大理石の胎児は加速世界で眠る   作:唐野葉子

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思ったより早く投降できました(当社比)
読み込みよりも書きたいという衝動に負け、六年前の構想を下敷きに手癖で書き上げてしまいました。
だから既存の話と矛盾する記述があれば、意味深な伏線などではなく単純なミスである可能性が高いのでこっそり教えてくださるとさいわいです(小声)

この辺りから人間関係が変わってきます。
全然関係ない話ですけど、序盤で活躍する高レベルのゲストキャラって、中盤に正式加入したときはやったーってなりますけど、終盤は主人公たちのステータスの伸びについていけず、ベンチの番人になったりしますよね。


夕闇の略奪者
ぜんぺん


 

 ハルユキは森の中を懸命に走っていた。

 どこか見覚えのある場所だ。

 

 巨大なキノコがそこかしこに生え、水晶のような泉の周囲には日光が降り注ぐ草原が円形に広がっている。森を構成する大樹の内部は空洞となっており、歓談やレクリエーションで使えるよう何層にも分かれていることをハルユキは知っている。

 いかにも文部科学省が推薦しそうな、機能性と必要性をメルヘンチックの枠に押し込んだデザイン、とまで考えてわかった。

 

 ここは梅郷中の学内ローカルネットだ。

 ハルユキが荒谷からいじめを受けてたとき、常に逃げていた場所。最近はご無沙汰であるものの、きっといまだに梅郷中で過ごしてきた自由時間を場所ごとにカウントすれば、累計トップになるエリア。

 空腹と痛み、屈辱や怒りといったリアルの感情から解放される場所と見せかけて、どこよりもついて回り逃げきれなかった仮想空間。

 崩壊寸前のプライドにじりじりと焼かれながら、ただ解決策もなく耐えることしかできなかったあの感情をなんと名付けるべきなのだろう。わからないが、加速世界に足を踏み入れ以前の日常が完膚なきまでに破壊されたといっていい現在でも、あの感情はヘドロのようにハルユキの心の奥底にこびりついている。

 

 これは夢だ。そう気づいたが、夢の中のハルユキは気づかない。

 夢の中によくある、認識と理解と感情が剥離して混然一体となった感覚。覚醒し俯瞰しているハルユキをそのままに、夢の中のハルユキはピンクのブタというこの場にふさわしい姿(アバター)の短い四肢を動かして駆けていく。

 

 ――待ってください、先輩!

 

 ハルユキは必死にあのヒトを追いかけていた。

 彼女もそのままの姿ではない。あのヒトが自身のシンボルとして好んで用い、この場所でもアバターのデザインに取り込んでいた黒揚羽蝶。

 透けるような翅に虹色のラインを走らせたそれは、手のひらで覆い隠せそうなサイズにも関わらず、確かにこの夢の中であのヒトの役割を与えられていた。

 

 ――待って、置いていかないで!

 

 ハルユキの必死の呼びかけにもかかわらず、彼女はまるで言葉を解さぬただの蝶であるかのようにひらひらと木々の合間を通り抜けていく。かと思えば、立ち止まって手を差し伸べるかのようにその場でふわりふわりと滞空し、漆黒の翅を彩るルビーのような模様をきらめかせる。

 

 なのに、追い付けない。短い手足で地面を這いずるしかないブタと宙を舞える蝶では進む速度が違い過ぎるのだ。

 

 ――僕を捨てないでください! 何でなんですか!?

 

 違う。お前が勝手についていけてないだけだ。

 あのヒトはいつだって僕に手を差し伸べてくれていた。あのヒトの想定以上に僕がダメダメなんだ。

 

 ピンクのブタの嘆きを前に、ハルユキはそう思念する。

 いつかこんな日が来るのではないかと思っていた。いや、遅すぎたくらいだ。とっくの昔に夢から覚めて然るべき時間が経過していた。

 《ブレイン・バースト》という特別に過ぎるゲーム。《飛行型アバター》というその特別な加速世界でも唯一無二の能力(アドバンテージ)。それを生かした《災禍の鎧》討伐、完全消滅という輝かしい功績。

 

 あまりにも選ばれ過ぎた。過剰なまでに受け取り過ぎた。奇跡的な幸運がついて回った。

 

 期待に応えることができるたびに、ぴょんぴょんと子供のように飛び回りたくなる歓喜があったのは嘘ではない。

 そのたびに自分を好きになることができた。憧れのあのヒトに、一歩ずつ近づいていけている気がした。あのヒトが自分に向ける感情にふさわしい自分になれているのだと、信じることができた。

 

 でも、期待に応えることに疲れた。

 だって本当のハルユキは、誰にも必要とされることのない要らない子であり、努力をすることのできないダメなやつなのだから。

 努力は賞賛されるべきものだ。だって、努力し続けることなどできはしないのだから。

 

 いつしか困難をひとつ乗り越えるたびに、困難を乗り越えた自分に自負を積み重ねるのではなく『次は乗り越えられなかったらどうしよう』『次こそダメかもしれない』『いつ自分がくじけるときがくるのだろう』と不安を抱くことの方が多くなった。

 

 ……こんなこと、《ネガ・ネビュラス》の領土拡大に一喜一憂し、《対戦》で血管の内部に炎をともすここ最近の日々では考えたこともなかったのに。

 はたしてこれが夢特有の理不尽なネガティブなのか、それとも心の奥底に閉じ込めていた本音なのか、ハルユキは夢うつつに困惑する。

 

 そんなハルユキを置き去りに、事態は進展していく。

 

 ――そんな翅があるからですか?

 

 ピンクのブタの滑稽だった声に歪なエコーがかかる。

 ひび割れ、ノイズが走り、夢全体がねじ曲がっていく。

 自分が頑張って相手と同じ高みに上がるよりも、相手の足を引っ張って同レベルまで引きずり降ろしてしまう方がずっとずっと簡単だ。

 

 ――あなたが、あなたたちがそんなだから。

 

 ずるり、とハルユキは自身の背中から灼熱が生えるのを感じた。コミカルなブタアバターには似つかわしくないしなやかでたくましい、黒銀の暴力性のカタマリはまっすぐに黒揚羽蝶へと延びていく。

 

 ――僕が、こんなにもみじめなんだ。

 

 一緒にダメになってくださいよ。僕を安心させてくださいよ。空を見上げるのにはもう疲れたんだ。

 いつか前時代のPM(ペーパーメディア)が一般的だったころのコミックスで読んだことがある。憧れというものは理解から最も程遠い感情らしい。つまりそれはハルユキが彼女の恋人を自称しておきながら、彼女から最も遠い位置にいるということの傍証ではなかろうか。

 だったらいっそ、憧れも抱けないほどに彼女を堕としてしまえばいい。

 

 黒ずんだ銀の鍵爪が、彼女の白い肢体に突き刺さ……

 

「はい、そこまでです」

 

 黒銀の尻尾は横合いから伸ばされた、フリルでふんだんに装飾されたゴスロリチックな袖口に突き刺さり、ぐしゃりと飛び散った血しぶきが森に新たな色合いを添えた。どこかで聞き覚えのある、脳髄に突き刺さってドロドロに溶けそうな甘い声がハルユキの耳朶を揺らす。

 

「案外ここって広いですねぇ。見つけるまでに時間かかっちゃいましたよ、有田くん」

 

 不思議と、ハル坊と呼ばれたときよりも近しく感じられて。

 ショッキングな光景だったはずなのに、苦痛に震えることも、怒りをにじませることもなく、どこまでも軽く薄っぺらいその声を聴いた瞬間、ふっと心の奥底でがんじがらめになっていたものが緩む感覚がした。

 

 

 

 物語は加速する。

 

 

「それではゲームスタートと参りましょう――マーブル・ゴーレム」

 

 そう言い残して能美(ノウミ)征二(セイジ)は立ち去った。

 

 

 

 取り残されたライハはただぼんやりと、自分の手の中にあるデジカメを見下ろす。

 ポータブルデバイスがニューロリンカー一強となったこの時代において、非常に珍しい装置だ。

 かつてタクムがチユリの視聴覚情報をハッキングしていたように、ニューロリンカーさえあれば映像記録も音声記録も取り放題である。そして社会福祉施設出身のニコがバーストリンカーであることからもわかるように、個々人の経済力とは無関係にこの国の人間は基本的にニューロリンカーを装着しているといってよい。

 いまどき、映像記録を撮ることしかできないデジタルカメラなど『写真を撮る』こと自体にこだわりを持つ一部のユーザーが求める大口径の一眼レフくらいしかない。

 

 しかしある意味、ライハにとってはニューロリンカーよりもこちらの方がなじみ深いと言えないこともない。ライハは治癒促進パッチの張られた人差し指の腹で流線形の機械をそっと撫でる。

 隠しカメラ、盗撮、脅迫……前世はもちろん、現世においてもなじみ深い概念である。

 

「……儂は間違っておったのか?」

 

 それは自問自答の形式だけを守った敗北宣言だった。

 いま、ここにライハは完膚なきまでに負けた。それはもう、いつも通りに。そして敗北とは、いつだって取り返しのつかないものを奪っていくものだ。

 

 今からライハは、能美に渡されたこのカメラを女子シャワー室のロッカーに仕掛けに行く。なにも同性に対し突然倒錯した劣情を催したわけではない。

 《ネガ・ネビュラス》に対し明確な裏切り行為を働くためだ。同じ中学の三年目になる仲良しに、ようやく見つけた大事な後輩に、深い傷を負わせるためだ。彼らを陥れる決定打を、寄りにも寄ってご丁寧に、自分自身の手で下しにいくのだ。

 

「この儂が慢心しておっただと? 見下していたのか、この世界を?」

 

 インフレ極まる異能バトル少年マンガから、バトル要素はあれど基本的に超能力はゲームの中だけの世界に転校してきて、思い込んでしまったというのか。

 

 この世界は、以前自分がいた世界よりも、劣っていると。

 

 インフレとは恐ろしいものだ。例のポーズでおなじみのサイヤ人襲来編時点ヤムチャでも、栽培マンの自爆と共に大海賊時代に異世界転移すればおそらく偉大なる航路(グランドライン)でも戦い抜けるだろう。ともすれば四皇と真正面から渡り合う姿すらおがめるかもしれない。

 ライハは黒神めだかが滞在した嵐渦巻くフラスコの中で生き延び、無事に卒業を果たした身だ。そうと気づかぬうちに自負があった。傲りがあった。

 

『なるほど、話には聞いていましたが。これは自分の目で見て感じなければわかりませんね。人間の劣等因子がかろうじて人の形状を保っているかのような存在感。

 自分より下種(マイナス)な人間が存在している。これほど安らげる事実はありません』

 

 一見して柔和な能美の微笑の奥に。

 明らかに自身と同質の、しかし人工物だとわかる()()を見出したときに、ライハは頭をぶん殴られたかのように自覚した。

 

 人造の過負荷(マイナス)

 

 名瀬(なぜ)夭歌(ようか)にできて、どうしてこの世界の住人にできない理屈があろうか。見本(サンプル)はあのとき、当時は七王だった純色(ピュアカラーズ)の前でこれ以上ないものを披露してやったのだから。

 

 たしかに箱庭学園は異常だった。時代を超越したオーバーテクノロジーの宝庫、どころかどれだけ人類の英知を積み重ねても到達できるとは思えないオカルトファンタジーの領域に踏み込んだものがいくつもあった。

 しかし、人の手によってつくられたものである以上スタートラインはその時代の人類が作り上げた知識と技術であり、時代というアドバンテージは間違いなくこちらの世界にあるのだ。何よりも《加速世界》はこの世界のオンリーワン。

 名瀬夭歌が理科生物学の分野においてIQ2000を叩きだす異常(アブノーマル)なのだとしても、知能指数(IQ)は年齢を基準に算出されるものだ。乱暴で無茶な理論であることを承知で押し通せば、膨大な時間(ねんれい)をつぎ込めばより低いIQでも同じ成果が出せることになる。

 

 

 

 黒神めだかに憧れた。

 その光は、文字通り死んでも消えることが無かった。

 誘蛾灯に誘われる羽虫のように、吊るされたニンジンを追うロバのように、常に光を追い求めて進んできた。

 

 誰かを幸せにしたかった。

 その気持ちは嘘じゃない。

 でも自分は過負荷(マイナス)で、それだけはどうしようもなくて。

 変われないのであれば、変わらないままに、過負荷(マイナス)過負荷(マイナス)のままにひとを幸せにしようと思った。

 

 取り返しのつかない失敗もいっぱいしてしまったけど、そんなの過負荷(マイナス)にとっては基礎教養のようなものだ。

 マイナスにしかならないスキルも、最近はうまく調節して場に適応させることが適ってきて。

 黒雪姫、ハルユキ、雪風、自分がいるからこそプラスになったんじゃないかと思えるひとたちが出てきて。

 

 この世界をいい方向に変えていけるのではないかと。

 

 誰かが言った。

 見逃せない。悲劇を放っておけない。

 人間として当たり前のことだから。義理や義務があるわけじゃなくても、放置したら安眠できない。飯が不味くなる。だから、他の誰がやってもいいことだけど、自分がやることにしたと。

 二週目だから、精神年齢は周囲より上だから、見栄くらい張ってもいいだろうと。

 

 知ったような口を叩いた。

 

 果たして二度目の生を受けたのがそこではなく、西暦一九〇〇年初頭だったならば。世界を焼き尽くしかねない『戦争を終わらせるための戦争』と呼ばれたそれを未然に防ごうと動くのだろうか。あるいは枯葉剤やナパーム弾によって生じた弱者に対する悲劇を予防しようと奮闘するのだろうか。

 戦争が歴史の大局の果てに生じる、個々人では防ぎようのない悲劇ゆえに論じるのは夢想であり荒唐無稽だというのであれば、もっとミクロな歴史に名だたる悲劇でもいい。

 二十世紀の終わりにテロという行為を日本に知らしめた化学兵器による無差別テロ事件。二十一世紀初頭にハイジャックという概念を当時の小学生にも周知させた国際テロ組織による同時多発テロ。

 世界の危機に立ち向かうのに比べたら、テロリストの相手は現実的ではなかろうか。

 

 きっと脳裏をよぎることすらない。

 何故ならば知っている。世界の重みを理解している。自分ごときモブキャラが、その重みを覆すことはおろか、小動させることさえ至難の業であると身に染みて把握している。

 

 けれども、もとの世界では十把一絡げのモブキャラであったけども。

 この生まれ変わったこちらの世界()()()であれば、自分()()()であっても……。

 

 いつの間にか見下されるのではなく、見下してしまっていた。

 

 ――そんなの過負荷(わたし)じゃない。

 

 その衝動は、なけなしのライハのプライドをしたたかに傷つけた。

 

 思えば長く焦がれてきたものだ。

 あまりにも長すぎた。捨てきれない想いゆえに、荷を下ろすことすらできずにここまで来てしまった。そろそろ一度くらい、くじけてもいいところだろう。

 ぐちゃりと周囲を巻き込んで、盛大に潰れてしまおう。ただし――

 

「けろけろ、くわぁくわぁ、くふふ……」

 

 思い出す。あのときの能美の表情、口調。

 

能美(ノウミ)優一(ユウイチ)を憶えていらっしゃいますか?』

『うん? おぼえがないなぁ、そんな新入生のマッチングリストの中に《ブラック・ロータス》の名前を見つけて、俺の奴隷だの犬にしてやるだの思春期をこじらせたことをほざいておったモブキャラ三分の一なぞ』

 

 あの瞬間、罅割れた(うやうや)しさの隙間から垣間見えたあの感情は、愉悦、憤怒、憎悪、歓喜、嫉妬……様々なものが入り混じった、プラスやマイナスに分類することさえ愚かしい複雑怪奇なものではあったが。

 あれだけ視れたら十分だ。少なくともライハにとっては十分な判断材料となった。

 

 彼は優秀な兵士ではあっても、有能な指揮官ではない。

 

 最終的に自分の手で行うことに充実を得るタイプ。最後の一手を他人に任せられないタイプだ。

 そのこと自体は別に悪いことではない。優秀な兵士が優秀な指揮官になれるとは限らないのだから。むしろ優秀な人材を優秀という理由だけで出世させていれば、やがて能力と適正の限界を超えた不適当な地位に留まることになり、ピーターの法則の体現者となってしまうだけだ。

 

 ただし、スキルホルダーの量産などといった、あの箱庭学園関係者たちですら組織をもってあたらなければならなかった偉業にして異形の陣頭指揮がとれる器ではない。

 つまり、なんだか自己紹介されたときに言われたような気もするが彼は何らかの組織の構成員、しかも末端側に位置する人材であり、それから三歩以上歩いてしまったのでさっぱり忘れてしまったが梅郷中への侵略行為はその組織の計画の一環ということになる。

 

 この感覚にはおぼえがある。

 白く、灼けつくようなまなざしを感じる。

 

 振り払うかのように、手を木の幹に叩きつけた。樹齢を経た(くすのき)は貧弱な小娘の手刀など小動もせず、逆に皮膚が裂けて血がにじむ。

 二度、三度、打撃は湿った水音を帯び始める。

 

「くふふふ、あは、きゃはきゃは」

 

 キャラ付けが剥がれ、全盛期(ぜんせいき)ならぬ前世域(ぜんせいき)の笑い声が水楢(みずなら)の枝を渡っていく。

 覚えておくがいい。過負荷(マイナス)がエリートを目の敵にするのはもはや本能的な行動、生理現象だ。ましてや、その思惑通りに動こうなどと。

 虫唾がはしる。この屈辱は熨斗を付けてどこかの誰かにひどいことをして返してやる。

 

「きゃはきゃはきゃはきゃはきゃは!」

 

 

 

 梅郷中学校の《中庭》。威張り散らしていた最上級生が進学という残酷な二文字によってぴかぴかの新入生へとジョブチェンジを余儀なくされる新学期。

 ソーシャルカメラも設置されておらず、やたらと樹齢を重ねた楠や楢が生い茂るその薄暗い場所が『哄笑する女子生徒の幽霊』という怪談の舞台として、このご時世に昔懐かし七不思議のひとつにノミネートされたらしいが、まったくの余談であろう。

 

 悪霊は塩で退治できるが、過負荷(マイナス)はそうはいかないのだから。

 

 

 肩を噛まれた。

 くっきりと残った黒い歯型から、じわりと一拍おいて血が滲みだす。

 

「うえ? え、ええ? ええー……」

 

 たとえば蛇に噛まれたのなら、チユリは悲鳴を上げられたかもしれない。犬や猫が相手でも、苦痛のうめき声くらいは出ただろう。

 本当に心の底から予想外かつ理解不能な事態に直面すると、悲鳴はおろか痛みすら感じないのだとチユリは初めて知った。あまり知りたくはなかった。

 

 

 

 ここに至るまでの経緯を簡単に説明しよう。

 倉島(クラシマ)千百合(チユリ)は私立梅郷中学校に在学する二年生である。

 

 二〇四七年四月八日、月曜日。梅郷中入学式。

 新学期初日からがっつり部活で走らされたことにうんざりしたものを抱かないといえばウソになる。しかし、最近『例の一件』にかかりきりでご無沙汰気味だったとはいえ、もともとチユリは身体を動かすのが好きなタイプだ。

 

 このあたりは幼馴染の片方とはきっと永遠に意見が合うことはないだろう。彼にとって身体を動かすのは苦痛以外の何物でもなく、運動の時間は自らの出来の悪さを周囲に知らしめ嘲笑されるための時間であったから。

 

 チユリの所属する陸上部は地区大会の予選というカレンダー的な都合により、もともと春休みの間も練習が存在していた。

 ゲームにかまけて日常を疎かにしている馬鹿二人に鉄槌を下すというのが彼女の目的である。なので『例の一件』のせいで部活に穴をあけるというのは本末転倒だ。ゆえに今日になるまで、チユリは一部上場企業のサラリーマンもびっくりな超過密スケジュールを送っていた。

 新学期が始まり、陸上部のイベントとしては地区大会予選の準備に新入生歓迎が加えられ忙しなくなったかたちであるが、チユリ個人としては昨日、眉目秀麗な方の幼馴染から件のプログラムのインストールに成功し、今日その成果を幼馴染(ばか)ふたりの前でお披露目できたことで一息ついたことになる。

 

 三寒四温と昔から言うように、この時期は気温の変動が激しい。温暖な日だと冬用のウェアでは保温性が高すぎてインナーがすぐに汗みずくになってしまう。今日の分の練習を終えたチユリは汗を流すため、温水プールに併設されているシャワールームにいた。

 少子高齢化により梅郷中では一学年百二十人、三学年合わせても三百六十人しか在校生がいない。つまり顧客が少なく、パイの取り合いを勝ち抜くためその分サービスの質は必然的に向上しているといってよい。

 私立ということを鑑みても中学校に温水プールと最大で六十度まで出せるシャワーが常設され、生徒に解放されているというのは()()()()の価値観からすれば信じられない贅沢らしいが、この時代(かんきょう)しか知らないチユリとしてはそうなのかと聞き流すことしかできない情報であった。

 

 クールダウンでは落としきれなかった疲労が、汗と共にじんわりと肌からシャワーによって流されていく。

 こうして集中を解きほぐし、身体が動くに任せて頭のなかを空っぽにしていると、自然とチユリは『例の一件』について強く意識せずにはいられなかった。

 

 チユリはつい昨日、【BB2039.exe】のインストールに成功し今日《ライム・ベル》という加速世界における分身、もうひとりの自分を手に入れた。

 シアン・パイルは回復能力(ヒーラー)だと驚愕していた。どうやら加速世界においては最重要機密に値する超レア能力らしい。しかし、実際その効果も間違いではないが、チユリはあのアバターの持つ力の本質は別だと思っている。

 

 アバターがトラウマを鋳型に構成されるというのは過大広告でも何でもなかったようだ。いったいどこでどうやって知ったのか、はたまた本当にチユリの記憶を読み取ったのか、ライム・ベルの回復(と認識されている)必殺技《シトロン・コール》の効果エフェクト、発動時の鐘の音は、チユリが幼馴染ふたりと通っていた小学校のチャイムと酷似している。

 あの放課後のチャイムそっくりの音色は、偉そうなことを言っておいて、その実チユリの本当の望みは『あの頃に戻りたい』という後ろ向きな思いでしかないのだと、如実に彼女に突き付けてきた。

 

 ライム・ベルの本当の能力は『回復』ではなく『ダメージを追う前の状態まで時間を巻き戻す』ことだ。

 このことを知った()()()()から

 

 ――あー、やり過ぎたかもしれん。ごめんな?

 

 と謝られ、このひとが謝罪するなんて自分はいったい何をされてしまったのだと発狂したのは記憶に新しい。まあ事実として幼馴染たちへのお披露目が終わった直後に自身で加速し、対戦を仕掛けることで報告の場を作ったのだからあれから現実世界では半日も経過していないことになる。

 ブレイン・バーストを使っていると時間感覚が狂う。これが廃人(ハイランカー)クラスになると、どいつもこいつも狂うどころの話ではなく曲がった状態が正常(デフォルト)になるほど人格が変質しきってしまうと教わった。そう教えてくれた当人の場合は加速以前からあの調子だったらしいが。

 しかし『時間という因果律に干渉することで、アバターの状態変化をなかったことにする』とあのひとが表現していたこの能力、いったいどこが琴線に触れたのだろう。

 望んで足を踏み入れたはずなのに、ここに至るまでに努力してきたはずなのに、達成感よりも霧が立ち込めてきたような、先が見通せない苛立ちと不安が勝る。

 体が疲れていると心も後ろ向きになる。シャワーで汗を流したところで、明日に後を引くような疲れは解消できても疲労そのものがぽんと消えるわけではない。

 

 ざわりとシャワールームが大きくざわめき、次いでしんと声がやんだ。

 周囲の異様な空気に、チユリは遅まきながら我に返る。

 

「よっほー、チユリ嬢」

「げぇ」

 

 油断していたため、つい率直な感想が口から(まろ)び出てしまった。

 シャワーブースはスモークカラーの樹脂パネルで仕切られ相手の姿は直接目視できないが、この脳髄に突き刺さってドロドロに溶かしそうな声は聞き間違いようがない。

 ジャーン!! ジャーン!! と何故か銅鑼の幻聴がする。ここ数か月でたびたび彼女から前時代のサブカルチャーの薫陶を受けたからかもしれない。

 

 ライハ、襲来。

 

 陸上部のチームメイトたちは声すら上げず、ろくに髪も乾かさないまま避難していった。中にはタオルで身体を拭う余裕も無かったのか、ぐっしょりとウェアが変色するほど湿っている者もいる。

 彼女たちは本能的に知っているのだ。いくらライハとはいえ人間である以上、目は視界を立体的にとらえるために顔の前面に二つ並んで配されており、口はひとつ、腕は二本しかないということを。生物学的に、物理的に彼女が届く距離には限界がある。

 つまりチユリが喰われている間に逃亡すれば、被害者はひとりで済む。スケープゴートの原理だ。

 

「……じゃあね、チー。がんばって」

 

 最後に出て行った、部活の中でも一番仲の良かったチームメイトがそう言い残し、奥から二番目のシャワーブースにチユリは取り残された。

 薄情者ぉと声に出さず恨めし気に吐き出すものの、だからといって踏み留まられたら嬉しいかといわれたら微妙である。単純に被害者が増えるだけという気もするし、実質的な問題として部外者がいればブレイン・バーストに関する話題を取り扱うことはできない。

 ただ単純に、見捨てられる形となったのが腹立たしかっただけ。感情をさておけば、陸上部の行動は危機的状況に対し最も冷静で最適な解を出したと言えるだろう。

 

 しかし、人間は感情の生き物だ。

 チユリはこの先輩(ライハ)のせいで見捨てられることも、傷つくことにも免疫が構成されつつあるが、他はそうはいかない。

 見捨てられたチユリが愚痴ひとつで済ませても、見捨てた方の罪悪感はいかほどのものだったのだろうか。

 もっとも仲の良かった友達ですら、一言いいのこして逃げてしまった。裏を返せば、一番仲のいい友達であれば関わり合いになることさえ忌避されるライハの前で、一言のこさずにはいられないほど精神的な負荷を感じたということだ。

 

 陸上は個人競技であるが、それがチームメイトの存在価値の低さとイコールではない。それはリレーなどの団体競技や、総合優勝などに限った話ではなく。

 たとえば自身が望む種目で競技に挑もうと思えば、レギュラーの枠を勝ち取らねばならない。ひとりで走るがひとりではない。声に出すばかりが応援ではなく、隣に並ぶことばかりが必ずしも助力ではないのだ。

 スポーツにおけるメンタルの重要性は運動を科学的に分析し始める前から、根性論と言う歪んだ形ですら言及されている。ここに罅が入ると、フィジカルの故障と同じかそれ以上にパフォーマンスに影響が出てしまう。

 

 これは、陸上部の今季の成績はボロボロかもしれない。

 そんな予感、あるいは可能性の高い予想がチユリの脳裏をよぎった。

 ライハはただシャワールームを訪れただけ。運動部でない生徒がシャワーを利用するのは珍しいが、特に校則(ルール)違反をしたわけでもないのに、である。

 まったく、凄惨なまでの存在感(キャラクター)だ。

 

「って、どうしたんですかそれ?」

 

 当然のようにスイング式のパネルを押しのけブースに侵入してきたライハの両手に視線が吸い寄せられる。チユリ側からはブースを押しのける手がまっさきに目に入るので、より意識に入りやすい。

 左手は肌と保護色になっているがベージュ色の治癒促進パッチが当てられていた。右手はさらに露骨で、裂傷から流れた血が手首の下まで赤黒く垂れシャツの袖口を汚している上、親指以外の四本が紫色に腫れあがっていた。治療済みの左はともかく、右はひどい。まるでいびつに育ったサツマイモのようで、もはや一見して人間の手であると判別するのも困難な具合だ。折れているかもしれない。

 

「ん? ぶつけた」

「ぶつけたってレベルじゃないですよ……あとでちゃんと保健室にいってください」

 

 紺のブレザーでわかりにくいが、返り血が点々とついている。まるで事件現場からここまで直行したかのようだ。

 実際、保健室に寄ったのなら片方だけ治療してもう片方は放置など考えにくいし、おそらく治療した左手が治りきる前にまた新しく左手を怪我したのだろう。

 

 ライハはよく怪我をする。それは自業自得の自傷に近いものから、回避不能の理不尽な事故まで要因は様々だ。

 ブレイン・バーストをインストールするための特訓の合間に、チユリは彼女が怪我をするところを何度も見てきた。

 

 ――なんか、笑顔の質がちがう?

 

 なんとなくだが、今回は自傷の方だと思った。ライハのスマイルをソムリエできるほど経験豊富になったつもりはないが、直感的になんとなく。

 へらへらとした薄っぺらな、いつもの楽し気な笑みではない。どこか重量を感じる笑顔だ。その『重さ』の主成分はチユリにはわからないし、知ろうとも思わないが。

 

 言ってきく相手ではないが、かといって言わないのはチユリ的に無しだ。だったら言うし、なんなら襟首ひっつかんで保健室に連行まである。

 乱暴な対処で道理を通すのは、ハルユキ相手で慣れていた。ライハとほぼ身長が変わらなかったのは去年の話。冬から春にかけてチユリの肉体は一段階から二段階発育しており、おそらく一部分を除いてひとまわり彼女を上回っている。力技も適うだろう。

 

「それで、どうかしました? 連絡事項に抜け漏れでもありましたか」

 

 その例外的一部分、それなりに質量的存在感を主張し始めたものの、いまだライハのそれには及ばない胸を腕で覆い隠す。同性でも裸体を見られる羞恥や嫌悪が無いわけではない。とくにチユリは難しいお年頃なわけで。

 

「そんなところじゃな。チユリ嬢よ、肩を出せ」

「はあ。こっちでいいですか?」

 

 シャワーを止め、バスタオルで露出する面積を極力減るよう心掛けながら、チユリは右肩を差し出した。

 

 今年の一月、ブレイン・バーストを絶対にインストールすると決意したチユリは、もっともその公算が高いと見込んだ方法、ライハに特訓をつけてもらうことを選んだ。

 それはたしかに取引であったし、さらにいえば前払いだった。対価を支払い終えたチユリは、理屈だけでいえばライハの曰く『主人公になろう』プランを甘受する権利があった。ライハには契約を履行する義務があった。

 

 しかしこの先輩、予想以上に面倒見がよかった。

 

 特訓のスケジュール管理は基本的にあちら任せであったし、その上で部活動や家庭の用事と干渉しないように気を付けてくれた。特訓の都合で遠出しなければならないときは遠足のしおりまで作ってくれた。

 飲食店に入れば運動部ゆえ健啖家なチユリの分までおごってくれることが往々にあったし、特訓で帰宅時間が遅くなれば自宅まで送ってくれることすらあった。

 さすがに送り迎えは遠慮しようとするチユリに、ソーシャルカメラも警察もあくまで抑止力でしかなく、後先考えない馬鹿への備えは純粋な暴力しか存在しないということを滾々と説いてくれた。昨年の秋に実際にその後先考えない馬鹿によって車に撥ねられた梅郷中の某副会長という具体例まで提示されては、チユリも受け入れざるをえなかった。

 そして実際に、ライハが《加速》という最上級の暴力装置を使って不審者を叩きのめす場面も何度も見た。彼女のおかげで最悪の事態を防げたのか、彼女のせいでトラブルに巻き込まれたのか、そこは考えないようにしている。

 

 明らかに貰い過ぎ。

 しかし既に対価を支払い終わっている以上、これがプランに必要なことだと言われてしまえば値切ることもできない。

 押しつけがましいほどの押し売りなのに、ふと気が付けばすっと距離がとられている。この絶妙に生温い居心地の良さが、あの人間不信気味な幼馴染が懐いた要因かとひとりで勝手に納得する。

 

 苦手意識が消えたわけではない。生理的嫌悪を覚えなくなったわけではない。

 ただ今となってはスノーブラック何某よりよほど、チユリにとっては頭の上がらない先輩となりつつあった。

 

 しかしそうやって差し伸べられた恩義への報いを、信頼を。

 たやすく台無しにするのが過負荷(マイナス)という性分(いきざま)である。

 

 肌で鼻息を感じるほどに顔が近づき。

 歯が深々と食い込んだ。

 

 

 

 そして時間軸は冒頭に戻る。

 

 噛まれたところを起点に、ぞっと全身に鳥肌が押し寄せた。

 チユリの中に構築されつつあった抗体はあっさり貫かれ、臓腑が痙攣するような異物感が体内で暴れ狂う。

 何をしているんですかとか、いったい何なんですかとか、言いたいのに言えない。

 言葉がのどに詰まっているのではない。思考回路が根っこからぐちゃぐちゃになっている。

 

「人間の口の中は雑菌だらけじゃからな。しっかり洗浄しておかんとなー」

 

 傷口を無遠慮にシャワーの温水で洗い流され、ちりちりとした刺激によってようやくチユリの脳内は再起動を始めた。前時代のパーソナル・コンピューターよろしくキュイーンカリカリカリと駆動音さえ聞こえてきそうな遅々とした立ち上がりではあるが。

 

「…………あたし、何か悪いことしました?」

「うんにゃ。おぬしは何も悪くないよ。そして儂も悪くない」

「……はあ」

 

 チユリは直情的と思われ勝ちで自己評価もそれと違わないが、その実直感的にとらえた物事を理論的に再構築する理知に富んでいる。だから、普段の彼女なら気づけたかもしれない。

 このとき、ライハが己のこの突発的な行動はチユリでもライハでもない、第三者の『悪事』に対するリアクションなのだと説明していたことに。

 

 悪いのは能美だ。

 ライハは彼に加担まではせずとも、客観的な視点からすれば力添え以外の何物でもない監視カメラの設置をこれから行うつもりだ。

 それによってハルユキやチユリに黒雪姫、その他この一連の事件で多くの加速世界に無関係な生徒が傷つくことを予測した上で、彼の所業を見逃すつもりだ。

 

 ただ、ライハはいちど庇護下に置いた相手に対してはどこまでも甘い。

 過負荷(マイナス)(ぬる)い慣れ合い。優しいのではなく、どこまでも自分勝手に守り、己が満足するまで甘やかす。一度は折れて砕けた黒を、二年の間その隣で守り通したように。

 

 このときのチユリは、まだライハの庇護下だった。

 たとえ彼女が能美の毒牙にかけられても、最後の一線は守りとせるように。

 『彼女には手を出すな』としるしを刻んだ。つまりはそういうこと。

 

「これだけ深ければ、一週間は残るじゃろ。治療パッチは当てずに、消毒だけはしておけや。ほれ、昔懐かし絆創膏を張ってやろう」

「ありがとう、ございます……?」

 

 ただこのとき起きた事実としてはこのときチユリは気づくことはできず、この後にライハがシャワールームに隠しカメラを設置したことにも気づけなかった。

 

 

 

 あと、これは完全な余談ではあるが。

 

 自明の理だが、何もチユリに手を出すなと能美に通達するだけなら、このような手段を取らずともより効率的で安全で確実な方法はいくらでもあった。

 この段階で梅郷中にいる生徒は全員知るよしの無いことではあるが、能美をここに派遣した組織(サークル)はライハのことを最大限に尊重していたのだから。

 ライハがそう望めば、その意に反することはしなかっただろう。

 

 ただやっぱり、そんなことを知っても知らなくても、彼女の行動は変わらなかっただろう。

 これはただの、その辺の誰かにひどいことして返した憂さ晴らしなのだから。

 

 

 いろいろあった。

 

「ごめんよ……ありがとう」

 

 万感の思いを胸に秘め、託された想いを《ゲイル・スラスター》に込め、一度は見捨てかけた()()()()()()に覚悟を乗せて、ハルユキは空を駆ける。

 ただまっすぐ、怨敵ダスク・テイカーを目掛けて。

 咆える。

 

「うおおおおおお!」

 

 いろいろあった。

 

 ハルユキが能美――ダスク・テイカーの必殺技《魔王徴発令(デモニック・コマンディア)》によって翼――加速世界唯一の《飛行アビリティ(Aviation)》を奪われたときには、もうすべてが終わった後だった。

 それは黒雪姫がハルユキをいじめていた荒谷に行った追放劇を彷彿とさせる手際の良さであり、効果的な一手であった。

 気が付けばハルユキは女子シャワールームに隠しカメラを仕掛けた性犯罪容疑者となっており。最大の味方である黒雪姫は、修学旅行にて沖縄滞在中という物理的制約により助力を望めず。能美により演出された状況証拠を信じた担任教師はハルユキを尋問し、その様子を見たクラスメイトからは『教師が動いたということは、物的証拠がないだけで黒に近いのだ』と呼び出され、殴られる始末。

 

 しかしそんなことよりも、ハルユキを打ちのめしたのは隠しカメラを仕掛けた真犯人がライハということだった。

 推理小説ではよくある展開だ。理不尽に容疑をかけられ、犯人扱いされ、自身の潔白を証明しなくてはならなくなる。被告人が自身の弁護士を兼ね、裁判官が検事を兼ねるという形式は魔女裁判に通じる不条理があるとハルユキは思うのだが、裁く側は自身の正義を疑わないらしい。

 容疑を晴らすもっとも手っ取り早く、確実で、爽快な方法は真犯人を見つけることだろう。そして探偵よろしくライハを『犯人はお前だ!』と告発すれば、彼女はあっさりと罪を認めるに違いない。推理もアリバイもトリックも必要ない。

 そして、その後に待ち受ける退学も、警察沙汰も、鑑別所送りになることさえも彼女は厭わないだろう。過負荷(マイナス)にとって、罪は厭うものではない。むしろ『未成年の場合は罪が軽くなって損した気分になる』などと破綻した感想すら吐き出す。

 

 それでも、ハルユキはライハに不幸になってほしくなかった。

 

 安っぽい自己犠牲の精神に足首を掴まれているのではないかと自問自答した。その上でやっぱり答えは変わらなかった。

 

「くふ、ふはは、あはははは!」

 

 少年の柔らかい声色に金属質のエコーをかけただけでここまで耳障りな不協和音になるのかと、いっそ感心するほどに気持ち悪いダスク・テイカーの笑い声が響く。

 チユリの乾坤一擲の作戦により一度奪ったはずの翼を失い、ブラック・ロータスという最強格の増援によりサドンデス・デュエルの形勢は逆転し、今まさにハルユキの心意の剣(レーザー・ソード)により上半身と下半身が泣き別れになり、HPゲージをごっそりすり減らしながら現在進行形で空中から落下しているのにも関わらず、その声からは薄っぺらな愉悦が消えていなかった。

 

「無駄ですよ、有田先輩。彼女は、『ボクら』は幸せになんてなれない」

 

 思わず、対戦中にはありえない失態ではあるがハルユキの視線が逸れ、マーブル・ゴーレムを探してしまう。

 彼女は聞こえているのかいないのか、腕を組んでじっとシルバー・クロウを見つめていた。

 沖縄から《無制限中立フィールド》が本土と地続きであることを利用して駆けつけたブラック・ロータスとは違い、修学旅行中に事が起きると知っていたライハは《切断セーフティ》の応用で杉並エリアに自身のアバターを置いていったのだ。

 

「不幸を望んでしまう。幸せを怖がって、疎んじて、否定して、取り返しがつかなくなるまでぐちゃぐちゃに壊して、それでようやく安心できるんです。ああ、やっぱりあんなものは、自分の手に入るものじゃなかったんだって」

 

 知っている。

 そんなこと、言われるまでもなくハルユキだって身に染みて理解している。

 

 シルバー・クロウの背中から己のすべてであった翼が消えたとき。

 ハルユキは混乱した。嘘ではない。

 ハルユキは絶望した。嘘ではない。

 ハルユキは心が折れた。嘘ではない。

 ハルユキは安堵した――嘘ではない。

 

 

 

 あのふっと身体の底が浮き上がる解放感は筆舌に尽くしがたい。

 もうこれで、戦わなくていいのだと。もう頑張る必要はないのだと。また、ダメな自分に戻ってもいいのだと。ハルユキはあのとき、否定しがたく喜悦に浸った。

 

 だから本当は諦めてもよかったのだ。いかなるロジックによってか能美は梅郷中のローカルネット内マッチングリストにその名が表示されず、一方的に乱入を仕掛け放題。仮に直結による対戦が適ったとしても、ハルユキは一方的なまでに唯一の拠り所であるはずの加速世界で完膚なきまでにダスク・テイカーに敗北した。

 現実世界でも追い詰められ、加速世界でも叩きのめされ、諦めてもいい状況を能美は用意してくれていた。足の裏を焼かれる焦燥ではなく、臓腑を腐らせる甘い絶望がそこにはあった。

 

 譲ってもよかったのだ。

 たしかにPK(フィジカル・ノック)はネガ・ネビュラスでは御法度だが、決して許されない過ちなのだと言うことはできない。何故ならハルユキの幼馴染のタクムが去年の十月に起こした黒雪姫への襲撃だって、広義のそれと言えないこともないのだから。

 しかしタクムは許され、導かれ、心を入れ替えて、今ではネガ・ネビュラスにとってかけがえのない参謀であり、戦友となっている。

 

 能美だってそうなればよかったのだ。

 永続的なアビリティ、ないし強化外装、必殺技の略奪、たしかに(おぞ)ましい。その能力の鋳型となった能美の心だって相応のものだろう。しかしそれだって、ブレイン・バーストのシステムに認められた立派なスキルのひとつだ。

 誰だって自分はカッコいいと思いたい。口ではどうこう言っても、最終的には己はよきものだと信じたい。等身大に映った証明写真より、あえてピンボケにしたプリクラのほうをありがたがる。なのに能美は自身の心を写し取ったダスク・テイカーというデュエルアバターと、レベル5になるまで付き合い続けたのだ。

 彼の必殺技《魔王徴発令(デモニック・コマンディア)》ではハルユキ自身ですら忘れそうになるシルバー・クロウの必殺技《ヘッドバット》ではなく飛行アビリティを迷わず抜いていったし、この対戦中ではシアン・パイルの心意技の起点となる《杭打ち機(パイルドライバー)》を狙い撃った。相手の有している能力の中からランダムにひとつ抜き去るというにしては、あまりにも能美の態度は確信しきったものだった。

 ただでさえ相手の能力を永続的に奪うという反則的な性能の必殺技を、相手の所持能力の中から任意のものを選べるまで強化するのには、どれほどのリソースが必要だったのだろうか。下手をすると、これまでのレベルアップボーナスをすべてつぎ込む必要すらあったかもしれない。

 自身を何一つ強化せず相手から奪う、ただそれだけの悲しい能力に。

 

 まるで一昔前に流行った鬼畜系主人公のように。相手の能力を簒奪するチートの持ち主よろしく。

 能美がその役割を演じるというのであれば、ハルユキは最初に調子に乗って主人公に強能力を貢ぎ、すべてを奪われ無様に消えていく踏み台をやってもよかったのだ。

 能美にだってライハに、ダメな自分と(ぬる)く付き合う方法を教えてもらうチャンスがあった。黒雪姫に、誇りを胸に抱く生き方を教えてもらう権利があった。同じ剣道部であるタクムとは、ハルユキ以上に話が合うこともあっただろう。剣道経験者同士ならではの呼吸で、共に戦う未来があったかもしれない。

 そうなるのならハルユキは、自身の願いの具現化であったはずの翼すら投げ出して(譲り渡して)逃げた(消えた)ってよかったのに。

 

 それでも、ハルユキは折れなかった。

 チユリがいたから。

 能美が行きがけの駄賃のようにチユリを傷つけたから、ハルユキはキレた。

 

 有識者が眉をひそめそうな表現だが、『激怒した』や『憎悪した』ではニュアンスがやや異なるのだから仕方がない。怒りは爆発力に富むが持続性に欠け、憎しみは抱いた当人ですら対処不可能なほどに長引くが裏を返せば具体的な発散方法に乏しい。

 ハルユキを今日まで走らせてきた感情は、やはり表現するなら『キレた』であった。

 

 チユリは強い。

 そりゃもう、メンタル強度で言えばカーボンファイバーと水に濡らしたティッシュペーパーほどの格差がハルユキとの間に存在している。当然後者がハルユキだ。

 何か行事があるたびプレッシャーで調子を崩すハルユキに対し(万全ならいい結果を出せたかは別の話)、チユリが何かのイベントの前に寝付けなくなっただとか、緊張でものがのどを通らないだとか、そういう状態になったのを見たことが無い。

 最寄りの例外の記憶はブレイン・バーストのインストールに彼女が成功した夜、うっかりハルユキが『デュエルアバターを構築するために悪夢を見るだろうけどニューロリンカーは外すなよ』といらんプレッシャーをかけたときくらいで、それだって最終的にはハルユキを枕にすやすや眠ってしまった。

 

 しかしそれは、チユリが黒雪姫のような超越者や、ライハのような破綻者であることを意味しない。

 ハルユキとチユリは幼馴染だ。ハルユキは彼女が小学生のころ、男子と取っ組み合いの喧嘩をして泣いたり泣かせたりした現場を見てきている。何ならその男子がハルユキだったこともある。喧嘩の勝率はご察しの通り。小学校低学年のハルユキは、チユリボスの子分その一だったとだけ言っておく。

 中学に入ってからも、いじめへの同情で作られたと勘違いしてサンドイッチを叩き落した時、チユリは泣いていた。能美の悪意にさらされた時だって、声を上げることも出来ず眦に涙をためて震えていた。

 

 彼女はただ勝ち気で強気で努力家で不器用な、普通の女の子なのだ。

 ハルユキはそれを知っている。だって彼女は家族を除けば、あるいは家族を含めてさえハルユキが生涯で最も一緒の時を過ごしてきた相手だから。

 あるいは昨年の十月までなら、チユリとタクムが付き合っていた時期ならハルユキはそっと身を引いていただろう。日向の道を歩む二人の影さえ、デブでコミュ障な自分は踏んではいけないと固く信じていたあの頃ならば。

 しかしタクムが引き起こしたバックドア・ブログラムの一件で、幼馴染三人の関係性は良くも悪くもリセットがかかってしまった。タクムがいまだにチユリに対し親愛以上の感情を抱いていることは人心の機微に疎いハルユキも察するところであるが、現在のチユリは立ち入り禁止の他者の恋人ではない。

 

 ハルユキの大切な幼馴染、だ。

 

 だから能美がチユリを傷つけ、彼女の尊厳を貶める言葉を吐いた時。

 能美は中学一年の半分をいじめで塗りつぶした荒谷や、小学生の頃にハルユキを傷つけたやつらをあっさりと飛び越して、絶対に許さないリストの堂々一位にランクインした。

 

 翼を奪われ奔走した、現実世界(リアル)ではわずか一週間にも満たない時間。

 まだ飛行アビリティを取得していなかった最初期に敗北と勝利を教えてくれたアッシュ・ローラーと、再び翼を失った状態で対峙したときも。

 アッシュ・ローラーの親であり、シルバー・クロウが出現するまでは『加速世界で最も空に近づいたバーストリンカー』と呼ばれていたスカイ・レイカーに世界を上書きする(オーバーライド)力、《心意(インカーネイト)システム》の手ほどきを受けていたときも。

 因縁のCCC(クリプト・コズミック・サーカス)の領土秋葉原(アキハバラ)に乗り込み、《プロミネンス》の重鎮ブラッド・レパードと共に対戦の聖地《アキハバラB(バトル)G(グラウンド)》で大立ち回りを演じたときも。

 得られたヒントを繋ぎ合わせ、奥底に封じていた父親の記憶からついにダスク・テイカーがマッチングリストに表示されないロジックを解き明かし、能美との因縁に決着をつける一手にこぎつけたときだって。

 結局のところハルユキを動かしていた感情の根っこは、大切な少女を傷つけたあいつをぜったいに許してはならないという、原始的で動物的な衝動だったように思う。

 

 もっとも、守るだとか、救うだとか、そんなことをチユリに対して考えたのは分不相応だったのかもしれない。

 こうして振り返ってみればこの一件で最も理不尽に傷ついたのはチユリだが、ハルユキも能美も結局のところチユリの想定の範疇で踊っていたに過ぎなかったのだから。

 思い返せばかつてチユリが男子に張り手ではなくドロップキックを喰らわせたとき、いつもその光景をハルユキは顔をぐしゃぐしゃにして後ろから見ていた気がする。

 そういう女の子なのだ、彼女は。

 

 

 

「ははっ、あははは! ふはっ、あっはは!」

 

 痛みの反動で狂騒状態になっている、とにわかに納得しがたいほど気に障る笑い声が月光の中を転がる。それは認めがたいが、ハルユキにとって覚えのある気持ち悪さだ。どうにも能美から感じる『それ』がライハと被る。

 

 デュエルアバターは生物ではない。血は通っていないし、呼吸もしていない。だから仮に腕が欠損したところで痛みはあるし、腕は使えなくなり全身のバランスが崩れはするものの、生身のように出血多量で死ぬ心配はしなくてもよい。

 

 ――だからって、下半身が無くなった分『軽量化してスピードアップ』なんて格ゲーじゃなくてホラーアクションゲーの世界でやるべきだろ!

 

 もとからそういう構造(デザイン)の節足動物のように、ダスク・テイカーは地を這いずる。

 その左腕の触手が自在に伸縮し、移動に使用できることは初めて対戦したときにわかっていた。しかし、ここ無制限中立フィールドの痛覚設定は通常フィールドの二倍。現実世界のそれとほぼ変わらず、半身を喪失するような『重傷』を負えばゲーム的なスタンは無くとも意識が混濁したり、そうでなくとも激しい痛みで動きによどみが生じる、はずだ。

 

 大勢は間違いなく決している。

 チユリの策謀によって戦力比は二対一でこちらが優勢。能美の仲間(といっていい関係性なのか疑問だが、便宜上こう仮称する)のブラック・バイスの底は知れないが、それでも黒の王ブラック・ロータスを凌駕できるほどのものは見受けられない。

 さらにこちらには飛行アビリティを取り戻したシルバー・クロウと、ダスク・テイカーを実質踏み台にして一週間とかからずレベル4に到達した疑似回復能力持ちのライム・ベル(チユリ)が健在だ。

 怒涛の寄せもあり、客観的にはカタルシスすら覚える逆転の状況だろう。

 

 しかし、負け戦こそが『彼ら』の本領。

 負けるべき戦いで華麗に足掻き、勝ってほしい陣営の勝利に泥を塗ることこそが、『彼ら』の本懐。

 翼を失い空から転落し、地面を無様に這いつくばるダスク・テイカー目掛け、ハルユキはとどめを刺さんと急降下攻撃(ダイブアタック)を仕掛ける。

 

 ここでシルバー・クロウというデュエルアバターの性能に立ち返りたい。

 加速世界唯一の飛行型アバターであるシルバー・クロウは彼と直接対戦したことが無い、その功績を噂でしか知らないバーストリンカーたちからは『選ばれし勇者』、つまり加速世界に優遇された公式チートの具現化のように思われていることが多い。

 客観的な事実としてシルバー・クロウは一週間でレベル2、一か月でレベル3、三か月目には最初の登竜門とされるレベル4に到達しており、これらに飛行という絶対的なアドバンテージが絡んでいることは疑いようがないだろう。

 

 だが、シルバー・クロウと直接戦ったバーストリンカーに限ってみると、彼のことをチーターだと蔑み、羨む層は現在では圧倒的に少数派だ。

 シルバー・クロウが加速世界に現れて半年の時間が過ぎ、その間に彼らは幾度となく飛んだカラスが無様に撃ち落される光景を目撃しているのである。そして理解したのだ。ああ、アイツってオレらと同じなんだな、と。

 

 シルバー・クロウというデュエルアバターは、飛行という圧倒的アドバンテージにポテンシャルを極振りしたロマンビルドなのだ。

 たしかに経過がどうあれ、形になり対応すら困難な成果をぶつけられる側からすれば、そこに至るまでさんざん苦労していようがチートでお手軽に手に入れた力だろうと同じことかもしれない。

 だが、ハルユキ本人の優れた資質は《ゲーム》に対する愚直なまでの集中力。それによって幼いころからリアルを犠牲に培われたレスポンスの《速さ》。あとは強いて上げるなら、黒雪姫を起点に次々と結ばれ始めた人間関係、《めぐり合わせ》程度だろう。

 

 つまり何が言いたいのかというと。

 ハルユキは三か月前の災禍の鎧討伐戦でスノウ・ウィンドウが見せたような一を聞いて十を知り、それでも足りなければ零から七を引き出すような異常性(アブノーマル)は持ち合わせていない。

 経験値が足りていない部分には対応できないのだ。

 高高度からの急降下攻撃はシルバー・クロウ最大の武器だ。翼の推進力をすべて速度につぎ込み、腕と体の動きでホーミングを行う。レベルアップボーナスをすべて飛行能力の拡張につぎ込んでいることもあり、命中すれば同レベル相手でもHPゲージをごっそり削ることができる大技だ。

 しかしあらゆるゲームに共通することだが、当たらなければどうしようもない。

 推進力ではなく体幹で命中精度を担っているのだから、要となるのは目標の回避行動に対応する先読み。その基礎を担うのは、これまでの幾種類ものゲームで積み重ねてきた膨大な経験値と、バーストリンカーとの対戦で得た経験則だ。

 FPSで銃を片手に敵兵を狙い撃ったことがある。世紀末ステージにてヒャッハーと爆走するバイクと並走したことがある。それらの経験値に適合させるには、節足動物じみたダスク・テイカーの触手移動はあまりにもイレギュラーだった。

 

「あはっ! チェアアアアア!!」

「くっ、ぐああっ!?」

 

 結果として、ハルユキはその攻撃を外した。当然、その大きすぎる隙を黙って見逃してくれるような生易しい敵ではなくダスク・テイカーの紫色の鍵爪がシルバー・クロウの胸をばっさり抉る。

 冷たい。一瞬のそれが、燃え上がるような灼熱に変わるも、冷気は身体の表面から骨の髄に潜り込んだかのように消えず浸透していく。

 もとより激戦で余裕があるとは言い難かったシルバー・クロウの体力ゲージはすーっと血が抜けるように減少していき、一割未満の赤い点滅を残して止まった。普段はめったに意識しない、メタルカラーの切断属性への耐性が無ければあるいは。

 

 死んでいた。

 その実感が仮想の心臓を大きく揺らし、金属装甲に存在しないはずの全身の汗腺からどっと汗が噴き出す錯覚に襲われる。

 負けられない戦いがそこにある、なんて言わない。ネガ・ネビュラスの構成員に負けていい戦いなど存在しない。だが今のハルユキには敗北の先がない。ここはサドンデス・デュエル。体力ゲージの全損はすなわちブレイン・バーストからの永久追放を意味するのだから。

 

 しかしハルユキには死の重圧をゆっくりと味わう猶予すら許されなかった。

 

 ――まずい、(きず)をつけられた。『アレ』がくる!

 

 湧き出す焦燥にたがわず、能美の声が金属質に歪んで響く。

 成長リソースを大量につぎ込んだと思しき必殺技の詠唱を吐き捨てるように行い、イメージを固めるのに必要な心意技の命名を行わないほどに徹底して『ゲームじみた行為』を嫌う能美にしては、あまりにも滑らかな発声で。

 

「『奉仕滑舌(スリップサービス)』」

 

 ぎちり、と金属が擦れあう異音がシルバー・クロウの胸で鳴った。それが幻聴でないことを主張するかのように、ガリガリギチギチと歯ぎしりのような耳障りな音が続く。

 否、それは歯ぎしりそのものだ。いま、ダスク・テイカーの鍵爪でつけられた疵がぞろりと鋭い歯の生えそろった口に変わったことをハルユキは知っている。

 

 『これ』は果たして()なのだろうか。

 アビリティ、必殺技、そして心意。ブレイン・バーストの世界はハルユキの貧弱な想像を軽々と超え、鮮烈な興奮と飛び跳ねるような驚きを提供してくれる。未知の対戦相手からはどんな攻撃が飛び出してくるのか予測して対策を立てることはできても、想定通りに対戦が終わったことなどこれまで一度もないと言っても過言ではない。

 しかし、それを鑑みてもこのスキルはあまりにも異質だった。

 

『……』

 

 ハルユキが初めてこの技をくらったのは、能美へのリベンジマッチを仕掛けた《バトルロイヤルモード》の戦場だった。そして修行の果てに取得した心意技もろとも打ちのめされ、二度目の完敗を喫した。

 

『わかっているんだろ? ここが潮時だって』

 

 声が、聞こえた。

 どこまでも馴染みがなく、誰よりも傍にあった声。有田家ホームサーバーの最深層に沈められた音声ファイルで、いつか聞いたことがある気のする声。

 それは幼き日のハルユキの声であり、『傷口』から紡がれたものであった。

 

 この口は喋るのだ。

 

「くうっ!?」

 

 素早く地面を蹴り上空に舞い戻ったシルバー・クロウであったが、たった一言でイメージ制御系に不備が生じぐらりと飛行のバランスが崩れかける。

 とても会話に適しているとは思えない凶暴な歯並びにも関わらず、歯ぎしりをやめた『傷口』はペラペラと言葉を続けた。

 

『能美の行動は完全にネガ・ネビュラスを狙い撃ったものだった。ブラック・バイスの存在からいっても、まず確実に黒幕がいるよ。これはおしまいじゃない。はじまりだ。だけど。

 飛ぶことしかできないぼくはこの先の戦いにはついていけない。いっぱいチユを泣かせて、たくさんタクを傷つけて、それが身に染みて理解できただろう? 足手まといにしかなれないんだ』

「だまれ……!」

 

 黙らない。この口を黙らせる方法はおおきくわけて二つしかないことを、ハルユキはとっくに知っている。

 ひとつは何かを食べさせること。『傷口』はかなりの悪食であり、《煉獄》ステージの硬いオブジェクトから口を塞ごうと伸ばしたシルバー・クロウの金属装甲まで、触れたものを無作為にむさぼり喰らう。ものを咀嚼している間は、食べながら喋るなどとお行儀の悪いマネを『傷口』は行わない。

 ただしこれは事態の先送りでしかなく、たいていの場合問題は早期解決ができなければ悪化するものだ。これもその例に漏れない。

 ものを食べ終えた『傷口』は食べた量に比例した成長を見せ、巨大化する。そして大きくなればなるほど声は大きく、内容は心の奥にひた隠しにした弱みとなる。

 どのみち、飛行しているハルユキの周囲に食べさせることができるオブジェクトなど存在していない。この方法は使えない。

 

 もうひとつは外科的に切除することだ。

 『傷口』はハルユキたちが《虚無の波動》と呼んでいる、ダスク・テイカーの鍵爪(心意技)でつけられた疵からの派生だ。その法則は『傷口』が出現する前も、後も変わらない。

 つまり《虚無の波動》による()()()()()()()()すれば、『傷口』に変じることはないし、『傷口』になった後も力技で削り取ることができる。

 言うまでもなく、こちらもベストとは言い難い解決方法だ。文字通り『傷口を抉る』かたちになるので精神力をすり減らす莫大な覚悟が必要であるし、痛覚神経にショックが残留し動きに支障が出るほどの痛みが伴うし、何より体力ゲージをごっそり持っていかれる。

 体力ゲージが残り一割未満のシルバー・クロウにそんな余裕はない。こちらの方法を選ぶこともできない。

 

 ならば、たかがお喋りと捨て置いて戦うのか。

 あまり現実的ではない。

 心意技には深い集中が必要とされる。昔話に伝わるサトリ妖怪のようにペラペラと直視しがたい己の心を語られる横で、事象を上書きするほどの強いイマジネーションを練るのは不可能だ。むしろアバターを動かす心の熱がかき消され《零化現象(ゼロフィル)》が発生しうる。

 実際、シルバー・クロウの腕に宿っていた光の剣は寿命を迎えた蛍光灯のように瞬き、消えてしまった。イメージ制御系に依存する飛行も精彩を欠く。

 ずきりと、背中と左手首が脈打った気がした。

 

『だいじょうぶ、タクが残っている』

 

 この戦いは能美とハルユキの決闘(デュエル)ではない。バーストリンカー(ハルユキ・タクム)加速利用者(能美征二)死闘(サドンデス・デュエル)だ。もしハルユキが能美と相打ちになった場合、生き残ったタクムは参加者三人分のポイントを総取りする権利を得る。

 仲間にあとを託して己を犠牲にする。言葉にすれば美しい。

 

 たしかにこの世界を物語に例えるのなら、タクムはハルユキなんかよりよほど主人公にふさわしい存在だと、誰でもないハルユキ自身がそう思う。

 よく言われることだが、たったいちど雨の日に猫を拾う不良よりも、普段から品行方正な優等生である方がよほど難しく、得難く、素晴らしい存在だ。

 ハルユキの幼馴染、タクムはハルユキの知る中で一番の努力家の秀才である。根性でいえばチユリに一歩及ばないかもしれないが、あれはもうチユリがダントツでぶっちぎっているのだから仕方がない。

 

 梅郷中に転校してくる前の名門校では学年一位の成績を誇り、今年の剣道部でレギュラーを決める全学年参加のトーナメント戦が開催された際には準優勝に輝いた。優勝者の能美が《加速》というチートツールを使用していたのを鑑みると彼こそが、専用の道場を有するほど伝統ある剣道強豪校梅郷中で最強の剣士と言っても過言ではない。

 文字通りの文武両道。しかしそれが天賦の才などではなく、薄皮を一枚一枚積み重ねたような地道な努力に基づくものであると、ハルユキは知っている。

 

 いまさら語るべくもないが、ブレイン・バーストをインストールするには二種類の適正が必要だ。ひとつは高レベルの脳神経反射速度を有していること。

 そしてもうひとつは、生まれた直後からニューロリンカーを装着していることだ。多くのバーストリンカーはこの条件を親からの愛情の欠落によって満たしている。ハルユキもそうだ。ニューロリンカーを外部モニタとして活用すれば共働きの効率を落とさずに育児が可能であるし、強制フルダイブさせれば夜泣きもぐずりも即座に解決できる。

 

 タクムの場合は違う。彼は両親の熱心な教育方針により、赤ん坊のころからニューロリンカーを介し知育ソフト漬けの日々を送ってきたのだ。

 しかしだからといって、彼を両親の言いなりになっている貧弱なガリ勉と切って捨てるのはあまりにも早計である。彼はバックドア事件で背負ってしまった自身の罪を償うために、受験戦争を勝ち抜いてくぐったはずの名門校の狭き門を出て、ネガ・ネビュラスの本拠地でありチユリが通う学校である梅郷中まで転校してきた。

 言い訳ならいくらでもできたはずなのだ。むしろ進学など本人の意思より、親の希望が優先されるのが普通なのだから。学歴に傷をつけるこの選択を押し通すのに、彼はどれほどの交渉を両親との間に重ねたのだろう。

 ハルユキやチユリと付き合いを継続していることもそうだ。タクムの両親は幼いころからもろ手を挙げて賛同していたというわけではないが、小学校高学年の頃にはそうわかるほどにハルユキが家に遊びにいくといい顔をしなくなった。タクムの幼馴染は、彼らのお眼鏡にかなっていないのだ。それでもタクムは断固として、ふたりを自身のもっとも大切な存在と自らの人間関係に位置付けている。

 

 特定分野の瞬間的な爆発力ならあるいは自分が上かもしれないと、ハルユキはこっそり自惚れている。でも、常に優秀でスマートなタクムの方が、人間としてずっとずっと上だ。

 ハルユキがどうせ自分にはできないと諦めてしまったリアルを、誰に何を言われようとタクムはすべて抱えたままここまできたのだ。そんなかなりの負けず嫌いな幼馴染を、ハルユキははっきりと声に出して言ったことはないが、心の底から尊敬している。黒雪姫に抱いているのとは別の方向で憧れている。

 彼はハルユキの、もっとも身近なヒーローなのだ。

 

「それでも……」

 

 ここでリタイアすることが模範解答なのかもしれない。

 タクムに任せた方がきっと世界はいまよりも、歯車の噛み合った素晴らしい世界になる気がする。それでも――ハルユキはここで終われない。

 

『もしかして、まだぼくはわるくないって思っている? ぼくはわるくないけど、チビで、デブで、ドモリで、汗っかきなのが悪いんだって。

 忘れたふりをしているだけだろ。だってパパとママが怖い声で言い争っていたあの日、ぼくはまだ――』

「それでも……!」

 

 翼を失ってから、ハルユキは自身の心の傷を反映したシルバー・クロウというデュエルアバター、その加速世界唯一の飛行アビリティに託された願いを見つめ直す機会を得た。

 このタイミングで翼を失ったのは、きっと意味のあったことなのだ。飛びたい、という純粋な願いに応えてあらわれた翼を、いつの間にか対戦に勝つための能力(アビリティ)に落としこもうとしていた自分に気づけた。

 ライハが聞いたらきっと鼻で笑って『悪いことは悪いことじゃ。そこに乗り越えなければならぬ試練など無いわい』と肩をすくめることだろう。

 でも、そんなライハこそに知ってほしいのだ。

 

「初めてこの世界の空を飛んだとき、僕は知ったんだ」

 

 地平線の彼方まで、どこまでも広がっている世界を見た。

 口下手なハルユキに詩的な秀逸な表現などできるはずもないが、あのときにハルユキは許された気がした。ようやく自分が世界の中の一要素として肯定された気がした。

 だから、何度誘っても『上から見下ろすなんて儂の性ではないわい』と空の旅を受けてくれなかったあのひとにも感じてもらいたい。

 

「この世界は――無限だ」

 

 努力できなくても、努力できるようになっていいのだと知ってほしい。

 頑張れなくても、頑張れるようになっていいのだと知ってほしい。

 幸せになれなくても、幸せになっていいのだと知ってほしい。

 梅郷中で誰よりもダメな自分のままでいいのだとハルユキに思わせてくれたあのひとに、ダメな自分でも誰かの大切になってもいいのだと知ってほしい。

 

「だから、ライハさんが自分では幸せになれない。幸せを選べないっていうのなら」

 

 ただ、その感情は頭脳ではなくハルユキの心の奥底から湧き出た。それはつまり魂からの言葉といえば聞こえはいいが、頭を介さずに口から飛び出すこととなった。

 

「ライハさんは僕の大切な人だ! あのひとは僕が幸せにしてみせるっ!!」

 

 現実世界の一千倍で流れているはずの加速世界の(とき)が、停止した……。

 

 

 

 このあと、なんやかんやあって、ダスク・テイカーには勝利できました。

 

 

 

「えっと、僕なにかやっちゃいました?」

「ハル坊、それは(転生者)のセリフじゃて……本気にさせましたね、有田くん」

 

「えっ?」

「なんでもないです」

 

「へっ?」

「なんでもないわい」

 




全編――終了

ダスク・テイカー編はこれにておしまい!
『なんやかんや』の詳細は気が向けば書きます。

ぜんぺんしかないやんけーと後で章のタイトルでバレないように、後日『こうへん』も投稿予定(たぶん数か月後)。
でも、その前にこの六年間で追加された各種機能のテストがてら、幕間を挟むかもです。

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