大理石の胎児は加速世界で眠る   作:唐野葉子

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投稿しようとしたら四万字超えてた……。
その場で字数内に削ったけど、びっくりしました。

あと新キャラの原作タグを追加しておきました


後篇

 

 ハルユキが現実世界に帰った時、足元の紅茶の水溜りはまだ湯気を立てていた。

 こちらの世界では最大でも一・八秒しか経過しないのだから当然ではあるが、バーストリンカーになって三か月が経過した今でも時折この感覚のずれには戸惑うことがある。

 特に、あのような密度の濃い対戦を終えた直後ならなおさらだ。

 

「ほれハル坊、とっとと食え。昼休みが終わってしまうぞ」

 

 対するライハは慣れたもので、平然と購買の袋から焼きそばパンを取り出してかぶりついている。左隣ではタクムも弁当箱のふたを開けていた。

 ハルユキも今が昼休みだったことを思い出して、慌てて胸に抱えている袋をあさった。先ほどの対戦で消費したカロリーも相まってもう何日も食べていないようにお腹がペコペコだ。

 ポテトサラダのサンドイッチを半ば飲み込むようにガツガツと食べ、カレーパンを半分まで齧ってようやく一息つく。

 そして、ライハの顔を見て頭を下げた。

 

「ありがとうございました」

「ん、何がじゃ?」

「あの対戦は、僕らに見せてくれたんですよね」

 

 あの最後の自爆技で確信した。もしも序盤の屋上を分身で埋め尽くした時点で使われていたら、本体がわざわざ飛んでくる必要もなく決着はそこでついていただろう。

 であるのにも関わらず、ライハがわざわざ遠回りな戦法を使って持っている必殺技とアビリティをすべて見せてくれた理由――

 

 それはカタログスペックの公開。

 

 ハルユキはそう分析する。

 

「ライハさんは僕たちとクロム・ディザスターと戦う未来を想定して、自分に何ができて、何ができないのか、僕とタクに見せてくれた。違いますか?」

 

 パーティー行動で最も重要なのは、キャラクター個々人の強さではなく、各人が何ができて何が苦手なのかをきちんと把握しておくこと。数々のゲームの経験からハルユキはそう考える。

 きっと黒雪姫とライハはお互いに知っているし、経験豊かなこの二人は伝聞の情報とその場の流れでハルユキやタクムに合わせることができるのだろう。赤の王であるニコも同様だ。

 しかし経験の浅い男二人組はそうはいかない。まだ黒雪姫は領土戦争で轡を並べているのである程度把握しているが、ライハに関しては噂だけが独り歩きしているほぼ完全なノーデータだ。特にハルユキは聞いた情報をそのまま行動に移すなどという器用なマネはできないので、体感するのが一番確実で手っ取り早い。

 思えば、ニコがハルユキに対して対戦を仕掛けてきた背景にもそんな思惑が少しはあったのではないかという気がする。

 

「ふむ。まあ否定はせんよ」

 

 ライハはしごくあっさりと頷いた。

 

「目的の半分はそれがあった。ま、それにしては情けなく中途半端に終わってしまったのう。実に儂らしいわ」

「中途半端?」

 

 言葉に反してへらへら笑うライハに、ハルユキは首を傾げてみせた。レベル4なら計算からいってあれで全部かと思っていたのだが、まだ見せていない通常技の類でもあるのだろうか。

 

「ん? 儂のアバターに通常技はないぞ。まあ強化外装はストレージにいくつか眠っておるが、儂のじゃないからまともに使えんし、そもそも普段は使わん」

 

 あっさり内心を読まれた。

 

「行橋未造であるまいし、心を読んだわけではないぞ。ハル坊は顔に出やすいだけじゃ。儂でなくとも雰囲気を読む程度のコミュニケーション能力を持つ者なら簡単にできるであろうよ」

「うう、先輩にもそれ言われました……」

 

 ハルユキは真っ赤になってうつむいた。というか、ライハに人の顔色を読むような高度な対人スキルが使えたというのが驚きなのだが。

 同類だと思っていたのに。

 ハルユキのかなり失礼な思いを知ってか知らずか、ライハはにこやかに言葉を続けた。

 

「ま、儂は通常技こそブレイン・バーストの対戦の中核であり、一番得難い能力じゃと思っておるがな」

「へっ、そうなんですか?」

 

 てっきり派手な必殺技の応酬や、強力なアビリティこそがブレイン・バーストの華だと思っていたハルユキは脱線するのにも気づかず聞き返していた。当然、ライハの方に話の舵を取ろうとする意識などあるはずもなく、話はどんどん横にずれていく。

 

「おうよ。アビリティや必殺技は必要なら後天的に習得できるが、通常技はそうもいかん。そもそもじゃ。ほれ、ハル坊、殴ってみい」

「えっ、ええ!?」

 

 ひょいとボクサーのトレーナーのように両手を広げて待ち構えるライハに、ハルユキは大いに戸惑った。殴られることはあっても殴り返した経験がないハルユキは、殴れといわれてとたんに一発入れられるような精神構造をしていない。

 確かに前世代のペーパーメディアの漫画や2Dゲームでは流血描写満載のものを好んで集めているし、加速世界では毎日のようにドンパチしているが、それはあくまで仮想世界(フィクション)であるという前提のもとだ。

 あちらの方がリアルのようなものだといくら本気で言っていたとしても、現実世界の脂肪に包まれたリアルのハルユキが、誰かを傷つけることに酷い恐怖と嫌悪を覚える心優しい少年だという事実は変わらない。

 暴力行為に対する心理的な枷は平和ボケした日本人として平均以上にしっかり掛かっているし、男として女の子を嬉々として殴るような特殊性癖も持ち合わせていない。相手が小柄でほそっこくて一応は美少女の範疇に入る、尊敬する先輩だとすればなおさらだ。

 

「なあに、儂は確かに貧弱極まりないが、それでもハル坊の一撃で壊れてしまうほど耐久値は低くないわい。過負荷(マイナス)のしぶとさはゴキブリ以上じゃぞ」

「そ、そうなんですか? で、でも……」

「丸めた新聞紙で叩かれても死なん」

「すごくダメそうに聞こえるんですけど!」

 

 掛け合いをしながら考える。

 きっとライハさんには何か考えがあるんだ。本気で殴れとも言われていないし、ここは軽く一発入れてみてもいいかもしれない。最悪、こっちで寸止めすればいいんだし……。

 きっと彼女に伝えたいことがあって、これはそのために必要なことなのだろうと判断したハルユキは覚悟を決めて右手を握った。

 

「えーと、それじゃ、いきますよ」

「よし、こい!」

「えいっ」

 

 ぽす。

 

 運動神経のかけらもないハルユキの、腕の力だけで放たれたぷにぷにの右の拳は、ライハの小さな手に当たって軽く受け止められた。

 実に情けない音がして、何故だかこれでよかったはずなのに男としてのプライドにひびが入った気がした。

 

「…………」

「な? この通りじゃ」

「……な、何がですか?」

「加速世界にその名を知られる、レベル4のシルバー・クロウでさえ、通常技の運動命令系システムのアシストが無ければこんな痩せっぽちの少女の手のひら一つ打ち抜けんということじゃよ」

 

 ハルユキは目を瞬かせた。

 そんなの考えたこともなかった。電子世界が現実世界のしがらみから解放されているのは当たり前のことで、向こうならできることがこっちじゃできないことも当たり前だと思っていたからだ。

 しかし、よく考えてみればおかしな話だ。

 

 完全一致(パーフェクトマッチ)と呼ばれる現象がある。

 本来、デュエルアバターは劣等感や恐怖、欲望といった心の傷を読み取って作成される。ゆえに現実世界の得意分野からはズレた能力を持っていることが多い。ハルユキだって赤系統のアバターに生まれていれば、今まで鍛えてきたFPSの腕を遺憾なく発揮できたことだろう。いまさら取り替えたいとは冗談でも思わないが。

 しかしごくまれに、現実で鍛え上げた技術とアバターの属性が一致することがあるのだ。

 それが完全一致(パーフェクトマッチ)。現実で培ってきた長年の経験と技術というアドバンテージを持つそれらのバーストリンカーは、現実世界では素人だらけの加速世界で圧倒的な強さを誇る。

 

 つまり、現実世界の経験と技術は加速世界にフィードバックが可能なのだ。ならば加速世界の経験と技術も現実世界にフィードバック可能だったとしても、なんら不思議はない。

 確かにハルユキは加速世界で現実世界にも繋がる多くのものを得てきた。親友しかり、恋人しかし、誇りしかり。まあ、最後のやつは最近若干ピンチだが。

 しかし、それはあくまで精神的な分野を主とした成果だ。肉体面に限って言えば、ハルユキは加速世界でならカンフー映画顔負けの格闘アクションを演じる自信があるが、現実世界では誰かをまともに殴ることもできない。むしろ自分の拳を痛め、手首をくじくのが関の山だろう。

 あっちが戦闘を前提に作られたデュエルアバターで、こちらがデブでチビの中学生という圧倒的ステータスの差、だけではない。

 相手を殴るという行為が、向こうではすでに何百、下手すると何千と繰り返してきた敵を効率的に破壊する動き(技術)が、こっちではまるで使えないのだ。たとえ筋力的なフィードバックがなくとも、あれだけ殴ったり蹴ったりしているのだから格闘技術の片鱗くらいはこちらで使えてもよさそうなものなのに。

 向こうではできることが当たり前で、こちらではできないことが当たり前の行動の数々。その隙間を埋めるのが通常技なのだとすれば、その存在は確かに大きい。

 

「通常技って、もしかしてけっこう凄かったりします……?」

「さてのう。

 痛みがあり、VR技術によって当たり前のように人間が多少異形化しておっても立体として目の前にいる。殴れば手ごたえがあり、苦痛の悲鳴も聞こえる。平和なこの国において、その状況で一番最初に乗り越えるべき壁は、暴力を振るうという行為そのものに対する忌避感じゃろう。

 幼いころから意識的無意識的にかけられた枷というのは存外強固での。外したり壊したりするには案外手間がかかる。フィクションでは激しい怒りや恐怖で一気に外すのが一般的じゃな。いわゆる覚醒イベントと言われるやつじゃ。ん、少し違うか? まあどちらも儂には縁のない話じゃな。

 格闘家や軍隊は訓練を積み重ねることによって、その時間の重さで外し方を覚える。それでも戦場に出れば心に傷を負うこと多数じゃ。そんな苦労とは無縁にあっさり外してしまえたり、元から壊れている人種をサイコパスと呼んだりもするな。

 しかし、そんな感情も訓練も天稟も必要なく、遊戯の延長線上としてあっさりその壁を無いものとして扱えるツール。対戦の根幹を支える技術。それが通常技じゃと、儂は思うておるよ」

 

 ハルユキはごくりと息をのんだ。

 自分が何気なく使っていたものが実はかなり重要で危険なものなのではないかということもだが、人を簡単に傷つけることのできる性質をあっさり天稟と言い切ったライハに畏怖を感じて。

 

「……それって、通常技がついていないアバターってかなり不利になったりするんでしょうか?」

「さて、どうかのう? 通常技がなくともイメージ制御系は健在じゃから現実世界ではできない動きができるのは変わらんし――」

 

 ライハの笑顔から温度が抜け落ちる。

 

「案外、必要ないからついていないだけかもしれんぞ」

 

 ハルユキは今度こそはっきりと彼女に恐怖した。

 出会ってから半年以上経った今でも、自分は彼女のことを何も知らないのだと思い知らされる。加速世界でブラック・ロータスの背中を見ているときも彼女が積み重ねた戦歴の凄味を肌で感じるが、今のライハからはそれと似て非なる異質な空気を感じた。

 

 悪人なんかよりもっと下劣で、救いようのない最低の魂。

 

 人間がここまでの深さに堕ちるには、一体どれだけの不幸が必要だというのか。加速世界とは一人の少女からこれほどのものを失わせてしまうほど過酷で残酷な場所だというのか。

 

「同レベル同ポテンシャルの原則がどこまで考慮しておるのかは知らんが……ん、どうしたハル坊?」

 

 酷薄な笑みは一瞬、すぐにいつもの軽薄な笑みに戻った。まるで見間違いだったのかと思うほどに。

 

「い、いえ……」

 

 しかし制服の一枚下に立った鳥肌は、心に刻まれた怖気は決して錯覚などではない。

 

「ふむ、そういえば、何で儂らはこんな話を長々としておったんじゃっけ?」

「え? えっと、それはその、あれ……何ででしたっけ?」

「対戦の目的の半分がぼく達に何ができるのか見せるためで、実はそれも中途半端に終わってしまったという話から、どんどん脱線していったんですよ」

 

 飽き性で気まぐれなライハの話題転換と、苦笑交じりのタクムの助け舟からその空気はどんどん薄れていく。

 

「できれば、残りの半分の目的と、何をやり残したから中途半端と言っているのか知りたいですね」

「おお、さすがタク」

「このご時世に眼鏡をかけておるだけあるな。博士キャラが板についておるぞ」

「それはあんまり嬉しくない評価ですね……」

 

 たわいない言葉を交わしているうちに、いつしかハルユキはその感覚を記憶の奥隅にしまいこんでしまった。

 

「さて、何が中途半端だったかという話じゃな。

 最初にハル坊に一発入れられてから、儂があちこち動きまくっておったのはカーソルで知っておるじゃろう?」

「はい」

 

 ハルユキは頷く。思い返してみればあれはとても無駄な時間だった。黒雪姫の前で無様をさらしたと反省しきりだ。自己嫌悪にうつむきそうになる顔を、意志の力を持ってぐっとあげる。恥の上塗りはできないし、したくない。特に親友でありライバルであるタクムの前では、なおさら。

 

「実は儂の『自己代用的幻影(オルタナティブ・ファントム)』には変わった性質があっての。幻影と銘打っておきながら無から出現するのではなく、発動には一定量の材料となるオブジェクトが必要となるのじゃ。

 まあ、どれほど頑丈であろうと、極端な話たとえ動物型であろうと材料にできるのじゃが、その性質を利用して大型オブジェクトの根元を削り取って倒壊させたり、地面の下に空間を作って落とし穴を作成したりといったトリッキーな使い方もできる。

 あのとき、儂は校舎中を駆け巡って主な柱を片っ端から幻影の材料として削り取っておての。ハル坊が飛び上がるのがあと三秒遅かったら、各所に配置した幻影を自爆させて校舎ごと倒壊させて潰してやろうと目論んでおったのじゃ」

「こわっ!」

 

 演出好きなライハが好みそうな派手な手法である。もっと効率的な攻撃手段は他にも山ほどあるだろうが、校舎の倒壊に巻き込まれたらダメージは馬鹿にできない。打たれ弱いシルバー・クロウだと最悪即死の可能性さえある。

 

「かなり危機一髪だったんですね、僕……」

「結局は逃げられて、最終的に自爆で勝敗をうやむやにするという情けない決着に持ち込むことしかできなかったがの。先輩として情けない限りじゃ。いや、ここはシルバー・クロウの力量を称えるべきかのう」

「い、いえ、そんなっ」

 

 そこでハルユキは重要なことを思い出した。もはやはるか昔のことに思えるが、もともとあの対戦は交渉目的で行うという話だったのだ。

 

「そういえば引き分け? になっちゃいましたけど、どうします? 僕が勝てばライハさんは災禍の鎧討伐作戦に参加するのを諦める。ライハさんが勝てば僕がニコのところにライハさんを連れていくって話でしたけど」

「おいおい、ハル坊。間違っておるぞ?」

 

 ライハの深まる笑顔に、ハルユキは壮絶に嫌な予感がした。先ほどのような生理的嫌悪を覚える戦慄ではない。もっと身近で卑近で低俗な、大失敗をしたときに感じるものだ。

 

「ハル坊が勝てば儂は諦める。そこまではよい。じゃがのう、次が違う。

 ハル坊が勝てなんだら、儂を首謀者のもとに連れていく。そういう約束じゃ。つまり、ハル坊が勝たない状況敗北引き分けその他すべて、儂の言い分が通ることになる。

 具体的には儂が『疑似大嘘憑き(ノットイコールオールフィクション)』を使い、あの対戦から勝ちも負けもなかったことになったあたりから、交渉の結果は定まっておったわけじゃよ。残りはすべて余興に過ぎん」

 

 理解するまでにたっぷり十秒はかかった。

 

「ずっるー! 詐欺じゃないですかっ!」

「けろけろ、お互いに納得ずくで定めた内容ではないか。いまさら覆そうなんて卑怯者のすることじゃぞ? なあ、タクム氏」

「……ハル、これは、してやられたみたいだ。これが加速世界最低の犯罪者と忌み嫌われたあなたの実力の一端ですか?」

「はんっ、こんなの戯言以下の言葉遊びの延長線上に過ぎんよ。過負荷(マイナス)の本質はこんなものではないわ」

 

 種明かしをする手品師のようなライハのドヤ顔を前にハルユキは頭を抱える。

 せっせと練り上げた戦略や戦術、血潮が燃えがるような戦闘中の一挙一動、そのすべてがひっくり返されて台無しにされた気分だ。

 

「えー、そんなのないですよ。あれは自分に有利な効果が何一つとして存在しないって言ってたじゃないですか……」

「あれはあくまで『対戦』に対しての言葉じゃ。勝手に交渉もひっくるめて考えたのはおぬしの落ち度。だいたいな、交渉なんてものは席に着いた時点で八割がた終わらせておくというのは社会人としての常識じゃぞ?」

「僕らまだ中学生じゃないですか……」

「おぬしが勝手に勘違いしただけじゃよ。思い込んで勘違いしたおぬしが悪い。儂は悪くないもーん。言ってやろうか、『勘違いするな』と?」

「うー……」

 

 唸ったところで過去が変わるわけでもなく、コミュニケーション能力は赤点のくせに弁舌は滑らかなライハに口で勝てるはずもない。ハルユキは納得できなくとも飲み込むしかなかった。

 ライハがにやりと笑って人差し指を立てる。

 

「ところでな、ハル坊」

「……なんですか?」

「そろそろ食い終わらんと、昼休み終わるぞ?」

「えっ!?」

 

 視界に表示された時刻は、いつの間にか昼休み終了十分前を指していた。ライハは喋りながらも器用に合間合間でパンを喰いつくし、左隣のタクムもすでに弁当箱を片付け始めている。

 ハルユキは慌てて手の中の半分になったカレーパンを片付けにかかる。この腹具合のまま午後からの授業を受けるなんて考えるだけでもごめんだ。

 次の授業までにパンを咀嚼することに専念し、ライハと会話する余裕のなくなってしまったハルユキだったが、ライハの入れてくれた二杯目の紅茶で口の中身を流し込みながら、放課後のことを考えて気が重くなるのを抑えることはできなかった。

 

 そして『残りの半分』を聞き忘れたことには最後まで気づかなかった。

 

 

 タクムは必死に食べる幼馴染を見ながら、弁当箱を片付けていた。

 実は、中身が三分の一ほど残っている。大切な、本当に大切なもう一人の幼馴染に作ってもらったお弁当だ。残す気など毛頭ない。どこかで時間を見つけて食べつくすつもりだ。

 

 しかし、今は――

 

 制服の袖口からわずかにのぞく自分の腕に、鳥肌が立っているのをちらりと見る。寒さのせいではない。

 ()()にあてられたのだ。おかげで食欲が欠片もない。吐き気を堪えるだけで精いっぱいだった。

 

 黛拓武は、来春礼羽のことが、初めて見た時から怖かった。

 

 バックドアでチユリの視覚情報越しに自分の存在を揶揄されたときに、聴覚情報越しにその声を聞いたときに、たとえようもない恐怖を感じた。

 この場にこうしているのは、義務感で怯える自分を叱咤し続けた成果に過ぎない。笑顔で会話し、気さくに言葉を交わせるのは、長年磨いた対人スキルの成果に過ぎない。

 本当のタクムは、ライハと一秒たりとも同じ空間にいたくない。一瞬たりとも視界に入れたくないし、一片たりともその声を耳に聞きたくない。

 でも、ネガ・ネビュラスに参謀として貢献することが、チユリの傍で彼女を様々なものから守り続けることが、自分に許された贖罪だと思うから、耐えているのだ。

 それでも凍えそうになる心を無視することはできず、いまだにライハと一対一で会話する機会は訪れていない。転校してきて半月、いまだにドタバタしているとはいえ、やろうと思えば時間は作れたはずだ。

 ネガ・ネビュラスの参謀を目指す者として、二年以上黒雪姫の隣にいた彼女の話を聞くのは有用であり必要なことだと感じている。しかし、勇気が出ないのだ。

 

 先ほどの対戦で見た光景を思い出す。

 ライハが新たな行動を起こすたびにタクムは全身に怖気からくる震えが走り、その隣で黒雪姫は息を呑んでいた。

 普段は超然としている彼女が、まるで普通の少女のように悲鳴を呑み込む姿は、ライハに恐怖を覚えているのは自分だけではないのだとタクムに思い知らせ、変な話だが少し安心した。

 チユリも、ライハのことが話題に上がるたびに少し表情を硬くする。

 

 タクムは再び目の前の幼馴染を見た。

 ハルユキだけだ。ライハを怖がる様子を、彼女に嫌悪を抱く様子を、まるで見せないのは。申し訳なさを押し殺しながら譲った彼女に近い席に、ハルユキは感謝する様子すら見せてあっさり腰を下ろした。

 

 ――ハル、キミにはいったい何が見えているんだい?

 

 ハルユキは尊敬する、大切な幼馴染だ。それは何があっても変わることはない。

 しかしこうやって、ライハから渡された紅茶をあっさり受け取って喉に流し込む姿を見ていると、彼がどこか遠くの、知らない誰かのようで――知らない『何か』のようで、不安になる。ちなみにタクムは渡された紅茶に口だけつけて、一切飲んでいない。

 

 ――ハル、キミはどこに向かっているんだい?

 

 できることなら、その行き先がライハと重ならないことを、切に願わずにはいられないタクムだった。

 

 

 初老に差し掛かった担任教師がぼそぼそとホームルームの終了を告げる。

 引き延ばし続けていた時間がついに来てしまったことにハルユキはため息をついた。

 これから黒雪姫に、続いてニコに、ライハとの顔合わせを手引きせねばならない。彼女たちの反応を想像すると今からお腹が痛くなりそうだった。

 黒雪姫の白い美貌に刻まれる眉間の皺、ニコの罵詈雑言、無駄に豊かな妄想が暴走して、尻から根が生えたように椅子から立ち上がりたくない。

 

 いささか乱暴に教室の後ろの扉が開かれたのはその時だった。

 放課後の解放感に、ざわざわと生徒たちが口々に話していた他愛無い雑談がしんと止み、そのまま空気が静まり返る。

 闖入者に視線が集まるのはよくあることだ。しかし大抵はそのまま、各々が自分の作業へとすぐに戻る。それがなされなかったのは、その闖入者が学年が違えど知らぬ者が一人もいない超絶有名人だったからだろう。

 白い美貌に張りつめた表情を浮かべながら教室を見まわした彼女の視線は、周囲と同様に視線を向けて固まっていたハルユキの上でピタリと固定される。そしてそのまま、普段の大人びた雰囲気には似つかわしくない急かされるような足取りで駆け寄ってきた。

 

「ハルユキ君っ!」

「せん、ぱい……?」

 

 自分に近づいてくる年上の恋人に向けて、ハルユキは茫然とつぶやいた。

 一年生の教室まで、わざわざ何しに来たのだろう。思いつくのは一つしかなく、ハルユキの失態を叱りに来たというものだ。しかしそのまま内心で悲鳴を上げて自己嫌悪に浸るには、あまりにも黒雪姫の表情は切羽詰まっていた。

 いまだに信じられない時が多々あるが、彼女は自分の恋人なのだ。お姫様を守る騎士のように、彼女がそんな顔をしている要因から自分が守りたいと、素直に心の底からそう思う。

 

「わぷっ!?」

 

 駆け寄ってきた勢いそのままに胸に抱きしめられ、あまり豊かとはいえないが十分刺激的過ぎる柔らかい感触に、ハルユキの思考回路はあっという間にオーバーヒートした。

 周囲の歓声とも悲鳴ともつかないざわめきが、どこか遠くで聞こえているように感じる。

 

「ずっと、こうしたかった……」

 

 震える黒雪姫の肢体と声が、ハルユキの頭に冷や水をぶっかけた。瞬間で通常運航に戻った頭で何とか他人のものみたいになっているのを操作して、ハルユキは震える愛しい人の背中に、迷いながら、躊躇いつつも腕を回した。

 

「あのときすぐにでもキミを確かめたかった。壊されていないか、喪っていないのか、温もりを感じたかったよ。それが許される時間まで、どれほど時の進みが遅く感じたことか」

「先輩……」

「今日ほど学生の身分が恨めしく感じた日はない。キミを喪うかもしれない恐怖を感じながら、キミが壊れてしまうかもしれない恐怖におびえながら、それでもキミのもとに駆けつけることができないなんて……」

 

 こんな経験当たり前だが今まで一度もしたことがないので、ハルユキにできたことは子供をあやすように黒雪姫の背中をぽん、ぽん、と一定間隔でやさしく叩いてやることだけだった。

 気の利いた言葉がポンポン出てくるフィクションの主人公がとても羨ましく思える。

 

 軽率だったのかもしれない。

 対戦前に黒雪姫にたっぷり説教されたときに反省したが、もう一度深く自分の行動を悔い改める。

 ハルユキにとってライハは畏怖に値するが、同時に尊敬もしている、とても変で気さくな先輩であり、理解者だ。

 しかし黒雪姫は、ライハが加速世界最低の犯罪者と呼ばれるに至った経緯をその目で見ているのだ。そんな相手とハルユキが戦う光景を見せられるのは寿命が縮む思いだったに違いない。

 普段は近づくのも恐れ多い完璧超人に見える黒雪姫だが、ライハがそこに加わると案外脆い一面があり天然も入っているということがわかる。

 そう、彼女はあくまで普通の中学生の女の子なのだ。それは三か月前にさんざん理解したはずじゃなかったのか。そこに黒雪姫としての彼女、ブラック・ロータスとしての彼女が重なっているだけなのだ。

 

 知っていたはずなのに、いつの間にか忘れようとしていた。

 

 申し訳なさが主成分だが、それだけではない言葉では言い尽くせない感情が少しでも伝わるようにと、ハルユキは強く黒雪姫の身体を抱きしめる。華奢な少女の肢体が腕の中で軋み、ん、とわずかに漏れた声が脳髄を痺れさせた。

 

「感情がいくら沸き立っておっても道理を説かれたら我儘に動けなくなるのはおぬしの美点であり、欠点じゃな。

 儂にメールで諭されたくらいで、本当に放課後まで我慢するとはのう。そういうお利口さんなところが嫌いなんじゃよ、このエリートが」

 

 軽薄な声が、息を呑んで静まり返っていた教室に響く。相変わらず存在感はあっても気配は異様に希薄だ。

 黒雪姫が開けっ放しにしていた教室の入口に、いつの間にか立っていた二人目の出現に教室中から声なき悲鳴が溢れた。

 ガタタッ、とそこかしこで音がするのは誰もが皆、彼女から遠ざかろうと椅子を引いたからだ。入口に一番近い男子生徒などは勢い余って机ごとひっくり返っていたが誰も笑わず、同情の視線を向けることもなかった。

 場所を選ばないカップルに向けられていた生温い視線は、今や温度を失いたった一人に集中している。まるで、肉食獣の動向をうかがう草食動物の群れのように。

 ハルユキもその声で周囲の存在を思い出し慌てて腕を解くが、ただ一人黒雪姫だけは完全に無視してハルユキを抱きしめ続けていた。

 

「大丈夫か。痛いところはないか。気持ち悪くは? 吐き気はしないか?」

「儂は病原菌のたぐいか」

「その方がずっとマシだろう」

 

 ようやく黒雪姫がハルユキから視線を外し、ライハの方に向き直る。いまだ黒雪姫の胸に抱かれ続けているハルユキは先ほどの自分の行動も相まって真っ赤になってあわあわしていることしかできなかった。

 

「知っとるか? 過負荷(マイナス)もちゃんと傷つく」

「知ったことか。何しに来たんだライハ」

 

 二人の間でバチッと視線が火花を散らしたのをハルユキは確かに幻視した。余人の割って入る余地のない緊張感。教師を含め周囲は観客に徹することしかできず、物音ひとつ立てずに固唾をのんで成り行きを見守っている。

 

「なあに、どうせ集合場所はハル坊の家じゃろ? 儂は少し用事があるので、向かうのは三十分ほど遅れると伝えておこうと思っての。

 先方に伝えておいてくれや。そちらにも都合があるじゃろうし、行くまでに方針を固めておいてくれると話が早くて助かるのう」

「ふん。そんなものメールで連絡すればいい話だろう」

「古いタイプの人間なもんでな。直接顔を見て言わんと落ち着かんし、何より面白いものが見れそうな予感がしたからのう」

 

 ぱちん、とライハが片目を瞑ってみせる。無駄にアイドル並に決まったウィンクだった。

 面白いもの扱いされた自分の行いを思い返して輪をかけて赤面したハルユキだったが、かろうじて口をはさみ確認する。

 

「あの、でも、僕ん家……」

「場所は知っておるから問題ない」

「さいですか」

 

 いまさら個人情報ってなんだっけ、と思うのはきっと愚かなことなのだろう。黒雪姫といいライハといい、年上の女性に抵抗するのは無駄なことなのかもしれないと最近思い始めた。あるいはチユリの例も考えると、女性という生き物に馬鹿な男は敵わないさだめなのかもしれない。

 

「ではの。どうぞよろしく」

 

 言いたいことだけ言い終えると、ライハは踵を返してふらふらと危なっかしい足取りで立ち去った。嵐のようなという表現があるが、災厄のようなという表現が彼女ほどしっくりくる人間もそういまい。

 

 引っ掻き回すだけ引っ掻き回して、片付けもせずにさっさと一人だけ帰りやがった。

 

 チッ、と至近距離で聞こえた舌打ちにびくりと身を竦ませながら、ハルユキは黒雪姫の思考がトレースできたことを感じた。

 今はまだライハにあてられたせいで、教室の空気は固まっている。しかし溶け始めれば再びハルユキたちに集中することになるだろう。

 黒雪姫の取り乱した態度や、ライハの言動に対する疑問が一気に爆発する形で。

 打開策はハルユキには一つしか思いつかなかった。そして、黒雪姫も同じことを考えているんだろうなーとトレースが続いている感覚がある脳裏で思った。

 

「それではハルユキ君」

「……はい」

「お騒がせして申し訳ない。それでは私たちはこれにて」

 

 三十六計逃げるに如かず。

 要は問題の先送りにしかなっていない気もするが、ただでさえ足りない時間をここで浪費するわけにはいかない。

 極冷気クロユキスマイルで固まった空気をあっさり切り開いた黒雪姫に手を引かれ、ハルユキはかろうじて反対側の手に鞄を抱えて逃亡した。

 今日が週末であり、明日明後日と追及を受ける心配がないというのがせめてもの救いかと、その時は思った。

 

 そして週明け、『とあるチビでデブの何がいいのかまるでわからん一年生男子が、()()黒雪姫とライハ相手に二股をかけているらしい』という、眩暈がしてへたり込んでそのまま立ち上がりたくなくなるような噂を新聞部から耳にすることになるのだが、完全な余談だろう。

 

 

「ほう……」

 

 帰宅後、事情をつっかえながらも何とか説明し終えたハルユキを前に、意外やニコは激昂も怒鳴りつけもしなかった。

 だがそのことにほっと一息つくなんてことはできない。今目の前で沈黙を続けているニコから放たれるプレッシャーはまさしく百戦錬磨の修羅場を潜り抜けた赤の王そのものであり、子供らしく感情を爆発させるよりもよほど重圧がある。

 会議卓として使用されたダイニングテーブルの席順は昨日と同じ。つまりハルユキと黒雪姫が並んで座り、対面にニコとタクムが座っている。ニコの顔を正面から見なければならないハルユキは、だらだらと顔中に汗が噴き出るのを感じていた。

 たっぷり一分は胃が痛くなるような沈黙が続いただろうか。

 

「なあ、黒いの。マーブル・ゴーレムは強いのか?」

 

 やがて口を開いたニコの声色から、怒りの色は感じ取れなかった。

 マーブル・ゴーレムことライハに災禍の鎧討伐計画が漏れるという非常事態に対応し、この場にはネガ・ネビュラスの面子が勢ぞろいしている。本来なら黒雪姫とタクムは、家に荷物を置いてから来る予定だったのだが、少しでも話し合いの時間を稼ぐため学校から直行したのだ。

 教育熱心なタクムの家は後が大変そうだと、ハルユキは今から申し訳ない。

 

「強いか弱いかでいうなら、弱い。王などとは比べものにならない程な。しかし、純色が七王だった時代に二対七のバトルロワイヤルを仕掛けられ、王相手に生き残る程度に戦いは巧みだ。今日見た限りでは錆びついている印象もなかった」

 

 黒雪姫は静かに答える。あれは自分たちだけではなく黒雪姫にも見せる意味があったのかと、ハルユキは遅まきながら気づいた。

 ニコは不機嫌そうに鼻を鳴らす。

 

「ふん。わけわかんないこと言っていれば頭よさそうに見えるとでも思ってんのか? あたしは戦力になるかって聞いてんだよ」

「戦力として数えるのなら間違いなくマイナスだな。状況を滅茶苦茶にかき回して目的も手段も結果も台無しにして、敵もそれに巻き込んでいるものだから最終的に味方は救われる感じだ」

「だーもうっ、だからわかんねえって! そんな抽象的な話が聞きたいんじゃねえんだよ」

「そうは言われてもアレを具体的に説明するのは至難の業だぞ。やつの言葉を借りるのなら『無意味で無関係で無価値で、何より無責任☆』がポリシーらしいからな」

 

 なるほどたしかに、とハルユキは隣で小さく頷く。ライハを言葉で説明するのは難しいを通り越して不可能に近い。

 彼女が過負荷(マイナス)と呼んでいる彼女の(さが)は、理屈ではなく感情で、頭ではなく肌で感じるものだと思うから。

 もっとも、それと同時に顔を合わせたことのないニコが理解できず、どんどん不機嫌になっていくのも道理な話で。

 

「碌でもないやつってことしかわかんねえよ!」

「それさえわかっていれば十分だ。あとは応用だな」

「馬鹿にしてんのかテメェ?」

「残念ながら大いに真面目だ」

 

 黒雪姫の目に込められた諦観を読み取ったのか、ニコは顔を明後日の方向に逸らして深々とため息をついた。

 

「噂以上にとんでもないやつらしいな、マーブル・ゴーレムってのは。ウチの側近にもこっちに来る前に『マーブル・ゴーレム、ダメ、絶対』って口を酸っぱくして言われたし」

 

 加速世界分割統治の一端を担う軍団(レギオン)『プロミネンス』の、古参バーストリンカーであろう側近にまで忌み嫌われている様に、ハルユキは改めてライハの規格外振りを知った。

 

「で、どーすんだ黒の王ブラック・ロータスよう。あたしとしちゃ、そんな不確定要素のカタマリみてーなトラブルメイカー弾いておきたいんだが、それが許されるような相手なのかい?

 この二年半、近くにいたあんたが一番よく知ってんだろ」

 

 ニコが真剣な眼差しで黒雪姫に向き直る。黒雪姫は顎に繊手を当ててしばし考えた後、臨終を告げる医者のような顔で首を横に振った。

 

「……無理だろうな。私がやつを参加させるべきでないとあの時点で判断したのは、関わり合いになればそこで手遅れだからだ。

 あいつはもう物語に参加してしまった。いまさら弾こうとしても別の場所で動くだけだろう。だったら手元に置いた方が私たちの覚悟が楽だ」

「はっ、気分が楽じゃなくて覚悟とはね。にしても物語に参加とは詩的な表現なこった」

「っ! ……すまない、忘れてくれ。……気がつけばあいつと同じような言葉や考え方を使っている自分が嫌になるな」

 

 まるでひどい暴言を吐いてしまったかのように口を手でふさぎ、沈んだ表情を見せる黒雪姫にそれ以上ニコもほじくり返そうとはしなかった。

 それにしても、予想よりもはるかに穏やかに早く話し合いが進んでいる。もっと怒声が飛び交う殺伐とした空気を覚悟していただけに、ハルユキは軽く気を緩めた。

 そしてつい、聞いてしまった。

 

「えっと……ニコは怒ってないの?」

 

 あちゃあ、とタクムが外見上はまったく動かず頭を抱える。ただでさえ火のついたマッチが放り込まれた火薬庫に、さらに油を注ぐようなマネはできない。

 ニコの瞳がぎらりと輝いた。

 あ、やべっ、ヤッチマッタと思う暇も有らばこそ。

 

「怒ってないのかだと? 怒っていないのかだって!? これが怒らずにいられるかっ、怒っていないわけがないだろうがこのスカポンタン!

 この土壇場で厄介な問題増やしやがって。不確定要素はできる限り減らしたいのに、マーブル・ゴーレムなんて呼び込みやがってムカ着火ファイヤーに決まってんだろうが! あっさり引っかかんじゃねーぞ頭の中身まで羽が生えて飛んでっちまったのかアアンッ!?

 ……なんて、頭のワリー大人みたく怒鳴り散らしたって代わりに誰かが解決してくれるわけじゃねーから、受け入れて打開策さがしてるだけだよ」

 

 真紅の雨(スカーレット・レイン)の名にふさわしい豪炎を背負い爆発した――かと思えば、あっという間に沈下した。

 反射的に腕で自分を庇っていたハルユキはそのままの姿勢でパチパチと瞬きする。

 

「ったくよー、マジでやめてくれよな。『手招く破綻(ピンキングパンク)』、『どうあがいても絶望(マルチバッドエンド)』、『強欲(グリード)』……そうそうたる異名を持った加速世界最低の犯罪者とかよ。ロータスの言う限り碌なやつじゃないみたいだし」

 

 おでこに手を当てて深々とため息をつくニコを見ていると、恐怖よりも先に罪悪感がわいてくる。しかし、黒雪姫が深々と頭を下げたのには慌てた。

 

「本当に申し訳ない」

「なっ!? ち、違いますよ。先輩が頭を下げる必要なんてありません! 僕が悪いんですから……」

「違わねえよ。あたしがシルバー・クロウを単品で引き抜こうとしていた時ならともかく、今はプロミネンスとネガ・ネビュラスとして動いてんだ。部下の不始末は上が責任取るもんだ」

 

 実際にその不始末をつけるため、リアル割れという禁忌を犯してまでここにいるニコの言葉に、ハルユキは何も言えずに黙り込んだ。

 今一度自分のやらかした失敗を痛感する。だが、やはりハルユキの持つ印象と一般的なライハの評価がどこかかみ合わないのも事実だった。周囲の危機感に同調できてない自分をハルユキは自覚する。

 確かにライハは口が裂けても善人とは言い難い存在だが、そこまで忌避しなきゃいけない相手とも思えないのだ。むしろ、味方になるのなら心強い。そんな思いがあるから、どこかぼんやりしているのだろう。

 ライハに対する評価はこの期に及んで改まらないが、ぼんやりしている自分に対する後ろめたさは感じる。

 

「チッ、んな顔すんなよ。まるであたしがいじめているみてーじゃねえか。ああもう、ロータスも頭上げな!

 じゃあとりあえず、マーブル・ゴーレムを受け入れるっつー方針でいいな?」

 

 湿気た空気を嫌うようにニコが乱暴に取り仕切る。異論の声は上がらなかった。

 

「よし。だがな、貸し一つだぞ、おぼえとけよ?」

 

 ネガ・ネビュラス側の失態をなあなあで済ます気はないということなのだろう。この場で取り立てられなかったことにハルユキは不安を感じる。

 そして、まるでそのタイミングを見計らっていたみたいに玄関のチャイムが鳴った。

 

「む。どうやら来たみたいだな」

「はん、ご本人の登場ってわけか。ずいぶんなタイミングだな。出待ちしてたんじゃねーか?」

「やつが相手だと冗談にならないな。さて、ハルユキ君、カギを開けてくれたまえ」

「は、はいっ」

 

 ハルユキは言われるまま反射的に、インターホンから送信される映像情報さえろくに確かめもせずに遠隔操作で解錠する。やった直後にまるで関係ない人だったらどうしようと不安になったが、「お邪魔します」と玄関から聞こえた声は聞き覚えのあるもので、ほっとした。

 初めて家に先輩を招く後輩としては玄関まで出迎えに行くのが礼儀のような気がしたのだが、この場の空気で言い出せないでいるうちにリビングに話題の人物が入ってくる。

 

「こんにちは。赤の王は初めましてですね。黒の王から聞き及んでおられるとは思いますが、わたしがマーブル・ゴーレムです」

 

 ハルユキは三回おおきく瞬きし、視覚情報が変更されなかったので目をこすった。

 それでも変わらない光景があり、聴覚情報でも信じられないものを聞いたことに気づいて、ニコを初めて見た時のようにニューロリンカーへの悪質なプログラムの可能性に思い至って、首から銀に光るニューロリンカーのロックを解除して外そうする。

 が、その寸前で黒雪姫に止められた。

 

「二人とも落ち着け。残念ながら目の前の光景は何一つ間違いなく現実だ。偽りなく、というと語弊があるがな」

 

 その言葉で初めてタクムも似たり寄ったりの動揺をあらわにしていたことに気づく。

 

「ああ、有田くん。手土産にフレンチクルーラーを買ってきましたから余裕がありそうならみんなで食べましょう。無理そうならすべてが終わった後の、祝賀会のお茶うけにでもしましょうか」

 

 そう言ってテーブルの上に全国チェーン店のドーナツ屋の紙箱を置き、上品にこちらに微笑みかけているのはいったい誰なのだろう。声はとても聞き覚えがあるのだが。

 外見的な変更といえば、ぼさぼさだった髪が、しっかりと整えられて腰のすぐ上までさらりと素直に流れているくらいだ。

 それだけでここまで印象が変わるというのか。

 ハルユキは女性の髪形の可能性に戦慄する。

 

「それで、失礼ですが時間も押していることでしょうし、単刀直入に伺います。わたしの参入は是でしょうか、非でしょうか?」

 

 普段の彼女を知らないはずのニコもぼんやりしていたが、びくんと体を震えさせて我に返ると答えた。

 

「あ、ああ……。アンタの参入は満場一致で可決した。こっちの方針には従ってもらうがな」

「よかった。これであの子にもいい報告ができそうです」

 

 見惚れていたに違いない。ふて腐れたように彼女の笑顔からそっぽを向くニコの態度にハルユキは確信した。

 

 白地に灰色でまだら模様に染まった髪は、琥珀色の瞳と相まってまるでおとぎ話から抜け出したようなお姫様のような神秘的な美しさを醸し出している。

 ピンと伸びた姿勢は、正中線がまったく崩れない。人間は立っているだけで美しいのだと、見るものに人体の芸術性を伝えていた。

 今の彼女は『清楚』や『可憐』といった言葉がよく似合う。黒雪姫と双璧が張れる文句なしの美少女だ。

 

 いつもの脱色に失敗したような髪の汚らしさはいったい何だったのか。普段の平衡感覚を明後日の方向に投げ捨てた足取りはどこにいってしまったのか。あの間違えて捻じれて失敗した雰囲気が脱着可能なオプションだとは夢にも思わなかった。

 

「なんか、こういっちゃ悪いがイメージしていたのとはずいぶん違うな。顔は手配書とたしかに同じだが……」

「重箱の隅を爪楊枝でほじくるような場面で器用なやつなんだよ、こいつは」

 

 ニコの半ば独白のような言葉に応えたのは黒雪姫だった。

 この場で一人だけ平然と、ある種憮然とした表情を崩していない。

 

「おいライハ。いい加減気持ち悪いからやめろ」

 

 黒雪姫が吐き捨てたその瞬間、空気が捻じ曲がった。

 大きな変化は一つして存在しない。少し表情が変わった。少し目つきが変わった。背筋が曲がり姿勢が悪くなった。その程度。それだけで吐き気を催す(マイナス)雰囲気(オーラ)が部屋中に吹き荒れる。

 見慣れない美少女からいつものライハに戻ったことに、ハルユキは少し安心した。

 

「あー、肩が凝った。過負荷(マイナス)性質(キャラクター)を抑えるのはやはり疲れるのう。

 にしても黒雪姫や、気持ち悪いとはひどくないか? こっちの方がよほど気持ち悪いと思うのじゃが」

「自覚はあるんだな、相変わらず。

 ハルユキ君は知っているだろう? こいつが小型刃物携帯許可証を持っているのを。あれの試験内容には倫理道徳のテストも含まれる。普段のこいつがそれをパスできると思うか?」

 

 その説明でハルユキは納得した。すごく納得した。つまりあれはライハの得意技(?)なのだろう。それを知っていたから黒雪姫は平然と対応していたのだ。

 

「……しかし、そのようなテストは、たいていニューロリンカーでリアルタイムに心理グラフを録られ、演技や嘘が通用しないはずでは?」

 

 ぎこちなく再稼働したタクムが疑問を呈する。

 ライハは珍しくはっきり悪役然とした影のある笑みをニヤリと浮かべた。まあ普段の軽薄なものと、相手に与える印象に大差はないのだが。

 

「ふふん。人間を騙すのに比べたら機械を偽るなど些細な問題よ。黒雪姫にだって似たようなことはできるわい」

 

 違法的手段をあからさまに臭わせるライハに、タクムはドン引きしていた。

 

「どうじゃハル坊、美しかろ? この通り、最近の整髪剤は高性能じゃ」

 

 そう笑いながら、ライハはまるでシャンプーのコマーシャルのように両手で髪をかき上げてみせた。ふんわりしなやかに、生体特有の滑らかさを持って白と灰のコントラストが舞い上がる。

 幻想的な光景と柑橘系のさわやかな香りが脳内を見たし、ハルユキはしばらく惚けていた。

 

「……ふふっ」

「ハッ!」

 

 危うくギャップ萌えについて永遠と考察するところだったが、恋人の小さな含み笑いに引きもどされる。

 カタカタと身体を震わせながら勇気を振り絞って隣に目をやると、予想通りの極冷気クロユキスマイルがそこにあった。

 

「……ちゃうねん」

「言い訳は後で聞こうか?」

 

 そしてようやく、この中で唯一事前知識がなかったためにライハの過負荷(マイナス)をもろに受けてしまったニコが、ぎしぎしと関節を軋ませながら我に返る。

 

「あー……なるほど、こういうやつなんだな。なんつーか、うん……」

「来春礼羽じゃ。知っておるとは思うがよろしく頼む。ああ、返信は不要ぞ。そちらのリアルを知ろうとは思わんのでな」

 

 ライハがついっと指をニコに向かって動かした。おそらくネームタグを送ったのだろうとハルユキは察する。

 黒雪姫は一転して人の悪い笑顔を浮かべていた。

 

「諦めろ、小娘。こいつは理解できないと拒絶するか、理解できないことを受け入れるかの二択しかない。理解できてしまうのはきっと、幸せなことではないだろうしな」

「小娘って言うな」

 

 そのやり取りで調子を取り戻したのか、ニコは大きく息を吸って吐き出す。続いて仮想デスクトップに視線を走らせ、もう一度息を吐いた。

 

「クロム・ディザスターが動くにはもうしばらく余裕がありそうだな。フレンチクルーラーでも食うか。おい、えーと、ゴーレム――」

「ゴーレムではステージやらエネミーやら何かと被ることがあるので、向こうではマーブルで通しておるよ」

「そっか。じゃあマーブル。買ってきたのにストロベリーはあるか?」

「残念、全部プレーンじゃ」

「なんでだよ!」

「争奪戦になったら儂負けるからのう。ならば最初から無難に勝ちも負けも無くすのが賢い選択だとは思わんか?」

「チッ、どんだけ好きなんだよと思ったが、それじゃあ文句が言えねーじゃねえか」

「まあプレーンが一番好きなんじゃが」

「このタイミングで言う必要ねえよな!」

 

 案外あっさり仲良くなっている。紙箱から一つ取り出し、小さな口を大きく開けてかぶりつくニコを見ながら、これが王の精神力かとハルユキはこっそり感心した。

 

「皆もおひとつどうじゃ? なあに、心配せずともすべて紛うことなき店売りの既製品。儂は中身に一切手を触れておらんよ」

 

 意図の読めないライハのその言葉にタクムが身じろぎしたような気がしたが、「毒なんて入れてないということじゃ」と笑うのでブラックジョークだったのかと納得してハルユキも一つ受け取った。

 

「さて、皆に行き渡ったか。それではここでお願いがあるのじゃが」

「ふざけんなぶっ殺すぞ」

「馬鹿かお前は」

 

 話の流れでごく自然に切り出していたが、ごく当たり前にダメ出しされていた。

 ニコと黒雪姫の凍てついた視線と言葉の集中砲火されるその様に、ハルユキはつい昨日の自分を思い出しす。しかしこれが役者の違いというものか、すべて表情筋でへらへらと弾き返すライハの面の皮の厚さは素直に見習いたいと思った。

 

「これ以上状況を掻き回すな。お前というイレギュラーを組み込んだだけで精一杯なんだ」

「儂に今回の件を依頼した小学生をこの場に参加させたいと思うのじゃが、許可をいただけるかの?」

「話聞けよ! ダメに決まってんだろうが。この場にはあたしとロータスっつーリアル割れが即致命傷につながる人材が二人もいんだぜ?

 プロミネンスの赤の王(あたし)でさえ配下を一人も連れずにここに来てんのに、単なる尻馬にのっかてるやつに追加要員なんて許されるわけねーだろ」

「どうしてもダメか?」

 

 ライハが筋力を感じさせない、倒れこむような動きでふらりとニコに急接近した。

 一息にプライベートスペースに踏み込むと、着席しているはずのニコを上目づかいに見上げる。一見頭を下げているようにも見えるが、目は縫い付けたかのようにニコの目から動かない。上半身は地面と平行の癖に、顔は上を向いているものだから姿勢がひどく悪い。

 

「ああ、ダメだ」

 

 そんな見ているだけで背筋に悪寒を覚える不自然極まりないライハの動きを、息のかかるような至近距離で見せられても、ニコの表情は小動ともしなかった。弱冠十一歳の少女を支えているのは王としてのプライドか、それともその小さな背中に背負う軍団(レギオン)の仲間たちか。

 加速世界の革命軍であり、反逆者一味であるとはいえ、所詮は気楽な一バーストリンカーでしかないハルユキには想像もつかない。ただ、そんなことを考えるのは間違いだと理解していても、ひどく気高くて悲しい光景だと、そう思った。

 

 燃えるような赤茶色の瞳と、温度のない蛍光じみた琥珀色の瞳が交差する。

 先に目を逸らしたのはライハの方だった。

 

「……そうか。ダメか。ならば仕方がないのう。諦めるとしよう」

「ライハさんって本当に小学生のお願いで動いていたんですねっ」

 

 険悪になりかけた空気を払拭するため、一区切りしたと見計らってハルユキは慌ててライハに話しかける。その様子を見てニコはふん、と鼻を鳴らした。ハルユキの気遣いはバレバレらしい。

 隣で黒雪姫がわずかに眉をしかめたことにも気づいたが、その意味を考えたら動けなくなりそうだったので作り笑いで心を守る。奇しくもそれは、普段ライハが浮かべている軽薄な笑みと同じものだった。

 ふらふらとソファまで移動したライハはぐてっと腰掛けると、ハルユキの気遣いをまったく意に介さない態度でぽきんぱきんと左右に首を鳴らす。

 

「ん? そりゃそうじゃろ。あんなもんに積極的にかかわろうと思うほど、儂は物好きではないわい」

 

 何を当たり前のことを、という表情で言われたが、意外に思ったのはハルユキだけではないはずだ。

 

「ほう……てっきりお前のことだから、嬉々として首を突っ込んで引っ掻き回してくるものだと思っていたが」

 

 その証拠に黒雪姫もそんなことを言っている。

 ライハはあからさまにあきれた顔をした。

 

「あほう。儂とトラブルが相思相愛じゃとでも思っておったのか、ばーかばーか」

 

 洗練された毒舌の一つもなく、小学生並みのボキャブラリーでここまで人の気持ちを逆撫ですることができるのかと、いっそハルユキは感心するほどだった。現実逃避ともいう。

 びきびきと表情を引き攣らせ、温度を急上昇させる黒雪姫をしり目にライハは言葉を続けた。

 

「儂からトラブルに首を突っ込んだことは意外と少ないぞ。いつも向こうからやってくるんじゃ。帰れと言っても帰らんから、笑顔で受け入れておるがな」

「意外に、と自分で言う程度にはいつもトラブルの渦中にいる自覚はあるんですね……」

 

 ハルユキは必死に隣を見ないようにする。梅郷中では完璧超人で通っている黒雪姫だが、プライベートでの彼女は意外と沸点が低い。加速世界のブラック・ロータスはそれに輪をかけて攻撃的でもある。

 その明晰な頭脳と高い理性のおかげで裏目に出ることは少ないが、関係者に裏目を()()()()ライハの前では欠点として表に出ることが多々あった。

 このまま放置するとまずいのは火を見るよりも明らかだったが、ハルユキは火中の栗を拾うよりも、ライハと話を続けてうやむやにする消極的消火作戦を選んだ。

 頑張って空気を調整しても、無作為に火種をまき散らす予感がひしひしとするライハを前に心が折れかけているのかもしれない。

 

「うむ。そのたびに楽しいんでおることも否定はせんよ。しかし今回はダメじゃな。災禍の鎧には美学がない。一部では共通しておるからこそ、あやつの粋も遊び心もない態度が鼻につく。実につまらんやつじゃ。

 それに、まるで感情のままに暴れている子供時代の黒歴史を見せられているようで、萎えるのよなあ」

 

 ライハの表情から温度が消える。

 氷のような凍てつく冷たさではない。

 硝子のように常温の中で冷めている。

 

「七年前に何があったかなんてさっぱり知らんが、その上で『気持ちはわかるがだからって周囲に迷惑かけていいものでもないだろうに』と今は道理を吐いてみようか。

 『暴食(グラトニー)』を割り振られておるが、儂はむしろ『憤怒(ラース)』が相当すると思うのじゃがな。ま、よほど頭からぼりぼり喰われるバーストリンカーの様子が印象的だったんじゃろう」

「はんっ、何か知っている様子じゃねえかマーブル」

 

 ニコが会話に割り込んでくる。先ほどごねたのが尾を引いているのか、自分の団員が関わっている内容だからか、その表情はとても不機嫌そうだ。

 一方のライハはちらりと目をやるだけで、どこまでもマイペースを崩さない。その揺るぎない態度はあからさまにの無関心の裏返しであり、ニコの柳眉の角度をさらに吊り上げる要因となった。

 

「なあに、あくまで感覚だけの根拠無用のたわごとじゃ。聞き流してたもれ。少なくとも王に具申するような内容ではないのう」

「あたしは一向に構わねえ。話せ」

「やなこった。儂が構うのじゃ。自分の言葉には責任を持たんとのう」

「お前がそれを言うのか……」

 

 深呼吸を繰り返してようやく気分を落ち着けたらしい黒雪姫が力なくツッコむ。王二人を相手にしてまったく普段通りのライハに、もはやハルユキは感心を通り越して呆れに近いものさえ感じた。

 歯ぎしりしかねないニコを無視して、ライハが笑顔でハルユキに向き直る。正直こちらまで飛び火しそうな予感がひしひしとするので切実にやめてほしい。

 

「にしてもハル坊や、七つの大罪のうち三つが一堂に会する大事件など、加速世界の歴史長しといえどそう無いぞ。せいぜい楽しめ。楽しめぬゲームなど、ゴミ箱に放り込んで然るべきじゃからの」

 

 そのまさに『楽しめないゲーム』をやっているであろう五代目クロム・ディザスター、チェリー・ルークを始末しようとしている面々の前で言うセリフではない。たとえそれがどれだけ筋が通っている一般論だったとしてもだ。

 頷くことさえできずに顔一面に汗を浮かべるハルユキに、ライハは心底楽しそうに説明を始める。

 

「ああ、七つの大罪とは加速世界に災いをもたらす巨悪を、キリスト教などで言われる罪源に当てはめたものでな、それぞれ『傲慢(プライド)』、『憤怒(ラース)』、『嫉妬(エンヴィ)』、『怠惰(スロウス)』、『強欲(グリード)』、『暴食(グラトニー)』、『色欲(ラスト)』がおる。

 さっきも言うたように災禍の鎧は『暴食(グラトニー)』、儂が『強欲(グリード)』、そしてそこの黒雪姫が『傲慢(プライド)』じゃ」

 

 ハルユキは思わず黒雪姫の顔を見てしまった。

 自分でさえ御しきれない衝動に身を焦がし、友さえ手にかけた彼女の生き様は、傍目には虚飾や傲慢に振り回されているように見えるのかもしれない。

 

 しかし、違う、そんなんじゃないと反射的にハルユキは思った。

 

 それは感情的な反発ばかりではない。何か明確な根拠のある、あるいは信念と呼ばれるものに基づいた感情の発露のような気がしたが、その根底に手を伸ばしても霧を掴むばかりで、ますますわからなくなってしまう。

 そんなもどかしい感覚を抱えたまま、縋り付くようにハルユキは黒雪姫を見る。黒雪姫もどのような感情によってか、ハルユキの方を見たためパッチリと視線が噛み合った。ハルユキの表情を見た黒雪姫の白い美貌に苦笑が浮かぶ。

 

「ふっ、確かに私も『傲慢(プライド)』に数えられていた時期があったな。しかしそんなもの、はるか昔の話だぞ?

 七つの大罪は加速世界に災いをもたらす存在であるがゆえに、王やハイランカーたちの手によって頻繁に狩られている。かつて私が四代目クロム・ディザスターを討伐したように、な。

 ゆえに入れ替わりが激しく、実際私は三代目、お前は二代目だったじゃないか。しかも私たちが加速世界から退場している間に『傲慢(プライド)』は四代目が、『強欲(グラトニー)』は五代目まで討伐されたと聞く。

 人によっては同じ世代でさえ誰がノミネートされるか意見が分かれる、いわば学校の七不思議に近い存在だというのに、そんな過去の名声ともいえないものを自慢げに持ち出されても反応に困るというものだ」

 

 口を開いた黒雪姫の声は穏やかだった。表情は言葉を重ねるごとに苦笑から冷笑へと温度を下げ、最終的には極冷気クロユキスマイルとなってライハに突き刺さる。

 先代赤の王レッド・ライダーのような、彼女の傷に触れる内容だったのではないかと危惧していたハルユキは、ほっと安堵した。

 ライハはそんな二人を見て幸せそうにケロケロと笑った。

 

「まあの。かつての純色の七王や七の神器(セブン・アークス)に比べたらだいぶ曖昧模糊とした括りであることは確かじゃ。しかしそれでも『加速世界の七』の一つであることに違いはない。それに……」

「だぁーっ! んなぁことはどうでもいい!」

 

 火種だけ放り込まれて蚊帳の外に置かれていたニコが、ついに爆発する。漠然とした予感はあったが、ついに険悪な空気が確定的なものとなってしまったことにハルユキは内心で涙した。

 

「あたしは言ったよな、こっちの方針には従ってもらうって。災禍の鎧に関して知っていることを、洗いざらい吐きやがれ。でなきゃ叩きだすぞ?」

「うーん、困ったのう。儂ひねくれ者じゃから、そんな風に命令されると逆らいたくなるんじゃが」

「だったらとっととここから出ていけ! 話さねー限り参加はぜってー認めねーからな!」

 

 豪炎吹き荒れるニコの激昂は、傍で見ているだけのハルユキでさえ足が震えるのに、ライハはなぜあんな風にへらへら笑うことができるのだろう。

 怒りそのものには感銘を受けた様子もなく、ライハはすっくと立ち上がった。

 

「あいわかった。邪魔したのう」

「え、ちょ、本当に帰っちゃうんですか!?」

「本当も何も、赤の王がこう言っておる限り仕方あるまい」

 

 よくわからないものに異常に執着したかと思えば、ふとしたきっかけで重要に思えることをあっさり取りやめてしまう。何度も見た彼女の性だが、今回はとびっきりだ。彼女を嫌う人々は、このような被害者になってきたのだろうかと、ふと思った。

 そんなハルユキの思いに気づいた様子もなく、ライハはいつも通りのふらふらした足取りで玄関に向かう。助けを求めるように隣の黒雪姫に目をやるが、彼女は冷静な表情で黙ってライハの背中を見つめ続けるだけだった。

 

「よくよく考えてみれば誰かに不快な思いをさせたり迷惑をかけてまで、集団行動をする必要性は皆無じゃったしの。儂は雪風と一緒に、二人寂しく適当にクロム・ディザスターを相手に一狩り行こうぜしとくわ」

 

 その一言で、ニコがピタリと凍り付く。急激すぎる変化に戸惑うのはハルユキだけで、ライハは我関せずと足を進め、黒雪姫は冷静に俯瞰し、タクムは息をひそめて見守っている。

 

「おい、まて……。雪風、だと?」

「おうよ。あやつは運がいいからの、適当に勘任せに動いても、あるいはあっさり出会うことができるかもしれんな」

「ゆ……陽炎(かげろう)雪風(ゆきかぜ)か!?」

 

 ここまであからさまに反応されては鈍いハルユキでもわかる。きっとそのユキカゼというのは、ニコの現実(リアル)の友人なのだ。それも、加速世界(こちら側)に関わっているとは夢にも思ってもいなかった、ニコの中の大切な位置にいる。

 突然立ち止まったライハが、下手な人形師に動かされるマリオネットのような不自然な動きでニコに詰め寄った。光の加減か、琥珀色に発光して見える瞳が至近距離でニコを射抜く。

 

「ふーん、おぬしの大切な友人の名は陽炎雪風というのか。覚えておこーっと」

「……っ!」

 

 ぐらり、とここに来て初めてニコが明らかに気圧されていた。

 ニコが弱いんじゃない。急転する事態にあたふたしながらも、ゲーマーとして鍛え上げられたハルユキの脳は、脳天の裏側辺りでどこか冷静に状況を整理する。

 

 ニコや黒雪姫は紛うことなき王であるが、その支配領域(テリトリー)はあくまで加速世界だ。現実世界の彼女たちは小学生や中学生といった肉体的、社会的、そして精神的な檻に囚われており、どれだけ年齢に似つかわしくない迫力と精神力があろうが、こちらで発揮されているのは所詮向こう側で積み上げた一部分でしかない。

 通常技のときに考えた理屈と同じだ。肉体的に強靭であれば、レベルさえ高ければ、プレイヤースキルさえ熟達していれば、精神的に成熟さえしていれば、王であるのではない。そのすべてをひっくるめて初めて加速世界を統治する王足り得るのだ。

 その半分も持ち出せない現実世界(こちら)側の王は、たとえるなら剣も盾も鎧も兵士も身ぐるみ剥がされた裸の王様。

 ニコが小学生であるリアルを晒して、こちら側に信頼させるに値する弱みとしたように、それは彼女たちも自覚している自明の理である。

 

 一方のライハは現実世界こそが主戦場の過負荷(マイナス)

 同年代やハルユキやタクム程度ならそれでも加速世界の王の一部を引き出せるニコが圧倒しただろうが、入学式からひと月で担任教師含め自分のクラスの全員を登校拒否にさせるような凶人相手では分が悪い。むしろエリート嫌いなライハ相手には、中途半端なプラス要素は裏目(マイナス)に出かねない。

 

 ニコは決して悪くない。相手が悪かった、状況が悪かったとしか言いようがない。

 

 隙を、弱みを見せてしまったニコに付け込まないほどライハは親切ではない。いまや過負荷は忌憚なく大量放出され、室内の空気はまだらに染められドロドロに濁りきって呼吸さえままならないことになっていた。

 顔色を失い、それでも身震い一つしないニコに対し、ライハはへらっと笑みを浮かべる。

 

「ま、儂が今から会いに行こうとしておる雪風も、ここに呼ぼうとしておった雪風も、ブレイン・バーストを初めてすぐに、とある偶然で友人であった桜庭兵衛が災禍の鎧に飲み込まれたということを知って、儂に泣きついてきた松乃木学園初等部三年生の、むかし上月由仁子と同じ学校に通っており当時は大親友だった、陽炎雪風じゃがな」

「っ、テメェ……!」

 

 ライハはニコに対しネームタグを送っていたが、ニコからライハへは送っていない。つまり、ライハはここに来る前にすでにニコのリアルの情報を把握していたということだ。

 ハルユキは今日の昼休みに聞いたライハの言葉を思い出していた。

 『交渉なんてものは席に着いた時点で八割がた終えている』。

 あれは、ハルユキに限定した話ではなかったのだ。

 きっと、順番としては逆なのだろう。先にユキカゼと知り合って、その後でユキカゼがニコと親友であることや、そのニコが赤の王であることを、おそらくは災禍の鎧の一件で知った。

 しかし結果としては同じだ。今ライハの手の中にはニコ、ユキカゼ、そしておそらくはチェリー・ルークのリアルの情報が握られており、さらにユキカゼは事実上人質に取られているようなものである。

 別にライハはユキカゼに危害を加えるようなことは、暗示を含め一切口に出していない。

 それなのにこのままライハを放り出せば、そのユキカゼと一緒に災禍の鎧討伐に乗り出し、ひどい結末を迎えることを見る者に確信させるのは、いったいどういう理屈なのか。

 

 今までハルユキは、ライハのいう過負荷(マイナス)とは、相手に直感的に忌み嫌われる雰囲気だったり、神経を逆なでする言動だったり、そういったものに起因するものだとばかり思っていた。

 それは間違いではなかったが、すべてでもなかった。

 このように、ニコの親友だというユキカゼと、災禍の鎧騒動事前に知り合うのは計算とか計画だとか、そういった代物で何とかなるようなことではない。

 思えばハルユキが災禍の鎧のことをライハに漏らしてしまったのも、実際は計略でもなんでもなく、ただユキカゼに頼まれてライハが最初に取った行動が、同盟相手のネガ・ネビュラスと協力体制を敷こうとしたということだけだったのだ。

 理屈もなく、意志もなく、ただ存在しているだけで、そうあるがままに相手にとって不都合な結果を引き出す性質。

 裏目を引かせる程度の素質。

 

 ――これが過負荷(マイナス)なのか!

 

 目の前で展開される常識も理屈も破綻させた事実に、ハルユキは自分でもよくわからない感動のようなものを覚えていた。

 だから、『松乃木学園初等部三年生』という単語に黒雪姫がピクリと反応したことには気づけなかった。

 

「ライハ、そのユキカゼという者のレベルはいくつだ?」

 

 至近距離で見つめ合い空気を煮えたぎらせる二人に水を差すように、黒雪姫がひどく冷静な口調で尋ねる。実質熱を発しているのは一人だけであり、もう片方の硝子のような常温の冷たさを保っていたライハはあっさり目を逸らすと黒雪姫を見た。

 

「レベル4じゃ。災禍の鎧が無制限中立フィールドを狩場としておるという情報を掴んでから、突貫工事で仕上げたからのう」

「ふむ……。経験は?」

「バーストリンカーになってからは日が浅い。もうすぐひと月といったところかの」

「それでレベル4か。早いな。そこまで活躍するバーストリンカーがいれば、噂として耳に入っていてもおかしくはないはずだから……」

「ご察しの通り、培養器育成(インキュベーター・レベリング)じゃよ。おかげで対人経験は少ないが、代わりにエネミー相手の経験を積ませた。儂と違ってまっとうに強いぞ。小獣級(レッサー)なら一人で仕留められるからのう」

「無茶させすぎだ、馬鹿者」

 

 事務的な話をしているうちに、ドロドロに濁って熱されていた空気はゆっくりと透き通った常温に戻っていった。それと同時にライハから解放されたニコの顔色も徐々に戻っていく。

 せめてものプライドか、崩れ落ちることはなかったものの、荒い呼吸と額を伝う汗は隠しきれなかった。

 

「仕方あるまい。何かを選ぶということは、何かを選ばないということじゃ。当然、選ばれないものの方がずっと多い。ありえたかもしれない数多の未来を喰らいつくして、人は一つしかないその先に進む。

 多少の代償を支払うことになっても、あの子の選んだ道じゃ。親はそれを応援してやるまでじゃよ」

「…………は?」

「なっ!?」

 

 さらっと吐かれた爆弾発言に、空気が一転する。

 黒雪姫がぽかんと口を開けるという極めてレアな表情を晒し、ニコはせっかく戻ってきた顔色がまた蒼白になる。ハルユキも言葉の意味を理解するまでにかなり時間がかかった。

 

 親? だれが?

 

「なんじゃ、言っておらんかったか? この前のクリスマス・イブに子を作ったんじゃよ。それが雪風じゃ」

 

 どうやら聞き間違いや空耳の類ではなかったらしい。

 

「親子ぉ!? 貴様がっ? その子は正気、いや、まだ生きているのか!?」

「てめぇマジでふざけてんじゃねえぞっ! ユキちゃんは、ユキちゃんは……!?」

 

 あっという間に阿鼻叫喚。ニコなどはけたたましい音を立てて椅子を倒すと、その勢いのままライハに掴みかかっていた。

 王二人が率先して取り乱してくれたため、乗り遅れたハルユキは同様に沈黙を続けるタクムとなんとなく目を合わせる。タクムも驚愕を隠し切れない表情で眼鏡の青い縁をいじっていたが、熱狂に取り残された者特有の醒めた雰囲気をどこか漂わせていた。

 

「なんじゃ騒がしいのう。近所からクレームが来たら対処するのはハル坊なんじゃぞ? もっと先達として気を使わんかい」

 

 襟首を鷲掴みにされながらも平然と肩をすくめるライハだけが、この場で空気から切り離されたようにマイペースだ。

 ハルユキだってにわかには信じられない。ブレイン・バーストで親子の関係になるということは、すなわちリアルで直結する必要があるということだ。

 昼休みに直結を持ちかけられた時にうっかり乗りかけたハルユキだが、あれは半年の付き合いと恩人補正あってのもの。ユキカゼとライハがどのような関係なのか知るすべはないが、小学三年生の若い身空でライハと直結し、さらには送られてきた正体不明のアプリを実行するなんて、どんな嫌なことがあったのか想像もつかない。

 それに、気まぐれなライハが親子などと束縛の代名詞みたいな関係を好き好んで結ぶというのも想像の埒外だった。

 

 ニコの勢いに負けたライハが、フローリングの上に押し倒される。二十センチ近く身長差がある小学生相手に押し倒されるなど、さすがは貧弱な過負荷(マイナス)といったところである。

 受け身も取らずにもろに倒れこんだライハの後頭部がゴン、と鈍い音を立て、かふ、と息が彼女の口から洩れる。傍で見ているハルユキの方が身を竦めてしまう光景であり音だったのだが、完全に頭に血が上っているニコは気づいてすらいないようだ。

 

「てめっ、ユキちゃんはお前なんかにっ、ふざけっ……!」

 

 感情が昂ぶりすぎて口から洩れる言葉も支離滅裂。馬乗りになり、おそらく自分が何をしているのか理解しないままに襟首を締め上げる。

 そんなニコをしばらく焦点の合わない目でぼんやり見上げていたライハは、腕をゆっくりと持ち上げ、ポンポン、と二回あやすようにニコの頭を軽くたたいた。

 効果は即効かつ顕著で、全身の毛を逆立てて弾かれるように遠ざかるニコ。蒼白な顔色から冷静ではないにしろ自分の行いを理解したのか、へたり込んだまま自分の手を見つめて震え始める。

 

「あ、ああ…………」

「けほ、けほ。やれやれ、相手が儂でなければ危ないところじゃったぞ? ま、儂相手でも殺人未遂には変わらんが」

 

 そういうライハは熟練の貫録すら感じさせる態度で首をさすっている。加害者が取り乱し、被害者が平然としている矛盾。ライハの近くにいればよく見る光景だ。

 

「ライハ、その程度にしておけ」

 

 より激昂しているニコを見て冷静になったのか、静かな足取りで黒雪姫がニコに歩み寄り、そして膝をついて包み込むようにその小さな身体を背中から抱きしめた。

 

「あ……」

「小娘。お前は悪くないし、弱くもないよ。とりあえずそれだけは理解しておけ。

 バーストリンカーというのは、現実世界の欠落を幻想の強さでくるんで戦う子供たちだ。壁を超えるためにはその欠落と向き合う必要があるとはいえ、本質的に弱さが消えてなくなるわけではない。

 こいつはその弱さを表に引き出すのが抜群に上手いんだ。事実、私もこの二年半で数えきれないほどやられた。初見でその程度で済んでいるのは、お前に王としての器と、覚悟がある何よりの証さ。

 加速世界越しでさえ、一発で何人ものバーストリンカーを再起不能に追い込んだからこそ、こいつは加速世界最低の犯罪者と呼ばれているのだから」

 

 ハルユキは息を呑む。それは昨晩見た、ニコと黒雪姫が身を寄せ合うようにして眠っている光景の再現のように思えた。

 あれはサドンデスルールに縛られた赤の王と黒の王の間で、偶然によって実現した一夜限りの奇跡ではなかったのだ。

 身を震わせるニコを抱きしめる黒雪姫は、まるで姉か母のように慈しみに満ちている。抱きしめられるニコも普段のような憎まれ口をたたく余裕はなく、隠しようのない安堵が表情に滲んでいた。

 抱きしめる。それは原始的で、本能的で、だからこそ人の心を震わせる幻想的な行為。

 一枚の絵のように完成していて崇高ささえ漂っている光景なものだから、そこに無粋な横の手が挟まれるのはもはや予定調和と言えた。

 

「けろけろ、なんての。嬉しかったぞ、ニコ嬢や。人間とは急所を突かれたら逆上する生き物じゃ。我を忘れるほど雪風のことを想ってくれておるのじゃろ? どこの誰が稚拙で未熟な感情の爆発だと罵り貶めても、儂だけはおぬしの行為を肯定し、感謝しよう」

 

 本当に嬉しそうにライハは笑う。ニコが怯えたように身を竦めても、黒雪姫に力強い目で睨まれてもお構いなしだ。

 ハルユキは、なんだかうまく言えないが、その一言で台無しになった気がした。

 ニコがユキカゼに抱いている想いの数々も、黒雪姫の言葉も信念も、彼女たちが加速世界で積み上げた強さも功績も罪も、現実世界で抱えている弱さや痛みや優しさも、良いも悪いもごちゃまぜにされて台無しにされた。そんな気がした。

 

 ライハはゆっくり立ち上がると、足首を回したり屈伸をしたりと、手慣れた様子で体を痛めていないか確認している。やがて問題なしと判断したのか、衣服を叩いて汚れを払い、髪を撫でつけたりと軽く身支度を整えると、再びふらふらと玄関に向かって歩き出した。

 

「おい、どこに行くんだ?」

「だから雪風を迎えにいくんじゃよ。赤の王に追い出された以上、二人でなんとかせねばならんからの」

 

 ニコを抱えなおしながら黒雪姫は眉をひそめる。

 

「まだそんなことを言っているのか? いまさらこいつはお前の参加に異論を挟まんだろう。というか、挟めんだろう。あっさり引き下がったんでおかしいとは思っていたんだ。例によって例のごとく、こちら側からお願いしますと言わせる気だったんだな?」

「なんじゃ、そんなまるで儂の性格が悪いみたいに」

「お前はいい性格しているよ、本当に。どうせそのユキカゼとやらも、災禍の鎧討伐の戦力となるくらいには鍛え上げているんだろう?」

「いや、さすがに無理じゃろうな。その前哨戦ならこの上なく役に立つじゃろうが……」

「前哨戦? おいライハ。お前マジで知っていること全部話せ」

 

 普段とは少し違う、乱暴なようで、しかしどこか自然体な黒雪姫の口調。ハルユキが見る限り、彼女がこの言葉遣いになるのは相手がライハの時だけだ。気を許しているというのもあるだろうが、それ以上に二年半隣にいるライハの言葉遣いに影響されているゆえというのがあると思う。

 それを当人に言えば本気で落ち込みそうなので、言ったことはないが。

 

「いやいや、またそんな。儂というイレギュラーを抱えるだけで精いっぱいだったのじゃろう? 結局参加しないことになったが、こんな余計な情報を漏らして混乱させることなぞできぬよ。

 それに、今回の儂の急な参加はプロミネンスにとっては嬉しくない誤算のはずじゃ。ネガ・ネビュラスは決して小さくない負債を背負ったのではないか? 仲良しの黒雪姫に迷惑をかけてまで我儘を押し通すなんて、儂の良心が許さぬよ」

「貴様に良心なんてあったのか?」

「もちろんあるぞ。食用として活用する際は、三日三晩悪意と一緒に煮込んで灰汁抜きしてくださいませの特殊料理食材じゃ。素人がうかつに触れると傷だらけになる有害有毒の代物じゃろ」

 

 軽快な二人の掛け合いは、どこか毎週のように対戦しているシルバー・クロウとアッシュ・ローラーのやり取りをハルユキに彷彿させた。

 ハルユキにとって初めて負けた敵であり、初めて勝った相手。バイクにポテンシャルをつぎ込んでいるアッシュ・ローラーと飛行アビリティを持つシルバー・クロウの一戦は派手な内容になることが多く、この三か月で『アシュクロ戦』と呼ばれるほどに一種の名物と化している。

 誰かに言ったことはないが、自惚れでなければ客観的に言っても好敵手に値する関係なのではないかと自負している。

 

「……わかった。取り消そう。ネガ・ネビュラスに対する貸し一つも、追加要員を認めないということも、方針に従えということも、知っていることを全部話せということも、すべてだ」

 

 口を開いたのは、ニコだった。いまだ顔色は悪く、体の震えも収まっていない。しかし焦点を失っていたその瞳には、赤の王としての炎が、小さくも確かに燃え上がっている。

 

「だから、あたしに協力してほしい。一緒に、チェリーのやつを止めてほしい。頼む」

 

 その言葉に、かつてハルユキを取り込もうとした高圧さは影を潜めている。かろうじて口調に名残を感じる程度だ。

 今の彼女は、弱々しく震えながらも、それでもなおプロミネンスの頭首としての責任感で折れそうになる心を支えている、ただの幼い少女だった。

 ライハがふっと優しい笑みを浮かべる。

 

「ふむ、土下座して――」

「ぶん殴るぞ?」

 

 珍しく直接的で品性の欠片もない、黒雪姫のドスの利いた暴言だった。ライハはけろけろと笑う。

 

「冗談じゃよ。おぬしらのような王を自称するエリートどもは大っ嫌いじゃが、そのように弱さを前面に出すなら話は別じゃ。過負荷(マイナス)は弱さから逃げず、弱さを隠さず、弱さを表に出して武装する者を尊敬する。優れておれば優れておるほど、それは難しいことじゃろう? 特におぬしのような者にとってはな。

 今、震えながらも儂のような気持ち悪い相手に、自分が何より嫌悪する自分の弱さを曝け出した、おぬしの勇気を儂は何より尊び称えよう」

 

 弱さを肯定する。

 気まぐれで嘘つきで、何が演技なのかまるでわからないライハに、数少なく一貫しているものの一つだとハルユキは思う。

 彼女は否定しない。当たり前のような顔をして弱さを受け入れ、それを愛する。だからハルユキのように欠点だらけを自負する人間にとっては、麻薬のように居心地のいい場所となるのだ。

 それこそ骨の髄まで腐りきって、二度と起き上がれなくなるのではないかと思うほどに。

 ニコは驚いた顔を浮かべているが、ライハのその対応に対してはハルユキは納得していた。

 複雑怪奇な話の流れの方はとても理解が及ばなかったが。

 いったいどこまで計算していたのか。

 今回も結果だけ見れば、赤の王ニコから最大限の譲歩を引き出した総取りに近い。もしも計算してやったのならば立派な策士だが、きっと適当に違いないと根拠もなくハルユキは確信していた。

 

「では、今度こそ本当に満場一致で可決されたわけだし、雪風を呼んでくるわな。すぐに戻るが、万が一クロム・ディザスターに動きがあったときはメールで連絡してくれや。儂らも向こうで対応する。

 ああ、ニコ嬢や、フレンチクルーラーでも食べて気を落ち着かせておけ。ドクターによると精神安定の効果があるらしいぞ、あれ」

「適当を抜かすな。どこの医者だ」

「水着の上に白衣を部屋着としている眼鏡の医者じゃよ。ではまたすぐに」

 

 ふらふらと玄関から出ていくライハを、ハルユキたちは黙って見守った。

 ガチャンと鳴った金属製のドアの音が、やけに大きく響いた。

 

 

 

 どれほど玄関の方を見つめ続けていただろう。誰ともなく吐き出されたため息が部屋中に満ちる。

 

「……おい、ロータス」

「ん、どうした?」

「もういい、離せ」

 

 ニコが黒雪姫の腕の中で、頬を染めながらもぞもぞと身じろぎした。今気づいたような顔をして黒雪姫が腕をほどく。

 

「ああ、すまんな。つい、すっぽりと納まっていたものだから忘れていた」

「誰がチビだ? ……じゃなくてだな、えーと……」

 

 ニコの状態はだいぶ良くなっているように見えた。顔色は赤いし、震えも治まっている。

 視線をあちこちに彷徨わせながら、ニコは言うべき言葉を探していた。いや、本当はわかっているのに、なかなか言い出せないのだろう。

 あー、とか、うー、とか漏らしながら彼女の葛藤は、実に三十秒も続いた。しかし彼女は腐っても赤の王。克己はお手の物である。

 

「あ、ありが、とう……助かった」

「おや、ニコたんがデレた」

「誰がツンデレだっ、つーかニコたん言うな!」

 

 顔中を真っ赤にしたしおらしさは一瞬だった。その一瞬でハルユキの脳内フォルダには、潤ませた目をちらちらと逸らしながらお礼を言ったニコの表情がダース単位で保存されてしまったのだが、今は関係のない話である。

 すっかり調子を取り戻した彼女は、うがーと髪の毛を逆立てながら、ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべる黒雪姫へと噛みつく。

 

「つーかさ、お前そーいうところ、すげえマーブルに似てんぞ!」

「なん、だと……」

 

 効果は抜群だった。

 ただでさえ白い顔から完全に色を無くした黒雪姫が音もなく崩れ落ちる。地面に手をつき、長い黒髪で顔が隠れてしまったため表情は定かではないが、ふふふ、と聞こえてくる乾いた笑い声から察するに傷は深そうだ。

 

「ああ、薄々気づいていたさ。私の言動がやつに染められつつあることに……。しかし他人に指摘されて自分でも納得するというコンボはキツイものがあるな。思わず首を括りたくなる」

「先輩ー!?」

「あー、同情はするぜ黒の……。やめようか。不毛だし」

「そうだな。お互い浅くない傷を抉る必要はないよな……」

 

 混沌としてはいるが、先ほどのような重苦しさは欠片もない明るい空気。

 ライハという過負荷が一時的にとはいえ消えた反動で、全員が軽い躁状態に入っているのかもしれないと、一歩引いた視線からタクムは考察していた。

 

「まあ、改めてお前らのこと尊敬したわ。前からレベル10を堂々と目指すロータスのことは気合入ってるって評価していたんだけどさ、あたしはあんな奴がいる学校に通う気にはなれねえ。よく登校拒否にならねーな」

 

 吊り橋効果ではないが、ライハという脅威を前に身を寄せ合ったことで心理的な距離が縮まったのだろう。驚くほど胸襟を開いた言葉がニコの口から出てきた。

 ともすれば、不可侵条約を結んだとはいえ赤の王と黒の王という立場の上で有害になりかねない親しさだ。しかしそれを理解した上でも、ハルユキはこれをとても貴重で尊いものだと思いたい。

 少し前の黒雪姫ならばからかいの殻に包んで距離を測っただろうが、今は相互核保有による抑止力の平和状態だ。下手を打てば手痛いでは済まない反撃が飛んでくる。素直に苦笑を返していた。

 

「ああ見えて、身内には甘いやつなんだよ」

「身内? あんなのでも仲間意識があるってのか?」

「あんなのだからこそ、だろうな。妙にごねたもの、おろらくは同盟相手であるネガ・ネビュラスが背負うデメリットを極力減らそうとした結果だろう」

「そのためにあたしを挑発して首を絞めさせたってのか? 狂ってんな」

「まったく否定できないな。敵に回せば身の破滅だが、味方にしてもこのありさまだ」

「……絶対に関わり合いになるなって言われた意味が、ようやく理解できてきた気がするぜ」

 

 当人がこの場にいないのをいいことに言いたい放題である。しかし、聞いているハルユキとしても否定できる要素があまりない。

 ふと、ガチャン、と玄関でドアが開く音がした気がした。このマンションは、というかニューロリンカーが国民に一人一台普及したときから、新しく建築される住居はたいてい電子式のオートロックである。

 ニコのような特殊な例を除き、部外者が勝手に入ってこれるわけがないのだが、ハルユキは黒雪姫にニコ、タクムまでが動きを止めていることに気づく。

 

「ただいまー」

「お、おじゃまします! ですっ!」

 

 彼女に常識を期待するだけ無駄だった。リビングに堂々と入ってくるライハと、その後ろにちょこちょこ付いてくる小さな少女を視界に収めながら、いっそハルユキはすがすがしい気さえしてくる。

 

「何がただいまだ。ここはお前の家じゃない」

 

 さすがの黒雪姫もツッコミどころがズレていた。そもそも、ライハが出て行ってから五分も経過していない。クロム・ディザスターの動きに左右される計画である以上、行動が早ければ早いほど望ましいことは違いないのだが、どこに少女を待たせていたのかすごく気になった。

 まさか身内に甘いライハが、この寒空の中に小学校三年生の女の子一人だけで放置するとは思えない。

 ソーシャルネットで日本は監視社会と化しているが、カメラの死角はどこにでもあるし、どの時代でも平等に湧いて出る後先考えない馬鹿に抑止力は通用しない。三か月前の荒谷のように、動物に近いやつらを止めることができるのは純粋な暴力だけだ。それを常に弱者であり被害者であるライハが理解していないとは考えられない。

 ハルユキの視線に気づいたライハが、にこっと笑った。髪形が普段と違うこともあり、無駄な美少女度が普段の三割増しだった。ハルユキは反射的に目を逸らした。

 

「ん、家の鍵か? さっきニコ嬢に詰め寄った時に、こっそり掏り取ったのじゃよ。マスターキーもどきが手に入ったのは出来過ぎじゃったが」

 

 一瞬物理的な話かと思ったが、マテリアルキーが主流だったのは四半世紀近く前の話である。すぐにニューロリンカーにハッキングを仕掛けたのだと気づいた。あそこまで取り乱していれば、その裏でハッキングが進行していてもなかなか気づけまい。

 しかし――

 

「ライハ先輩が、まさか赤の王のファイアウォールを抜けるようなウィザード級ハッカーだったとは知りませんでしたよ」

 

 そう、タクムの言う通り、すごく違和感がある。隙間隙間で妙な器用さを発揮するライハだが、今の世の中ならかなり役立つ分野で、いわばプラスの領域で実力者だというのはあり得ない気がする。物理的なスリならすごくイメージが合うのだが。

 案の定、ライハはあっさり種明かしした。

 

「なあに、今回の事件に介入すると決めた時に、こんなこともあろうかと購入しておいたプログラムのひとつを起動させただけじゃよ。銃を構えて命中させるのは技術が必要じゃが、設置された引き金を引くだけならバカにもできる」

 

 今度はどんなことを想定していて、いったい何を、どこから、どれだけ購入したのかとツッコミどころが満載になったが、納得はあっさりできた。そのおかげで、ハルユキはユキカゼ少女をどこに待たせていたのかという疑問をさっぱり忘れてしまったけれども。

 中学生組が何とも言えない緊張感の中で顔を突き合わせている間に、小学生組もおずおずと再開の交流を始めていた。

 

「ゆき、ちゃん……」

「……おひさしぶりです、ニコちゃん」

 

 制服の上にふわふわの白いファーコートを纏い、ケモミミ付きニット帽を被った少女はぎこちなく、しかしその内に偽りも曇りもない親愛を込めてニコに笑いかける。

 可愛らしい少女だった。チユリを猫科の活発な可愛らしさとするなら、彼女はハムスターのような庇護欲を誘う可愛らしさ。ニコより二つも学年が違うためか、彼女より一回り小柄なのでなおさらその印象が強くなる。

 

「帰って、きてたんだ」

「はい、今度はおじさん……パパの弟さんに引き取られて、ひと月前にまた東京に引っ越してきました。

 ニコちゃんも、バーストリンカーだったんですね。もしかして、親はひいくん?」

「……っ」

 

 ハルユキたちに見せていた赤の王とも、ライハに強さの鎧をはぎ取られて晒した弱々しい子供とも違う、小学生としてのニコ。友達に見せる顔がそこにあった。

 びくりと怯えるような表情をするニコに、ユキカゼの方も慌てて言葉を続ける。

 

「あ、ううん。責めてるわけじゃないんです。ひいくんが雪風じゃなくてニコちゃんを選んだのは当然のことだと思います」

「……」

「それよりも、聞きました。ひいくんが、災禍の鎧っていう化け物に食べられちゃったって。ひいくんの所属していたプロミネンスっていう軍団(レギオン)が、不可侵条約に従ってひいくんを粛清しようとしてるってことも……」

「…………」

「赤の王さまには悪いけど、雪風、何も知らない人に義務的に、作業的にひいくんを粛清してほしくなんてないです。ルールってことはわかっていても、ひいくんが何を想ってそんな暴挙に及んだのか、その理由さえ聞かれずにただ条約だからと処刑されるのは嫌です。

 でも、加速世界が存続するためには、ひいくんの処刑が必要不可欠っていうのはもうわかっているから、せめて、ひいくんの遺言は友達であった雪風が聞きたいと思って……。ニコちゃんも、そうなんでしょう?」

「………………」

 

 ニコは何も答えず、誠実に、切実に思いを告げるユキカゼの言葉を聞けば聞くほど傷ついていくようにハルユキには見えた。

 どんどん悪くなっていく空気にも、いろんな場所に痛い沈黙にもくじけず切々と説いていたユキカゼであったが、ついに限界が来たのか涙目になってライハの方を向く。

 

「ううー、ししょおー」

「あいあい、あとは儂に任せておけ。おぬしはネガ・ネビュラスの方々に自己紹介しておきなさい」

 

 慈愛の表情を浮かべユキカゼに近寄り、頭を撫でてやっているライハを見ながら、黒雪姫が表情を変えずに小声で吐き捨てた。

 

「下種が」

「ひいっ!?」

 

 自分が言われたわけではないのにお腹が痛くなりそうな嫌悪に満ちた声に、びくっとハルユキが身を強張らせるのを見て、黒雪姫が表情を苦笑に変える。

 

「そんなに怖がらなくてもいいだろう? ライハの悪意に満ちた情報操作に虫唾が走っただけさ」

「……?」

「わからないという顔をしているな。ぜひともそのままのキミでいてくれ。ハルユキ君は私の最大の癒しで最後のオアシスなんだから。

 つまりだな、あの子はニコがチェリー・ルークの子だということは知っていても、彼女が赤の王、スカーレット・レインだということは知らないんだ。さっきまでの私たちとちょうど反対だな。

 おそらく当人以外で最初から把握していたのはライハのみ。ニコが自分の親を、レギオンを守るためにその手で処刑せねばならないということをな。おそらく今の小娘の中では、あの子の無垢な言葉が強い自責の念となって突き刺さっていることだろう」

「……っ」

 

 チェリー・ルークがニコの親。そのチェリーが災禍の鎧に手を出してしまった背景に、ニコことスカーレット・レインが関係しているであろうことは想像に難くない。

 ニコが五代目クロム・ディザスターの名を告げた時の、ひどく掠れた声を思い出す。

 どんな思いだったのだろう。どんな思いなのだろう。

 レギオンマスターになってから少しでも大切な『親』のことを気にかけていれば、この未来は防げたのではないか。

 純粋に自分たちを思う友の声はそれらのIFと、親をこの手にかける未来を否応なしに直視させ、ニコの心をずたずたに切り刻んでいるに違いない。信頼の思いは、それが曇りなければ曇りないほど、応えられない自分に対する鋭い刃となるから。

 

「ほら、そんな顔をするな。あの子の前では表情を取り繕え」

 

 痛いほどの後悔と自責の念を共感できたハルユキは涙ぐみそうになったが、顔中に力を入れて歪みそうになる表情を抑える。

 自分はのん気なバーストリンカーだ。何かに立ち向かうこともなく、困難に挑戦することもなく、のほほんと今までを生きてきた。そんな自分が、たとえひとかけらでも王の重責を理解できるだなんて、ふざけたことを言ってはいけない。

 それでも情けないことにユキカゼが目の前まで来たときは眉尻が滲んでいたが、ユキカゼもユキカゼで自分の感情を整理するのに精いっぱいであったので、幸い気づかれることはなかった。

 

「松乃木学園初等部三年、陽炎雪風ですっ。よろしくお願いします!」

 

 ぐしぐしと顔をぬぐったあと、あどけない雰囲気に似つかわしくない見事な敬礼を披露して自己紹介したユキカゼに、ハルユキも思わず背筋を伸ばして見様見真似の敬礼を返した。

 

「は、はいっ、梅郷中学校二年、有田春幸ですっ」

「黛拓武。よろしくね」

「ン、黒雪姫だ。よろしく頼む」

 

 洗練されたユキカゼの敬礼と、ゆるゆるでぎこちないハルユキの敬礼を見比べたあと、黒雪姫はフッと表情を緩めた。

 

「見事なものだ。その敬礼はライハに仕込まれたのか?」

 

 その反応は驚くほどに顕著だった。

 さっとユキカゼの顔が蒼白になる。

 

「こ、これは……その……」

 

 かたかたと細かく身を震わせるその様子は、どう見ても恐怖だった。怪訝に思う間もなく、ニコに何やら囁いていたライハからフォローが入る。

 

「雪風や、言ったであろう? バーストリンカーはある意味で儂らと同じ、外れたモノたちの集まりじゃ。加速世界は奇人変人魑魅魍魎の巣窟。

 目を見開いて現実を直視せよ。この場には、どこで覚えたのか自分でも定かでない、旧日本海軍式の敬礼を見事に決める小学生を見たところで、眉をひそめるような人間はおらぬよ」

 

 その途端にユキカゼの震えがピタリと止まった。恐る恐るハルユキたちの表情をうかがう少女を見ながら、話によればたった一か月しかない付き合いでここまで信頼を勝ち取っているライハに、驚きとも納得ともつかない感情をハルユキは抱く。

 満たされている人間には蛇蝎のごとく嫌われるが、欠落を抱えている人間にとってライハの隣はとても安心できるのだ。あれほど幼い少女ならばなおさらだろう。

 やがて、自分の恐れるものがそこにないと納得したのかユキカゼは肩の力を抜くと、照れ笑いを浮かべてみせた。

 

「失礼しました。雪風はときどき、焦ったり興奮したりすると、自分でもよくわかんない行動をしたり言っちゃったりするんです」

「いや、構わない。こちらこそすまなかったな。不用意なことを聞いたようだ」

「い、いえっ、そんな、黒雪姫さんに謝罪されるほどのことでは……!」

「おーい、話がついたぞ。災禍の鎧討伐計画の最終打ち合わせといこうや」

 

 ライハがニコを引き連れてこちらにやってきた。ニコはもう、赤の王としての仮面を完璧に被っていた。その代わりに、何故かすごく怒っている。メラメラと彼女の背後に燃え盛る真紅の炎が幻視できそうなくらいに。

 

「ふん。あたし、やっぱりあんたのことが大っ嫌いだよ」

「おや、奇遇じゃな。儂もおぬしのことが嫌いじゃ。雪風という伏せ札を使うまで鎧に罅を入れられず、入れて指を突っ込んで剥がしたところでこの短時間で立て直してしまう、いつまでもうじうじと落ち込むようなできないやつらとは対比的な、いかにもエリートな気質が大っ嫌いじゃよ。

 気が合うのう。こんな出会い方でなければ、儂らは仲良しになれたかもしれんな」

「なんでだよ! 絶対にごめんだ」

 

 ライハ相手でも受け応えができる程度には回復したようだと、ハルユキは内心ほっとした。

 人数が増え、ダイニングテーブルでは椅子が追いつかなくなったのでリビングの床に車座になって座る。普段はハルユキ一人だけのマンションの一室に、これだけの人数が集まっているのは何か、とても不思議な感じがする。

 でも、悪くない。人混みは苦手なのに、この集まりの中にいることは一人きりでフルダイブしているときとはまた違った居心地の良さを感じる。ただ、少し女性の比率が高いのが難点だが。

 黒雪姫、ニコ、ライハ、ユキカゼ、タイプは違えど皆、美少女と言って差支えないランクの容貌を持つ彼女たちのおかげで部屋の中が一気に華やかになった気がする。心なし、いい匂いもするような。

 

「さて、とりあえずライハ。お前は知っていることをすべて吐け」

 

 当たり前のような顔をして黒雪姫が議長の立場に立った。さすが現役副生徒会長、人の上に立ち、人に命令する姿がとても様になっている。

 しかし、実際に会議は進行することはなかった。

 

「いや、待て。動きがあった!」

 

 ニコが険しい声をだし、場に緊張が走る。

 

「これは……ブクロ方面だな。今、チェリーのやつが西武池袋方面上りの電車に乗った」

「池袋か、厄介だな……。チッ、予定変更だ。すぐに『上』に上がるぞ。続きはそこでだ」

「勝手に仕切ってんじゃねーよ」

「なんだ、不満があるのか小娘」

「ねえよ。マーブルとユキちゃんはよく知らねーけど、最悪あたしとてめえとクロウだけならエネミーに引っかからず現場に直行できるだろうし、方針に問題はねえ。けど気に入らねーだけだ」

「ふっ、調子が出てきたじゃないか」

「もうっ、ニコちゃんってばまたそんな乱暴な言葉使いしているんですか?」

 

 黒雪姫と好戦的な視線を交えていたニコが、ユキカゼの言葉で途端にしどろもどろになる。

 

「あっ、いや、そのユキちゃんこれは、舐められないようにするハッタリみたいなものだから……」

「そんなことしなくても、黒雪姫さんは相手を見下すような人じゃないと思います」

 

 その光景はハルユキに、いくら技術が発達しようと廃止されない人類の負の遺産、授業参観日を思い出させた。幸か不幸か、ハルユキの家庭は両親ともに仕事が忙しく、来たことは一度としてなかったが、同級生たちの困りながらもどこか嬉しそうな浮ついた空気は覚えている。

 人間は時と場所によって態度を変える。自分より偉い相手にへいこらするというのとは違う。家にいるときは子供としての顔、学校にいるときは生徒としての顔、バイトをしているときは店員としての顔など、無意識的に使い分けているのだ。

 だから、学校にいるときに家の象徴たる親が来たら、統合性が取れなくなって困るわけで。

 ニコの今の顔は、嫌がっていないけどとても困っている、あの時の彼らにとてもよく似ていた。

 

「まあまあ、そこまでにしておけ。あまり口論しておるとやつの狩りが始まってしまうぞ。さてハル坊、無制限中立フィールドへの入り方は知っておるか?」

「は、はいっ」

 

 小学生組を諌めたライハが、急にこちらを向いたのでハルユキは慌てて頷いた。どうして名指しなのだろう。

 

「それはのう。この場で唯一知らんとすれば、それはハル坊だけじゃからよ」

 

 表情を読んだライハがニヤリとして応える。

 ハルユキはちょっぴりムッとした。

 

「そ、そんなことありませんよ。僕だってちゃんと知っています。……行ったことはまだありませんけど」

 

 ちゃんと調べたのだ。三か月前に、ライハが無制限中立フィールドでサドンデスルールを使ってかつて梅郷中にいた三人のバーストリンカーを狩ったことがあると聞いたときから、不安になって。

 

 無制限中立フィールド。

 レベル4以上のバーストリンカーのみが足を踏み入れる権利を持つ、ブレイン・バーストの真なる戦場。

 その世界ではタイムアップもエリアの境界線もなく、ソーシャルカメラの続く限りどこまでも世界が広がっているという。

 しかし、痛覚が通常対戦フィールドの倍に設定されている、フィールドに存在するエネミーは最弱の小獣級でさえレベル7でようやく互角であり、下手に彼らの縄張りに足を踏み入れると無限EKと呼ばれる事態に陥ってしまうなど、数々のリスクが存在する。

 そのため、ハルユキはレベル4になってからも一人で行く勇気が出せず、だからと言って「今日はみんなで無制限中立フィールド行こうぜ!」などと誘うこともできず、今の今まで足を踏み入れる機会はなかった。

 

「ならば重畳。音頭は任せるぞ、黒雪姫や」

 

 そう言ってへらへら笑うライハは、そんなハルユキのすべてを見透かしている気がする。なんとなく顔を上げていることができず、俯くハルユキにちらりと視線をやった後、黒雪姫は背筋を伸ばし凛とした声を出した。

 

「それではカウントを開始するぞ?」

「ちょ、ちょっと待ってください! 切断セーフティはしないんですか!?」

 

 ハルユキは弾かれたように顔を上げた。俯いている場合ではない。

 無限EKや敵対的バーストリンカーに粘着されたときの保険を、かけずに無制限中立フィールドに入ろうというのだから。

 

「けろけろ。ハル坊や、今回の作戦は一発勝負じゃ。見事魔物を狩って凱旋するか、獲物に狩られて死に絶えるかの二つに一つ。とどめを刺す寸前に切断セーフティが働いて強制離脱なんて、笑い話にしかならんじゃろ? 覚悟を決めよ」

「そういうこった。ビビッて遅れたりしたら後でぶちかますからな?」

 

 ライハがへらへら笑い、ニコが乱暴に吐き捨てる。そのニコを悲しそうな目で見て怯ませているユキカゼも、冷静に黒雪姫のカウントを待ち続けるタクムも、異論はないようだ。

 

「五、四、三、二、一――」

 

 黒雪姫のカウントが始まってしまい、ハルユキはこれが初めてなのにと泣きそうになりながら腹を括る。

 

『アンリミテッド・バースト!』

 

 六人分の声が唱和するのと同時に、慣れ親しんだ加速の音が世界を引き裂いた。

 

 




底篇に続く

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