大理石の胎児は加速世界で眠る   作:唐野葉子

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これは二話目です。


余篇

 

 

 放課後を開けておけと言われたその日、部活動は顧問の教師に急な所用が入り、休みとなった。

 

 たかだがゲームのために面倒な口実を考えてずる休みせずに済んだことに安堵するとともに、まさか彼女が何かしたのだろうかと内臓に重くのしかかるように疑惑が募る。しかし冷静に考えて、いくら何でも一介の中学生が大人である教師のスケジュールに干渉するというのは無理があるので、ただ単に偶然なのだろう。

 

 あるいは、幸運というべきか。

 

 指定されたのは青梅街道から少し北に入ったところに小さな店舗を構える甘味処、えんじ屋だった。

 三か月前にチユリが幼馴染二人に不義理を清算させた現場であり、四年以上通い続けているおなじみの店でもある。

 少しでもチユリの精神的負担が減るように、彼女がチユリのホームグラウンドをわざわざ指定してくれたと考えるのは穿ちすぎた見方だろうか?

 

 臙脂色の暖簾の前で深呼吸する。

 覚悟は決めてきた。しかし、本当にこの道でいいのだろうか。

 最後の自問自答。

 この先に待ち受けるのはおそらく、むかしVR仕様の絵本で読んだ、悪魔との契約にも等しい危険で劣悪なやり取りだ。仮にそれより悪くなることはあっても、よくなることなどないだろう。

 ここならばまだ引き返せる。それでもやっぱり、出た答えは同じだった。

 

 また三人で同じように、日が暮れるまで遊んだあの頃のように。

 

 それがチユリの譲れない思いだから。

 ひっぱたいてやるのだ。あの情けない男どもの横っ面を。ゲームなんぞに傾倒して、日常生活(リアル)に差支えが出るレベルで一喜一憂している愚か者どもに、ゲームとは楽しむためのものでしょうがと身をもって教えてやるのだ。

 

 そのためならば、手段は択ばない。

 

 釣り目がちのネコ目をいつも以上に勝気に逆立てて、気合たっぷりに今時珍しい手動式の引き戸に手をかける。店内に入って通い始めた当初からまるで容姿が変わらない二十代半ばに見える店員のお姉さんに会釈して、視界に表示されるホロナビゲートに従って奥へと足を進めれば、最奥の座敷席にはもうすでにチユリ以外の全員が揃っていた。

 メールで通知されていた通り、合計三人。チユリ同様に一度家に帰ってから来たのだろう。全員が私服であった。

 

 一瞬、その場の空気が捻じ曲がるようなプレッシャーを感じたのは錯覚だろうか。

 

 瞬きした時にはもう、普通とはあまり言い難いが、いずれも人並み以上の容姿の少女三人が一堂に会している華やかな図だ。どうやら少し前に揃ったらしく、和気あいあいと話し合いながら各自飲み物を手にしている。

 

「ししょお、そんなもの飲んで美味しいんですかぁ?」

「そんなものとはなんじゃ。ま、普段は甘党でエスプレッソなど注文せんことはたしかじゃが。時折無性にこの舌と胃を痛めつけるような苦さが恋しくなるのよ。そんなに気になるなら飲んでみるか? ひとくち、いやひと舐めだけじゃぞ。夜眠れんくなったら困るからのう」

「ん……にがぁ」

「けろけろ。お子様にはまだ早かったか。お、チユリ嬢。こっちこっち」

 

 三人の中で一番よく見知った顔のライハが親しげに手を上げる。

 何気に私服を見るのは初めてだが、グレーのパーカーに裾を折り返した紺のジーンズ、座敷席の前にきちんと並べられた靴はブルーの運動靴と、何だかイメージ通りと言えばイメージ通りな、ファッションを青春の彼方に放り捨てた、ラフと言えば褒めすぎな気がする適当極まりない服装だった。

 暖房の効いた店内では脱いだらしい黒のウィンドブレーカーが隣に綺麗に折りたたまれてちょこんと置かれている。また、服装に合わせたのか髪はひとまとめに後ろで緩く三つ編みにされていた。

 学校とはだいぶ印象が違う。普段はぼさぼさのまだら髪がまとめられている影響か、身にまとっている空気がずっと穏やかに感じた。

 それでも一度抱いた苦手意識が払拭されるまでにはいかず、表情がひきつらないように気をつけながらチユリはぺこりと頭を下げる。

 

「どうも。遅くなってすみません」

「なあに、時間まではあと十分以上ある。別に遅刻ではないわい」

 

 鷹揚に首を振るライハは座敷席の一番奥隅に座っており、隣と対面はすでに先客で埋められている。どちらの席も自分が座るとなれば精神的にかなり厳しいものがあっただろうから、これは素直にありがたかった。

 誰かをこのように嫌悪するということ自体、快活な性格のチユリには辛いものがあるのだが、変に強がったり見栄を張ったりすれば取り返しのつかないことになる予感があった。

 

「あの……直結する必要って、ありますか?」

 

 だからチユリは最初に聞く。もしも話の内容が外部に漏れないように数珠繋ぎする必要があるのなら、恥も外聞も捨てて誰かを間に挟んでもらうつもりでいた。

 チユリはいまひとつその重要性を理解しているわけではない。だが、毎日のように昼休みになるたび、ラウンジで我が校の副会長様と直結デートしている某幼馴染に少しは人目を気にしなさいよと苦言を呈したところ、「し、仕方ないだろ……ゲームの話を誰かに聞かれるわけには、いかないんだからさ」とぼそぼそと反論され、そのゲームの全容を把握しているわけでもないから否定も出来ず、大変悔しい思いをした経験があるのだ。

 もしこれで同じゲーマーであるライハから『必要ない』という旨の発言が得られれば、明日にでも打って出る心積もり満々だった。

 

「いや、このような場所で女子四人、直結してひたすら思考発声の会話などしておれば逆に目立つ。わざわざ平日のこの時間帯を指定したのは、条件に合致する客数を減らすためじゃよ。見たところ、幸運にも中高生以下の客は儂らだけのようじゃ」

 

 『幸運にも』と言ったところでライハはちらりと隣の少女の方を見た気がした。チユリもつられて周囲を見渡す。たしかに、今いる客はチユリたち以外には老夫婦が一組と、営業回りをさぼっているのかくたびれたスーツのサラリーマンが一人だけだ。甘味処という場所と、平日の夕方という時間帯を考えればこんなものだろう。

 

「この席は位置的に他の席から会話を聞かれにくいし、聞かれたとしてもそれこそゲームか何かの話と思うだけじゃろう。だからそう気を張らんでもええぞ」

「あ、はい」

 

 見抜かれることは想定内の発言ではあったが、こう面と向かって指摘されると赤面せざるを得ない。

 ライハ以外の二人はどうみてもチユリよりずっと年下の小学生だが、状況的に考えて彼女たちがメールで言うところの『ゲームを始めたばかりでお互いにアドバイスし合えるであろう新人』と『経験豊かな頼りになる古参ゲーマー』なのだろう。

 そのうち、ライハの隣に座った、見覚えのある方の少女がぺこりと会釈した。

 

「こんにちは、倉嶋さん!」

「あ、うん。こんにちは。やっぱり陽炎ちゃんもゲーマーだったんだね。えっと、バーストリンカー……で合ってたよね?」

「はい、雪風もバーストリンカーです。先日は碌にご説明もできず、たいへん失礼いたしました」

 

 見ているだけで心に爽やかな風が吹き抜けるような気がする笑顔に、チユリの強張った肩が少しだけほぐれる。

 先週の金曜日に見たふわふわの白いファーコートとケモミミ付ニット帽は室内ゆえに脱いでおり、白いトレーナーの上にダズル明細柄のベスト、寒色系のホットパンツに黒いボーバーニーソックスとなかなかボーイッシュな出で立ちだった。栗色の短い髪が頭の動きに合わせてさらさら流れ、とても活発で健康的な印象を受ける。

 それでも、彼女を少年と見間違えるのは難しい。小動物めいた守ってあげたくなるような可愛らしさは健在だ。これで誤解できるのは、某幼馴染がサルベージした前時代のサブカルチャーに登場した『こんな可愛い子が女の子のはずがない』というチユリには理解不能な哲学を持った紳士くらいだろう。

 

 自然とチユリの視線は流れで三人目、この場で唯一初対面な少女へと向けられる。

 年のころはユキカゼと同じ十歳くらいだろうか。薄紅色のロングスカートに、胸フリル付の長Tシャツとまるで良家のお嬢様のような装いだが、座布団の上にピンと背筋を伸ばして正座している様はこちらまで背筋を正したくなるような静謐な雰囲気がある。

 純和風の涼やかな顔立ちや、前髪は前ですっぱり揃えられ、後ろは高い位置で一つに結わえられている時代劇めいた髪型などと相まって、まるで長いスカートが袴に見えるほど、その姿には普段からやりなれた自然さがあった。

 しかしチユリと目を合わせた彼女はにこっと年相応の人好きのする笑みを浮かべると、熟練の手つきで仮想デスクトップを操作する仕草をする。

 突然視界に『AD HOC CONNECTION REQUEST』の文字が表示されて、チユリはびくりと硬直した。

 アドホック・コネクション。複数のニューロリンカーを直接無線接続する通信方法だが、秘匿や速度を重視するのなら優先直結すればいいし、そうでないならばどこかのサーバーを経由すればいい話なので、ある意味直結以上に使用されない機能である。

 いくら古めかしい店の装いとはいえ、えんじ屋もれっきとした現代の店舗の一つだ。メニューがホログラムで表示されることからもわかるように、この店にだってちゃんとサーバーが存在している。

 意図を掴めずに困惑するチユリに、ライハがあっさり事情を説明した。

 

「ああ、デンさんは運動性失語症なんじゃよ。肉声も思考発声もできぬゆえに、意志疎通にはチャット機能を使う必要がある。カタギの店にブレイン・バースト関連のログを残すわけにはいかんからのう」

 

 相変わらず人の心の傷口に指を突っ込むことをためらわない人だ。聞いている方が怖くなってくる。今度こそチユリは表情がひきつるのを抑えられなかった。

 チユリはとある家庭の事情から、通常の方法で声を出せない人に対する造詣が人並み以上に深い。チャットで意思疎通が可能ということは言語の認識に対しては問題なし。きっとこの目の前の少女は、脳のどこかしら、おそらくは大脳の中心前回あたりに障害をきたしているのだろう。それが先天的なものなのかまではわからないが、服装から判断するに治療できないような経済状況とも思えないから、現代医学では完治しないほど深刻なものなのだ。

 まともな神経をしていればそうそう容易く触れられるものではない。

 デンさんと呼ばれた少女はぷくっと頬を膨らますと、両手をすっと持ち上げてダガガガッと残像が見えそうな速度で乱舞させた。

 

「おお、すまんすまん。こっちでは(うたい)さんじゃったの」

 

 再び、ダガガガガッと乱舞。

 少し遅れて、チユリはそれがホロキーボードを叩いているのだと気づいた。

 

「んー、だって、さすがに呼び捨てにするわけにはいかんじゃろ。敬意を払っておるんじゃよ」

 

 再度、小さな十指が見えないキーボードに煙を立てんばかりの速度で動かされる。

 

「あん? レイカーは別じゃよ。だって儂、あやつと仲悪いもん。ほら、昔は少しキャラが被っておったからさ」

「そんな三年以上前のことをいつまでも引きずらないでくさいよ、器が小さい。いい加減、雪風もアッシュさんもししょおたちの代理戦争をやらされるのにはウンザリしているんですから。

 だいたい、カタギのお店ってどんな表現ですか。そうじゃないお店とかあるんですか?」

「ん、あるぞ。練馬戦域(エリア)の西武線桜台駅近くのとあるケーキ屋とか」

 

 一人は声を発していないが、ユキカゼをも交えてごく当たり前のように話す三人の姿は何だか学校の資料映像で見た手話を思い出させる光景だった。ニューロリンカーが国民一人一台まで普及し、思考発声やホロキーボードによる意思疎通が可能となってからは急速に衰退したと聞いたが、実際に目の前で見ればこのようなものだったのかもしれない。

 不思議な感慨を抱きながら、チユリは視界デスクトップに表示されたアドホック接続のアイコンを押す。

 

 とりあえず、練馬に行くときはケーキ屋に注意するとしよう。

 

 接続が繋がったことに気づいたのか、視線がチユリへと再び向けられ、軽快なタイピングによって構築された桜色の文字列が視界デスクトップのチャット窓に表示される。

 

【UI> 初めまして。ご挨拶が遅れて大変失礼いたしました。私は四埜宮(しのみや)(うたい)と申します。松乃木学園初等部三年生で、ユキちゃんのクラスメイトです】

 

 まさに神速。この目でタイピングしているところを見なければ作成済みの文章をコピペしたとしか思わないだろう。

 達人技と年齢不相応に丁重な文章に気おされて、チユリの反応はやや遅れた。

 

「あ、ご丁寧にありがとう。えっと、聞いているかもしれないけどあたしの名前は倉嶋千百合。ライハ先輩の学校の後輩、です」

 

 現代の自己紹介の通例として、ネームタグを交換する。とはいえ、名刺交換のような格式ばったものなので、純粋な自己紹介目的で子供の間で行われることは稀だ。それも、氏名や生年月日だけではなく、所属する学校や住所までが記載されたレベルのネームタグを交換するなどは通常ありえないだろう。

 失語症治療用と思しき厚生労働省認可のBIC使用許可証が付与され、縦長になったネームタグを視界に収めながら、チユリは改めて今回の会合の特異さを実感した。

 ぴしっと筋の通った謡のお辞儀につられるように慌てて頭を下げ、彼女の隣に腰を下ろす。綺麗に正座している年下の前で胡坐をかくのもためらわれたが、長話になった場合まず確実に自分は耐えきれないのでやむなく足を崩して座った。

 

「さて、チユリ嬢。改めて確認じゃ」

 

 全員が座に就いたのを見計らって、ライハが改めて口を開いた。ユキカゼも謡も笑顔を消して、真剣な表情で見守っている。

 

「儂らにはおぬしの願いを叶える用意がある。その上でもう一度だけ問おう。おぬしが何を望んで、儂なんぞに話しかけてきたのかを、な。今なら『忘れちゃった☆』でも通るぞ? そしてそれは別に悪いことではない」

 

 光の加減か琥珀色に光って見える瞳で、ライハはチユリの目をまっすぐ射抜いた。感情よりも深い生理的嫌悪がチユリの肌を泡立てる。

 ライハは自分のことを優しくないという。確かに彼女は優しくないだろう。なぜなら優しさとは、自己保全からくる感情であり行動だからだ。

 相手が傷ついているのを見て、自分も傷つく。自分の傷を癒すために、傷ついている相手を治療する。自分が傷つくのが嫌だから、傷つきそうな相手を助ける。それが優しさと言われる感情で、思いやりと言われる行動だ。

 彼女にはそれが無い。傷つかないわけではない。しかし傷つかないようにしようという発想が、痛みから逃れようという思考が、ごっそり抜けおちているのだ。

 一方で、甘さとは自己満足からくるものだ。相手を甘やかして、自分が満たされる。彼女は満たされることに抵抗が無い。だから思いっきり相手に注ぐ。それが本当に相手の求めている物なのかは別にして、ただ満足を得るために。

 

 ならば、これはいったい何なのだろう。どちらなのだろう。本当に、後者なのだろうか。

 

 チユリはぎゅっと目を瞑る。何だかんだ言ってライハは、面倒見の良い先輩なのだろう。でなければ、あの超絶コミュ障のハルユキがあれほど懐くわけがない。その脳裏に浮かんだ幼馴染の顔が、もう一人の幼馴染であるタクムの顔と重なり、少女はふっと息を一つ吐いて目を開いた。

 

「残念ながら忘れていません。あたしにバーストリンカーになる方法を教えてください」

 

 チユリは、ライハがくれた最後の引き返す機会を無碍にした。

 ライハはにっこりと笑みを浮かべる。罠にかかった獲物に舌なめずりする悪魔の嘲笑のような、道を踏み外した幼子に向ける母親の苦笑のような、どこか哀愁漂う、嬉しそうな澄み切った笑顔を。

 

 

 

 きっかけは先週の金曜日の登校の一幕、ゲームのインストールを求めたチユリに、ハルユキが返した言葉だった。

 

 このゲームには適性がある。

 

 その時は馬鹿にされたように思い、売り言葉に買い言葉でその場を立ち去ってしまったが、後になって冷静に思い返してみると、一つの強烈な違和感がチユリの中に生まれたのだ。

 

 ならば、何故ライハがインストールできているのだろう。

 

 ライハは、選ばれない人間だ。

 ハルユキのように隣にいるのでもない、だからと言って一般の生徒のようにあらゆる関係を拒絶するのでもない、大切な幼馴染の恩人にしていつも彼の傍にいる女性として、絶妙な距離間でこの三か月見つめ続けてきたチユリだからこそ殊更に理解できた。

 できるかできないかわからないという問題に取り込んだとき、ライハはまるで約束されたかのようにできない結果を引き当てる。見た限り、そこに例外はない。

 例のゲームだけが、たまたま例外だったとでもいうのだろうか。

 チユリは直感に任せて動くことが多いが、それは頭のめぐりが悪いということとイコールではない。むしろ明晰な部類の彼女の頭脳は、もっと理論的で確実性のある仮説を導き出した。

 

 できるかできないかわからない方法ならば、ライハは絶対にできない結果を掴み取る。ならば、現にライハがゲームをインストールできている以上、彼女は『絶対にゲームがインストールできる方法』を知っている。

 

 それはあの黒雪姫でさえ辿り着かなかった解答。

 初対面の時にライハはすでにバーストリンカーであり、彼女のライハに対するイメージがバーストリンカーであることを前提に積み上げられていったが故の先入観は大きいだろう。しかしそれ以上に、彼女にとっては自身の思考停止に気づかないほど当たり前のことだったのだ。エリートにとって、できるかできないかわからない問題で、できる側を掴み取るのは自然な顛末だから。

 否、それは黒雪姫だけではない。すべてにおいて自分に自信がないハルユキも、実は負けず嫌いなタクムも、彼らにとって自分がバーストリンカーであるということは、ブレイン・バーストのインストールに成功できたということは、疑うまでもないただの事実だったのだ。

 条件を後から知って安堵することはあっても、どうしてインストールできたのやらと不思議に思うことはあっても、()()には値しない常識であった。

 どうして足の下に大地があるのかなどと、前提とも呼べる当たり前のことを疑える人間はごく一部の暇を持て余した変人である。

 絶対にできるはずがないのにと疑って初めてたどり着けるその場所に、すでにバーストリンカーである彼らがたどり着けるはずもなかった。今まさに自分が二択の未来を迫られる立場におり、さらに前提も偏見も持たないチユリだからこそ、そこまで思考が届いたのだ。

 

 そこからは勢いだった。衝動のままにその日のうちにメールでライハに連絡を入れ、学内ローカルネットで直接顔を合わせて自分の仮説と目的を述べる。

 人気のないカエルの巣穴で捲し立てている最中に興奮は醒め、落ち着かない後悔が少しずつ押し寄せてきたが、ライハの答えは婉曲な肯定だった。

 

「ふむ。儂のお願いをひとつ聞いてくれたら、おぬしの求める方法を教えてやろう」

 

 その求められた『お願い』が最長三十分ほどチユリ宅で子供を一人預かってほしいなどという、一見簡単なミッションだったときはどんな性格破綻者が来るのかとその夜に緊急家族会議が開かれることを覚悟の上で待ち構えたものだった。

 実際に来たのはユキカゼという、実に礼儀正しく可愛らしい子だったので、嬉しい誤算にほっと肩の力が抜けたのを覚えている。

 もっとも、それ以上に普段の学校の姿からは想像もつかない立派な先輩然とした姿で、フレンチクルーラーという手土産まで持参してチユリ宅を訪問したライハのインパクトが強すぎたが。金曜の夜から土曜の朝にかけて熱が出たほどだ。

 当人曰く『後輩に恥をかかせるわけにはいかないでしょう?』とのこと。こんな風に時折年上らしい気遣いに満ちた姿を見せるからますます対処に困るのだ。

 また、ハルユキやタクムが通う学校にはあんな『できた美人の先輩』が身近にいるのかと誤解した母親に、『男は胃袋からガッチリ掴むのよ!』などと日曜の空いた時間をすべて料理教室につぎ込まされたことも大いなる誤算だったが、それも今思い出すのはやめておくこととしよう。

 

 

 

「ま、おぬしからは前払いで料金をもらっておるからな。要求されたら儂は断れんのよ」

 

 そう言ってライハはへらへらと笑う。その表情からは、言葉のような断りたいと考えている感情はいっさい読み取れない。実に楽しそうで、きっと彼女はこれまでも、そしてこれからも、内心で血を流していようと当たり前のように受け入れて笑い続けるのだろう。

 そう思ってもチユリは止まらない、止められない。ただ、押しつぶしたはずの弱音のように、質問が躊躇いがちに口からこぼれ出た。

 

「あの、今更ですけど、本当にあんな条件でよかったんですか?」

「ん、なんじゃ。追加料金を支払いたいと申すか?」

「あ、いえ、そのっ」

「けろけろ。冗談じゃよ。料金設定をしておぬしがそれを了承した時点で、もう契約が成立しておる。その上に支払われた後からぐだぐだ抜かすのは無粋の極みというものじゃ。それにこのご時世、子供が幼子を待たせておける場所などひどく限られておるからのう。おぬしの申し出は渡りに船で、ひどく助かったよ」

 

 そう言って笑ってもらえると、たとえそれが軽薄な笑みだったとしても少し心が軽くなる。ハルユキの気持ちがちょっとだけ理解できた気がした。受け入れてもらえるというのは安心するのだ。

 

「それよりも、前もって言っておくぞ。儂が知っておる方法はチートコードなどといった、まっとうな手段ではない。

 フラスコ計画。人外(安心院なじみ)が始め、化物(黒神めだか)完成(おわ)らせた、上から下までしっちゃかめっちゃかなだけの単なる技術体系(トレーニング)じゃ。過負荷(わし)が一部とはいえ教授可能なレベルで習得でき、その一部でさえ異常(ユキカゼ)をコントローラブルな段階まで変質させたことからその効果とヤバさはお察しくださいというやつじゃな。質を問わなければ大抵のことはできる。

 しかも儂が習得しておるのは厳密に言えば健康的フラスコ計画そのものではなく、そこに至るまでに幾重にも推考を重ねて生み出されたプロトタイプが一つ『負ノ十三篇(マイナスサーティーン)』じゃからの。地獄に付き合ってほしいとは言わんし、都城王土が象徴だったころに比べたら手術も投薬も無い分だいぶ穏健とはいえ、リスクも負わずに寝て起きたら最強になれるBコースなどと思っておるのならその幻想は早めにぶち殺しておくことじゃ」

 

 相変わらず、彼女が本気で何かを言うと何を言っているのかさっぱり理解できない。根底から相手に理解させようという気が無いのだ。

 ただ、きっと今の自分の想像や覚悟は甘いのだろうということは何となく理解できた。理屈に依らず直感で、ここは引き返した方がいいと魂が囁いた。

 チユリはそれをねじ伏せる。

 

「覚悟の上です」

 

 嘘だ。きっと覚悟なんて出来ていない。それでもやるしかないのだ。チユリというキャラクターがチユリである限り、進むしかないのだ。

 

「うむ。わかっておったよ。おぬしの口から改めて聞きたかっただけじゃ」

 

 たぶん、ライハはチユリの嘘を見抜いている。見抜いたうえであっさり無視した。何故だかそんな確信があった。

 

「では、つまらん脅しはこのくらいしておいて、嬉し楽しい未来の具体的な話に移ろうか。儂の時は一年かかったし、ハル坊の時は黒雪姫の補正を合わせても半年かかったが、チユリ嬢のキャラ強度なら安全マージンをしっかり取っても二か月もあればいけるじゃろ」

「え、ちょ、待ってください。ハルもやったんですか!?」

 

 思わずチユリは聞き返していた。話をさえぎってしまったことに気づきぱっと口を押さえるが、ライハは気を害した様子もなくへらへら笑っている。むしろいたずらを自慢する悪ガキのような笑顔だ。

 

「おうよ。ハル坊は儂の同類じゃ。何もせずに何かを得られるわけがないじゃろう? ま、当人は自分が何をされたかいまひとつ理解しておらんじゃろうが」

 

 話を聞くだけでもとんでもないと思える『何か』を、すでに幼馴染が自分に秘密にして経験済みだったことに驚いたチユリだったが、そういう理由なら納得した。あの隠し事が苦手なはずの幼馴染が遠くにいってしまったように感じたのも、錯覚だったのだ。

 錯覚だったはずなのに、何故だろう。胸騒ぎが止まらないのは。

 

「シアン・パイル襲撃事件に合わせて仕上がったのは出来すぎじゃったがな。……いや、あれは黒雪姫が()()()()と見るべきか。そう考えればハル坊があのタイミングで飛行アビリティなんぞ得たのも説明がつく。追い詰められた主人公が新たな力に目覚めるテンプレートではなく、ピンチに陥った主人公を助けるためにスポットライトが当たる脇役のテンプレートだったとすれば……」

 

 そんなチユリを置き去りにして、ライハは独り言というのは大声過ぎ、説明というには意味不明な言葉を羅列し続けている。相手に理解させる気がないのはいつもの話だが。

 それを見かねたのか、今まで黙ってやり取りを見守っていたユキカゼが横から口を挟んだ。

 

「それで、ししょお。雪風たちは何をすればいいんですか? 協力を惜しむつもりは欠片もありません。ししょおにまかせっきりにしていれば死者が出ますから。でも、何をすればいいのかわからないことには動けませんよ」

「むう、失礼な奴じゃのう。この過負荷(マイナス)穏健派筆頭と呼ばれるこのライハちゃんに向かって何たる暴言。この世に生れ落ちてから、人を物理的に殺したことなど一度もないわ」

「精神的や社会的にはあるんですか? だいたい、前に『黒神めだかとの対決を前提に集められた初代マイナス十三組の一員ゆえに箱庭学園全体からすればモブキャラでも、過負荷として見れば日本で最底辺(トップクラス)の武闘派かつ比較的戦えるスキルを持った過激派』って言っていませんでしたっけ」

「~♪」

「口笛を吹きながら明後日の方向に目を逸らすっていつの時代のごまかし方ですか!?」

 

 無駄に上手いのが横で見ているだけで腹が立った。チユリもとある幼馴染の影響で同年代よりやや毒されており、ライハの会話に混じるネタが時折理解できてしまうことがある。何故だか彼女は言動や引用する元ネタがいちいち古臭いところがあった。

 規制全盛期である現代より、今からは考えられないほど緩かった時代に自由に作られたサブカルチャーの方が遥かに面白いという話はたびたび聞くし、ただ単に彼女もその意見の信奉者なだけかもしれないが。

 

「まあ冗談はさておき」

【UI> 冗談には思えなかったのです】

「冗談はさておき、じゃ。雪風には儂と一緒に計画を担ってもらう」

 

 押し切った。冗談で通すつもりらしい。

 今更ながら早まった選択をした気がしてきたチユリであったが、それでも引き返そうとは思わなかった。

 

「今回下敷きにするのは其ノ負ノ十三、通称『主人公になろう』じゃ。まあわかりやすく主人公と呼んでいるだけで、実際には登場人物になろうくらいが的確じゃがな。『愚行権(デビルスタイル)』の裏返しみたいなもので、要するに主要キャラに働く物語の補正を自分に適応させる計画と説明すればイメージしやすいか? 安心院さんの『善行権(エンゼンスタイル)』と同一かといわれれば、微妙に違うんじゃが。

 黒雪姫を主人公に据えれば、物語は必然加速世界を舞台とするゆえ、因果関係的にチユリ嬢はバーストリンカーにならざるを得なくなるじゃろう。雪風(幸運の異常性)もおるし、調整はそこまで難しくはない……はずじゃ。理論上はな」

「……倉嶋さん。心を強く持ってくださいね。自分が何のために頑張っているのか忘れなければきっと、死なずに済みますから」

 

 明らかに経験の重さ溢れる言葉と共にユキカゼからうるうるとした視線を向けられたときはさすがに心がくじけそうになったが、それでも堪え切った。

 

「けろけろ。そんな深刻な表情をせんでも、雪風のおかげで莫大な生きたデータが手に入ったから計画は以前よりずっと健康的に遂行可能じゃよ」

「あの、ししょお。いまモルモットにしたって聞こえたんですけど、雪風の気のせいでしょうか?」

「胸を張れ。おぬしの尽力で無数のモルモットがはむかぜ一匹で済んだのじゃ」

「すみません。さっきツッコんだことは謝りますからせめてごまかそうとするだけの姿勢を見せてください。心が折れそうです」

 

 崩れ落ちるユキカゼを席の関係でチユリは正面から見てしまい、その庇護欲をそそる姿に先ほどまでの自分の精神状態も忘れて手を伸ばしてしまう。面倒見の良さならチユリもかなりのものがあるのだ。

 

「大丈夫、陽炎ちゃん?」

「うう、ありがとうございます倉嶋さん。あと、雪風の呼び方は雪風でお願いします。これから長い付き合い(運命共同体)になるでしょうし、名前で呼ばれた方がしっくりくるんです」

「ありがとう。じゃあ、あたしもチユリでいいよ」

【UI> 傷は浅いのです、ユキちゃん。私もいますよ。みんなで心が折られないように協力いたしましょう。つきましては倉嶋さん、私も『謡』と名前でお願いします】

「ん、わかった。謡さん」

【UI> ……ユキちゃんがちゃん付けで、私はさん付けであることに格差を感じなくもないですが、今はそれでよしとしましょう】

 

 別にライハがさん付けしていたのに釣られただけで、他意はない。別にあのライハ先輩が敬意を払うなんてどんな小学生なんだとビビっているわけではないのだ。

 そんな()()な存在を目の前にして一致団結した三人を前に、ライハは不思議そうに首を傾げていた。

 

「特に相手を不快にさせるためなどの他意があるわけでもなく、なれなれしいと相手から不快に思われるわけでもなく、初対面から僅かの間に名前呼びまで関係を深めるコミュニケーション能力。

 ……明らかにこやつら儂の敵側の存在じゃよなぁ。どうして儂はここにいるんじゃろう?」

「ししょおが雪風のししょおで、くら、じゃなくてチユリさんの先輩で、ういちゃんの暫定保護者だからでしょう。そして雪風たちのことが好きで、その力になりたいと思っている。違いますか?」

「ふむ、たしかにその通りじゃな」

「雪風も、ししょおのことが大好きですよ。ときどき背中を刺したくなりますけど」

「儂も雪風のことを愛しておるよ。壊しそうになっても壊れんからのう」

 

 にぱっと顔を合わせて笑い合う二人を見ている限り、どうやらこの師弟関係は弟子の方が上手く回しているようだとチユリは思った。そもそも冷静に考えてみれば、この適当で気まぐれな先輩が相手に合わせるはずがないのだ。

 一見守ってあげたくなる雰囲気を醸し出すこのユキカゼという少女は、その実かなりハイスペックかつ、したたからしい。

 そんな考察ができるほどリラックス、つまりある意味油断していたチユリの視線に気づいたライハが、にっこりした表情のままチユリに顔を向ける。

 

「ん? ああ、安心院さんではないが安心せい。儂はチユリ嬢の、嫌いなものさえ目的のためなら手段に出来るしたたかさを高く評価しておるんじゃ。どうもチユリ嬢は自分のそんなところを厭うておる節があるが、なあに、この儂が保証しよう。おぬしは愛せもしない男を恋人に迎え入れるほど愚かではないよ」

 

 文脈を完全に無視した唐突かつ予想外の方向からの精神的ヘビーブロウにチユリは声もなく崩れ落ちた。視界が机の木目で埋め尽くされてもチャットウィンドウは直接脳内に情報として表示されているため、桜色の文字が鮮やかに、話題を変えようといささか性急に踊るのが見える。

 

【それで、礼羽さん。私は何をすればよろしいのでしょうか? 自らの無知と無力をさらけ出すようですが、私はキャラクターの調整といった離れ業はおろか、概念の理解さえいまだに覚束ない状態ですが】

「ああ、謡さんはバーストリンカーとしてチユリ嬢を導いてほしいと思うておる。儂らがやるのは言ってしまえば裏技を通り越した盤外戦術じゃ。ルールに統治されたゲーム内部では役に立たん。

バーストリンカーになって終わりならともかく、そこからがようやく物語の始まりであろ? 儂らにはできぬ、真っ当な知識や技術を植え付けやって欲しいのよ、雪風に射の極意を叩き込んだ時のようにな」

【もしも選ぶことが出来るのなら、あのような無茶は二度とやりたくないのですけど……】

 

 チユリの頭に小さな手が置かれ「チユリさんしっかり! ししょおと付き合っていこうと思えばこのくらいは序の口ですよ」と対面から声がかけられる。子どもの体温というのは高いイメージがあったが、ユキカゼの手はひんやりと心地よく、チユリの折れかけた心を癒してくれた。

 そうだ。こんなところで挫けている暇はないのだ。その幼馴染の関係にも答えを出すために、自分はここまで来たのだから。

 たとえ覚悟ができてなくとも、予想はついていたはずだ。無傷で帰れるはずがないと。人として欠落なく健全に生きていたいのであれば、決して近づいてはならない人種(キャラクター)であると。その上でやると決めて覚悟をしてきたと面と向かって気炎を吐いたのだから、あとは突き進むだけである。

 きっとアーモンド形の目を勝気に吊り上げて顔を上げたチユリをライハは笑顔のまま、どこか腹立たしそうに見つめていた。可愛い後輩であることと、まっすぐ歩める人間が嫌いなことは彼女の中で両立するのだ。

 プラスとマイナスは相殺されず、溶け合わないまま混じり合う。

「さて、チユリ嬢や。極力おぬしを壊さんように気を遣うつもりじゃが、なにぶん儂は過負荷(マイナス)ゆえ、どのような理不尽で破綻に導かれるかわからん。ゆえに、保険をかけておこうと思う」

 

 とろり、とゆっくりと空気が変質を始めた。まるで粘り気のある気体を少しずつ充満させたように徐々に肺の中が息苦しさで満たされる。

 すっと挙げられた手に握られているのは、五十センチの銀のXSBケーブル。それを自分のニューロリンカーに差し込んだ後、なぜかライハはもう片方を隣のユキカゼに差し出した。ユキカゼは諦めたような顔をして自分の端末にプラグを差し込む。

 

「『お楽しみ箱(トイボックス)』を贈るゆえ、雪風経由で受け取ってくれや」

「……あの、直接ライハ先輩から受け取っちゃダメなんですか?」

「儂と直結するなんて嫌じゃろ? それに、直結したら儂は間違いなくおぬしのニューロリンカーに悪意ある改変を仕掛けるぞ。おぬしのリンカースキルではそれを防ぐことはできまい」

 

 よどみなく視界デスクトップを操作しながら、ライハが真剣な表情をする。やると言ったらやる者の目をしていた。冗談でも何でもなく、直結すれば彼女はファイアウォールが九割方無効化される状況を活かしてチユリのニューロリンカーに取り返しのつかない改悪を施すだろう。

常識的に考えて最終決戦の前に主人公がやるべきキメ顔であり、なぜこのような状況下で使用するのか理解不能だった。なまじライハが美少女にカテゴライズされる顔立ちをしているだけあって、輪をかけて腹立たしかった。

 

「いつも思うんですけど、ししょお。こんなのどこから拾ってくるんですか?」

「拾うとは失礼な。ちゃんと購入しておるのが大半じゃわい。これは黄色のとこのダイヤからじゃな」

「仲悪いんじゃありませんでしたっけ?」

「おいおい雪風や。世界を見渡してみろ。敵と取引するだなんていまどき珍しくもなんともなさ過ぎて、話題に上がらんほどじゃ。ビジネスライクな関係すら結べんのならそれは、もはや仲が悪いとかそういう話ではないのよ。

 特に四転王(フォー・オブ・ア・カインド)は互いに譲れぬものを争ってお互いに夜討ち朝駆けの機会を虎視眈々と狙っておるドロドロの関係じゃから、そこに付け込めば取引までは容易じゃ」

「……もはやししょおの性分(キャラ)からいって火遊びするなとか、雪風を巻き込まないでくださいとか無駄なことは言いませんから、せめて巻き込む前に一言伝えてくれたら嬉しいです」

 

 ニューロリンカーのアプリにしてはかなり容量の大きいものなのか、はたまた弟子相手にさえ無意味なハッキングを仕掛け無価値な攻防戦を繰り広げているのか。お互いに微妙に顔を背け、視界デスクトップに焦点を合わせて指を躍らせる二人の動きは三十秒経過しても止まろうとしなかった。

 

「ああ、安心院さんではないが安心せい。たしかに遊戯として引っ掻き回すならあやつらの関係は特上じゃが、真剣に罅を入れるとなるとまず不可能じゃから。四転王(フォー・オブ・ア・カインド)の真価は、抗争と団結の切り替えの巧みさにあると儂は思うておるくらいじゃからのう。雰囲気に騙された策士気取りの手を引っ掴んで、根こそぎ破滅に追い込むあの鮮やかな手並みは一見の価値ありじゃぞ?」

「やですよそんなの。見たくないですぜったい」

「やれやれ。雪風や、たしかに間近の馬鹿は迷惑極まりない存在じゃが、自分に関係のない遠くで派手に破滅してくれる馬鹿の有り様は人生における娯楽の一つじゃぞ?」

「まともな人間は心が痛むだけですよ!」

「なら、世界の大半の人間はまともじゃなくなるぞ?」

「そんなの今更じゃないですか」

「まあ、今更じゃな」

 

 何だか流れが変わってきた。チユリは背中に一筋汗が流れるのを感じる。汗はすぐに肌着に吸収されて消えたが、肌寒い感覚は募る一方だ。

 まともって何だっけ? と考える。少なくとも目の前で話す少女たちにとっては、世間の大多数派を指す言葉ではないらしい。そして、きっと自分たちを含む言葉でもないのだろう。

 思わず隣を盗み見たチユリに対し、謡は困ったような微苦笑を浮かべるだけだった。私は違いますよ、とは言えないらしい。

 そしてきっと、このままいけばチユリも同じようになるのだろう。

 

「ああ、そうじゃ。ついでに忠告しておこう。万が一四転王(フォー・オブ・ア・カインド)の中から誰かひとり選んで戦う機会が来たら、ダイヤだけはやめておけ。儂から見てもあやつはなかなかにヤバいからのう。まあ、裏方専門のあやつが戦場に顔を出すことは滅多にないゆえ、余計な心配かもしれんが」

「フラグですよね。それフラグですよねぇ」

「おススメはスペードじゃ。あやつは癒しと、誰もが口をそろえて言う。少なくとも四人全員と戦ったことのあるバーストリンカーなら、見解は一致するじゃろう。何ならお友達になってあげてもいいぞ。儂らの周囲にはいないタイプじゃし」

「なんで上から目線で、どれだけ回答者の少ないアンケートなんですか……っと」

「む、ここまでじゃな」

 

 そんなチユリを一顧だにせず、師弟の世間話はインストールが終了するまで続いた。そう、世間話だ。彼女たちにとっては、梅雨時期に空気がジメジメしていて嫌だねえと天気の話をするような感覚。特に気に留める必要もないほど当たり前で自然な話題で話の流れだったのだ。

 相手の気持ち悪い一面を見せられたからと言って、即座に関係を切ろうとするほどチユリは考え無しでも節操無しでもないが、それでも第一印象が覆されるのは堪える。

 本当に自分はこの中でやっていけるのだろうか。

 敵などいない、むしろ味方しかいない状況下でそんな思いが脳裏をよぎるほどこの集団は異様に過ぎた。

 

「チユリさん?」

 

 向かいから投げかけられた声にチユリはハッと我に返る。ユキカゼが不思議そうに首を傾げながら、右手にプラグを差し出してこちらを見ていた。すぐにその顔に理解の色を広げ微苦笑へと変えるその様子からは、先ほどの異常(アブノーマル)な感じはしない。見た通りの可愛らしくて聡明な少女だ。

 

「やっぱり、やめておきますか? べつに今からでも雪風はかまわないと思いますよ。むしろ欠落なく生きるという当たり前の目標にすらならない前提からすれば褒められるべき行為です。逃げるというのなら、ししょおは雪風が食い止めますから」

「おいこら。儂を何だと思うておる?」

過負荷(マイナス)でしょう」

 

 彼女たちの厄介な点に、何よりも異質なのは性格ではなくて性質だということが挙げられるだろう。

 つまり、性格的には善良であることが多々あり得るのだ。それこそ情に厚く頑固な人間であれば、その手を振り払うことに耐えがたい罪悪感を覚えさせる程度に。

 今回のチユリも、そのプラグを払いのけるという選択肢を取ることはできなかった。

 

「ううん、大丈夫。ありがとう、でも余計なお世話だよ。みんなで頑張ろうって、ついさっき決めたばかりでしょう?」

 

 ワイヤード・コネクションの警告表示の後に表示された【toy box2.0を実行しますか?】の選択肢にイエスを押したとき、ユキカゼの納得したような、どこか悲しそうな肉声が聞こえた気がした。

 

「そっか……チユリさんは()()なんですね」

 

 確かなことは一つ。インストールはわずか五秒で終わったので、先ほどの妙に時間のかかった師弟間の受け渡しはライハの救われない性分に原因があったということだ。

 

「さて、無事に受け取りが済んだな。状況に即した魔法の呪文(パスワード)を口頭で教える故、ゆめゆめ忘れるなよ」

「あの、このプログラムが何なのか、聞いてもいいですか?」

「あかんよ。万が一のときに『中身は知らなかった。ただ言われるままに行動しただけ』と言い訳できんくなるじゃろう。だからメモも禁止じゃ。気合で憶えろ」

 

 当のライハは臆面もなく説明を開始するのみ。

 いや、果たしてそれを説明と呼んでもいいものか。聞いているだけで吐き気を催す最悪な状況を多岐にわたって並べ立て、その時に唱えるようにと教えられる呪文めいた音の並びは頭脳派よりも肉体派だと自認するチユリの心身を大いに消耗させた。

 十五分後、頭からぷすぷすと煙を噴き上げ再び机に突っ伏したチユリを心底面白そうに見下して、ライハは今日はここまでじゃのうと勝手に切り上げる。

 

「仕方あるまい。雪風の連絡先はもう知っておるじゃろ。後日二人で練習しておけ」

「……ゆきかぜちゃん。憶えられたの?」

「えーと、その、はい、いちおうは」

 

 ますます凹むチユリを文字通り指を指して笑ったあと、ライハはホロメニューを操作した。

 

「いい加減、飲み物だけで粘るのも飽いたじゃろう。もともと、第一回は雪風入団祝いと懇親会のつもりで集めたんじゃ。儂がおごってやるゆえ、たらふく食うがよいぞ。疲れたときは甘いものと相場が決まっておる」

「……なんでこの季節にアイスなんですか? しかも、付け合わせに肉うどん?」

 

 えんじ屋のホロメニューは同じ座敷内であれば互いに何を注文したか確認できるようになっており、ゆえにライハが要望を聞こうともせず勝手に行った四人分の奇妙な発注にユキカゼが代表して疑問を呈した。

 ライハはむふんと胸を張る。普段猫背な彼女がそんな風に強調すると、意外にあるのがはっきりわかった。

 

「暖房の効いた部屋でアイスを食べるのが極上の贅沢だからに決まっておろう。大自然の摂理を無視する優越感は最高の調味料と思わんか? それに、雪風がアイス好きじゃし」

 

 炬燵にアイスの組み合わせを愛する日本人の一人として全面的には否定しがたい理論であったが、だからと言って肯定は躊躇われるチユリであった。いつものことながらこの先輩は、わざわざ相手に反論を誘発させるような言葉遣いをする。

 ユキカゼも同じように感じたのか、たいそう微妙な表情になりながらそれに対する反論は行わずに次の質問に移った。

 

「じゃあ、肉うどんは?」

「いくら店内に暖房が効いておるとはいえ、今は冬。おなかを壊したら大変じゃからのう。あったかいものと合わせて、おなかを温めてから帰るがよいぞ。ただでさえ、おなかを冷やしやすいお子様が二人もおるのじゃから」

「……ときどき、ししょおって実はすごく何かを間違えたツンデレなんじゃないかって思う時があります」

 

 普段は性格破綻者に思えるライハでさえ、時折このような年上らしい気遣いを見せるから扱いに困るのだ。一から十まで完全に理解できない異質なものであれば、認識を放棄するだけで済むのに。

 

「中らずと雖も遠からずかもしれんな。儂がやっておるのは、たとえどれだけ常識外れで異質で異端に思えたところで、所詮は誰でも出来ることを極端にやっておるだけなのじゃから。誰にも出来ないということは、即ち誰にも理解できないということじゃ。嫌う以前に認識すらおぼつかぬよ。ゆえに探せばどこかしら何かには当てはまるじゃろう」

 

 そんなチユリの内心を読んだかのようなライハの言葉が、するりと耳の奥に流れ込んでこびりついた。もちろんライハに人の心が読めるわけがないから、ただタイミングが悪かっただけなのだろうが。

 

 ――ライハ先輩を嫌えるというのは、ライハ先輩と同じことが出来るってこと?

 

 その認識はチユリの心の奥底深くに紙魚のように潜り込み、ずっと根を張り続けることとなる。

 

 

 愛する家族を喪い、声を失い、渇望した三間四方の小宇宙を失い、かけがえのない人たちさえもう一つの幽世(かくりよ)ごと失ったと信じたあの日、少女は現世(うつしよ)の白い塔において、無色透明の檻の中で色を失いつつある魔女と出会った。

 

 能楽では人ならぬものを扱う曲目も多い。なのに、なぜ当時よりもっと幼い頃に絵本で読んだ西洋の存在をわざわざ想起したのか、いまだによくわからない。

 魔女。物語によって良いことも悪いこともする、ストーリーによっては一つのお話の中で両方の役割を担うこともあるトリックスター。善悪の観点で縛ることがそもそもの間違いなのかもしれない。ファンタジーの代名詞とも言える存在感を放ちながらも、その枠組みから半分はみ出した奇妙で異質なキャラクター。

 連想した経緯はどうあれ、まさに彼女にぴったりだった。

 

 魔女は少女の壊れた口で、あの世界に旅立つための魔法の呪文をもう一度唱えられるようにしてくれた。

 壊れた口を直すことなく、壊れたままに。

 

「さあ唱えてごらん。大丈夫、ここは病院じゃ。多少怪我をしたとて、治療はたやすい」

 

 意に反して顎が噛み合わさるたびに感じた硬い『いきもの』の歯ごたえ、そして口の中に広がる新鮮な血潮の味は、きっと一生忘れることはない。いや、絶対にできない。

 

 ごく普通の王道な物語なら、ゆっくりと少女に寄り添い、その痛みを理解し、その鎖を解き、やがては重荷から解放してやるところだろう。最後にはありふれた奇跡とかが起きて、少女は再び言葉を取り戻す。そして、いずれは家族とも和解し、果ては歴史に名を残す能楽師になるのだ。

 ドラマやアニメなら一クール、いや粘れば二クールはいける。

 

「ああ、気をつけえよ? 骨はもちろんじゃが、肉も案外硬い。下手に食い込ませると歯が欠けるぞ。せっかく綺麗な乳歯なのに」

 

 それを彼女は、過程も結果も台無しにしてわずか十分の突貫工事で仕上げてしまった。

 

 だから今でも少女は壊れたままに、普通の人間が意識もせずにやっていることを、毎回汗が浮かぶほどの苦痛に耐えながら五秒もかけてこなしている。何十、何百と、飽きもせずに、逃げもせずに。出来ないことは出来ないままに押し通せるのだと、我が身で学んでしまったから。

 それでも少女は救われた。たとえ正しくなくても、綺麗じゃなくても、歪んでいても、劣っていても、少女は魔女に感謝する。

 だからこそ悔やむのだ。

 

 なぜ、魔女が色を失い白と灰のまだらとなったのか。

 

なぜ、白い塔(あんな場所)なんかにいたのか。

 

 気にする余裕ができた頃には、すべてが手遅れになっていたから。

 

 

 

 懇親会は意外にもおだやかな空気の中でつつがなく進行していた。

 

「む、この味……牛乳を合成ミルクに変えたな。うむ、やっぱりじゃ。風味がのっぺりしておる」

「ちょ、ちょっとししょお。そんなこと大声で言わないでくださいよ。周りの人やお店の人に聞こえちゃうじゃないですか」

「なぜじゃ? 儂はこっちの方が好きじゃぞ。ほっとする味じゃ」

 

 鋭い味覚をしている、感性はともかくとして。

 同じく合成ミルクの味を感じ取っていた謡はライハの評価に新たな一文を付け加えた。もう二年以上の付き合いになろうというのに、彼女に関してはわからないことの方が多い。動作や言動の端々にどこか洗練された、いわば教養の残り香が見え隠れすることから、生家は謡同様にかなり躾に厳しい環境だったのではないかと推測できるが、その程度だ。

 暫定とは言え互いに保護者と被保護者と認め合った関係ということを鑑みれば、あまりに薄い。しかし、強引に距離を詰めようとすれば彼女は懐かない猫のようにするりと逃げてしまうだろう。

 

「たしかに。あんみつアイスと肉うどんの組み合わせがこんなに相性がいいだなんて知りませんでした。あー、もっと早く知っておけばなぁ」

 

 ユキカゼがなだめ、チユリが方向転換する。空気ブレイカーなライハを内包しながら和気藹々と会話を続けるうちにいつの間にか確立されたコンビネーションだ。一度矛先を逸らしてしまえば、別にライハは悪意を持って行動しているわけではないので簡単に破綻は免れる。ただ、空気を破壊しまいという気も彼女にはさっぱり皆無なだけなのだ。

 ちなみに謡の『会話』は周囲に聞こえないので、この場の和気藹々には参加できても店内空気の治安維持という点では二人に任せきりである。

 

「ハル坊たちにおごらせたときにもっと食べれた、か? まあ甘くて冷たいのばかりだと舌と腹が馬鹿になるのは自明の理じゃ。あったかくてしょっぱいものを挟んだほうが食が進むのは当然。晩御飯が入らんくなったり翌日の体重計がひどいことになったりするかもしれんが、些細な問題じゃ」

「そこまで想像が及びながらためらわずに甘やかしちゃうのがししょおクオリティですよね」

【奢られている以上、文句を言えないのが辛いところなのです】

 

 タイピングする動作に混ぜて、謡は隣に足を崩して座る四つ年上の少女を盗み見る。その表情に当初の怯えやぎこちなさは無い。チユリが快活な性格をしているというのが大きいだろうが、ライハはライハで腰を落ち着けて話してみればけっこう面白いのだ。

頭の回転も舌の回転も速いし、選別基準に癖があるが語彙も豊富。年上らしい気遣いや包容力を見せる一面もある。……本当に、色々と台無しな少女なのである。

 

 閑話休題。横に逸れかけた思考を本筋に戻す。

 

 いま重要なのはライハよりもチユリだ。いや、ライハが重要だからこそチユリに注目するというべきか。

 いくらユキカゼというサポートがいるとはいえ、この短時間であのライハに適応できる頑固で屈強な精神力。自らライハに取り入る行動力と、ライハの持つ秘密の一端に自力でたどり着く推理力。上出来だ。これ以上望むべくもないほどの優良物件だ。

 彼女ならばきっといける。彼女にならば託せる。

 すっとさり気なく視線を向けてきたユキカゼとぱちっと目が合い、向こうも同じ意見であることが容易に伝わってきた。

 

 思えば、この友人も奇妙な関係である。

 

 わずかひと月前に謡のクラスに転校してきた少女。その時が初対面だったはずなのに、彼女はこちらの名前を呼んだ。一目見て、信じられないというように愕然としながら

 

 いなづま?

 

 ――と。いや、よく考えたら、よく考えなくとも自分の名前ではない。しかし、その時はなぜだか呼ばれた気がしたのだ。さらに、こちらも出ない声で、こちらは正しくゆきかぜと、教えられる前に名前を呼んでしまったのだからもう意味がわからない。

 これが男女の仲だったら陳腐にラブロマンスで運命だとか、前世からの縁だとかのストーリーに発展するのかもしれないが、小学生女子二人では自分でも把握不能な感慨に満たされて教室でぽろぽろと泣いてしまった、ただのあまり思い出したくない記憶である。

 ちなみにそれが原因で、今でもユキカゼはクラスの中では不思議ちゃん扱いだ。いや、それ以降にもたびたび変な言動があるから、理不尽な扱いとも言い切れないのだが。その親しみやすいキャラクターによっていじめではなくいじられ役という立ち位置を獲得して、早々に馴染んでしまったから、幸運といえば幸運なのだろう。

謡はそれ以前の真面目で大人びたイメージの積み重ねがあったからそんな扱いは免れたことを追記しておく。

 それ以降、何かと波長が合ってともに行動することが多かったのだが、お互いに理解し合うというより、まるで久しぶりに会った友人を思い出すかのような不思議な感じがする時間だった。ライハ経由でもう一度出会ったあとは目がくらむような無茶な計画の一端を担わされそれどころではなくなってしまったが、今では迷いなく親友と呼べる関係だと思う。

 

 むしろ戦友といった方が的確だろうか。

 

 ユキカゼがすっと目を細め、いつものように『幸運』にも機会はすぐに訪れる。

 

「――っと」

 

 びくん、とライハが突然体を強張らせたかと思うと右手で自身の左手首をつかんだ。その衝撃に左手で持っていたカップが揺れ、こぼれた中身がパーカーの袖口を汚す。ちなみに彼女は幼いころに矯正された右利きらしく、意識しない動作は左で行っていることが多い。

 

「ライハ先輩? 大丈夫ですか?」

【どうしたのです?】

「あ、すみません。何か拭くものお願いします」

 

 三人が三者三様の対応を取る中、ライハはしげしげと自分の左腕を見つめた後、納得したように頷いた。

 

「む……大事ない。少しばかり左腕に封印されしものが蠢いただけじゃ。すぐに抑え込んだゆえもはや心配は無用。まあ、後で時間をつくってしっかり封印せねばならぬかもしれんがな」

 

 すごく微妙な空気が流れ、いつの間にか暗黙の了解となった代表で雪風が半眼でツッコミを入れる。

 

「あの、ししょお。たしかに学年的に直撃ですけど、ないと思います」

「すべったか……。少し唐突に過ぎたかのう、恥ずかしい。ぐぬぬ、少し汚れてしまったのでトイレで洗ってくるわ。決して羞恥に耐えかねて逃げるのではないからな?」

 

 本当に恥ずかしがっているらしい。血の気の薄い顔を珍しく桜色に染め、慌ただしい動作で席を立つ彼女は可愛らしかったが、いまだに羞恥心の基準が理解できない。

 わかるのは普段なら服の汚れ程度まったく気にしないだろうということくらいだ。それ以前に、何気に各動作にそつのない彼女が本当に服を汚してしまったのが気がかりといえば気がかりだったが、所詮は大事の前の小事だった。

 

 トイレへとそそくさと消えていったライハの背中を見送り、謡はユキカゼと目を見かわす。無言の相談はユキカゼが譲る形で終わった。関係こそ同じレギオンメンバーであり、『親子』であり、師弟であるユキカゼの方が近いが、この問題に限って言えば謡の方が根が深いのだ。

 感謝を目礼だけで示し、謡はホロキーボードに手を添える。じんわりと手の内側に汗がにじむのがわかった。

 

「あはは、食事の席で臆面もなくトイレって単刀直入に。ま、ライハ先輩らしいか……」

【チユリさん】

 

 これは目の前で朗らかに笑う年上の少女に、自分たちの過ちのツケを押し付ける唾棄すべき行いだ。借金の返済を保証人でさえない相手にやらせようと画策する、最低の行為だ。

 わかっている。それでも謡はなお止まらない。

 理由は二つ。一つは、最低はもはや自分にとって忌避すべきものでは無くなってしまっているということ。

 そしてもう一つは、自分たちがやらなければならなくて、なのに叶わないその過ちの最大の被害者は、昔も今も依然として謡の最大の恩人だということ。彼女のためだなんて腐れた戯言は吐かない。ただ、もう見ていられないのだ。だから手段を択ばないという手段を自分は選ぶ。

 

【お願いがございます。どうか聞いてはいただけないでしょうか?】

「え……。どうしたの?」

 

 輪をかけて丁重になった文体と、真剣な謡の表情に、チユリも雰囲気と姿勢を改めた。座りなおしたチユリに向けて、謡は吐き気を催すような自己嫌悪と、それでも進み続ける強い意志に板挟みになりながら鉛のような十指をぎこちなく躍らせる。

 

【これは私の個人的な『お願い』です。経験に勝る仲間としてのアドバイスでも、古参バーストリンカーとしての命令でもありません。それを念頭に置いて聞いてください】

「うん、わかった」

 

 文章を打ち込み、エンターキーを押すまでにかかった一秒の時間。それが最後の躊躇だった。

 

【どうか、礼羽さんを一人にしないであげて欲しいのです。単純に忌避するのでもなく、だからといって背中を追うのでもなく、隣に並ぶのでもない。あの人に()()()()ことが出来たあなたになら、きっと可能だと思うから】

 

 チユリの表情が目に見えてひきつった。

 

「え、と、ちょっと待って。たしかにライハ先輩は一匹狼というか、孤高の存在……あーもう、なんて言えばいいのかな。一人でいることが多いのは確かだけど、どの言葉を使っても微妙にずれてる気がする。でも、無理したり強がったりしている感じは少しも無いよ?」

 

 少し憧れちゃうくらいだもん。と、チユリはそれが憚られる真実のように消え入りそうな声でつぶやいた。いや、事実憚られることなのだろう。自分たちが必死に心を砕き維持している人間関係というものを、まるで頓着する様子を見せずに飄々と生きているその姿はある種の風格すら感じる。

 たとえそれが、まっとうに人間として生きることを放棄したがゆえの自殺に近い行いなのだと、頭のどこかで理解していたとしてもだ。人間は自分に無いものに焦がれる、救われない性分を持っているから。

 

【だからこそ問題なのです。あの人は、自らのことをいっぺんたりとて愛していない。だからどれだけ自分がひどい目に遭っても、産毛一つそよがせずにいられるのです】

「言われてみればライハ先輩って自分勝手だけど、自分大好きって感じはあまりしない気がする、かな……」

【その『自分勝手』も、表面上は誰もが不幸になる台無しな行動かもしれませんが、終わってから振り返っていればどこかの誰かが救われたりしていませんか? たとえそれが間違っていても、正しくなくても】

「へ……」

 

 チユリが固まる。予想外のことを言われたという表情ではない。幼いころに音の並びだけで憶えたアニメの主題歌を、久方ぶりに思い出したときにようやくその歌詞の意味が理解できるような、知っていたはずのことにようやく気付いた驚きだった。

 

「え、ちょっと待って。ちょっと待ってよ。でも、あれも、あれも……ってことは、もしかしてあれも……?」

 

 ライハは嘘つきだ。しかし、問い詰められたら嘘をついていること自体はすぐにばらしてしまう。それは、別にばれでもいい嘘だからばらしてしまっているのだと、考えることは出来ないだろうか。

 木を隠すなら森の中。嘘を隠すのなら嘘の隣。

 嘘をつくのはいけないことだ。なぜなら嘘は信頼をなくす。ひとつばれたらそれ以外も嘘なのではないかと疑われ、真実も嘘もごちゃまぜにしてあらかた掘り尽されてしまう。上から下まで疑って疑って疑いぬいて、疑う余地がなくなれば正義を盾に振りかざす者たちは満足して帰っていくだろう。

 その横に巨大すぎて気づけない嘘がのうのうと健在であったとしても。

 

【自己犠牲――と辞書から引き出すならそんな言葉になるのでしょうね。礼羽さんは絶対に認めないでしょうし、私も過程と結果が似ているだけの別物だと思いますが。自分の愛し方を忘れ、その上で自分の性を理解し、最も効率的に誰かを幸せにしようと動けば、そうなってしまったということでしょう】

「雪風からもお願いします。雪風たちじゃ年が離れすぎていて、ししょおと同じ学校に通えないんです。この国の子どもが一番長い時間を過ごす集団なのに……」

 

 ユキカゼの参入に、チユリは目に見えて狼狽えていた。三人の集団では二対一は数の暴力となる。流れを読み切っての参戦だとすれば、相変わらずこの戦友は冷酷なまでに優秀だ。

 

「え、ええ……なんであたし? ハルも、あの人だっているじゃん」

「有田さんは失礼ながら、ししょおの背中を追うだけでせいいっぱいに見えました。いい人だとは思いますけど、頼りにするのはちょっと」

 

 ばっさりである。当人といまだ面識はないが、四つも年下の女の子にこうまで言われたら大抵の男子はきっと泣くだろう。チユリの顔もますますひきつっていた。

 

【サッちん……チユリさんの学校では『黒雪姫』の通り名が一番有名なのでしたっけ? 黒雪姫も、ダメなんです。だって、礼羽さんから自分の愛し方を忘れさせてしまったのは当時のバーストリンカー、私たちであり、何より直接奪ったのはb】

 

 それ以上の言葉は紡げなかった。

 がくんと体が引き寄せられた衝撃で指がエンターキーを押してしまい、入力途中の文章がそのまま転写される。

 ユキカゼの呆然とした表情、青ざめたチユリの顔色を見るまでもなく、この空気をどろどろと染め上げる(マイナス)のオーラを肌で感じれば右肩に万力のような力でギリギリと食い込む繊手の持ち主は明らかだ。

 ありえない、と硬直した思考の裏側で常識が叫ぶ。謡は彼女の背中を見送った。つまりえんじ屋のトイレは謡が向いている方向の廊下の延長線上にあり、帰ってくる姿が見えないはずがないのだ。

 いくらチユリに集中していたからといって、気づかないはずがない。しかし事実として、彼女は謡の後ろにいる。

 

「いけない子たちじゃ。儂のキャラをありふれた悲劇の主人公にするつもりかや?」

 

 怒っている。鼓膜を震わせる声から感じる感情に、謡のただでさえ霜が降りていた背筋は氷柱を突っ込まれたような有様となった。

 複雑怪奇すぎる彼女の精神構造は、怒りという状態に移行することは滅多にない。しかし、それは裏を返せば怒り慣れていないということでもある。

 ゆえに一度逆鱗に触れてしまえば、今世紀の頭から言われ続けている所謂『キレる最近の若者』そのままに、最大級の激怒まで一直線なのだ。

 拘束された右肩をそのままに、左手が謡の口元まで回され、そのままぐぷりと音を立てて口内まで侵入する。歯列をかき分け、舌を弄び、歯の裏を指の腹でこする甲高い音が空っぽになった頭蓋骨の内部でよく響いた。

 

「相変わらず可愛い乳歯じゃ。今は永久歯も幾本か混じってきておるようじゃの。役目を終えるその時まで、大切にするとええ。歯は神経に繋がっておるゆえ、下手な傷つき方をすると痛いでは済まぬくらい痛いからのう。いくら医療の進歩で大抵の外傷は痕も無く治癒可能とはいえ、だからといって傷ついてよいわけではなかろう?」

 

 体に恐怖以外に起因する甘い震えが走るのを謡は自覚した。指が突っ込まれているせいで半開きの口から涎が溢れだし、頤をゆっくり滴り落ちる。

 

「お早いお帰りですね」

 

 ただ一人素早く体勢を立て直せたのは、さすがは彼女が選んだ子だけあるということか。絶妙なタイミングで放たれたユキカゼの冷静な声に、つられて思考が冷えたのか次のライハの声はいつもと大差ないものだった。

 

「おお、蛇口をひねるとな。水が冷たかったのよ。別に考えてみれば袖口が汚れたところで着れなくなるわけでもなし、三十秒で飽きて戻ってきたのじゃ」

 

 彼女の気まぐれに謡たちの行動は裏目を引かされたということである。

 さすがに濡れた服を着るほど酔狂ではなかったのか、今のライハはパーカーを脱ぎ、その下の薄いピンクのババシャツ三枚重ねを露わにしていた。残念ながら、この場にそれをツッコめるほど余裕を持ち合わせた人間はいない。

 

「で、いつまでういちゃんを捕まえているんですか? 謝りますから放してくださいごめんなさい」

「おお、そうじゃった」

 

 人の舌をこねくり回しておきながら無意識だったらしい。

 ちゅぽんと勢いよく引き抜かれた指に、てらてらと光る涎が宙に糸を引くのがスローモーションのようにはっきり見えた。唾液の甘酸っぱいにおいが鼻腔をくすぐる。

 言う通り、彼女の指にはあの時の傷跡など薄らとさえ残っていない。それでいいはずなのに、少し残念な気がするのはなぜだろう。

 

「もうしません、とは言わんのじゃな?」

「雪風はししょおとは違います。見え透いた嘘はつきません。何度叱られようと同じことをしますよ」

「余計なお世話じゃよ。今の儂が不幸に見えるか? 美幼女に囲まれ、いじりがいのある美少女に近しく、最近はかわいい男の子まで後輩にできよった。これが我が世の春でなくて何のなのじゃ」

「ちっとも不幸に見えないのが問題なんですよ」

 

 自分の呼吸を整えながら、真っ青になって震えているチユリをそっと観察する。ライハにあてられた人間とすれば、極めて普通な反応だ。そう、彼女は普通の女の子なのだ。

 

 それでも布石はなった。

 

 チユリの性格では、あそこまでいってしまえば了承の言質は取れずとも事あるごとに脳裏に今回のことがよぎるだろう。まるで呪いのように。今はそれで十分だ。

 その間に師弟の和解は一区切りがついたらしく、ライハは完全にいつも通りの雰囲気で謡の涎でコーティングされた自分の左手の指をじっと見つめていた。節操のない彼女は、怒っていたという事実に引き際がつかなくなったため別の口実を見つけて怒り続けるという迷惑な真似をしない。後腐れがない性格といえばとても間違ってるが。

 

「……………………もう一度洗ってくるか」

 

 かろうじてなけなしの良識が今回は勝ちを拾ったらしい。小学生の涎をどうすることもなく、ライハはふらふらとした足取りで再びトイレへと足を進めた。

 謡には、それがどうしようもなく辛い光景に見える。まるでその矮躯に不釣り合いな重荷を背負わされて、足を進めることすら覚束なくなった少女に見える。

 

【礼羽さん】

 

 だから、気づけば訪ねていた。鎮火した火薬庫にもう一度火種を投げ入れるような行為と知りながら、それでも謡は聞かずにはいられなかった。

 

【本当に、今のあなたは幸せなのですか】

 

 振り向きざまに返された笑顔は、まるで砕け散った硝子細工のように、破片と散った大鏡のように美しかった。

 

「もちろん」

 

 




 これにて原作二巻の話は終わりです。
 お疲れ様でした。

 ここで更新は一度ストップして、書き溜め及び調整期間に入りたいと思います。

 つきましてはその調整の一環で、オリジナルアバターを募集して番外編を書くということを試みたいと考えていますので、興味がおありでしたら活動報告に上げた応募要項をご覧ください。
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