大理石の胎児は加速世界で眠る   作:唐野葉子

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文章がごちゃっとしてネット小説としては読みにくい気がしたので整理したら、今度は改行とスペースが多くなりすぎた。



後篇

 

 あるいは、マーブル・ゴーレムなるバーストリンカーに協力を要請していれば何か違っただろうか。

 

 ハルユキの思考は千々に乱れ、雑念に深く食い込んだかと思えば、本題に脈絡なく切り替わる。その本題すらも未来ではなく過去への現実逃避なのだから、非効率にして非生産的極まりない。そうわかっていても考えるのをやめることはできなかった。

 

 あれは黒雪姫と会ってから三日目、そうつい昨日の出来事だ。バーストリンカーとなってから初めての対戦で、ものの見事にアッシュ・ローラーに狩られたハルユキは、その昼休みに黒雪姫から受けた手ほどきの中、マッチングリストに三つめの名前を見つけたのだ。

 

 ブラック・ロータスというのが黒雪姫のアバター名だということは直感的に理解できた。むしろこの並んでいる三つの中で、彼女のアバターがそれでなければ詐欺だ。シルバー・クロウは当然自分の名前。

 

 ならば、このマーブル・ゴーレムというのはいったい誰なのだろう。

 

 確認のつもりで顔を上げると、黒揚羽蝶のアバター姿となった黒雪姫は珍しくはっきりとわかる苦い顔をしていた。冷笑や苦笑くらいしか今まで見たことがなかったので驚くハルユキに、黒雪姫は重たそうに口を開く。

 

「そいつは……そうだな、何と言えばいいのか。少なくとも仲間ではないが、敵とも言い難い。むしろ一番敵に回してはいけないタイプだろうな」

「えっと、そんなに強いんですか?」

「強いのならばいずれ勝てる。そんな生易しい話じゃないんだ。アレの言葉を借りるなら、『勝ったり負けたりできない』相手。……ハルユキ君、もしもキミが人間として欠落なくまっとうに生きたいと考えているのなら、決してアレには近づかないことだ」

 

 強いのならばいずれ勝てると言い切った黒雪姫に痺れたが、それ以上に『勝ったり負けたりできない』という言葉に憧れた。

 

 なんだそのちょっと恥ずかしいけどカッコいいと認めざるを得ない響き。なんだか仲良くなれそうな気がする。

 

 残念ながらその時は黒雪姫がさっさとブレイン・バーストの説明に切り替えてしまい、絶対に押し間違えるなと念押しされながら対戦フィールドでの講義へと移行したため、それ以上そのアバターのことが話題に上がることはなかった。

 

 しかし二回目の機会は意外と早く訪れる。

 アッシュ・ローラーへのリベンジを果たし、チユリとの衝突など若干のトラブルはあったもののそのまま祝賀会へと移り、喫茶店の席で黒雪姫の口から聞かされた彼女の過去と罪。

 

 純色の七王。レベル10の条件。裏切りに赤く染まる黒の刃。二年にわたる逃亡生活とリアル割れ。尻に火のついた刺客シアン・パイルとその対策。ハルユキにブレイン・バーストが与えられた理由。

 

 そこまで聞いたハルユキは、シアン・パイルの正体候補よりも先に、どうして自分だったのだろうという疑問が湧いて出た。

 わざわざ自分のようなとりえのないデブを、いじめから救い出すという手間暇をかけ、一回しかないブレイン・バーストのコピー権を消費してまで駒に加えるくらいなら、敵でも味方でもないというマーブル・ゴーレムに頼んで協力してもらったほうがずっと早くて確実だったのではないだろうか。

 

『キミの言いたいことはわかるぞ。どうしてマーブル・ゴーレムに協力を要請しなかったのか、ということだろう?』

『そ、その通りです』

『まったく、すぐ顔や態度に出るのはキミの切実さの裏返しだから欠点とまでは言わないが、黄色あたりを相手するには付け込む隙として認識されるだろうな。まあ、そこはおいおい訓練を重ねることとして……』

 

 直結の思考発声で会話しながら、黒雪姫はわずかに唇をかんだ。その硬い表情の奥に、先ほど赤の王の頸を落としたことを語るときに通じるものがある気がして、ハルユキは慌てて謝罪して取り消そうとする。

 しかしそれより一瞬だけ早く、黒雪姫は唇を動かさずに言葉を続けた。

 

『やはり語らねばなるまいか。私が梅郷中学校に入学したときの一幕を』

 

 そうして語られたのは、黒の王の暴挙によって加速世界で流された数多の血の、その一滴に連なる物語だった。

 

『キミも知っての通り、現代の学生は学内ローカルネットに常時接続せねばならない。小学生のころは黒の王の領土内だったので問題はなかった。しかし加速世界から追放され、軍団(レギオン)を失った後の進学先はそうもいかない』

 

 中学校は義務教育なので進学しないという選択肢も取れない。ハルユキだったら最悪ヒキコモリになっていそうだが、黒雪姫はその選択を選ばなかった。

 

『私の愚かな願いも虚しく、入学当時位この学校には五人ものバーストリンカーが存在していた。三年生に一人、二年生に二人、そして新入生の二人が私とマーブル・ゴーレムだ』

 

 マーブル・ゴーレムも黒雪姫が事件を起こす一年前にとある騒動を起こしており、加速世界における賞金首の一人となっていたバーストリンカーだそうだ。

 

 騒動の詳細は教えてくれなかった。いずれ時が来たら教えるし、その時がいずれ来ることを私は確信している、とはぐらかされて。

 そんなことを言われてしまっては深くは聞けないし、そもそも神妙に語る黒雪姫の話の腰を折る勇気なんてハルユキは持ち合わせていない。

 

『私は、マーブル・ゴーレムと同盟を結び、上級生の三人を全損させた』

 

 そう語る黒雪姫は、臆する自分を叱咤してここにない何かを直視するような、しかし一方で別のものに注目して前にいるハルユキの顔を直視しないようにしているような、そんな目をしていた。

 赤の王の頸を狩ったときの話さえハルユキから目を逸らさなかった彼女の弱さの発露にハルユキは驚愕する。そして同時に理屈でなく心で理解した。

 これほどの人に弱さを植え付ける『何か』が、黒雪姫がハルユキとの接触を禁じたマーブル・ゴーレムという存在なのだ、と。

 

『前にキミにやつのことを聞かれたとき、何と言えばいいのかわからないと言ったな。あれは嘘だ。私とやつには共犯者という確かな繋がりが存在する』

 

 下手に触れたら切れそうで、斬られそうな張りつめた笑みを黒雪姫は浮かべる。痛々しくて見ていられなかったが、ハルユキの方も目を逸らすわけにはいかなかった。

 他の何からは目を逸らしたとしても、この笑顔はハルユキが引きずり出したのだから、それだけは自分で許せなかった。

 

 しかしわからない。共犯者だというのなら、なおさら助力を乞いやすいはずだ。そもそも入学時に二人で外敵を排除して安全を確保したというのなら、シアン・パイル討伐はその延長上のはず。

 

『本当にキミは顔によく出るな。見ていて飽きないよ』

 

 そう言って黒雪姫は苦笑する。その笑顔は普段と同じものに見えたが、そう言えるほど関係が長くも深くもない。それに一瞬で能面のような無表情になってしまった。

 

『やつも罪人であり追放者だが、私とは立場が違う。

 やつはすでに広範囲にリアル割れしており、一時期は顔と名前が加速世界で公表されていた。調べようと思えばそこから、在学している学校などすぐに特定できるだろうな。今さらもう一人に知られたところでどうということはない、ということだ』

『なっ!?』

 

 口を挟めるような空気ではなかったが、それでも思わずハルユキは声を漏らしてしまった。

 肉声まではいかず思考発声にとどめたのは我ながら上出来だったと自己評価を下す。ただでさえ人目を引く組み合わせなのだ。いきなり大声を出して注目を集めでもすれば、肝心の内容を聞く前に会話続行が不可になっていたかもしれない。

 

『な、なんでそれで今までやってこれたんですか? 運よく現実で襲撃に一度も遭わずになんてことはさすがに無いでしょうし、もしかしてリアルでもすごく強い……』

 

 そこまで言いかけて、ハルユキは思いだす。『勝ったり負けたりできない』という黒雪姫の言葉を。『一時期は』というキーワードを。そして漠然と察する、その意味を。

 

『理解したようだな。そう、やつを狩ろうとしたバーストリンカーたちのなれの果てを、その末路を見て、加速世界は彼女のことを最大のタブーとした。いわば接触禁止(アンタッチャブル)という特権階級。今では賞金首リストの中に、彼女との接点がわずかに残るのみだ』

 

 敵対するという形でさえ関係を拒まれる、ハルユキの想像の範疇外にある異端者。

 黒雪姫の口から語られる幻影に恐怖とも憧憬ともつかない感情を抱いたハルユキは、黒雪姫が漏らしたマーブル・ゴーレムのリアルの破片にこのときはまだ気づくことができなかった。

 

『……だから、先輩はマーブル・ゴーレムに協力を要請しなかったんんですね』

『おいおい、勝手にわかったような気になってくれるなよ。そんな簡単な理由だったらそもそも私が一年のころにやらかしたことの顛末など説明する必要がないじゃないか。マーブル・ゴーレムの説明だけでいい』

『あっ……!?』

 

 あまりにもマーブル・ゴーレムの在り様が衝撃的過ぎて、ほかの要素がすっかり頭から飛んでいた。ハルユキは赤面する。

 黒雪姫も口元をわずかに苦笑に緩めながら、少し穏やかになった口調で続きを語った。

 

『あと先にネタばらししてしまうと、協力は要請したが断られたんだ』

『えっ!?』

『それに実は、一年のころの話と断られた理由に直接の因果関係はなかったりする』

『ええっ!?』

 

 おおげさなくらい驚くハルユキに、思わずと言った調子で黒雪姫が含み笑いをこぼす。別に狙ってやったわけではないのだが、重苦しかった空気はそれで一気に払拭された。

 黒雪姫が凛とその美貌を引き締め、合わせてハルユキが息をのんでも先ほどまでのような肺の奥が澱むような雰囲気にはならなかった。

 

『……話しておかねばならない、と思ってな。私はただその場にいたというだけで、重罪人と手を組み何の罪もないバーストリンカー三人を全損させる女だ。いまさら特別に加害者面するつもりはないさ。レベル9になるまでに幾人ものバーストリンカーをこの手で屠ってきたし、それを恥じるつもりはない。

 だから、キミもいつか私の正義も倫理も道徳もない目的のために、無残に使い潰される日が来るかもしれん。王など遠い場所ではない、身近なところで私に破滅させられた具体例を知った上でもう一度聞くぞ。それでも私と来てくれるのか?

 一度キミから肯定の言葉を引き出しておいて、このような問いかけをするのは卑怯だと重々承知している。しかし、今一度考えてみてほしい。今なら手放してやることができる。これが最後のチャンスだ』

 

 ハルユキは三秒だけ考えた。迷ったわけではない。即答するのは勢いに任せているだけのような気がして、不誠実だと感じられたから。

 ゆっくり自問自答を重ね、自らの想いを確かめて、はっきり頷いた。

 

『もちろんです。僕の答えは変わりません』

 

 下手に言葉を重ねると先ほどのように意味不明な余計なことを言いそうだったので、短くそれだけにまとめた。

 

『ありがとう……』

 

 果たして黒雪姫の目の奥で瞬いた感情は、いったい何だったのか。対人経験が圧倒的に不足しているハルユキには読み取ることができなかった。あるいは、そんなわけがないと否定したかったのか。今でもよくわからない。

 ただ、そのままでいるのは辛かったので、急き立てられるように次の話題を切り出したことだけが事実だった。

 

『あ、あのですね。それで、断られた理由っていったい何だったんですか?』

『ああ、くだらないことさ。クリームメロンパンと焼きそばパンがその日購買で売り切れていたから、だとさ。それなら私が別ルートで購入しようと申し出ても、そういうものじゃないとバッサリ断られてしまった』

『…………』

 

 あんまりな理由にハルユキは開いた口がふさがらなかった。太陽がまぶしかったから人が殺せるタイプの人間なのかもしれない。

 おそらくだが、理由はなんでもいいから適当にでっち上げたというわけではなく、本当に本気で第三者からすればバカバカしい内容が当人にとっては理由足りうるのだろう。

 ついでに、ふと気になったことを質問してみる。

 

『あの、先輩……。同じ相手に対戦を仕掛けられるのは一日に一回だけなんですよね? どうやって三人を全損させたのか、方法を聞いてもいいですか?』

 

 黒雪姫は逃亡者。学内ローカルネットのアカウントが手に入る入学初日に口封じに成功しなければ、状況的に詰んでしまう。

 仮に相互に対戦を仕掛け、そのすべてに勝利したとしても、マーブル・ゴーレムと合わせて奪い取れるポイントは一人当たり多くて40前後がいいところだろう。とても全損に至る被害だとは思えない。

 

 シアン・パイルのようにリアルを割って停戦状態に持ち込み、じっくり削っていくという方法もあるが、入学初日に全員のリアルを割ることが可能だとは思えなかったし、何らかの方法でそれを成し遂げたとしても、ポイント全損の恐怖に自棄になった相手が道連れにする危険性を無視してあの黒雪姫が計画を立案するとも思えない。

 

 何か一回で相手を全損させる方法があるのならば、今のうちに聞いてほしかった。加害者としてではなく、いつか被害者になりそうな気がしてたまらない未来の自分のために。

 

『ふむ……。サドンデスルールというものがあり、そのルール内で行われる対戦は相手とのレベル差に関係なく敗者のポイントがすべて勝者に譲渡される。つまり必然的に敗者は全損するわけだな。最終的にこの方法で三人は全損した。

 しかしそれには無制限中立フィールドでサドンデス・デュエル・カードを使用する必要があり、実質レベル4以降の話だ。今のキミが気にする必要はない』

 

 黒雪姫はどこか淡々とした口調で説明する。

 ハルユキはごくりと唾を飲み込もうとしたが、フラッペで潤したはずの口の中はすでにカラカラだった。たった一回の対戦ですべてを失う可能性。怖くて4レベル以上にはなかなかレベルアップできないかもしれない。

 

『それに、それもあくまで結果的にこの方法で全損したというだけだ。決着は通常対戦フィールドですでについていた』

『え?』

『……これを言うとやつに責任を押し付けるような気がして言いたくなかったんだが、実はよく知らないんだ。

 気がつけばマーブル・ゴーレムと三人の間で話がついていた。私が知っているのは、三人がマーブル・ゴーレムにそれぞれ一回ずつ通常対戦を仕掛けられたということくらいなんだ』

 

 黒雪姫は苦く笑う。それが自嘲だということは、同質の表情をよくするハルユキには一目でわかった。それ以外の成分も多分に含まれているようで、そちらはあまり解析できなかったが。

 

 たしかに聞いた時から、この高潔な人が身を守るためだけに情け容赦なく第三者の加速を奪うなんて違和感があった。もしかすると同盟や全損の話は、かなり時系列が前後しているのかもしれない。

 ただ、彼女はすべてが終わった今、それらを自分の罪として受け入れているようなのでハルユキには何も余計なことは言えなかった。

 

『それだけで三人の心は折れた。立ち向かうのはおろか、加速を捨ててまでやつに()()()()()()()

 それを受け入れたマーブル・ゴーレムは、どうせ捨てるものならばと単純にブレイン・バーストをアンインストールするのではなく、サドンデスルールを使ってバーストポイントをすべて搾取したんだ。

 私が加速世界最大の罪人だとすれば、やつは加速世界最低の罪人さ。

 やつはそこらのPK集団のように現実で襲撃する必要も、無制限中立フィールドで数を頼みに取り囲む必要もない。

 ただ関係するだけで心を折り、腐らせ、溶かしてしまう。

 レベルこそ4と低いが、実際はレベルアップに、強くなることに興味がないだけだ。無制限中立フィールドの制限がなければ、いつまでもレベル1でいた可能性が高いな』

 

 もっとも、意図的に低レベルに留めプレイヤースキルで格上狩りをするのは古参リンカーのテクニックの一つだがな、と黒雪姫は軽く吐き捨てた。

 友を手にかけてまで上を見続けた彼女にとって、効率的にバーストポイントをため続けるために適度なレベルに留まるバーストリンカーの態度は気に食わないものがあるのかもしれない。

 垣間見える子供っぽい一面に、ハルユキは少しだけ彼女のことを身近に感じた。

 

『マーブル・ゴーレムが加速世界を追放された理由の一つがこれだ。やつに対戦による勝敗ではなく、心をへし折られることによって加速世界を去るリンカーが多すぎた。今もやつのストレージの中には狩ったリンカーたちの遺品が複数眠っていると言われている。

 ハルユキ君、もう一度念押ししておくぞ。やつとは関わるな』

 

 ――あの黒雪姫にここまで言われるほどなのだから、よほどの悪党なのだろう。

 

 もしもハルユキがマーブル・ゴーレムに独断で協力を要請していれば、荒谷なんかに黒雪姫が撥ねられる結果にはならなかったかもしれない。毒を以て毒を制す、というやつだ。

 たとえその毒でハルユキが蝕まれようとも、黒雪姫が無事でいるのなら安すぎる対価だと胸を張って言える。

 

 あの後、シアン・パイルの正体がチユリだという話が出てきてしまい、喧嘩別れのように話を打ち切ったのが悔やまれる。

 一年以上同じ学校で過ごしたのだから、黒雪姫はその現実(リアル)の顔を知っていたはずだ。土下座をしてでも詳細を聞き出しておけば何かが変わったかも。そんな妄想に近い後悔に苛まされるハルユキは、ふと頭を殴られたかのように気づいた。

 

 僕はマーブル・ゴーレムのリアルの顔を知っている。

 

 そう遠い過去の話ではない。ほんの今から一時間以内の話だ。

 黒雪姫が宙を舞う姿を見てから時間の感覚はとっくに狂っておりはるか昔に感じるが、放課後に黒雪姫と合流しようとしたとき、彼女は一人の女子生徒と口論していた。

 

 周囲に人垣ができているくせに、誰も彼もが二人からかなりの距離を取り、ぽっかりと真空地帯ができていたのを覚えている。

 あの時は黒雪姫がハルユキに焼いているなどと新聞部の先輩に言われたせいで余裕を失っており周囲を観察する余裕などなかったが、会話の内容は一部だが思いだせた。

 

「わずか二日で決行し成功させるとは、さすがは黒雪姫、と言いたいところじゃが……。いささか鮮やかにやりすぎたのう。あれでは不要な恨みまで買う。儂が関わっておる以上、その疵は致命傷になりうるぞ。さしのおぬしも冷静では……」

「ご忠告感謝しよう。感謝ついでに今すぐこの場から消えてくれないか。彼とお前を会わせたくない」

「けーろけろ。可愛い嫉妬じゃのう。さてはて、おぬしが次に記すべきは恋文が遺書か……と、待ち人が来たようじゃな。邪魔者は言われた通り退散するわ。機会があればまたの」

 

 相手のことはよく覚えていない。黒雪姫に集中するだけでハルユキのキャパシティはオーバー寸前だったのだから。

 ただ、腰の下まで届きそうな長い、脱色に失敗したような汚れた白髪が印象に残った。

 

 ハルユキが黒雪姫の元まで駆けつける前に女子生徒はふらふらと立ち去った。まるで道を開けるようにざっと人垣が割れたのは覚えている。

 そう、思い出した。きっと彼女がマーブル・ゴーレムだ。

 根拠もなくハルユキは確信する。周囲から隔絶された雰囲気が、どこか黒雪姫に似ていた。きっとあれは古参バーストリンカーの特徴なのだろう。

 今ならわかる。あのとき彼女はこのことを指摘していたのだ。逆恨みした荒谷が何か起こしかねないと、彼女は見通していたのだ。

 

 どうして気づけなかった!

 

 酸素チューブに繋がれた黒雪姫の白い顔を見ながらハルユキは血が滲みそうなくらい拳を握りしめる。

 しかし、非生産的な自傷行為もここまでだった。

 救急車が病院にたどり着き、そこからは余計なことを考える暇のない怒号の展開だったのだから。

 

 手術室に運ばれる黒雪姫の細い体。病院のベンチで生徒手帳越しに改めて触れた、黒雪姫の想い。院内ネットに無防備に繋がれる愛しい人と、襲撃者を警戒し続けた人生で一番長い十二時間。シアン・パイルの正体。負けられない戦いと飛行アビリティ。そして、親友との真の和解。

 

 四肢の半分を失い、それでもボロボロになって全てを守り掴み取った充実感にハルユキは満たされていた。

 

 ブラック・ロータスとしての正体を露わにし、ギャラリーに、ひいては加速世界全体に対して堂々と宣戦布告をする黒雪姫を腕の中に抱えて空を飛びながら、まるで物語のハッピーエンドのようだと、ふとハルユキが何気なく考えたとき。

 

「とうっ!」

 

 すっかり脳裏から消し去っていた()()は現れた。

 ギャラリーの集団の中から飛び出し、ハルユキたちがいる舞台の中心に、親でも同じレギオンメンバーでもない観客バーストリンカーが接近できるギリギリのラインに着地したその姿は、まさしくカエル。

 

「……ライハさん?」

 

 白と灰色のマーブル模様のカラーリングは、見間違えるはずもないハルユキの第一の恩人ライハだった。

 どうしてここに彼女が? 答えは一つしかないのだが、数々のイベントで疲労困憊の脳はなかなか正解にたどり着かない。

 腕の中でブラック・ロータスが身じろぎする。

 

「知っているのかクロウ?」

「え、先輩こそ知っているんです――」

 

 言っている途中で空転していた歯車が、がちんと音を立てて噛み合った。

 それに合わせたわけではないだろうが、カエルはぐぱりと口を引き裂いて笑うと顔の前で両腕をクロスする。それはまさしく子供向けアニメのヒーローがやるような変身ポーズだった。

 

「へん、しん!」

 

 どろりと灰色の光がカエルの全身から噴出し、ノイズが走ったかと思うとシルエットが崩れる。まるで粘土細工のようにぐにゃっぐにゃと姿を変えるそれは、一体のデュエルアバターの形を取りつつあった。

 

 一言で言い表すならば、異形。

 

 大きすぎる頭に細い四肢は、まるでできの悪い人形か胎児のよう。全体的に装飾の少ないつるりとしたフォルムは十把一絡げの雑魚キャラのようで、同じくほそっこくて小柄なアバターのシルバー・クロウとしては親近感を覚える。

 

 しんと静まり返った空気の中、大きな顔の中心に据えられた、これまた大きな単眼(モノアイ)が、嘲笑をこぼすように琥珀色の光をびみょんと放った。

 

「マーブル・ゴーレム……」

 

 予想通りの答えが目の前で形を取ったシルバー・クロウは、思わずその名前を呼ぶ。

 どうして思いつかなかったのだろう。

 こうして答えが目の前に現れてみれば気づかなかったことが不思議でしょうがない。黒雪姫は(プラス)、ライハは(マイナス)、方向性こそ違えど一般の中学生にはありえないカリスマ性を常に身に纏っていたというのに。

 

 ハルユキの居場所を作ってくれたカエルが、あの時見た黒雪姫が口論していた少女が、目の前の体の芯から凍えそうな怖気を放っている異形のアバターだということは、とても納得できることだった。

 音という音が拭い去られたようなステージの中、シルバー・クロウのフィンの振動音と呟きだけが妙に響き渡る。その声が限界まで張りつめた空気の糸を切った。

 

 轟っ!

 

 周囲の怒号にハルユキは思わず身を竦ませる。

 腕の中の黒雪姫を落とさずに済んだのは何よりの僥倖だった。もしも落としていれば、数日間は立ち直れなかったかもしれない。

 

「マーブル・ゴーレムだと……!?」

「なんでだよぉ、なんであいつがここにいるんだよお!」

「嘘だっ! やつは純色の七王に裁かれて全損したはずじゃなかったのか!?」

「うわあああああああああ!!」

 

 ブラック・ロータスが登場したときの喚声が驚愕、興奮などで構成された熱い響きだとすれば、これはまさしく悲鳴だった。

 ハルユキなど及びもつかない、百戦錬磨のはずのバーストリンカーたちが一様に子供のように怯えている。

 飛行アビリティの登場、黒の王復活の感動の舞台から一転、阿鼻叫喚の地獄絵図が広がった。

 

「聞けっ、者ども!」

 

 マーブル・ゴーレムの声に周囲はピタリと静まり返った。ハルユキも息と唾を飲み込んで成り行きを見守る。決してそれは理性的な判断ではなかった。

 草食獣が至近距離で肉食獣に遭遇したような本能的な行動。我が身を守るために、息を潜めてその場にいるほぼ全員がマーブル・ゴーレムの一挙一動をうかがっていた。

 完全に場を支配したマーブル・ゴーレムは舞台俳優のような大げさなしぐさで両手を大きく広げる。

 

「我が名はマーブル・ゴーレム。一人からなる軍団(レギオン)『モノクローム・シアター』の首領であり、黒の王の盟友なり!

 黒の王の敵よ、心せよ。我らは表から正々堂々と刃向う者たちには敬意と礼儀を以て接する。しかし、我らを弱卒と侮り、手段を選ばずに裏から敵対するというのなら!」

 

 そこでマーブル・ゴーレムは言葉を貯めると、明らかに嗤っているとわかる声色で続きを吐き出した。

 

「ルール無用で過負荷(マイナス)を相手取る愚かしさをその身に刻んでやろう。勝ったり負けたりできると思うなよ?」

「…………お、ま、え、は、なあ!」

 

 ここで唯一マーブル・ゴーレムの空気に飲まれていなかった者が動き出した。

 

「ん、なんじゃブラック・ロータス。せっかく儂が珍しくカッコよく決めたばかりじゃというのに。余韻が崩れるじゃろう?」

「貴様がそれを言うか!」

 

 言わずと知れた黒の王である。

 彼女はシルバー・クロウの腕の中から飛び降りると、ホバー移動のくせにずしんずしんと足音がしそうな重々しい足取りでマーブル・ゴーレムに詰め寄った。

 

「お前が結末を台無しにするのが大好きな歪んだ性癖の持ち主だということは知っている。しかしよりにもよってこのタイミングでそれを晒すか!

 クロウと私の大切な記念となるべき日だったのだぞ! いったい何を考えているんだああ何も考えていないのだろうなお前はそういうやつだった!」

「あのな」

「なんだ、言い訳があるなら今のうちに聞いておいてやろう。私の理性が残っているうちにな!」

 

 今にも心意技を叩き込みかねない怒り心頭のブラック・ロータスに、マーブル・ゴーレムはその細長い右手をついっと上げて人差し指を立てて見せた。

 

「おぬしらな。はしゃぎすぎじゃ」

 

 人間、感情が振る切れるといったん沈静化する。しかし。それは感情が消えたわけではない。

 静まり返ったブラック・ロータスを、シルバー・クロウ筆頭に周囲の観客(ギャラリー)は生唾を飲み込んで見守った。胃がきりきりと引き絞られるような沈黙が辺りを支配する。

 表面張力でぎりぎり震えているニトログリセリンのようなブラック・ロータスに、マーブル・ゴーレムは不用意に顔を近づけ、耳元でそっと囁いた。

 

「クロウとパイルはリアルでの愛称を大声で呼び合い、戦闘の最中にはパイルが剣道の都大会優勝者などと極めてリアルに行き着きやすい手がかりを残しておる。

 クロウは現状唯一の完全飛行型アバターじゃ。PK集団に限らず、リアルを割ろうとする者には事欠かんじゃろう。

 挙句の果てに、おぬしはおぬしでその露出狂アバターで大衆の面前に立ち、ブラック・ロータスに変形する始末。失敗から何も学ばぬ者は、ただの愚か者じゃぞ?」

「ぐ……」

「だから必要だったんじゃよ。経過も結果もすべてが台無しになるような、そんなインパクト絶大な存在が。

 これでおぬしらのリアルに行き着く情報が加速世界に蔓延する可能性は少しは低下するじゃろう。

 万が一割られたとしても、儂がいる以上、六王の勢力が表だって裏から手を回すことにはならんだろうさ」

 

 足元に火がついているのに、明日のことをゆっくり考えられる者はそうそういない。

 これから加速世界は黒の王とマーブル・ゴーレム復活および同盟結成の知らせに激震し、それ以外の情報は二の次、三の次となるだろう。

 筋道の通った道理を説かれたうえでなお感情のままに動くには、黒雪姫は聡明にすぎた。

 

「ほれ、ブラック・ロータス肩を組め。儂らが仲良しじゃということを、加速世界中に見せつけてやろうぞ」

「…………」

 

 黒雪姫だけなら絶対に断っただろう。

 しかし今の彼女には守りたい子がいる。将来傅きたいと願った未来の王がいる。結果、アバターの下で全身に鳥肌を立てながら彼女はマーブル・ゴーレムとがっしり肩を組んだ。

 

「うむ、それでよい」

 

 喜色でマーブル・ゴーレムの声が半オクターブ高くなる。それだけで組んだ腕を少し動かして首を刈り取りたくなったロータスだった。

 自分の首元に刃を触れさせているとは思えないリラックスした動作でマーブル・ゴーレムは大きく息を吸い込むと、脳髄に突き刺さりドロドロに溶かしそうな甘く甲高い声で言い放つ。

 

「いま一度ここに宣言しよう。我らモノクローム・シアターとネガ・ネビュラスは停滞した加速世界に宣戦布告する!」

「……戦いのときは来たり。偽りの平穏は崩壊し、新たな時代が到来するだろう!」

「うむうむ、その調子じゃよ」

「…………少し黙れ」

 

 マーブル・ゴーレムとブラック・ロータスが肩を組んで口々に宣言するその光景は、見る者に今までの平和と秩序の崩壊を予感させ、不安を駆り立てるものだった。

 

 すっかり置いてけぼりにされたシルバー・クロウとシアン・パイルは、二人の対戦時間だというのにお互いに顔を見合わせ、ただ状況の展開についていけず観客に徹することしかできなかった。

 

 

 黒の王復活劇から三週間後。

 

 ライハは車の中にいた。腕の中にすっぽりと抱えているのは鉢植えの椿。今日から面会謝絶が解除された黒雪姫へのお見舞いの品である。

 

 自動車にはAIが標準装備され、安全性が向上したため満十六歳以上で免許が取れるように法整備がなされている。しかし、中学二年生であるライハは十四歳。免許が取れる年齢ではない。

 もちろん、無駄に法律を破って無免許で運転するような真似もしない。過負荷(マイナス)がルールを破るときは盤ごとひっくり返す時だ。

 

 だからといって、車で病院まで送ってくれるような親切な家族や友人を彼女が持ち合わせているはずがない。

 つまり、彼女が車内にいる理由は一つである。

 

(やれやれ、久しぶりじゃのう)

 

 ライハは出合い頭に一発入れられた腹部を右手でゆっくりと撫でた。この時に鉢植えを落とさなかったのは幸運でも何でもない。音を立てることを嫌った襲撃者に、取り上げられてから暴行を加えられたのだ。

 

 平和な日本に暮らしている普通の少女なら、この一撃だけで心が折れていただろう。

 ましてや今の状況は後部座席で両脇を体格のいい男子に固められ、運転席と助手席にも一人ずつという状況。法廷内スピードでゆっくり走る車の行方はどこへとも知れない。

 

 普通に考えれば絶望的だが、ライハはどこを取っても普通からは程遠かった。

 

 わざわざ車が通れるだけの広さを持つ道に接していながら、ソーシャルカメラが設置されていない薄暗い裏路地を通った甲斐があると、ピクニックのようにのんびり構えていた。

 

 車内に音はない。音楽プレイヤーはニューロリンカーの普及とともに淘汰され、今では車内スピーカーはオプション扱いだ。音楽は耳だけでなく体で聞くものなので根強くオプション料金を出して設置する者もいるが、少年たちはその一部の人間ではなかったらしい。あるいは少年たちの保護者が、だろうか。

 

 ライハが全盛期の時代ならば、騒音が外に漏れないように一定音量以上で音楽をかけっ放しにしていただろう。このような些細な場面で違いを発見すると、思えば遠くに来てしまったものだとしみじみ実感する。

 

「のう」

「喋るな」

 

 ぎろりと右隣の少年に睨まれる。ナイフなどのわかりやすい武器をちらつかせないのが好感だった。

 下手に武器を持つと使いたくなってしまう。それに、脅威は一度、それが脅威であるということを教えてやらねば平和ボケしたこの国の人間には通じにくい。

 警官の銃の一発目が空砲になっており、必ず威嚇射撃することが義務付けられているのと同じ理由だ。

 

 周囲を囲まれて、すごまれる。一般人(ノーマル)が畏縮するには十分な環境だ。

 過負荷(マイナス)にとっては義務教育のようなものだが、なにぶん久しぶりなので調子を取り戻すには十分な環境と言える。

 

「そう目くじらを立てるでない。何も大声を出して助けを呼ぼうなどとは思わんよ。

 うぬらの目的は儂の内臓や貞操などではなくバーストポイントじゃろ? 無駄なリスクを侵すのは愚か者の所業じゃ」

 

 もっとも、ライハは自分が賢者だと思ったことは一度もないが。

 気が向けば体目当てだろうが唯々諾々と従うだろうし、気が向けばたとえ道を聞かれただけだろうが全力で抵抗する。ライハはそういう生き物だ。

 

「折るぞ」

 

 右手の小指を握られ、そう顔を近づけて囁かれたライハは、引き裂くような笑みを浮かべ力任せに右腕をひねる。

 パキン、と小枝が折れるような乾いた音が静かな車内に響いた。

 

「っ……!」

「ちょうどよい。今から病院に向かうところであったからの。単純骨折ならば今の時代、半月もあれば治る」

 

 動揺する少年たちの中で、ただ小指をへし折られたライハだけが平然としていた。

 痛みを感じていないわけではない。

 指は青黒く膨れ上がり、顔は青ざめ、全身に脂汗が垂れ流れている。

 ただそれは単なる生理現象であり、ライハ当人はへらへらとした笑みを浮かべたままであった。

 そのアンバランスさに、少年たちは生理的嫌悪を感じ身を強張らせる。

 

「そうじゃのう。せっかくだから少しばかり語るとするか」

「黙れと言っているだろう!」

 

 結果的にライハの指を折ってしまった少年は大声で怒鳴りつける。裏返ったそれはまるで悲鳴のようであった。

 脅しつけたところでどうなる。

 抵抗されたらまた折るのか。次は薬指を、それで堪えなければ中指を、そうして両手の十指をすべてへし折って、それでもダメだったらもはやどうしろというのか。

 加害者が怯え悲鳴を上げて、被害者が平然と話を続ける矛盾がそこにあった。

 

「うぬらが独断専行で動いた新進気鋭の若者集団なのか、威力偵察のために当て馬にされた組織の末端なのかは知らんし、興味もないよ。

 だが、三年前の出来事をよく知らずに行動を起こしたのは確かじゃろう。儂が何を考え、どのような理由で行動しておるのか、何も知らんのじゃろう?

 とりあえず聞いてみろ。世の中、情報が命じゃ。もしかすると打開策やうまい落としどころが見つかるやもしれんぞ?」

 

 もやは彼女が普段彼らが獲物にしている人畜無害な少年少女とはあまりにもかけ離れた存在であることは車内の全員が把握していた。

 主導権を握られることは避けたいが、突っぱねたところで打開策があるわけではない。

 目を見合わせるが、積極的に彼女の言葉を遮ろうとする者は現れず。

 この短時間で指一本を犠牲に、車内のペースはライハに完全に掌握されていた。

 

「きっかけはそう、儂が箱庭学園を卒業したときまで遡る」

 

 そうして語られた第一声は、明らかな矛盾。

 彼らはライハの過去はまともに知らないが、近年のリアルの状況は把握している。そうでなければ計画的なPKなど成しえないからだ。

 その情報の中ではライハは私立梅郷中学校の二年生であり、箱庭学園などという組織に所属した経歴は存在しない。

 

「当時の儂は黒神めだかと球磨川さんに憧れておった。

 あんな気持ちは生まれて初めてじゃった。自分もあんなふうになりたいと、改心して誰かを幸せにするために生きるのじゃと、まるで子供のように本気で夢見ておったのじゃ

 であるから、儂の言動には二人のリスペクトが多分に含まれておる。ここでは誰にも理解してもらえんのは寂し限りじゃがのう」

 

 青ざめた顔でライハはどこまでも誇らしげに語る。しかしその顔はすぐに萎れた。

 

「しかし、儂は死んだ。

 滑って転んで頭を打って、それでおしまいじゃ。冗談のような本当の話。今までいくら過負荷(マイナス)のせいで危機的状況に陥っても何だかんだいって悪運で生き延びてきたのが実にあっさりしたもんじゃった。

 まるで儂の人生は、箱庭学園に入学して球磨川さんと共に黒神めだかの敵として登場する、そのためだけに存在したとでも言わんばかりの、な」

 

 相変わらずライハが語る内容は一つとして意味不明だったが、彼女の口から死んだという言葉が出てきた辺りから車内の空気は少し軽くなっていた。

 少年たちは期せずして共通の仮説を立てたのだ。

 すなわち、彼女は狂人であると。

 宇宙の電波を受信して喋っているのならば、単純に理解を放棄すればいいだけの話である。理解できないということだけを理解して対応すればいいのだ。

 彼らは天から伸びた希望という糸に縋り付いた。その糸の垂れた先の天井ごとぐちゃぐちゃにかき回して台無しにしてしまうのが彼女という存在なのだが、彼らはそれを知らない。

 

「しかし、たとえそうだったとしても儂は前世を誇るよ。

 いい人生じゃったと、自信をもってそう断言できる。一年にも満たない歳月じゃったが、箱庭学園の高校生活にはそれだけの価値があった。

 黒神めだかと直接対決したのは古賀いたみ襲撃時と体育祭の全校生徒綱引きの二回だけ。世界が漫画ならば名前はおろか顔さえ登場しないモブキャラじゃったが、それでも満足じゃ」

 

 狂人であるならば付き合ってやる義理はない。少年たちはライハのバーストポイントを奪い取るべく動き出そうとした。

 正気でないのならば多少は手間取るだろうが、方法はいくらでもある。

 しかし、体が動かない。彼らは混乱した。

 動けないのではなく、動かないのだということに彼らは気づけなかった。あるいは気づこうとしなかった。気づきたくはなかった。

 瞬きもせず目を見開き、冷や汗を流し青い顔色をしながらもへらへら笑い、甘い声で囀り続けるライハがあまりにも気持ち悪すぎて、近寄ることを思考ではなく心が拒絶したのだということを。

 

「何の因果か二回目の人生が始まっておったとき、儂は絶望と歓喜を同時に味わったよ。

 理由が何だろうがここが地獄であろうが、これでまっとうに誰かを幸せにする人生が送れると、何の根拠もなく信じ込んだ。

 ……愚かなことじゃ。一度死んだくらいで無かったことになるのなら、そもそも過負荷(マイナス)になんぞなりゃせんのに。そのツケは無辜の民と友の血で支払うことになってしもうた。

 変わりたいと願っても、改心したいと望んでも、そんなに簡単に人間変われたら苦労はせん。料理マンガじゃありゃせんのだし、たった一品の料理で百八十度生き方が変えられるのならメンタルクリニックは存在せんわ。

 だから儂は決めたのじゃ。失敗をして、間違いを経て、屍を積み上げてようやっと覚悟が決まった――」

 

 車内の空気はもはや重いを通り越し、粘度すら感じられるほどドロドロに濁っていた。その中心は言うまでもなくライハであり、少年たちはもはや誤魔化しようもなくガタガタと身を震わせている。

 もしも車にAIが搭載されていなければ、とっくの昔に事故っていただろう。

 

「清くも正しくも美しくもなくても――

 憎まれ者でも嫌われ者でも卑怯者であろうでも――

 運が悪かろうが頭が悪かろうが性格が悪かろうが――

 過負荷(マイナス)過負荷(マイナス)のままに、変えられぬならば変わることなく、誰かを幸せにできることを立証してみせる! ……とな」

 

 その一瞬だけ、ライハは何も飾らない本音を本気で吐き出していた。

 憧れて、行動して、失敗した過去。

 動き出そうとしなければ失敗なんてしない、なんて戯言では拭いきれないほど多くのものを失って、多くのものを傷つけた。

 それでも、腐らず、溶けず、捨てきれない想いがあった。

 

 それは有史以来、月が砕かれたことのないこの世界でも変わらなかったすべてに対する彼女なりの宣戦布告。

 

 周囲には恐怖に飲まれた少年たちしかおらず、実質観客は無きに等しいのがいつも通りのマイナスであったが。

 

「さて、そのためにもここで躓くわけにはいかんのよ。

 儂のエゴでしかないが、エゴというのは押し通せば大抵のものは引っ込むものじゃ。

 ……それにしても無知とは罪ではないが、時として取り返しのつかない被害を生むものじゃのう。サドンデスルールくらい、PKせずとも表から挑戦されれば受けるというのに」

 

 人間は自分の理解できないものに恐怖を抱く。

 加速という利点(プラス)に対してまったく価値を見出していないことが明らかなライハの態度は少年たちにさらなる恐怖を与えた。

 

「ああ、そうじゃ。始める前に儂のスキルを説明してやろう」

 

 ドロドロに濁った空気がライハを中心に捏ね繰り回され、まったく別の形に再構成されつつあるような違和感に少年たちは襲われる。

 感覚的にはこの場から今すぐにでも逃げ出したい。

 しかしこの期に及んでまだ、客観的な状況が彼らを捕えて離さない。

 やせっぽっちで小柄な少女一人対体格のいい少年四人という構図は逃げ出すには有利すぎたし、現実的な問題としてここで逃がしてしまえば警察に通報されるかもしれない。

 全損させて記憶ごとバーストポイントを奪うのは保身という意味でも必要なのだ。

 

「儂の過負荷(マイナス)は『悪昼夢(ライトメア)』。

 被害妄想のスキルじゃ。

 具体的には状況に即した悪夢を幻覚として見せる。ただそれだけの肉体には何の影響も及ぼさない無力なスキルじゃな。

 しかも、このスキルで見た悪夢は絶対に実現しないという特典までついてくる。因果律にも干渉しておるとHH(人吉瞳)ファイルでは考察されておったのう。

 人吉善吉を筆頭とした根性のある生徒会メンバー相手には何の役にも立たん無能(マイナス)じゃ。

 

 しかし、心の弱い凡人相手にこの性質は反転する。

 

 悪夢で経験するのは実際に起こりうる最悪。

 絶対に起こらないと理解していても、自分の中より湧き出る恐怖を退けることのできる者がどれだけおろうか?

 否、絶対に起こりえないと頭で理解しているからこそ、立ち向かえない自分の弱さが浮き彫りになる。

 事実、この直撃を受けてヒキコモリにならんかったのはこの世界では今のところ純色の七王を含めて両手両足の指の数にも満たぬよ。

 うぬらはどちらになるかのう」

 

 ライハは何の感情も見いだせない、ただ笑っていることが相手にわかる以上の価値も意味もない透き通った笑みを浮かべる。

 それはこの世界ではルール無用の勝負を仕掛けてきた相手のみに時折見せる、キャラづくりを放棄して過負荷(マイナス)の栓を抜き箍を外した、全盛期に極めて近い前世からの遺物にして異物の表情。

 想像上の脅威は常に現実に迫った問題に及ばない。

 結果的に彼らは逃げ遅れた。

 

「さて、それでは過負荷(マイナス)を開始します。覚悟はよろしくて?」

 

 

 ハルユキはたいへん居心地の悪い思いをしていた。

 目の前には生徒手帳を胸に抱き、どこか落ち着かない様子を見せる憧れの先輩がいる。

 実は黒雪姫の本名を知らなかったという衝撃の事実から、彼女の口から本名を教えてもらったのがつい三秒前のこと。ドキドキの嬉し恥ずかしのイベントはハルユキのこれまでの人生には縁もゆかりもないシロモノで、どのように対処すればいいのかまるで分らない。

 

 妙に桃色めいた空気の中でつい選択肢コマンドが欲しいと思ってしまうのは、FPSを好むとはいえ大抵のジャンルに一通り手を出しているハルユキの業の深さだろうか。

 

 なんだこれ。どうすればいいんだ。きれいな名前ですね、とでも褒めるのが正解なのか?

 

 無理。考えただけで顔面が爆発しそうになる。

 

「ああ、うん。ハルユキ君」

「は、はひっ」

 

 噛んだ。

 しかしそれに対する羞恥以上に黒雪姫に先陣を切らせてしまった申し訳なさが胸の奥に満ちる。

 どこまで行っても変わらない。変われない。ハルユキはあくまでハルユキなのだ。

 

「私とキミは、その、つ、付き合っているんだよな?」

「は、はいっ、えっと、その、たぶんそうです!」

「……たぶんじゃなくて実際そうなんだよ。私が告白して、キミはそれを受け入れたのだから」

 

 黒雪姫がその黒曜石のような瞳に呆れを浮かべる。

 そうは言われてもなかなか実感できないものはしょうがない。

 

 片や中学内格差(スクールカースト)最底辺でつい先日までいじめられっ子だったチビのデブ。

 片や全校生徒に分け隔てなくカリスマ的人気を誇る眉目秀麗で頭脳明晰な副生徒会長。

 

 この二人が付き合っているなんて、梅郷中では幼馴染のチユリと特ダネのにおいを嗅ぎつけた新聞部しか信じないだろう。

 大半の人間は黒雪姫が事故に遭うまでの四日間、人前で何度もアピールしているのにも関わらず、いつかのハルユキのように何かの間違いや冗談の類だと思っているのが現状だ。

 

 ハルユキとしてはそちらの方がありがたいのだが、黒雪姫は退院後おおげさに喧伝はしないが特に隠すつもりもないらしい。そのときのことを考えると今から胃や腸がきりきり痛む気がするハルユキである。

 

「だから、その、なんだ。彼氏が彼女の名前を呼ぶことは、ごく自然なことなんじゃないかな、うん」

 

 人付き合いが苦手なハルユキにもはっきりわかる、いわゆるおねだり。

 先ほどはさらっと話の流れで切り出してきたのだが、彼女も華の中学二年生。改めて名前呼びを要求するのはさすがに照れが混じるらしい。

 

 ここで応えなければこの人の彼氏に相応しくない。いや、そもそも男ですらない。

 少年は覚悟を決めた。

 

 まずは深呼吸。

 病院特有の、消毒用アルコールの臭いがかすかに混ざっている気がする独特の空気が鼻腔を通る。

 ちらりと目をやると、白い頬を紅色に染め、静かな期待に目を輝かせる年上の恋人がいた。

 副生徒会長ともブラック・ロータスとも違う初めての雰囲気にうるさいくらい心臓が高鳴る。

 

 目を逸らしたい。しかし、ここで逃げる選択肢はあり得ない。

 カラカラに干上がった口の中で無理やり唾液を飲み下し、干し肉のようになった舌を動かして口を開き――

 

「やっほー。黒雪姫や、見舞いに来たぞ」

 

 しゅっとスライドドアが開いて入ってきた闖入者にすべてが砕け散った。

 ハルユキは心臓が止まった。止まったら死ぬが、死んだ気がした。

 

「おろ。この微妙に絶妙な雰囲気。もしかしなくともやらかしたかの? さすが儂」

「…………憎悪で人が殺せたらと、本気で考えるのは十四年の人生で二回目だ」

 

 地獄の底から響いてくるような黒雪姫の声に、ようやく心臓の動かし方を思い出したハルユキは同時に止まっていた呼吸を激しく再開させるのであった。

 

「そう怖い顔するでない。ああそうじゃ。トラブルに巻き込まれてうっかり道中に置いてきてしまった鉢植えの椿の代わりに、途中のスーパーで売っていたリンゴ(特価一袋186円)を買ってきたぞ。食うか?」

「帰れ」

 

 

 

 しゃり、しゃり、と手際よく果肉が解体され皮をはぎ取られる音が沈黙の病室に響く。

 未成年へのパターナリズムが肥大化し、ライターの所持さえ制限される現代。折り畳みナイフの所持も当然のように小型刃物携帯許可証が必要となる。

 成人すれば自然と外れる制限なので、一般的にはボーイスカウト検定などと一緒に取得するなどの例を除きそうそう取られることのない免許の一つなのだが、彼女は単品で取得していると先ほど本人の口から語られた。

 

 この空気に比べたらさっきのなんてままごとに等しかったとハルユキはだらだらと汗を流しながら痛感した。小春日和とはいえ季節はまだ十一月。空調が効いていることもあり、もちろん暑さによる汗ではない。

 

 実際には剣呑な空気を放っているのは黒雪姫のみであり、ライハは鼻歌を歌わんばかりに上機嫌なのだが、ハルユキは今世界の誰より自分の恋人が怖かった。

 ライハの目がリンゴから外れ、ハルユキの顔を見る。何もやましいことがないのにびくりと身を竦ませたハルユキに、ライハはにやりと笑ってみせた。

 

「久しぶりじゃの、ハル坊。あるは初めましてかの?」

「は、はい。ライハさん……」

「ならば改めて自己紹介をしておくか。儂は来春(らいは)礼羽(らいは)。苗字も名前も両方ライハな二年生じゃ。よろしく」

「あ、あの、有田春雪です。一年生です、よろしくお願いします……?」

 

 こうしてしっかりと現実(リアル)で顔を合わせるのは実は初めてとなる。

 あの大々的な同盟宣言から三週間。彼女は領土戦争への参戦はおろか、仮想世界でさえハルユキの前に一切姿を見せなかった。

 ふとハルユキは、この三週間で集めたマーブル・ゴーレムおよび軍団(レギオン)モノクローム・シアターの情報を思い出した。

 

 情報の大半を持ってきてくれたタクムはこう語っていた。

 

「モノクローム・シアターは、三年以上前に存在した軍団(レギオン)

 詳しい情報はわからなかったけど、本来四人いなければ結成できないレギオンをたった一組の親子で結成していたから『二人からなる軍団』の異名でそれなりに有名だったんだって。

 その結成直後からチーターなんじゃないかって噂はあったんだけど、対戦において防御不可の攻撃で相手を全損まで追い込むという証言と状況証拠が積み重なって、ついに当時七王だった純色の王の裁きを受け、ポイント全損、加速世界を退場した……っていうのがだいたいの概要なんだけど」

 

 生きてるよね、あの人、と眼鏡をかけるようになったタクムはそこまで言って苦笑していた。

 

 タクムは先日ネガ・ネビュラスに移籍してきたのでそれ以上の情報を仕入れることはできなくなった。

 ハルユキもハルユキなりに貧弱極まりないコミュニケーション能力と浅すぎる人脈を駆使して情報を集めてみたのだが、わかった内容はだいたい同じ。

 

 ただ、三年前に何らかの事件がありマーブル・ゴーレムがレギオンマスターでもあった親を喪ったことと、その後今に至るまで理由は定かではないが黒雪姫同様グローバルネットに接続しない生活を送ってきたのは確からしいという裏付けが取れた程度だ。

 

 ハルユキとしては、あまりそのチート云々の情報を信じられない。電子世界の上のみの付き合いだったが、ハルユキにとってはむしろそちらの方が本分のようなものだから。

 

 確かにライハはルールに固執せず、価値も見出していない。しかしだからといってチートを使ってまで追い求めた何かがあったとは思えない。彼女はルールを破るリスクを知っている人間だ。そんな気がする。

 

「本当はもっと早く邂逅したかったのじゃが、黒雪姫が自分のいないところでハル坊に会うなと五月蠅くてのう」

「当たり前だ。今でも貴様をハルユキ君に会わせない方が賢明だという判断は間違っていないと思っている。ただ状況的にベストを選べなくなったから、必死にベターを目指しているだけだ」

 

 ハルユキははっと我に返る。自分の考えに没頭していたらしい。

 気がつけばライハの手によってリンゴはウサギの形にカットされており、リンゴと一緒に購入してきたらしい紙皿の上にきれいに整列していた。

 

「ふん、相変わらず重箱の隅をほじくるような場面で器用なやつだな」

「けろけろ。刃物の扱いなど乳歯が生え揃える前に覚えたよ」

 

 憎まれ口をたたく黒雪姫と、笑って受け流すライハという珍しい光景がハルユキの目の前で展開されている。

 普段、笑うのは黒雪姫の方だ。普段の極冷気クロユキスマイルとは違う、まるで普通の女の子のような表情になんだかハルユキは嬉しくなった。

 そしてついうっかり口を滑らせた。

 

「仲がいいんですね、お二人って」

 

 空気が凍り付いた。それはもう、もののみごとに凍結した。先ほどの生徒手帳騒動の三倍は密度があるだろう。

 

「……ハルユキ君?」

「ひいっ!」

 

 ハルユキは恥も外聞もなく悲鳴を上げた。

 

「いったいどこの誰が教えてもいない癖に当たり前のように人の病室にたどり着き私が料理が不得意だと知っていながら目の前でドヤ顔でウサちゃんリンゴを作り慇懃無礼系毒舌敬語ロリキャラなんてもう流行おくれだから最先端のロリババァでいくなどという意味不明な理由でふざけた口調で喋るバカと仲が良さそうに見えるのか教えてくれないだろうか?」

 

 ゴゴゴゴゴゴ……と極冷気クロユキスマイルから絶対零度のオーラが放出され空調が効いているはずの病室内を氷点下に変える。ハルユキは半ば本気で死を覚悟した。

 

「ほれ、ハル坊。せっかく儂が手ずから購入して剥いてやったリンゴじゃ。一口ぐらい食え」

 

 そしてライハは空気を読まなかった。

 何をしているのかわからないままハルユキはリンゴを受け取りむしゃむしゃと頬張る。季節を外しているためか、甘みが少なく硬い歯ごたえが口の中に広がった。

 

「……はあ、もういい」

 

 機械的に渡されるリンゴを次から次へと咀嚼するハルユキの姿に毒気を抜かれたのか、黒雪姫が疲れたようにため息をつく。冷気の放出が止まった。

 

「しかしあれだな。まさか私と知り合う前に、ライハのやつと三か月以上も前に顔見知りになっていたとは知らなかったぞ。まああれだけのスカッシュの点数、一日二日で出されたら私の立場がないわけだが」

 

 しかしなぜだろう。不発弾がまだそこらじゅうに埋められている気がするのは。

 

「なあライハ、こんなことは言いたくないんだが」

「ならば言うな。聞きたくもないわい」

「……お前がその気になれば、ハルユキ君はもっとはやくいじめから解放されていたんじゃないのか?」

 

 それは、たとえ止められようと聞かざるを得ない、彼女の譲れない一線だったのだろう。

 なぜ守れた彼を見殺しにしたのか、と。

 

 ハルユキの心がじくりと痛む。

 わかっている。自分は弱い。黒雪姫のようなエリートから見れば、思わず手を差し伸べたくなるような矮小な存在なのだろう。

 だから、同情なんてしてほしくない。憐憫の眼差しなんて欲しくないと思ってしまうのは、身の程知らずのわがままだ。

 そうはわかっていても思わずにはいられない。あなたにだけはそんな目で見てほしくないと。

 

「あほう。聞きたくもないと言ったじゃろうが、たわけめ。必要なかったから動かなかったまでじゃ」

 

 いくら黒雪姫が本気でハルユキを愛してくれていようが、所詮は身分違いの恋なのだ。

 視界の高さが違うというのは、ドラマチックな障害に隠されているからなかなか気づかれないだけで、それはきっととても残酷なことなのだろう。

 

 聡明な黒雪姫はハルユキのことを最大限理解してくれている。時として本人以上に理解していると思わせられるほどに。

 でもそれは、優秀な頭脳にものを言わせて『理解している』だけであり、体感しているわけではないのだとふとした拍子に思い知らされる。

 まるでどこかの誰かに、調子に乗るなと釘を刺されているみたいに。

 

「ハル坊はいま生きておる。それだけで上等よ」

 

 ハルユキはそっとライハの顔を盗み見た。

 彼女もハルユキのことを理解してくれる。知識ではなく経験で、頭ではなく心でハルユキのことを同類としてわかっている。

 だからこそハルユキは最後のプライドを抱えて今まで生きていることができた。たとえそのプライドが外部に助けを求めることを邪魔するだけの障害(ゴミ)だったとしても、譲りたくないそれだけは守り通せたのだ。

 だから彼女の隣は危険なくらい居心地が良かった。その場に沈んで、腐って、二度と起き上がれなくなるのではないかと思うほどに。

 

「……それに、儂が動いておったらこんなものでは済まんかっただろうよ。

 儂が裏で少しばかり暗躍しただけで、たまたま荒谷が釈放された日が、たまたまハル坊も黒雪姫も極度にまっとうではいられない精神状態で、たまたま保護者の目から逃れた荒谷が、たまたまAIのエラーで鍵のかかっていない乗用車を発見し、たまたま何の知識もなく力づくで壊した個所が安全性を司る部分で運転そのものには支障なしで、たまたま衝動のままに事故も起こさず運転しておったら、たまたま何の備えもなく道路わきで喧嘩の真っ最中だった仇敵の姿を見つけ、たまたま警察にも捕まらず復讐を成し遂げる。これだけのことが起きたんじゃ。

 黒雪姫が生きておるのもただ単純に、こやつが世界が小説ならヒロインを張れるような重要キャラクターだったからにすぎん。儂のようなモブキャラだったら容赦なく死んでおっただろうよ」

「……たしかにそう羅列すると異常なまでの不運だが、何もお前が原因というわけじゃないだろう?」

「いいや、儂のせいじゃ。

 なるようにならない最悪(イフナッシングイズバッド)

 異常(アブノーマル)過負荷(マイナス)を分ける最大の要因は、この因子を持っているか否かじゃと、黒神真黒と名瀬夭歌が共同研究で結論を出しておった。

 死者が出るほど色濃く因子を持っておる例はまれで、そういうパターンは球磨川さんのように殺さない方法に異常(アブノーマル)なまでに精通して死者が出る例は稀じゃが、儂程度でも関係者に裏目を()()()()程度の効果はある」

 

 そういう彼女は、へらへらとした笑みを浮かべたままだった。

 それが譲れない自分のスタイルだとでも言わんばかりに。

 運命も不幸も痛みも理不尽も、まとめてごちゃ混ぜにして台無しにして笑い飛ばしてやると言わんばかりに。

 

過負荷(マイナス)……?」

 

 なぜかその言葉が耳に残った。

 色素の薄い彼女の瞳は、光の加減か琥珀色に光って見える。温度のない、蛍光塗料に浸したようなその瞳がまるでハルユキを誘っているようで――

 

「おい、ハルユキ君。こいつの話は話半分に聞いても真面目すぎるくらいだぞ。まともに取り合うな。

 だいたいな、研究が成立するくらいこいつの同類が存在してたまるか。世界はそこまで寛容じゃない」

 

 いつの間にか食い入るようにライハの顔を見つめていた自分に気づいてハルユキは飛び上がった。慌てて目を逸らすと、笑顔の黒雪姫と目が合う。

 不機嫌そうな表情を見せないってことは、調子をそれなりに取り戻してきたんだろう。そんなことを現実逃避気味に考えた。

 

 問、恋人の目の前で別の女に見とれている男がいたら?

 

 答、彼女は不機嫌になる。当たり前ですね。

 

 リンゴをあれだけ食べた直後なのに喉がカラカラに干上がる。

 実際は見とれているというよりは引き込まれかけたという方が感覚的には近いのだが、そんなこと何の言い訳にもならないだろう。

 

「やれやれ、オオカミ少年の気分じゃな。普段の行いというやつか。まあ実際、この世界で同類に会ったのはハル坊を含め数える程度じゃからのう」

 

 一方どこまでいってもライハはペースを崩さない。気怠そうに首をぐるぐる回していた。しかしその態度が重くなりかけていた流れを切り離し、ふっと空気が軽くなった気がする。

 この隙に話題を変えなければとハルユキはらしくもなく焦り、一番に思いついた話題を深く考えもせえず口にした。

 

「そういえばライハさんが先輩に興味を持ったきっかけって、いったい何だったんですか?」

 

 ぎゃー何言ってんだ僕はまた空気を凍り付かせるつもりか!

 

 言い終わる少し前あたりからまともに働き出した思考は悲鳴を上げていたのだが、電子世界とは違い伝達速度の鈍い肉体はこんな時に限ってハルユキの口を最後までよどみなく動かした。

 

 しかし気になるもの事実だ。ライハは明らかに黒雪姫に執着している。

 ハルユキがいじめから救われるように動いたのも、結局は黒雪姫がきっかけだった。ハルユキだけならあのまま居場所提供のち放置されただろうことは想像に難くない。

 

「んー、顔?」

「…………」

「冗談じゃよ、じょーだん。そんな顔で見んといてくれ」

 

 ライハはぺろりと舌を出して照れ笑いした。無駄に似合っていて直視できないくらい魅力的だったのが、なぜだか無性に悔しかった。おまけに目を逸らした先の黒雪姫の笑みが怖かった。

 そんな恋人たちの掛け合いを尻目に、ライハは種明かしをする手品師のような笑顔でしれっと口を開く。

 

「本当はこやつが儂の親の首を目の前で刎ねた仇じゃからじゃ」

 

 ただでさえ不発弾が散乱しているのにでっかい地雷まで掘り起こしたー!

 

 ハルユキは声にならない悲鳴を上げる。

 よく考えてみれば想定してしかるべきだった。

 ライハが三年前に純色の七王と激突したのは確からしいし、その時に親を喪ったということも知っていた。そして黒雪姫は黒の王だったのだから、確率論としては七分の一である。

 

 どうして目に見える地雷原に突入してしまったのか、ハルユキは深く後悔した。後悔先に立たずとは言うが、ここまでブレイン・バーストに過去に遡る機能がついていないことを歯がゆく感じたのは黒雪姫が車に撥ねられた時以来である。

 

 唯一の救いといえば、ライハが笑みを崩していないことくらいか。普段からへらへらと神経を逆なでする軽薄な笑みを浮かべている彼女だが、今のはその根底にあるものが少し違う気がした。感覚的で直感的な根拠も理屈も皆無な話ではあるが。

 

「当時の儂はごく当たり前に親を愛しておったから、ごく当たり前に仇のことを憎んだよ。枕を涙で濡らしながら不倶戴天の仇に認定したものじゃ。

 しかしそこでふと思った。黒神めだかなら、きっと敵も愛して大切にするのだろうと。そう考えてしまえばもう、まっとうに殺して解して並べて揃えて晒してやろうとは思えなくなってしまった」

「敵も愛して、大切にする……?」

 

 ハルユキには理解できなかった。黒雪姫にはまともに取り合うなと忠告されたが、彼女の言葉には人を引き込む何かがある。特に、こんなにも誇らしげに誰かのことを話すライハの表情を見ればなおさらだ。

 

 ライハにこんな表情をさせるなんて、いったいどんな人だったのだろう。いや、そもそも人だったのだろうか。

 

 ハルユキにとって明確に敵と言われ最初に思い浮かぶ相手は荒谷だが、何をどう間違ってもあいつを愛して大切にしようとは思えない。思い出すだけで塞がっていない疵がじくじくと痛みを訴えるほどだ。

 

「もともと被害者面する気は毛頭なかったのもあるからのう。

 できることが当たり前すぎて禁じられていると気づけなんだとはいえ、初めにルールを破ったのは儂らの方じゃったし、王は自分の領土を守るために当然のことをしたまでじゃ。

 なので二年前、黒雪姫が白幕に陥れられてすべてを失って捨てられた子犬のような目をして目の前に現れたとき、こいつを愛して大切にしてやると決めた。

 たとえ裏切っても貶めても傷つけても騙しても、決して見捨てることだけはすまいと自分勝手に誓ったのじゃ」

 

 すごく場違いだが、その瞬間ハルユキは『ひろってください』と書かれた段ボールに入れられた、ウルウルお目目の二頭身デフォルメ犬耳黒雪姫を想像してしまっていた。

 ……拾わざるを得ない。当時のライハの気持ちが少しわかった気がした。

 もちろんそんなハルユキの内心に気づくことなく、シリアスな語りは続く。

 

「ま、所詮は猿真似の付け焼刃。こやつ一人を抱えるのが精いっぱいで、黒神めだかのようにすべてを救うような芸当はできず、今となっては普通に黒雪姫のことが好きだから大切にしている節さえあるがの」

「……どんなひとだったんですか、その、黒神めだか……さんって?」

「人間を変える(殺す)のが得意で、人間を愛する(壊す)ことが大好きな化け物(にんげん)であったよ」

 

 ライハは自分のこと以上に得意げに胸を張って答えた。

 僕にとっての先輩みたいな存在だったのかもしれない。ハルユキは何とはなしにそう理解した。届かないと理解していても手を伸ばさずにはいられない、稚拙で幼稚な憧れの塊。

 その黒雪姫はといえば、ライハの話を聞いてその美貌に神妙な、そして少し自嘲混じりな表情を浮かべている。

 

「それは……聞いたことがなかったな。

 今まで聞く機会は何度もあったし、きっとお前は隠さずに答えてくれるだろうに。頭からいつもの意味不明な気まぐれだと決めつけてかかっていた。

 ……本当にハルユキ君は、間違う私を導いてくれる」

「ん、この髪の色か? 瞳と合わせて心因性の色素欠乏症じゃ。染めとるわけではないわい。医師の診断書もあるぞ」

「それは聞いていないし知っている」

「ま、黒雪姫以前も以降もそんな思いを抱いたことはなかったから、結局のところ顔が好みのタイプだったのが大きいかもしれんな」

「いろいろと台無しになったぞ、おい」

「安心院さんではないが安心せい。儂は女もいける口じゃが、普通に男の方が好きじゃ」

「それは知らなかったし知りたくもなかった!」

過負荷(マイナス)は人肌のぬくもりに飢えておるからのう。ちょっとしたきっかけで簡単に惚れてしまうのよ。それこそ性別なんぞ関係なしにな。

 まあ、基本的に根性のないダメなやつらじゃし、向こうから迫られたら途端に逃げ腰になるヘタレ揃いじゃから成就することはまずないがな」

「聞いてないし興味もないわっ!」

 

 軽妙な掛け合いを繰り広げている二人を見ていると、先ほどは否定されたが本当に仲の良い友人のように見えてくる。

 

 タクムやチユリとも、この二人のように痛みを乗り越えて本当の友情を築けるだろうか。

 

 いや、ぜったいそうなってやるとハルユキは決意した。

 道は険しいだろう。昔些細なきっかけで生じたズレは、長い年月の中で大きなひずみを生み、三人に消え難い傷を残した。

 二人とも失い難い友人だと今は胸を張って言えるし、特にタクムはともに戦う親友だが、きっとタクムにも、チユリにも、そしてハルユキにも傷の痛みはまだ生々しく残っている。

 

 しかし取り返しのつかない失敗ではない。それにどんな失敗を犯そうが生きている限り人生は続くのだから、取り返しがつこうがつくまいが見苦しく足掻かねばならないと目の前の先輩方は態度で教えてくれた。

 まぶしいものでも見るように目を細めて二人の様子を伺っていたハルユキは、ふとライハが右手の小指にハンカチをぐるぐる巻きにしているのが目に留まり、なぜだかそれが妙に気にかかった。

 

「あの、ライハさん。その右手の小指、どうしたんですか?」

「ああ、これか? ここに来る途中に巻き込まれたトラブルでへし折れての。見舞いが済んだら病院に行く予定じゃ」

「ここが病院ですよ! 先輩っ、ナースコールナースコール!」

「もう呼んだ! この馬鹿者、後遺症が遺ったらどうする!」

「応急処置は済ませたから最悪関節が明後日の方向を向く程度じゃと思うぞ」

 

 大騒ぎする二人に、当事者であるはずの本人が呆れたように肩をすくめる。

 いじめられているときはこんなににぎやかで楽しい日常が来るだなんて、考えたこともなかった。

 

 憧れの先輩と、少しおかしい、いやかなり変な先輩の二人を見上げながら翼を求めた少年の羽ばたきは、今始まったばかり。

 

 

 少女以外は誰もいない部屋の中、シャーペンが紙の上を走る音が響き渡る。

 右手の小指には白い包帯と添え木。ここら辺は半世紀近く前とそんなに変わらないらしい。治癒促進パッチとナノマシンの存在で治癒速度は桁違いだが。

 

 中学生の生活において『筆記用具』は、いまや買い物における『お釣り』と並んで死語に分類される。そんな中では紙媒体の日記帳など、もはや希少を通り越して骨董品に近い。

 

 だが、二十世紀から二十一世紀にかけて生きた記憶のある彼女にとって、この時代でアナログと言われる媒体はむしろ馴染みやすかった。

 パソコンを使えばここぞという場面でHDごとイカれてデータ全損など珍しくもなかった前世の記憶を持つ身としては、電子世界に完全に依存する今の風潮は今一つ信頼がおけない。

 

 これは、彼女の戦いの記録であるのと同時に一つの戦場。

 正直、勝算は薄い。死者たちの姿を見ていると単純に記憶を失うだけではなく、興味を抱いたり疑問を持ったりすることに関しても制限がかかっているように見受けられるからだ。

 

 だが、勝てないというのは過負荷(マイナス)にとって戦わない理由にはならない。

 

 内部は自分にしかわからない暗号や符号を多用しているため、第三者にとっては支離滅裂で意味不明な文章の羅列と化している。

 それでいいのだ。

 記憶が失われようがマインドコントロールを受けようが、自分が自分である以上興味を持ち、書いてある内容に信憑性があると判断できれば勝ちなのだから。

 

 せめて、ちゃんと勝ったり負けたりできる結末を迎えたいものである。

 

 少女はため息をつくと、一息に今日の分の記録をかき終えて革張りの分厚い本を引き出しの中に乱暴に放り込んだ。

 

 本の表紙には、金字で『Diary』と刻まれており、さらにその下にはサインペンで『大理石の胎児は外界の夢を見るか』とまるっこい文字で殴り書きされている。

 どうせならすべて英文に直せば少しは雰囲気も出るだろうに、重厚な英文字と安っぽい日本語のコントラストでどこまでもちぐはぐな印象だった。

 きっとそれが、この日記を付けている少女の性分を表しているのだろう。

 

 

 

 世界から疎まれた少女がいた。

 その世界の住人は誰もが彼女のことを口にすることさえ嫌がった。

 彼女のことを知る者は、嫌悪するという形でさえ彼女と関係性を持つことを拒んだ。

 しかし、もっともっと深くて狭い範囲。彼女の本当に身近にいた者たちは、心許す相手に彼女について聞かれたとき、何かを諦めたような表情で彼女をこう評したという。

 

 この上なく最低な嫌な奴ではあったけど、きっと悪い奴ではなかった、と。

 

 

 




バトルを通した青春物語が原作のはずなのに、バトルシーンが一度もないとはこれいかに。

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