大理石の胎児は加速世界で眠る   作:唐野葉子

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メリークリスマス。
プレゼントに番外編第一弾を半分だけお送りいたします。

……どうしてもクリスマス特別篇を書いてみたかった結果、前篇だけ書きあげて投稿してみました。


幕間:有り触れた日常
雪風の災幸なクリスマス:前篇


 

 クリスマスの朝、枕元には綺麗にラッピングされたプレゼントが置かれていました。

 雪風がいい子だったからでしょう。

 

 お父さんとお母さんがいなくなった今、もうプレゼントは置かれていません。

 雪風が、いい子でなくなったからでしょう。

 

 

 西暦二〇四六年十二月二十五日、木曜日。

 起こす人間は存在せず、目覚ましもかけていないのだが、身に沁みついた習慣は消えず、雪風は午前六時ちょうどにもぞりと毛布の中で身じろぎした。

 

「うー……」

 

 寒さが一段と厳しくなりつつあるこの時期はただでさえ毛布が手放しがたいが、今日は輪をかけて起きたくなかった。

 詳細は覚えていないが、人生最悪の目覚めである実感がある。

 とても嫌な夢を見たのだ。直視したくない現実を、無理やり押し付けられる悪夢を。夢の中なのに現実を直視って何なんだろうと、働いていない頭でぼんやり考える。

 しょぼしょぼと開かれた眼が、意思を感じさせない動きでぼんやりと周囲を彷徨う。その視線が何も置かれていないベッドの枕元に向けられたとき、雪風は唸るのをやめた。

 

「……おきよ」

 

 雪風が東京杉並区に引っ越してきてから今日で三日目。

 向こうで終業式を終えてからそのまま引っ越しに移行した初日は、時間的な余裕で登校することは不可能だった。そして二日目である昨日水曜日から、彼女の新しい学校である私立松乃木学園は冬休みに入っているため、雪風の初登校は十三日後の一月五日月曜日となる。

 冬休みに入る日にちが一致したのは幸運だった。たとえ友達と呼べる人間が少なくとも、ちゃんと一区切りつけてお別れを言うことが出来たのだから。

 

 というわけで、今日の雪風に登校の義務はない。

 面倒な引っ越しの手続きや転校に関するあれやこれやはすべて今の保護者がやってくれたため、雪風がやらなければいけないのは顔見せのつもりで向かった昨日にどっさり渡された冬休みの宿題くらいだ。

 ……まさか、まだ正式には登校もしていないのに宿題の呪縛から逃れられないとは思わなかった。さすがは開校九十五年になる伝統のお嬢様学校というところか。

 転校の恩恵でしばらく勉強から解放されると思っていた雪風としては当てが外れたかたちだ。宿題を渡してくれた担任になるという上品な雰囲気の初老女性教師は、笑顔でこの学校は普通よりも幾分か進んでいるから、わかる範囲でいいよと口では言っていたが、目が笑っていなかった。

 伝統校はプライドが高い。言葉を鵜呑みにしてこの休みを怠慢に過ごし、前の学校との学力差を埋める姿勢を見せなければ、無言で容赦なく置いていかれるだろう。

 少子高齢化の進行により慢性的な人手不足に陥っている今の社会は、若年層を労働力とすることによってその維持を試みた。その副作用で子供が背負うべき責任は増大し、昔に比べ子供が子供でいることを許される時間はとても短くなりつつある。

 小学校三年生である雪風も、明確に言葉にはできずともその空気は敏感に感じ取っていた。

 不幸中の幸いというべきか、雪風の成績は前の学校ではかなり上の方であり、渡された宿題の内容も難しいが、自力で解けないレベルのものは存在しなかった。困ったときに聞ける相手がいないから、これは実にいい話だ。

 わからないと伝えれば家庭教師くらいつけてくれるかもしれないが、下手に借りを作りたくない。

 

 頭の中で今日の予定を整理しながら、ふわふわもこもこの上下繋ぎタイプ羊パジャマ姿のまま雪風は牛柄のエプロンを上に装着し、キッチンに立った。

 食べさせる相手はいない。一人分の朝食。この高層マンションの一室には、たいてい雪風一人だけである。

 今の保護者はいちおう名前と顔が一致する程度の浅いつながりだ。たしか仕事は貿易商だっただろうか。小学生一人に対してホームヘルパー付きでマンションの一室を貸し与えたり、名門お嬢様学校に入学させたりと経済力はあるのだろう。

 何を期待していたのかは知らないが、一度雪風の『幸運』を見て以来距離を取ることを選択した大人だ。賢明な判断だと思う。そう冷静に考えている自分が、少し気持ち悪かった。

 とにかく、相手は各種手続きの代行と初回の学校に付き添いこそしたが、それで保護者としての責任は果たしたといわんばかりの態度だった。ならば雪風も被保護者として、極力迷惑をかけないように大人しく過ごすだけである。育児放棄(ネグレクト)で訴えれば勝てるかもしれないが、その先にろくな展望が見えない。

 小さな冷蔵庫の中からベーコンとほうれん草と卵を一つ取り出し、流れるような動作で五枚切りの食パンの袋を開封して一枚トースターにセットする。

 ベーコンは塊ではなくスライスされたパック入り三枚入り、ほうれん草は冷凍食品のパックという横着だが、このくらいは見逃してほしいと、雪風はここにいない誰かに言い訳する。自分だけのために握るフライパンは、とても重たいのだ。

 まずはベーコンを焼き、いい音を立てて先がカリッと焼け始めたら素早く皿に移して残った油でほうれん草適量と卵を投入。塩コショウで味付けしながらフライ返しで手早くかき混ぜてスクランブルエッグにする。

 シャコンと乾いた音と共に吐き出された食パンを皿に載せ、オレンジジュースの入ったコップを横に並べれば、十分でできるお手軽朝食の完成だ。肉、野菜、炭水化物の三つが一応は揃っているのが最後の良心。

 

「いただきます。お父さん、お母さん」

 

 いつしか習慣になった、両親への言葉が付随した食事の挨拶。

 ベーコンを乗せたパンの味は、やはりどこか味気なかった。

 

「白いご飯が食べたいなぁ……炊き立てのやつ」

 

 レンジであっためるやつではダメだ。あれは味が糊っぽく感じる。食べているうちに冷めるとよけいに。

 だからと言って小学生の女の子一人で使うには、このマンションに設置された小さい炊飯器でも大きすぎた。お米だって重い。買ってくるところからして難しいし、買ってきたところで腐らせてしまうのは両親の教えに反する。

 別に今の保護者は生活費としても小遣いとしても不自由しない額を送られている。店屋物を利用すれば表面上の豊かな食生活には不便しないだろう。コンビニ弁当だってレトルト食品だって、昔よりずっと味も栄養バランスも進歩している。

 でも、それをしたら最後の何かが崩れてしまう気がして、いまだに雪風は極力自炊するようにしていた。自炊は安いとよく言うが、一人用のものだとどうしても割高になるので必ずしもその限りではない事実が着実に心を削る。

 

「カレー、食べたい……」

 

 一人分だけで作るにはどうしても難しい雪風の大好物。思い出の中のそれは、市販のカレールーだから特別な味であるわけがない。だからと言って店の味で代用する気にはどうしてもなれなかったあのスパイシーな香りと味を思い出したとき、急に限界を超えてしまった。

 ぽろり、と涙が一粒こぼれ落ちる。

 

「あれ……?」

 

 右目から一筋落ちたらもう止まらない。左目からもあふれ出し、ぽろぽろとこぼれ落ちる涙で皿を汚さないようにとっさにティッシュを箱ごと手に取った。

 

「おかしいな、最近は来てなかったのに……ああ、もう、泣くなぁ」

 

 言い聞かせたところで、自分の身体のはずなのにまるで言うことを聞かない。

 これじゃあ、まるで自分が可哀そうみたいじゃないか。

 これじゃあ、まるで自分がみじめみたいじゃないか。

 目の下を拭っても鼻をかんでもちっとも止まらず、雪風はそんな弱い自分が大嫌いだった。

 泣いたところで何かがどうにかなるわけでもあるまいに。

 可哀そうにと、誰かが手を差し伸べてくれるわけではないし、誰かが助けてくれるまで大人しく待つ気もさらさらない。

 ゴミ箱の中にぐしゃぐしゃになったティシュが積み重なっていく中、雪風はふと首筋に違和感を覚え、昨日はニューロリンカーをつけっぱなしにして寝たことを思い出す。そして、連想して昨日出会った『あの人』のことも思い出した。

 初対面からして明らかに怪しく、妙になれなれしく接してきた彼女に、どうしてよりにもよって直結なんて許して、さらには送られてきた謎のアプリをインストールなどしたのか、雪風は自分で自分がわからない。

 惹かれたのだろうか。あの何もかも、上から下までごちゃまぜの台無しにしてくれそうな、破綻しか見出せないキャラクターに。

 だとすれば、今の雪風はけっこう危ない領域まできているのだろう。両親から受け継いだこの命を粗末に扱いたくはないから、適当にメンタルクリニックでも探し始めた方がいいのかもしれない。

 

『このアプリは、おぬしの世界を根こそぎ破壊するじゃろう。そのあとに再構成があるかどうかは、おぬし次第じゃがな』

 

 ふとアプリをインストールするときに伝えられえた、『あの人』の言葉が蘇った。別に信じたわけではない。世界は一度、雪風の思いもしなかった形で壊れたが、それでも世界は何事もなく壊れずに続いている。たかだかアプリ一つで根こそぎ破壊できるはずがない。

 それでも……もし本当に破壊が可能ならば、と雪風は思う。

 

(どうせ壊れるなら、いま壊れちゃえばいいのに)

 

 次の瞬間、少女は世界が壊れる音を聞いた。

 スイッチを切り替えたかのように一瞬で視界は闇夜に包まれ、その中央に赤々と燃え上がる『A BATTLE ROYAL IS BEGINNING!!』の文字。

 

 

 

 ――ここで一度本筋から外れるが、ブレイン・バースト、正式名称『Brain Burst 2039』というゲームについて少し触れるとしよう。

 西暦二〇四六年現在、約千人の子供たちを虜にしているこのゲームだが、ゲームバランス的な面で考えればライトユーザーから批判が殺到すること請負のかなりヘビーゲーマー向けな仕様なのである。

 取扱説明書もナビゲーションシステムもなければ、攻略wikiさえ存在しないというのはもちろんだが、そもそもレベルアップにさえバーストポイントが必要とされる一点と、そのバーストポイント取得の主な方法が対戦に勝利することという点から考えてみればおのずとわかる。

 つまり同格だけを選んで戦い続け、勝率五割をキープしたところで、レベルアップはおろかゲーム喪失に向けて一直線なのだ。しかも救済措置ともいえる、エネミー狩りによるポイント獲得はレベル4以上の特権だ。そのレベル4に上がるためには初期ポイントを一切使わず、安全マージンを無視したとしても合計でポイント変動皆無の新人(ニュービー)を十二人全損に追い込むだけのバーストポイントが必要とされる。

 残酷なまでに一握りの強者のみが上に進み、大半の弱者は捕食されるか、あるいは衰弱死するゲームバランス。それがこの圧倒的熱狂の陰に隠れたブレイン・バーストの闇なのだ。

 そのゲームバランスから、製作者の意図を読み取ることはできないだろうか。

 

 すなわち、弱者は不要、と。

 

 そんなバランスによってデザインされたこのゲーム。ならば、デフォルト設定でバトルロワイヤル・モードがオンになっていたところで、何の不思議もないだろう。

 つまり、記念すべき第一回の対戦が右も左もわからないままバトルロワイヤルというアクロバティックすぎる経歴を持つバーストリンカーがいたところで、何ら不自然な点は存在しないということだ。

 この時点ではまだ何も知らない少女も、その一人だった。

 

 

 最初に感じたのは『まさか』だった。

 次に『もしかして』、おしまいには『やっぱり』が来る。

 

 視界が再び開けた時、たしかに世界は一変していた。

 

 先ほどまで狭い室内にいたのが、頭上には粉雪が音もなく降り注ぐ夜空が広がっている。どうも自分はかなり高い建物の屋上にいるらしく、下に広がる町の夜景が一望できた。

 しかしこの景色に静寂はかけらもない。

 宗教に無節操なこの国ならではのクリスマス一色のイルミネーションの飾りつけに加え、なんだかネオンやライトやレーザーによる装飾がごてごてと五割増しで追加され、さらには見覚えのない飛行船が巨大な広告パネルを備え付けて低空を悠々と泳ぎ、雪風の知らない言語で広告を次から次へと流していた。

 なんだか、日本をよく知らない外国人に秋原場あたりを想像させたものにSF要素を追加して血肉を付けたような光景である。『繁華街』という言葉が脳裏をよぎった。

 

 だけど、壊れるというにはあまりにもお粗末な結果だ。

 

 変わっただけで、何一つとして終わっていない。やはりアプリ一つで世界を壊すなんて戯言だったのだ。思わず肩が震え、くくっと押し込めたような笑い声が漏れる。

 

(……わらってる?)

 

 それを耳で聞いて初めて、雪風は自分の口角が吊り上がっていることを自覚した。慌てて元に戻そうと顔に手を当て、自分の姿さえも一変していることに気づく。

 白い。第一印象はそれだった。まるで今世紀初頭に洋服店に並んでいたというマネキン人形、それの子供バージョンみたいな整った無機質な手が自分の頬を触っている。

 そして、手に感じるのはまるで硬い仮面に触れたような感覚。試しに指で突こうと意識すると、白い手がタイムラグなしで同調して動きこつこつと乾いた音を立てた。頬っぺたと指先の両方に感じる接触情報。

 どうやら、これがこの世界での自分の身体らしい。

 フルダイブにより自分の身体が生身の肉体以外のものになることに慣れている世代の雪風は、一度そうと受け入れてしまえば適応は早かった。

 視界に移る風景は以前脳内に叩き込んでおいた自宅周辺の地図情報と細部こそ違えど、ほぼ一致する。きっとこの世界はリアルの情報、たとえばソーシャルカメラなどの映像をもとに(常識的に考えて、政府の厳重な監視網を潜り抜けて映像を私的利用なんてあり得ないが)構築された仮想空間なのだ。

 この人形なのかロボットなのかわからない装甲に包まれた白いアバターは、その世界で動くために用意されたものだろう。

 

 くだらない。

 

 今度は、はっきりと意識して雪風は鼻で笑った。どうやら自分は『あの人』に対して過剰な期待を抱いていたらしい。

 たしかに、この現実と見紛うほどに作り込まれた仮想空間は見事だ。今のニューロリンカーの常識として触覚の再現性はまだまだ研究段階であったはずだが、手のひらに感じる自分の身体は生身の柔らかさと温もりを感じる。それだけでも業界に革命が起こせるだろう。

 そして、それだけだ。

 この程度で世界の破壊など片腹痛い。たとえどれほど精巧に作り込まれていようが、所詮は仮想なのだ。そちらこそ現実と信念を抱く人種もいるらしいが、勝手にやってくれと思う。否定する気はないが、自分を巻き込まないでほしい。

 雪風は現実に生きる少女なのだから。

 

「……どうやったらログアウトできるんだろう、これ?」

 

 とはいえ、今すぐ落ちて朝食を再開し、冬休みの宿題に取り掛かるということはできそうになかった。試しにリンク・アウトと一般的なフルダイブ解除のボイスコマンドを唱えてみても変化はない。

 そもそも、手段はわからないが相手は問答無用で他人を強制フルダイブさせる輩だ。目的も果たさずに帰してもらえるとは思えない。視界上中央で【1800】から始まり徐々に減っていく数字はタイムカウンターのようだが、それがゼロになったところでタイムアップで終了とは限らない。

 非常に癪ではあるが、主導権は向こうにある。

 見れば、視界中央下にはあからさまにこちらを誘導しようとする水色の矢印が半透明に浮かんでいる。こちらに進めという意味だろう。

 せめて面を向って一言文句を言ってやる。そう決意して足を踏み出した雪風であったが、その歩みが止まるのにそう時間はかからなかった。具体的には十秒後ほど。

 

「……たかいなぁ」

 

 そう、経緯は不明だが、なぜか雪風は自分の住んでいる高層マンションの屋上を模した場所に出現したのだ。おそるおそる下をのぞき込んでみるが、さすが二十五階建ては伊達ではない。視界がくるくる回るような気さえした。

 一般的な仮想空間なら何も問題はない。動いた限り物理演算は働いているようだが、生身の肉体とは違うのだ。普通なら落下したところで何ら問題はない。

 しかし圧倒的にリアリティに満ちたこの世界と、視界右上に表示された二つのゲージとその上の『Snow Wind Lv.1』の文字が壮絶なまでに嫌な予感を雪風に抱かせるのだ。

 ピカピカ光る緑ゲージと、その下で明りの消えたような暗い色合いをした青の細いゲージ。……まるで、MMORPGのキャラクターのHPとMP、あるいは前世紀に一世を風靡したという格ゲーの体力ゲージと必殺技ゲージのようだ。施設を転々としていた時期もある雪風は、今ではまずお目にかかれないような古いゲームも手に取る機会があった。

 そう考えたらこのアバターデザインも意味があるように思えてくる。一見は白一色に思えるこのアバターだが、実際は生き物の体表めいた濃い白の素体部分と、雪のような透明度のある白の硬質素材の部分に分かれている。素体部分は人間の身体のような質感であり、硬質素材はその動きをまったく阻害しない高性能な装甲のように全身を覆っている。

 そう、装甲である。なんだか戦えちゃいそうなデザインなのだ。

 そして戦うことを前提とするならば、傷つくのはある種当然の帰結と言えよう。

 

「うーん……」

 

 痛覚の再現は違法であるが、痛覚遮断機能(ペインアブソーバー)解除は少しでもリンカースキルのあるものがネットで探せば簡単に手に入る程度のプログラムであるし、強制フルダイブを経験した以上いまさらという気もする。

 目がチカチカする様な装飾過多な夜景を見下ろすのに忙しい雪風は、視界から水色のガイドカーソルが消えたことにも、その意味にも気づけなかった。

 とん、と友人に挨拶する様な軽い動作で雪風の肩が押される。前のめりになって下を見ていた少女がバランスを崩すにはそれで十分だった。

 

「えっ」

「Good luck,Snow Wind!」

 

 ひょうと耳元で加速し始める空気に紛れて聞こえた、無駄に発音のいいどこかで聞き覚えのある声。

 現状認識が追い付かない少女の脳は、とりあえず無性に腹立たしいと感じた。

 

「…………ひゃああああああ!?」

 

 現状把握。落下中。

 単純明快すぎて泣けてくる。泣いている暇などないが。

 

(おち!? 風すごっ! 死ぬ? でもゲーム、嫌な予感が凄い。何か手がかり。探している時間が)

 

 人間は限界を超えた状況に遭遇すると、思考が破綻し一度に感情レベルの単語が沸きあがってくる。いわゆるパニックだが、雪風の場合、()()()()とっさに振り回した腕がマンションを装飾していたごてごてしたイルミネーションのコードの一つに引っ掛かり、その落下軌道を変更させた。

 ぶちぶちと嫌な手ごたえが腕に伝わり、剥がされたイルミネーションからにぎやかに火花が散る。それをロープ代わりに一直線の自由落下から振り子の動きで雪風はずらりと並んだ窓の一枚へと向かう。この軌道からいけば窓ガラスを割って建物内部に入ることができそうだ。

 ごく普通の小学生としてガラスを割ることに抵抗が無いわけではないが、この状況では背に腹は代えられない。見通しがついたことで余裕を取り戻した雪風は、そんなことを思いながら衝撃に備えて身に力を込めた。

 

「ふぎゅ!?」

 

 しかし、その見通しは儚くも崩れ去る。窓ガラスに衝突しようとしたその瞬間、黄色い半透明のホロウィンドウが窓の少し前に表示され雪風の身体を弾き返したのだ。何か英語で書いてあった気もするが、さすがにこの状況下で読むことは不可能。

 侵入不可属性。雪風がその言葉を知るのはまだ先の話である。

 この時、かろうじて認識できたのは三つ。まず、視界右上に表示された緑のゲージが少し減少し、反対に青いゲージの端っこが少し光ったこと。次に、手に持っていたイルミネーションが衝突の衝撃で完全に千切れ、再び雪風は手がかりも足がかりもなしに重力の魔の手の中に放り出されたこと。そして、衝突時に鈍くも大きい痛みがぶつかった腕と足に走ったということだ。

 この世界には痛覚が適応されている。その事実は足の下に地面が無い事実以上に、雪風を恐怖させた。

 たかがゲーム。その認識を吹っ飛ばすのに、痛みというのはそれだけで十分すぎる存在だ。この高さから落ちれば痛いでは済まない。

 

 死ぬかもしれない。

 

 フルダイブ状況下で死ぬなんて、SF作品で稀に見るデスゲームではあるまいし。しかしそんな常識は、もはやこの状況に陥った時点で通用しないのだ。あまりにもリアルすぎるこの世界の造詣が、その思いに拍車をかける。

 

(しぬ? こんな場所で、わけもわからずに)

 

 重力に引かれてどんどん加速しているはずの自分の身体が、妙にゆっくりに感じた。

 きらきら光る世界から、自分が断絶されてしまったような気がする。

 両親に先立たれ、自分が守られていたのだということを嫌というほどまでに理解できる経験をたくさんした。それでも幼いなりに、無力ななりに全身全霊の力を振り絞って生きてきたつもりだった。

 それが、終わる。こんな意味不明な状況で、そもそも意味があるのかすら定かでないこの場所で。

 

 自分の奥の何かが、ひび割れた音がした。

 

 世界の見え方が、幕を外したように、膜を剥がしたように一変する。

 

「ふっ…………ざけるなぁ!」

 

 怒鳴ったところで何ができるというわけでもない。窓に弾かれた衝撃で雪風の身体は放物線を描いて元いたマンションから遠ざかっているのだから。日当たり交通の面から、どれだけ幸運だろうと飛び移れる距離に別の高層建築物は存在しない。

 そんな常識は頭の中から完全に消滅していた。ただ感じるままに、ただ雪風が雪風であるままに、己の中にあるそれを制限皆無の手放しで開放する。

 白い装甲から粉雪のような淡く細かい光の粒子が立ち上る。過剰光(オーバーレイ)というその言葉を雪風は知らないし、そもそも気づく余裕はない。ただ現象だけが続けざまに発生した。

 まず、強い風が吹いた。別にそれ自体は特別なことではない。荒野ステージの突風ほど頻繁ではないが、このような高層建築物が立ち並ぶステージではいわゆるビル風が吹くことある。雪風の軽量級アバターはその風を全身に受け、衝突時に発生したベクトルと相まって複雑極まりなくもれっきとした物理的計算に基づき、くるくると木の葉のように回転し始めた。また、その落下軌道も微妙にずれ始める。

 本来の地形ならそれでも地面まで一直線だっただろうが、ここは現実世界をもとに再構築された繁華街ステージ。無節操に電飾や一昔古い電光掲示板が立ち並んでおり、雪風の身体はまるでピンボールのように次から次へとそれらマンションから突き出たオブジェクトに衝突して落下の勢いを弱めていった。

 そして着地。ピンボールよろしくシェイクされくるくると回転する雪風が、自分の意志で受け身など取れるはずがない。ゆえに駐輪場スペースのトタン屋根が変じた比較的脆くて柔らかい地形オブジェクトの上に落下したのも、その屋根を突き破って地面に接触した際に回転が五点接地回転法と同様の働きをして高所落下ダメージの大半がキャンセルされたのも、単なる偶然なのだ。

 まっとうな技術によるものではなく純粋に幸運のなせる業であったため、そのまま雪風は衝撃を殺しきれずにゴロゴロと道路を転がり続け、やがて別の建物に衝突して止まった。集中力が途切れたため、全身から立ち上っていた光がふっと掻き消える。

 

「かはっ……!」

 

 衝撃で全身が痺れ、呼吸すらままならない。それでも酸欠に陥らないあたり、本当にこの身体は人間とは構造が違うのだと実感できた。

 生きている。どうも状況からHPゲージと思しき視界右上の緑ゲージは半減し色も黄色く変化してしまったが、間違いなく生きている。その下の細い青いゲージは八割がたが満たされてピカピカのん気に光っていた。

 このまま道に四肢を投げ出したまま、目を閉じて眠ってしまいたくなるような疲労が雪風を襲った。しかし振り絞られた精神力がいくら休息を訴えたところで、雪風は眠ることができない。

 

 まるで五感のどれにも当てはまらない自分の知らなかった感覚器官の表皮が、力尽くで剥かれてしまったようだ。

 

 ビリビリと目をたとえ閉じたところで、『何か』越しに世界を感じる。それを通じて、雪風は自分のすぐ近くに自分以外の誰かがいることを察知していた。その人物は特に隠れるつもりはないようで、迷いない足取りでこちらに歩み寄ってくる。

 何が目的かはわからないが、害意があるのならもっと違う足運びになる。なぜかそう確信した雪風は全身がいまだに痺れていることもあり、その場に大の字になったまま相手を出迎えた。

 

「あらぁ? 天使の降臨にしては騒がしいと思ったけれど。ちょっとアナタ、大丈夫?」

 

 かけられた第一声は包容力に溢れた、やさしいものだった。

 しかし雪風はぎちりと身を強張らせる。声をかけられた以上、こちらも何かを返すのが礼儀だ。そして相手の顔も見ずに会話できるほど、雪風は無作法者ではない。両親は対人関係に困らない程度にしっかりと雪風を躾けてくれたのだから。

 だから少女は決して麻痺だけではない要因でギギギ……と錆びついた動きで首を動かし、相手の姿を視界に捉える。そして、やっぱりあのまま目を閉じて眠ってしまえばよかったと一瞬本気で後悔した。

 声で薄々察してはいたのだ。女性らしい口調に対し、その声質は明らかに声変わりを経験済みの男性のものだったから。別に雪風はそういう方面を否定するつもりはない。時折抵抗を感じてしまうこともあるが、そんなときの自分を恥ずかしいと思う程度には肯定派だった。

 それでも、さすがにラピスラズリ製の大柄な仏像めいたふくよかなアバターが立っていれば目も逸らしたくなる。

 仮にこれが夢だとすれば、極彩色の悪夢だ。

 

「……たいへん申し訳ありませんが、その問いに適切にお答えすることは雪風には不可能です。大丈夫以前の問題で、いったい何がどうなっているのか、ここがどこで、何が起きているのか、雪風にはさっぱりわからないのですから。できればお教え願えませんか?」

 

 それでも相手の態度からあの瑠璃仏像アバターはAIなどではなく生身の人間が動かすものであり、さらにはその落ち着いた様子からこの状況の経験者だと冷静に判断し情報収集に努めることができるのは、並外れた精神力の強さと非凡な才能の証明だろう。

 三割削減ゆとり教育も今は昔。グローバル化が進んだ昨今、いまや小中学生にも英語教育は浸透しているが、さすがに小学三年生の雪風ではローマ字読みのマスターまでがせいぜいだ。

 だから彼を視界に入れたと同時に視界右上に小さく一本だけ追加された緑ゲージと、その隣に並ぶ英字で表示された名前を、雪風は完全に読むことができなかった。

 

(【Lapislazuli Physician Lv.6】……らぴすらずり……なんだろう、読めない)

 

 ラピスラズリ・フィジシャン。

 『瑠璃の医師』の意味を名に持つ彼に最初に遭遇したことが今回の対戦において最大級の雪風の幸運だったことを、この時の彼女がまだそれを知る由もない。

 

 

「うむ。生きておるようじゃな。重畳、重畳」

「私もたいがい外道の自覚はあるけれど、あなたはそれに輪をかけて鬼畜なの」

「情報屋など善良ではやってられんからな。手を伸ばせばまず確実に救える無数の悲劇を意図して見逃したおぬしは、たしかに外道の誹りを免れんじゃろう。

 しかし、儂が鬼畜というのには異論があるなぁ。鬼や畜生程度と同列に並べるな。儂は過負荷(マイナス)じゃ」

「……そうね、訂正するの。あなたは過負荷(マイナス)。それ以外の言葉で表現するのは不適切」

 

 とある高層マンションの非常階段に、二人のアバターが身を寄せ合って立っていた。

 狭い足場の都合上必要に迫られての距離関係であり、他意はない。

 

 片方は約二か月前に衝撃の復活を果たした加速世界最低の犯罪者、マーブル・ゴーレム。そのアンバランスに大きい頭と、小さな四肢と細い胴体は性別を感じさせない異形だ。声を聞けば脳髄に突き刺さるような甘い少女の声であるのだが、それがますます彼女から感じる気持ち悪さを増幅させる。

 もう片方も性別の判別が難しいアバターだった。ハスキー気味な声は女性とも、少年ともどちらとも取れる。普通は身体のラインで区別可能なM型F型(男女)も、どちらかといえばほっそりとした女性的なイメージがあるが、透明なアバターの表面を絶えず大量の流水が循環し輪郭を流動させているため確信までは至らない。

 もっとも、二人はリアルを含めて知り合いであるため、お互いに相手が少女であることを知っていた。

 

「それで、感想はどうじゃ?」

「たとえどんな目的があれど、説明もなくあんな高いところから突き落とすなんて、私の知る限りレイカーぐらいしかやらないの。やっぱりあなたとレイカーは似ている」

「やめい。アレと一緒にするな。キャラが被っておったのは昔の話じゃ」

 

 単眼以外はのっぺらぼうであるのにも関わらず、あからさまにそうとわかる嫌そうな顔をするマーブル・ゴーレムに、流水色のアバターはクスリと笑みをこぼした。

 嫌われている相手は現実世界加速世界を問わず枚挙にいとまがないマーブル・ゴーレムだが、彼女が誰かを嫌うということは実はあまりない。

 一方のレイカーも、今は隠棲しているもののかつては強敵と書いて友と読む関係の対立関係は掃いて捨てるほどあったし、PKプレイヤーは容赦なく全損させるような過激な一面もあったが、同じ主君を仰ぐ同朋でもあった少女が知る限り『嫌っている』のはマーブル・ゴーレム一人だけだ。

 信念の違いというものあるだろう。心意のライトサイドを誰よりも信じているレイカーと、心意のダークサイドの底辺を突き抜けてその向こう側まで行ってしまっているマーブル・ゴーレム。心意はその性質上妥協が効かず、主張が噛み合わなければ真っ向から衝突するしかなくなる。

 しかしそれ以上に、ケンカするほど仲がいいという諺を当て嵌めたくなるのは、両者ともに憎からず思っている少女の我儘だろうか。

 少なくとも、当人たちに知られたら普段浮かべている笑みが消えるレベルで真剣に否定されることだろう。その光景を思い浮かべて、もう一度少女はくすくす笑った。

 

「あのなぁ。儂のことでなくあやつのことを聞いたということくらい、ワン公ならわかっておるじゃろう」

「ええ」

 

 仕切り直しだ。少女は口調を真剣なものに改める。

 

「……話には聞いていたけど実際にこの目で見ると、やっぱり複雑なの。私たちが長い歳月の果てにたどり着いた場所が、彼女にとってのスタート地点だなんて。たしかにチュートリアルも取扱説明書のないこの世界、最初の一人は誰に教えられることもなくそこにたどり着いたはずと、頭では理解できるのだけれど」

「けろ。安心院さんではないが安心せい。前にも説明したじゃろ? 別にあやつや儂は外れていても優れておるわけではない。『スキル』と心意の発動ロジックはほぼ同じなんじゃよ」

 

 心意。

 バトルロワイヤルという通常よりも参加者が多く、必然的にギャラリーも含めると通常対戦の倍ではきかない人数がいるだろう空間で気軽に出していい単語ではない。

 しかし口に出した本人はルールで定められているから従っているだけで、人に聞かれなきゃそれでオーケー。万が一ミスって心意(インカーネイト)システムが加速世界に流出して混乱が起きようが真剣に知ったことではないと考えていたし、聞いている方はその性格を熟知したうえで、万が一誰か来ても話し続けている場合は物理的に口をふさいでしまえばいいと割り切っていたので、そのまま会話は滞りなく進められた。

 

「以前黒雪姫が儂を指して『世界はそこまで寛容でない』と言ったことがあったが、奇しくもその発言はスキルの本質を突いておる。

 『世界の許容範囲を超えたキャラクター性が、物理法則を超越して直接現象を発生させる』――『スキル』とはつまり、そういうことじゃからな。自分が自分である限り、世界を塗り潰すことを自然とやっている能力保持者(スキルホルダー)にとって、『強いイメージによって世界を上書き(オーバーライド)する』という心意は、あまりにも容易く訪れる力じゃ。……それが特別な封じられた力なのだと、悟ることさえできないほどに、な」

 

 たしかにこうして並べて聞いてみれば、あまりにも似通ったロジックだと少女は思った。超能力じみた現象がキャラクター性によって引き起こされるなどといまだに信じがたいが、実際にできる人間が目の前にいるのだから否定しても始まらない。

 現実世界を捻じ曲げる『スキル』に比べたら、心意はシステムに組み込まれたロジックの上で引き起こされる分、加速世界から認知されている気がする。否、チート行為は片っ端からパッチが当てられて使えなくなるブレイン・バーストで、これだけ長い間修正される気配がみじんもない心意システムが、『通常のシステムの枠を超えた力』という形で初めから設定されているのではないかという話は、以前から古参の間で密かに囁かれていたことだ。

 このように見てみると、まるで心意のロジックは意図的に『スキル』をトレースしているようで、まるで練習台というか。

 

 あるいは、かつて剣を捧げた彼女の主が求めた『加速世界の目的』はもしかして――

 

 横道にそれかけた思考を、少女は一つ頭を振って追い払った。情報の欠片を紡ぎ合わせて一つの全体図を作り上げることは重要だが、今は考察フェイズではなく情報収集フェイズだ。

 今、少女の目の前には水を変形させて作ったスクリーンがあり、その中には大柄な瑠璃色のM型アバターと会話する小柄な白いF型アバターが映し出されている。さすがにこの状態では音を拾うアビリティまでは併用できないが、知りたければ隣に聞けばいいだけの話だ。嘘が混じる可能性は高いので正確性は欠けるが。

 

「さてはて。これが終わったら心意の抑え方を叩き込んでやらんとなぁ」

「耳を疑う発言だけど、そうでもしなければまともに対戦できないのなら是非もないの。それで、彼女はどんな能力(スキル)を持っているか、もし仮説があるのなら聞かせてほしいの」

「悪いがここから先は等価交換じゃ。あの子と話しておるラメ入り大仏さまのプロフィールを教えてくれんか、情報屋さんや」

「……彼の名前はラピスラズリ・フィジシャン。無所属のレベル6。それと私は情報屋ではない。用心棒(バウンサー)

「レベル6? 無所属でか。それは凄いな。それと何が用心棒じゃ。あんなもん、各組織に草を植える手段の一つであろうが」

 

 ブレイン・バーストのソロ到達地点の限界はレベル4と言われている。自由度が高すぎるこのゲームでは、情報の重要度が他のゲームとは比較にならないほど高い。

 知識は残酷に『知っている』と『知らない』に分かれる。どれだけ個人で奮闘し、才能と時間をつぎ込もうが、進めるのは対戦格闘ゲームの範疇まで。組織で団結し、脈々と積み重ね受け継がれてきた知識と技術がなければ、無制限中立フィールドから先はまず勝負にならない。それだけ加速世界は広大であり、強大なのだ。

 だからレギオンに所属せずにソロプレイを貫くのは、高レベルでありたいのならまず不可能なはずなのだが。

 少女は彼がソロプレイを貫いている理由も、その上で高レベルな理由もちゃんと知っていた。というかその二つの理由は表裏一体であり、彼のプレイスタイルもあってそこそこ有名だ。

 

「彼は痛覚の緩和や精神高揚に優れた支援特化(バッファー)。敵味方に関係なく支援することを信条としているゆえに、優先するべき仲間を作ることができない。その一方で、彼の支援により対戦の楽しさを知れたと恩義を抱くバーストリンカーは多く、彼は頻繁に『上』のエネミー狩りやタッグマッチに誘われている。それこそ幅広く、どんなレギオンからも無節操に。

 それと、私は情報を売り物にしたことは無い。情報収集はいつか来る時を見極めるための手段であり、趣味。あなたに情報を流すのは、ただ恩に報いるため」

「なるほどなぁ。痛みがあるからこそリアルと同等の重さを持つこの世界じゃが、ごく普通の平和ボケしたこの国の子供たちにとり、楽しむための大きなハードルであることも確かじゃ。対戦の楽しみを覚えるための第一歩を助けられた恩は、バーストリンカーにとって値千金じゃろうな。

 そんな慈愛溢れたキャラクターなら、儂の代わりにあの子に加速世界のいろはを教えてくれるじゃろう。ふむ、だいだいわかってきたぞ。おぬしが儂にどんな恩義を感じておるのかはさっぱり忘れてしもうたが」

「あなたが割り込んで台無しにしてくれなければ、きっと私はミャアと殺し合いになっていた。私は一生忘れない。それで、知っている情報は伝えた。仮説を教えてほしい」

「『幸運』じゃろうな。まだデータが少ないゆえ断言はできぬが、おそらく自らの危機に応じて強く補正がかかるタイプ。いわば明確に能力として定義された主人公補正、といったところかのう」

「幸運? あの高さから落ちて生き残るのは、ただの幸運で可能だとは思えないのだけれど」

「然り。普通(ノーマル)の幸運ではない。異常(アブノーマル)な幸運じゃよ。――おっ、いいもん見っけ。少しあちらに集中する故、この身体頼むわ」

 

 そういったところで、まるで人形のようにガクンと崩れ落ちるわけではない。ただ単に急に黙り込んでぼーと立ち尽くしているだけのように見える。こちらの答えを待たないのはいつも通り過ぎて気にすることでもない。

 しかしイルミネーションに照らし出され歪にその陰影を浮かび上がらせておきながら、マンションの壁に伸びる影は少女のアバター一人分のみだ。つまりもとから相手は分身で、少女は分身相手に会話していたのだが、それを不満に感じることは一切なかった。最初から知っていたし、本体でなくとも本人であることに変わりはないから。

 

 ――自己代用的幻影(オルタナティブ・ファントム)

 

 必殺技の強化にレベルアップボーナスをつぎ込んだ結果百体同時にまでは存在できるが、十全に動かすことができるのは自分を含めて一度に六体という、マーブル・ゴーレムの分身を作り出す必殺技。

 少しでもダメージやバステを食らえば消滅してしまう制限と、ステータスの低さが泣き所となって勝利は難しい能力だが、逆にいえば勝ちにこだわらなければ厄介さは類比ないものがある。知覚を飛ばすのではなく、同時に当人が複数偏在可能などと、情報収集の観点からすれば強力極まりないのだから。

 マーブル・ゴーレムは『勝敗を捨てた方が強い』。能力の詳細を知れば誰でもたどり着く結論。

 ただ、たとえゲームの中の話であれ、自分そのものが複数に分かれて、さらには全員の認識が繋がっているなどと常人なら発狂不可避の能力であるという点に目をつぶれば、だが。

 彼女の必殺技『オルタナティブ・ファントム』によって生み出される幻影が単なる操り人形ではなく、本体と分身の区分こそあれど感覚的にはすべて当人なのだと知ったときには寒気がした。

 自分が増える。同時期に別の場所に存在する。そんなもの、翼や尻尾といった人間にない器官をイメージ制御系で動かすのとは格が違えば核も違う。想像しただけでも少女には耐えきれない。

 いったい彼女は自分をどう認識しているのだろうか。とても同じ人間とは思えないが、彼女はそれでも自分はどこまでも人間でしかないと言ってへらへら笑うのだ。

 

 ふっとため息をひとつ。

 たとえ理解できなくとも、おぞましくても、大切な友人であることに変わりはない。いつもの結論に至った少女はそこで思考を切り上げて、目の前のスクリーンに視線を戻した。音声は拾えないので雰囲気から推測することしかできないが、彼らの会話はもう少し続きそうだ。通常、ブレイン・バーストの基本知識は親が対戦一回分の時間をたっぷり使って行うのが常なのだから、当たり前といえば当たり前である。

 その間に、マーブル・ゴーレムはこのステージ中にばらまいた分身を使って次の舞台を整えるのだろう。

 

「モノクローム・シアターは色無き劇場。色鮮やかな役者は、よそから揃えればそれでよし……か」

 

 古い知人の言葉を思い出し、少女はもう一度深いため息を肺の底から吐き出した。呼吸は必要ないくせに、デュエルアバターには人間臭い動きをトレースできるだけの機能がちゃんと備わっているのだ。

 

「リオネ、あなたの哲学は、ちゃんと二代目に受け継がれてるようなの……すごく歪んでいるけど。でもきっと、あなたたちはそれでいいの、よね?」

 

 誰よりも怠け者であったために、誰よりも他者を勤勉に働かせることに長けた初代七つの大罪が一角。

 今は亡き友は、はたしてどこまでこの未来を予測していたのだろう。彼女が加速世界から退場して現実世界で三年の歳月が過ぎたというのに、彼女から垂れる糸がいまだに加速世界のそこかしこに繋がっている気がしてならない。

 たとえば自分が舞台に立たなければ満足できなかったどこぞの目立ちたがり屋が喜んで裏方を演じられるようになったのは、もとを辿ればまず間違いなく先の哲学に繋がっている気がする。少女のような立場の人間にとっては、実にやっかいな改変をしてくれたものだ。

 それが面白くないといえば、嘘になるのだけど。

 

 まるで読書に集中している人間に話しかけたように、隣からの答えは無かった。

 

 

 あの場所では目立つからと、大通りから一本道を外れた裏路地にて。

 意外にもといえばかなり失礼だが、ラピスラズリ・フィジシャン――通称ラピスさんは懇切丁寧かつ単純明快に雪風の置かれた現状の説明を、わずか十分間で成し遂げてくれた。

 ここがブレイン・バーストというフルダイブ型格闘ゲームの世界だということ。加速世界というオーバーテクノロジーの宝庫。対戦における基本知識。エトセトラエトセトラ……。

 潤沢に知識を持ち、それを十全に把握してしていることはもちろんだが、何より優先順位の割り振りと情報の取捨選択がかなり上手い。たぶん学校の成績もかなりいいだろう。

 パッと見はオネエ言葉で話す瑠璃仏像というショッキングすぎるキャラクターなのに。

 

「まったく、アンタの親はいったい何を考えているのかしらね」

「親、ですか?」

「ああ、ブレイン・バーストをコピーインストールした元の方をそう呼ぶのよ。このゲームは直結によるコピーでしか取得方法がないけど、その方法は必然的に両者リアル割れすることになるでしょ? この類のゲームでのリアル割れがどんなリスクをもたらすのか、この時代に生きる人間なら誰だって知ってるわ。増してや加速なんて特典がついてちゃ、PK(フィジカル・ノック)は下手すればじゃなくて前提。だから相手をよく見極める必要がある。

 現状一回しかコピー権が無いこともあって、たいてい両者は強い絆で結ばれるから親子になぞらえて呼ばれているの。渡す方が親、渡される方が子、ってね。アンタの親は何も言ってなかったの?」

「えーと、『絶対にニューロリンカーを外さず、グローバル接続も切ってはいけない』と……」

「……本当に何を考えていたのかしら。最低限説明するまではグローバル接続を切らせることくらい、もはや常識でしょうに」

 

 常識なんて、自分たちの間には欠片一つとて存在しなかったと雪風は思う。

 ほぼ初対面の相手に直結を求めた『あの人』に、了承した自分。否、それ以前に『あの人』はまるで常識の対義語を型にはめて流し込んだような上から下までしっちゃかめっちゃかな存在感に溢れていて、はた迷惑なまでに周囲を影響に与えるキャラクターだった。そしてきっと、常識から外れたキャラクターは『あの人』だけじゃなくて――

 

「ま、イイワ。よそ様の子の教育方針に文句を言うだなんて、お門違いもいいとこだしね」

 

 ハッと雪風は我に返った。ぼんやりと物思いに沈んでしまうのは一人の時間が長すぎるころについた悪い癖だ。今は一つとして情報を聞きのがしてはいけないと、雪風は自分に活を入れてラピスさんに向き直る。

 

「……ただまあ、これも何かの縁よ。万が一アンタの親が碌でもない奴だったら、アタシを頼ってイイワ。平日のこの時間帯はたいていこのエリアにいるから」

 

 ついさっきPK(フィジカル・ノック)が前提と言った口でこれである。本来カモ以外の何でもない正真正銘ピッカピカの初心者(ニュービー)に『最低限説明』もしてくれたあたり、彼はかなりのお人よしらしい。

 

「ありがとうございます」

 

 そして、それが嫌ではない。なんだか胸の奥がぽかぽかしてくる。

 きっちり頭を下げながら、雪風は自分が久しぶりにお礼を言った気がした。言葉だけならこの数日間の間だけでも保護者に対し何度も使った。でも、誰かに親切にされたのも、それに対して感謝するのも、随分と久しぶりな気がする。

 もしかすると、二年前に親友と呼べる関係にあった二人と共にいたころ以来ではなかろうか。そういえば東京に引っ越してきたのだから、何かしら一報入れても不自然ではないはずだ。今の今まで思い出さなかったことに、自分で自分がびっくりである。

 自分で意識していた以上に追い詰められていたのかもしれない。

 

「アタシの趣味みたいなものだから気にしないで。さてと、それじゃあ最後のサービス。このステージの属性について教えたげる」

 

 そう言ってラピスさんはにんまり笑った。当人としてはニヤリとニヒルに決めたつもりなのかもしれないが、顔の輪郭がふくよかなためどう見てもにんまりである。

 

「どこの馬鹿がクリスマス早朝なんかにバトルロワイヤル始めたのか知らないけど、運はよかったみたいね。ここは『繁華街』ステージ。建物内進入禁止を原則に、季節のイベントを大きく反映するのが最大の特徴なの。特に何もないときはかしましい夜景が主なんだけど、今はまさにクリスマス。話には聞いていたけど、この目で見られるとはラッキーだったわ~」

 

 頬に手を当てて、ほう……とため息をつくラピスさんは第一印象からは結びつかないくらい可愛らしかった。漢前な面倒見の良さと、乙女チックな可憐さが合わさって最強に見えるという謎の毒電波を受信してしまい、慌ててそれを振り払った雪風は会話に乗っかる。

 

「へえ。どんな効果があるんですか?」

「それはね~、ほら、うしろ」

 

 言われた通りに後ろを振り返る。実は少し前から、転落して以来開きっぱなしの『第六感』に何か小さいものが引っかかっていたのだ。それの正体がわかるのかと、昔のように素直にワクワクしながら視線をやったその先には、赤いとんがり帽子を目深にかぶった小さなもこもこの何かがいた。

 全長およそ三十センチ。自分の身長とほぼ同じ大きさの白い袋を背負い、ひょっこり脇道から顔をのぞかせ、目があったことに気づいたのか不思議そうに首を傾げている。

 

『ぴい?』

「か、かわいい……」

「でっしょ~? クリスマスのこの限られた時期のみ、繁華街ステージにはサンタクロースを模した小動物オブジェクト(クリッター)が登場するのよ。いわばサンタクリッターってところね」

 

 素直に感嘆する雪風が瞬き一つする間に、ラピスさんは爆音と共に雪風の横を通りサンタクリッターの隣に立っていたため雪風は二度驚くことになった。

 

「うふふ、びっくりした? この身体、分厚いから鈍重そうに見えるでしょうけど、それでも近接の青系なのよ。総合的な速さではスピード型に敵わないけど、瞬間的な速度なら近接型はこれくらい出せると思った方がいいわ~」

 

 そう言いながらラピスさんはサンタクリッターの袋を鷲掴みにする。袋ごと吊り上げられてしばらくぴいぴいと抗議していた彼(?)だが、やがて諦めたのか袋を手放して地面に着地すると、ぴゅーと素早い動きでイルミネーションの陰の中へと消えてしまった。

 

「ああ……」

「アタシも心が痛むわ。でも、このステージではこの対応が正解なの。ほら、受け取りなさい」

 

 袋の中から取り出された、赤い包装紙で丁重に包まれたプレゼントボックスを投げてよこされ、雪風は危うげなく受け取った。

 どういう意図だろう。もらっちゃってもいいのだろうか。でも、これはあの子がたぶんどこかの誰かにあげるためのプレゼントで、横取りするのはちょっと。

 そんなことをぐるぐると考えている間に箱は独りでに開き、きらきらとした粒子を雪風に振りかける。そして、役目は終えたとばかりに箱はポリゴン片になって消えてしまった。

 

「うわっぷ!? ……え?」

 

 視界右上に表示された自分の体力ゲージがゆっくり回復しているのを見て思わず雪風は声を上げた。回復量は全体から見て一割ほどで止まってしまったが、六割となった雪風の体力ゲージが緑に変化したのを確認したラピスさんが満足げに頷く。

 

「繁華街クリスマスバージョンは、数ある対戦ステージの中でもまず類を見ない、回復手段が用意されたステージなのよ。赤い服のサンタクリッターは体力回復。そして――」

 

 ラピスさんが再び掻き消え、電光掲示板の陰からひょこり顔をのぞかせた緑服のサンタクリッターの袋をかすめ取る。ぴいぴいと足元から放たれる抗議の声に一瞬申し訳なさそうな顔をしてから、彼は丁重な動作で袋から緑の包装紙で包まれたプレゼントボックスを取り出し、それを開封した。

 ぼわんと赤い箱とは微妙に違う、発光するガスのようなエフェクトが中から飛び出しラピスさんを包む。ここからでは何の変化も見られないが、起きているであろう変化を雪風は予測できた。

 

 バトルロワイヤル・モードでは相手の必殺技ゲージを観測できない。

 これは今の雪風が知る由のない情報ではあるが、でなければかつて行われた七王会議、いくら話し合い目的とはいえレベル8必殺技が発動できるだけのゲージを溜めたブラック・ロータスと肩を組むことをレッド・ライダーはしなかっただろうし、仮に彼が熱血の意志と信頼でそれをやろうとしても周囲が止めたことだろう。だいたい、必殺技ゲージを溜めてから会議に出席するなんて一目でわかれば、その時点で話し合いではなく殺し合い一直線である。

 

「緑は必殺技(S)ゲージを回復させるの。体力回復は全体の一割、Sゲージ回復は二割ね」

 

 ラピスさんの説明は、だいたい雪風の予想通りだった。いたずらっぽいウィンクと共に付け足された注意事項は、さすがに予想外だったが。

 

「注意点は箱を奪うとき、絶対にサンタクリッターにダメージを与えないこと。あの子たちは基本ノンアクティブだけど、もしもダメージを与えらられたら警報を鳴らして、袋ではなくて金貨の詰まった靴下で武装した黒サンタクリッターを大量に召喚するからね。けっこう強いからミドルレベルくらいなら袋叩きにされちゃうわよ?」

「こわっ!?」

 

 なんだかんだ言って、最終的にはここは格ゲーの世界らしい。変なところでかなり物騒だ。

 おののく雪風を前に、ラピスさんはちらりと上を見上げた。カウンターは【900】を割ろうとしていた。

 

「まあ、教えることはだいたい教えたわね。あとは実戦の中で学べばいいわ。まだ時間も残っているようだし。

 そして、これは最後のサービスよ。アタシの必殺技を一つ見せてあげる」

 

 そういうと彼はゆったりとした動きで両手を胸の前で合わせる。金色の光がゆらりと瑠璃の身体から立ち昇り、まるで後光のようだ。ありがたさが体感三割増しである。

 古来から人が何かを祈るときに共通した動き、合掌。頭の中ではゲームシステムに基づいたモーションなのだと理解していても、どこか息を潜めてしまう厳かさを雪風は感じた。

 そして腹の底から響き渡る大音声。

 

「『瑠璃光(アズール・フラッシュ)』!!」

 

 物理的な衝撃が雪風の身体の芯をビリビリ震わせた気さえする。それと同時に瑠璃色の光が津波のように彼を起点に同心円状に広がり、フィールドの果てまで駆け抜けていった。

 とっさに自分の身体を見下ろすが、特に変化はない。しかし、すぐに雪風は自分の内面に何かが湧き上がってくるのを感じた。

 たとえるのなら、遠足の前日に夜遅くまで目が冴えて眠れなくなってしまうようなワクワクする感じ。正体不明の高揚に戸惑う雪風に、技後硬直の解けたラピスさんがふっと笑って解説してくれる。

 

「アタシの『瑠璃光(アズール・フラッシュ)』は痛覚緩和と精神高揚の二つのバフ効果を持った技なの。対象はフィールド全体、ゆえに対象に敵味方の区別をつけることはできないわ。また、フィールド属性に効果を付け加える技だから、アタシが退場しても効果時間が終わるまでは消えないのよ。

 きっと製作者としては対象を選べないところとか、なぜか自分にだけは効果が及ばないところとかを脆弱性として技のバランスを取ったつもりなんでしょうけど、生憎アタシにとってはすべて利点よ。せっかくの対戦(ゲーム)なんですもの。みんなに楽しんでほしいじゃない。

 痛みも恐怖も立派なこの世界の一つだとは思うけど、やっぱり楽しさから入らないと何でも長続きしないわよね。そう思わない、新米(ニュービー)ちゃん?」

「……ありがとうございます」

 

 雪風は万感の思いを込めて頭を下げた。システム的には狩るか、狩られるかの相手しかいないこのバトルロワイヤルの空間で、彼は自分以外の誰かのために必殺技を使ったのだ。

 単純に効果だけ取れば完全にアッパー系の電子ドラッグだから、警察に見つかったらただじゃ済まないだろうなーと無粋に俯瞰する自分がいたのは気づかないことにしておく。

 

「ああもう、そんな堅苦しいのは好みじゃないのよ。こっちが好きでやっていることなんだから黙って甘受しておきなさい。

 それじゃあ、もう行くわね。右も左もわからない子供を狩るのは気が咎めるけど、聖夜の早朝にバトロワオンにしてる剛の者ならがっつりBP奪い取ったって誇りだわ。

 ……はやくレベルアップして、回復アビリティが欲しいのよねぇ。バフも嫌いじゃないんだけどさ、やっぱりいくら痛みを和らげたところで、傷を塞げなければ片手落ちってやつじゃない」

 

 最後の声は小さくて、おそらくは聞かせるつもりが無い言葉だったのだろう。だから雪風は聞こえないふりをしておく。彼なりに目的があったのに、わざわざ時間を割いて雪風を助けてくれたことに対する感謝を深めながら。

 

「じゃあね。次に会う時は敵であることを願っているわ」

「はい。今度は対戦相手として一手御教授お願いします」

 

 何気ない足取りで、しかし迷いのない彼の歩みからは自らの進む道に信念を持つ者特有の熱を感じる。雪風は彼が雑多な街並みに消えるまでの短い時間、ずっと頭を下げ続けていた。

 足音が聞こえなくなってから頭を上げ、ふうとため息をつく。人と出会って暖かくなれたのは久しぶりだった。

 

「……さて、と」

 

 意識を切り替える。対戦時間はちょうど半分を過ぎたあたりだ。勝利はともかく、自分のスペックを確認してから誰かを見つけて一戦することは可能だろう。

 目を閉じて意識を集中する。インストを見た限り、雪風のデュエルアバター『スノウ・ウィンド』は三つのアビリティを所有していた。案の定英語で書かれていたため辞書もない現状での解読は無理だったが、ラピスさん曰く、すべてのアビリティは運動命令系とイメージ制御系でアバターに繋がっている。

 だからこのように全身の稼働部位を確認するように意識を循環させれば、アビリティに引っかかるはずなのだ。ちなみに『敵に情報を与えるんじゃないわよ』と彼の前ではやらせてもらえなかった。

 

「……!」

 

 ヒットした。足の下にローラーのような器官が一つ。両目の中に重なるようにもう一対の器官が一つ。そして全身の表面を柔らく緩やかに流れるものが一つ。合計三つ。数が合うため、これが雪風のアビリティなのだろう。

 明らかに現実の身体にはない部分なのに、こうして改めて意識するまでしっくりと身体の一部として馴染んでいることに、改めてフルダイブ技術の異常さを感じる。

 まずはイメージしやすいローラーを動かしてみようとして――やめた。嫌な予感がしたのだ。一番効果がイメージしやすい分、どのような惨事に繋がるか明確に予想(イメージ)できたので。

 だからまずは目を使ってみる。

 

「んー……!」

 

 目に集中して力を入れる感覚でいくと、カシャンと内部で何かが開くような音がして世界の見え方が変わった。べたべたと安っぽいイルミネーションで色付けされた夜景がやや薄暗くなり、あちこちのオブジェクトの上に無数の光で構成された線と点が浮かび上がる。

 ラクガキのように見えなくもないが、幾何学的な模様のように思えなくもない。綺麗といえば綺麗なのだが、なぜだか見続けてはいけないような不安が内側から沸き起こってくる。バフに相殺されてすぐにそれは消えたが。

 たぶん、発動は成功したのだろう。効果はさっぱりわからないが。

 

「目からビームとかじゃないんだ……」

 

 少しだけがっかりしたのはここだけの秘密だ。一見してわかる効果でないというのも、完全な初心者である雪風には少し厳しい。

 少しずつ自分の必殺技ゲージが減っていくのを確認しながら、雪風は点と線を前に考える。ここが格ゲーの世界だという前提をもとに、今まで触れてきたサブカルチャーと照らし合わせながら、一つの仮説に基づき雪風は手ごろな壁に浮かび上がった大きな点をパンチしてみた。

 

「えいっ」

 

 少し痛かった。が、バフのおかげであまり気にならなかったし、ちゃんと壁は壊れた。この平和な国に住んでおきながら建物を破壊するというカタルシスを少し感じつつ、ボーナスで微量だがゲージが回復するのを見ながら、雪風は発動中のアビリティを切り、今度は別の壁を同じ強さで殴る。

 

「えいっ……痛っ」

 

 今度は、壊れなかった。体力ゲージが微量に減少するのを確認しながらも、ノーヒントで案外早く正解にたどり着いた自分に、雪風は少し満足する。

 つまり、これは『世界の脆い部分』なのだ。本来なら達人が集中力を高めた時のみ察することができる『急所』を、雪風はシステムのアシストによって可視化できる。

 格ゲーに置いて、これはけっこうなアドバンテージだろう。なかなか強力に思える自身のアビリティにいい気分になりながら、雪風は次に自分の周囲で循環する透明な何かに取りかかった。

 

「んー? あれ? ……むう」

 

 しかし今度はなかなか上手くいかない。基本的に雪風の周囲をゆったり流れているだけのそれだが、オンオフはできる。どこかを薄くして一部分に集中させることも、難しいが少しだけできた。でも、それが何なのかはさっぱりわからない。

 上に表示される数字が【700】になった時点で雪風は諦めた。対戦に十分は欲しいところ。そしてアビリティはあと一つ残っているのだから、これはひとまず置いて、残りの百秒はそっちの考察に使うべきだろう。

 

 雪風は気づかなかった。

 初心者が一つ一つ自分のスペックの確認をしているという隙だらけの状況、バトルロワイヤルの参加者が乱入することはおろか、ギャラリーの一人も彼女に立ち寄らないのが、どれほど異常に幸運なことのか。

 少女は、それしか知らなかったから。

 

 そしてついにローラー。嫌な予感を覚悟で抑え込んで、雪風は意識を込めてみる。ゆぅううんと独特の音を響かせて起動したその器官に、雪風は恐る恐る命令してみた。

 

「……いけ」

 

 そして、やっぱり後悔した。

 

「ひゃああああああ!?」

 

 一言で言えば、敏感すぎた。

 前に進もうという雪風の意志と動きをくみ取ったローラーは、特徴的な甲高い音を立てて一瞬にして時速百キロに到達。とても現代の街中で出していい速度ではない。それも、いま雪風がいるような道が狭く、直進しているわけでもない裏路地ではなおさら。

 次々と迫りくる看板や建築物や街灯の回避に成功し続けているのは雪風の天賦の才の証明だが、その回避行動のたびに鋭敏すぎる反応が返り雪風の身体を散々に振り回す。

 

(止まらない、速すぎるし動きすぎるどうしよう! ……あ、スイッチ切ればいいんじゃん)

 

 一瞬パニックに陥りかけた雪風だが、視界の端で存在を主張するかのように点滅しながら減少する青いゲージが目に入り我に返った。しかし――

 

(……! 人の気配? まずいっ)

 

 イルミネーションが雑多に設置されたおかげで光と影に塗り潰されて視界が効かず、まるで一昔前の都市よろしく無計画に開発されたように入り組んだ道は見通しが悪い。しかし、マンションの屋上から落下してからというもの強弱はあれどずっと感じ続けている『何か』が、進行方向に人がいることを彼女に察知させた。

 物理演算が働いているこの世界は、当然ながら慣性の法則が存在している。

 慣性の法則とは大雑把に言ってしまえば、動くものは動き続けようとするし、止まっているものは止まり続けようとするということだ。

 今猛スピードで動いている雪風が今から止まるにはちょっと距離が近すぎたし、そもそもブレーキの方法がわからない。雪風にできたのは大声で叫ぶことだけだった。

 

「よけてくださーいっ!」

「え? きゃ!?」

 

 よく見えないが、かろうじて相手が()()避けてくれたことはわかった。相手の下を通過した後、止まろうという雪風の意志を酌んだローラーダッシュがターンピックを下に打ち込み、いきなり地面に縫い付けられた雪風は斜め右につんのめって壁に激突する。偶然そこに設置されていた用途不明のポリバケツがクッションの役割を果たしてくれたが、それでも派手な音と共にエフェクトが周囲を照らし出した。

 

「い、いたた……」

 

 ガクンと体力ゲージが一割も減り、色が再び緑から黄色に染まってしまった。ラピスさんのバフが健在なおかげで、そこまで痛くはなかったのが不幸中の幸いか。

 そのまま蹲ってぶつけたおでこを撫でたいところではあったが、背後でおずおずとこちらの様子を伺ってる気配に雪風はハッと立ち上がって振り向いた。

 

「先ほどは大変失礼いたしました!」

「い、いえ、顔を上げてください。こちらこそ……」

 

 たとえて言うのなら、街中堂々とローラースケートをして人にぶつかりかけたようなものだ。健全な両親に育てられた雪風の道徳規範から言えば失礼極まりない。

 ゆえに頭を下げ続けることに躊躇はなかったが、そう言われてまで下げ続けるのは醜いパフォーマンスのような気がしたので、雪風は恐る恐る顔を上げた。

 

「ふわあ……」

 

 そして一瞬、状況も忘れて感嘆の声が漏れた。どうして正面にいながら『よく見えない』という事態が起きたのか、『上に避ける』という選択肢を相手が取れたのか、一目で理解できた。

 雪風がぶつかりかけた相手は透明で、なおかつ宙に浮いていたのだ。あたかも幽霊のように。

 しかし、事実だけを抜き出せばまるで幽霊だが、実際に彼女を目にすれば違う言葉が出てくる。

 

 ガラス細工の芸術品。

 

 雪風はそう思った。

 繊細な結晶を幾重にも重ね合わせて基体を構成し、さらにその上から流麗な装飾を施した少女の像。足はなく、代わりにドレスやフレアスカートのようにブレード状のパーツが下方に広がっており、ふわふわと重力に囚われず地面に触れずに揺れる様はある種の非現実的な美しさすら感じさせる。触れたらそれだけで砕け散ってしまいそうだ。実に危ないところだった。

 

 頭の中をちりっと違和感がよぎった。何か忘れている気がする。

 

 現状確認。ぶつかりかけた自分はぺこぺこと頭を下げ、相手もそれに合わせて頭を下げている。落ち度があれば謝罪するのは当たり前だし、相手に頭を下げられると何となく自分も頭を下げてしまうのは日本人の性だ。何もおかしいところはない、はず。

 たしかに自分は雪のような白いアバターだし、相手も死神のような大鎌を持った透明なアバターではあるが――

 

「……不意打ちしようと、していましたし」

 

 磨かれた水晶のような声が仮想の鼓膜を揺らし、雪風はようやく自分が対戦格闘ゲームをやっていたことを思い出した。むしろどうして大鎌を視界に入れた時点で気づかなかったのか。

 謝罪なんてせず、むしろショルダータックルでもかけるべき場面であった。

 

(だってあの大鎌、塚も刃もきらきら光ってガラスか水晶みたいで、武器って感じがまったくしないんだもん!)

 

 とっさに飛びのいて距離を取り、体勢を整えながら雪風は自分に対して言い訳した。『不意打ちしようとしていた』という割に、彼女は雪風に距離を詰めようとはせず、むしろ体勢を整えるのをじっと見守ってくれているように思える。けっこういい人なのかもしれない。

 千人に届くというバーストリンカーの中で、連続して善人に巡り合うなんてどんな幸運なんだろうと少しだけ思った。

 こうして向き直ってみても、相手が繁華街よりも美術館のケースの中の方が似合いそうだという印象は変わらない。もしも彼女が飾られていれば、人々はその作者に対しての賛辞を惜しまないことだろう。

 相手をしっかり視界に収めたことにより、右上に体力ゲージと共に表示された名前とレベルを確認する。

 【Clear Moon Lv.4】。どちらも日常の中でよく見かける英単語なので、雪風でもちゃんと読めた。

 

(クリア・ムーン……『透明な月』か。ピッタリですね)

 

 レベルは4。つまり最初の壁を越えた者だ。しかも、相手の体力は満タンで、こちらは三つもレベルが低いのに体力ゲージはもはや四割に近い。

 それでも、諦めようという気にはまったくならなかった。普段なら多少グダグダ悩んだり落ち込んだりしたかもしれないが、今は奥底から滾々と湧き出るやる気と勇気がある。

 

(本当にありがとうございます。ラピスさん……)

 

 なぜだか知らないが、相手から動き出す気配はない。その間に雪風は素早く戦術を組み立てようと試みる。

 とりあえずローラーはダメだ。いつかは使えるようになったとしても、今日この場所では封印指定だ。よくわからない身体の周囲に流れるやつも、使い方がわからない以上頼りにはできない。

 しかし、いろいろやったがダメージを受けたこともあり、必殺技ゲージだけは七割が健在である。相手の急所を見通す目は、消費量から逆算して対戦時間終了ぎりぎりまで使えるはずだ。雪風は目に力を込めて、覚えたてのアビリティを初めてバーストリンカーに使った。

 

 全身が眩く光り輝いた。まるでシャンデリアのように。

 

(え……なにこれ……仮説が間違って、いや、もしかして……)

 

 目に蒼い光を纏わせながら、雪風は研ぎ澄まされた直感によってそれが答えだと理屈(ロジック)を飛び越して確信する。

 

(全身、余すところなく急所? ……えー、そんなアバターいるの?)

 

 デュエルアバターという言葉にケンカを売るような目の前の光景に、雪風はすごくやるせない気分になった。

 

 

 

 あらゆる剣に、あらゆる拳に、あらゆる弾丸に、そして反射ダメージですら一撃で倒れるそのアバターを彼等は口々にこう呼んだ。

 

 ――一撃女と。

 

 彼女が強化外装をレベルアップボーナスで得るまでは、『見た目特化の非戦闘型観賞用アバターなんじゃないか』とまで言われていたことなんて、当たり前だがこの時の雪風が知るわけない。

 そして、最初にラピスラズリ・フィジシャンと出会ったことを『この対戦最大の幸運』とするのなら、二人目にクリア・ムーンに出会ったことは『これからの対戦にとって何よりの幸運』となるなどと、やはり知る由もないことであった。

 




ラピスラズリ・フィジシャンは有部理生様からのご応募。
クリア・ムーンはT・P・R様からのご応募です。
誠にありがとうございました。

なお、どうしても作者がクリスマスに投稿したかったのでこのような形になりましたが、募集の締め切りは変更しておりません。

ご応募いただいたキャラもまだまだおりますし、都合がつけばこの話以外にもお正月に初詣に行く話や、春休みにニコと遊びに行く話も書きたいですね。
ええ、都合がつけば(遠い目

現在PCがワードを読みこまず、ワードパッドで書いたのでミスが多いかもしれません。

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