐戦争のことを思うと、ひょんな事から再び極東系派閥全体で今度は卵焼き戦争だ、となってしまう危険性が無いとは言えない。
ただでさえ豆腐戦争が一段落した後、余計な騒ぎを起こしたとして【ガネーシャ・ファミリア】の衛兵たちからこってりと絞られたばかりだというのに、また同じような騒ぎを起こせば何をされるか。
さて何を作るべきか、と幼子らしからぬ難しい表情で考え込む千穂だったが、その悩みは1人の闖入者によってすぐに解決される事になる。
「千穂ちゃん!!」
「うわぁ!? り、リリアちゃん!?」
突然厨房に入って来ては大声を出すリリアに驚き、思わず飛び上がった千穂だったが、肩で息をするリリアは驚く彼女に気付いた様子もなく、手に持った本──『極東の料理とその製法』のページを開くと力の限り叫んだ。
「はぁ、はぁ……今日は! 親子丼が! いいです!!」
「……は、はい?」
「親子丼が! 食べたいです!!」
「えっと、そうなんだ……」
悲しい事に、リリアの叫びは千穂に伝わらなかった。
あまりにも唐突すぎる展開について行けず、きょとんとした表情で首を傾げた千穂。
しかし、米に関する事では諦めを知らないリリアは、身を乗り出すように詰め寄ると、もう一度「おやこどん!」と言いながら開いたページを彼女に見せつけた。
リリアが見せるページの一番上には、恐らく筆者のものであろう達筆な文字で親子丼と書かれており、その下には必要な材料と共に食欲を唆る多色刷りの絵が載っていた。
その卵によって、小さい鶏肉と薄くスライスされた玉ねぎがとじられ、その上には彩りを添えるための
親子丼だ。
日本人であれば誰しも一度は見たことがあるだろう丼料理のひとつ、親子丼の姿がそこにはあった。
「親子丼かぁ。……うん、ちょうど卵を使う献立を考えてたところだし、今日のお昼は親子丼にしよっか」
「やったぜい」
千穂の最終決定によってお昼の献立が決まり、念願の親子丼実食に思わずぐっと右の拳を突き上げるリリア。
その表情は実に晴れやかであり、誰が見てもなにか良い事があったのだと察せるほどだった。
「それじゃあ、私は卵とじを作るからリリアちゃんはお米をお願いね。えっと、親子丼の材料は……っと」
「むふ、かしこまり」
千穂の指示にとてもイイ笑顔で頷いたリリアは、勝手知ったるといった様子で米櫃から研ぎ用の鉢へ米を移すと、小気味良い音と共に米を研ぎ始めた。
手のひらを使い、やさしく米を擦っていく。
力を籠め過ぎる事は無く──しかし弱すぎる事も無く。
熟練のさじ加減と手捌きで振るわれる小さな手は、まるで魔法のように米を研いでいった。
鉢に注いだ水が薄く濁る頃合いになると、リリアは鉢の中身を釜へと移してしっかり給水させる。
「……
『──』
この世界で初の親子丼に張り切ってか、ちゃっかり権能を行使して『アルヴの清水』並に上質な軟水へと入れ替えたリリアは、己の仕事ぶりに満足気な様子で頷くと、
「準備完了」
「よーし、じゃあ水を吸わせている間はこっちの手伝いをしてもらおうかな」
「がってんしょうち」
そして、リリアと千穂による親子丼作りが始まった。
下準備を終えた千穂が手に取ったのは、大きく丸々と成長した玉ねぎ。
いくら料理に慣れている千穂とはいえ玉ねぎの刺激は苦手なのか、眉根を寄せて嫌そうな表情を見せつつも、包丁を駆使して薄くスライスしていく。
しかし、覚悟していても生理的反射はどうにも出来ず、玉ねぎの刺激で涙目の千穂たちは悪戦苦闘しながらもなんとか玉ねぎをスライスし終えるのだった。
「これだから玉ねぎは嫌い……」
「目が、目があああぁぁ」
前世でもご不沙汰な刺激にやられ、どこぞの大佐の如く目を押さえて呻くリリア。
この場にリフィーリアがいれば間違いなく大騒ぎしていただろうが、生憎この場にいるのは
努めて無視すること数分、見かねた
「はい、リリアちゃん。気持ちは分かるけど、いつまでも呻いてないで鶏肉を切って。私たちが一口で食べられるくらいのサイズでね?」
「ううぅ……あいあいまむ」
「お姫様なのに、どこでそんな言葉覚えてくるの……?」
──私、変な本とか渡してないよね?
涙目ながら鶏肉を躊躇いなく一口大に切り刻むリリアを横目に千穂は少しの不安に襲われていたが、安心してほしい。
リリアが変なのは生まれつきである。
気を取り直して料理を再開した千穂は、割下の材料となる出汁をとり始めた。
まず水を張った鍋の中に旨味の素である昆布を投入し、火加減を見ながら火にかけていく。
次に、ぷつぷつと気泡が現れて鍋の中身が沸騰してきたと感じたら昆布を取り出し、完全に沸騰しきったら差し水を少し。
「鶏肉切り終わった!」
「ありがとう、お肉を触った後はちゃんと手を洗ってね」
「はーい」
差し水で沸騰を鎮めたら、続け様に鰹節を鍋に投入。
再び沸騰させた後で火を消せば、くたりと力を無くした鰹節が鍋の底に沈み、やがて食欲を唆る出汁の良い香りが土間全体に広がった。
「お〜、綺麗な黄金色」
「リリアちゃん、まだまだ料理は続くからね」
「うい」
火傷しないように手拭いを巻いた手で鍋を持ち、リリアがザルを設置したもう一つの鍋に中身を流し込んで濾していくと、黄金色に透き通った出汁の完成だ。
そのまま飲んでも美味しい鍋いっぱいの出汁を前に感嘆の息を漏らすリリアを窘め、千穂は次の工程に取り掛かる。
出汁の次は割下、そして具だ。
「そろそろ吸水が終わる頃合いじゃないかな」
「お米炊いてきます」
間の抜けた敬礼と共にかまどへ向かい米を炊き始めたリリアの様子をちらちらと確認しながら、千穂は割下用の浅い平鍋に出汁を流し込んだ。
出来立てに拘るなら親子丼の具は米が炊けるタイミングに合わせて作る必要があるため、おかず代わりの漬物を床下から取り出したり『極東の料理とその製法』で具材の不足がないかを確認したりして時間を使い、リリアが蒸らしに入った段階で動き出す。
平鍋の出汁に水と【デメテル・ファミリア】印の砂糖を適量投入し、次に醤油とみりんを回し入れる。
零さないように注意しながら少し煮立てれば、立派な割下の完成だ。
「いい匂い。お姉ちゃん達にも食べさせてあげたいな」
千穂はそんなことを呟きながらぐつぐつと煮えたぎる割下に鶏肉と玉ねぎを入れ、焦げ付かないように菜箸を使ってしばらく煮た後、お椀に入れた溶き卵をぐるりと円を描くように注ぎ込んだ。
「親子丼って、ここからが難しいんだよね。まあ、若干卵が固めになってもいいでしょう……と。リリアちゃん、丼の準備お願い」
「まかせんしゃい」
薪を火ばさみで取り出して火加減を調節し、卵が程よく固まるのを待って平鍋をかまどから取り上げる。
仮にも
半熟より少し固めに調整された具は炊き立ての米と一緒にほかほかと温かい湯気を立て、本の挿絵通りの見た目と割下の甘い香りが2人の食欲を掻き立てる。
「……おお、丁度良かったな。今帰ったぞ」
「おかえりなさい、ニニギ様」
「おかえりなさい」
すると、ちょうど諸々の用事を済ませたらしいニニギノミコトが外から帰ってきた。
日課である田んぼの雑草の処理と水量の管理を終えた彼は、リリアと千穂からの挨拶を受けつつ居間のちゃぶ台前へと座り込んだ。
「今日の昼食は親子丼か、久しぶりだな」
「リリアちゃんが希望したのと、市場で良い卵が手に入ったので作ってみました。けっこう自信作です」
「これを食べられないリフィー達がかわいそうになる」
「ほう、それは楽しみだ」
半分以上は千穂が作ったようなものだが、何故か一番の功労者のようなしたり顔で頷くリリア。
稲作に関するあれこれをニニギから学び、いずれウィーシェの森に広大な田園地帯を作ろうと画策している彼女には、オラリオでの出会いを経て
神々が聞けば間違いなく抱腹絶倒し、人々が聞けば間違いなく己の耳を疑うような荒唐無稽すぎるその野望を実現するため、リリアは改めて和食に関する知識を集めているのだ。
今回の親子丼もその一環。
断じてリリアが親子丼を食べたかっただけではない。
ないったらないのだ。
「それじゃあ、食べようか。……いただきます」
「いただきますっ!」
「いただきます」
配膳を済ませ3人で食卓を囲むが、既にリリアの視線はちゃぶ台の上で黄金色に輝く親子丼に釘付けだった。
そんな彼女の様子を見た千穂とニニギはこっそり笑みを交わし、食前の挨拶を済ませたら念願の実食タイムだ。
匙を手に取るのももどかしく、卵でとじられた鶏肉たちと一緒にその下の米も掬い、匙の上に出来た小さな親子丼を口の中へと放り込む。
適温より少し熱く感じる温度。
けれど、その火傷しかねない熱さも出来立ての丼の醍醐味といえる。
「……おいしい!!」
「ふふっ。よかったね、リリアちゃん」
へにゃり、と力の抜けた満面の笑みを浮かべたリリアに釣られて千穂も思わず笑顔になる。
リリアに対する千穂の人見知りも解けて、すっかり仲の良い友人同士になれたようだ。
居間に流れる和やかな雰囲気を感じて微笑ましい気持ちになりながら、
彼の向ける慈愛の視線に気付かぬまま、親子丼を味わうリリアは内心で歓喜のあまり絶叫していた。
(美味い! めっちゃ美味い! 旨味の宝石箱やー!)
まず口の中に広がるのは、割下の濃厚な甘い香り。
昆布と鰹節、2種類の素材からとった出汁を基に作られた割下は、砂糖に強調された甘味と出汁の旨味を損なうことなく内包している。
砂糖を煮詰めただけでは絶対に生み出すことの出来ない複雑で柔らかい甘味の割下を相棒に、触感という観点からリリアを楽しませるのが、具材である鶏肉と玉ねぎだ。
幼子でも食べやすいサイズに刻まれた一口サイズの鶏肉は、脂っこさの少ない肉の中に割下を滲み込ませて、ぷりぷりとした食感でリリアの歯を押し返す。
そんなささやかな抵抗を無視して鶏肉を噛み締めれば、肉汁と共にじゅわりと溢れ出た割下が口の中で至極のハーモニーを奏でるのだ。
鶏肉自体のうま味は割下のそれに比べるとややあっさりめであるものの、食感と合わさって割下に負けない鶏肉の風味を提供している。
玉ねぎは割下で煮込まれた事により生の状態と比べて柔らかくなっており、丁度よい塩梅のシャキシャキとした触感と玉ねぎが持つ風味と触感、両方から舌を楽しませてくれる。
鶏肉と同じく割下を吸い込んでいて噛み締める度にその甘味が溢れ出すものの、鶏肉とはまた違ったアプローチで独特の風味を足しているのは流石と言う他ない。
それでいて、ふわふわとろとろの卵がベールのように具材たちを包む事で、割下や具材の味が喧嘩することなく見事に調和しているのだから、最初にこの料理を考案した先人の叡智には脱帽するしかない。
そして、親子丼の主役はやはり米。
味の強さからどうしても具材ばかりが目を引きがちだが、この親子丼という料理は米なくしては成立しない。
確かに具は美味しい。
米の上に具を乗せず、ただ単品の料理として提供しても我々の舌を楽しませてくれるだろう。
しかし、ここに縁の下の力持ちとして具を支える米が加わることによって、この料理は更にひとつ上の
元々、米はどんな料理にも合わせられる
牛丼やかつ丼、そしてカレーライスなど。
変わり種を挙げるとすればミルク粥なる料理も存在するほど「米の上に何かをかけて食べる料理」というものは世界中に存在する。
ここで注目してもらいたいのは、基本的にこれらの料理は全て
つまり、米は地母神のように全てを受け入れる慈愛の精神を持ち、かつそれらを料理としてまとめ上げるだけの度量と味も兼ね備えた完璧な食材ということ。
親子丼の具と共にリリアの口に入った米は程よく割下を吸い、米が持つ柔らかい甘味を割下の持つ旨味で更に進化させる。
同時に、人によっては些か濃く感じてしまう具の味を程よく中和し、鶏肉と玉ねぎという触感の異なる具材たちを優しく受け入れ、彼らを更なる高みへと誘うのだ。
これによって親子丼という料理はその
──完璧だ。
この美味しさと魅力に抗うなどという罰当たりな行為が出来る者は、きっと前世で悪逆非道の限りを尽くした非人間的で邪悪な心を持つ者のみに違いない。
リリアは顔を緩ませながらそう考えていた。
完全に狂信者の発想である。
親子丼の美味しさに夢中になった3人は、その後も無言で匙を進め、気が付いた時には丼の中身は完全に姿を消していた。
本当に美味しいものを食べた時、人は感想を述べる事すら忘れ、ただひたすらに食べ続ける。
匙を置いて満足げなため息を吐き、ゆったりとした食後の余韻に浸るリリア達。
割下を始めとした親子丼の材料はまだ余っているため、伊奈帆達が
「今までの最高傑作かも……」
「ああ、とても美味だった。2人ともありがとう」
「ふへへ……また食べたい……」
食器を片付けた後もなんとなくちゃぶ台を囲み、三者三様に親子丼の感想を述べるリリアたち。
暖かな日差しが木枠の窓から差し込み、満腹感に眠気を誘われた彼女らは、それに抗うこと無くすやすやと穏やかな寝息を立て始めた。
こうして、リリアの新しい日常──【ニニギ・ファミリア】にとっても新しい日常は、穏やかに過ぎていく。