大理石の胎児は加速世界で眠る   作:唐野葉子

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破篇

 

 時は少し遡る。

 

 

 

 イエロー・レディオが再稼働を始めたのは八発目の狙撃音が消えたときだった。

 

「ふ、ふふふ。うく、くっくっくっ……」

 

 突然肩を震わせて笑い始めた黄の王に、黒雪姫は警戒レベルを引き上げる。

 他の誰かなら精神のバランスを崩して躁状態にでも入ったのかと考えただろうが、相手は加速世界に『黄色イコール間接攻撃』の認識を広めた張本人だ。精神的な打たれ強さは純色の七王の中でも上位に入ると黒雪姫は評価している。

 

「くっくくうっ、ヒヒヒ、ヘラヘラ、ウフフフ、アハハハハッ! 

 ……ふう、こうなりましたか。なるほどねぇ。今回の咬ませ犬は私だったというわけですか。なるほどなるほど」

 

 案の定、笑うのをやめたレディオの声はひどく冷静だった。演技の鞘が極端に薄くなり、その芯に存在する酷薄な刀身が顔を覗かせている。

 

「ほう、怒らないのか?」

「ロータスさん、貴女は誤解なさっているようだ。策士に一番必要な資質は、間違いを許さない神算鬼謀ではありません。賽を振った結果がどのようなものであれ、笑って次に繋げるしたたかさです。それこそ、出た目が最悪であろうが、最低であろうがね」

 

 そう言って肩をすくめるイエロー・レディオからは演技臭さが薄れたのにも関わらず、ますます内心が読めなくなった。これでいて五十人も平日に掻き集められるほど人望があり、相応に仲間想いな男だ。

 背後で七面鳥のように撃ち落とされている仲間が見えていないはずがないのに、はらわたが煮えくり返っているような様子は微塵もない。

 夜目にも鮮やかな黄色の道化師はむしろ感心したように戦場を縦横無尽に駆け巡る白い死神を目で追った。

 

「いやはや、それにしてもここまでの駒を彼女が用意してくるとは想定の範囲外でしたよ。いったいどこであのような化け物を拾ってきたのやら」

 

 それに関しては黒雪姫も、驚嘆が主成分のわずかな畏怖と多分の呆れで構成された何とも言い難い複雑な感情を抱いていた。

 ライハの話が嘘でなければ、ユキカゼは培養器育成(インキュベーター・レベリング)のはずなのだ。

 

 培養器育成(インキュベーター・レベリング)とは六王の間で結ばれた不可侵協定により生まれた、加速世界の歪みの一つである。

 

 要は直結対戦などで一日一回の制限を外し、熟練者が無制限中立フィールドでエネミー狩りができない新米に対して莫大なバーストポイントを譲渡するレベリング方法なのだが、かつては対戦に対して誇りを抱くバーストリンカーたちからは唾棄と嘲笑の対象になる行為だった。せいぜい、レベルアップ時のマージンを確保せず失敗した子に対して親が行う一時的な救済措置として黙認されていた程度である。

 

 しかし、今では大手レギオンはほぼ例外なくこの培養器育成(インキュベーター・レベリング)を行っている。

 

 停滞した今の加速世界では、見どころのある新人を少しでも早くレベル4以上の即戦力に仕立て上げてエネミー狩りに参加させなければ、ポイント供給が追い付かないのだ。

 たしかに不可侵条約によってポイント全損の危険性こそ以前の加速世界より減ったものの、エネミー狩りで稼いだポイントを、あたかも雛に餌を与える親鳥のように子へと与える親の姿は醜悪極まると、黒雪姫は嫌悪する。

 止むを得ない事情があるのならともかく、この生温い馴れ合いは先に進むことを拒んだ王の臆病さと我儘に起因するものだ。

 ならばそれを壊すことをためらうまい。たとえその影響で、どれほどの血と涙が流れようとも、それを是とする覚悟を黒雪姫は決めたのだ。

 

 ともあれ、古参のバーストリンカーたちに嫌悪されながらも必要悪としてまかり通っている培養器育成(インキュベーター・レベリング)だが、実はバーストリンカーのプライドに抵触する以外にも大きな弊害が二つ存在し、水面下で問題となっている。

 

 一つは、引き分け(ドロー)申請はあっても降参(リザイン)は存在しないというゲームシステムに起因するもの。膨大なポイントを移行しようと思えば、対戦ごとに与える側がわざとダメージを受け続ける必要性が生まれる。

 何十、下手すれば何百何千という回数を一方的に傷つけ、傷つけられる行為は、バーストリンカーである限り子供という頸木からは逃れられない両者に極めて強い精神的負担(ストレス)を強いるのだ。

 ただでさえブレイン・バーストには知られざる深い闇が存在しているのに、むやみにそれに近づかんとする行為はその闇を知る者たちにとって好ましい状況ではない。歯がゆいのはその闇を知るのは王とその側近をはじめとした一握りであり、大半は知らずに地雷原へと足を踏み入れているということだ。

 もっとも、ストレスの危険性は誰が見ても明らかなものなので、通常の培養器育成(インキュベーター・レベリング)ではポイントの兼ね合いもあり、複数人で一人を請け負い、数か月単位で育成計画が練られる。これでも通常対戦でレベルアップするのに比べたら飛躍的な速度が確立できるし、これくらいしなければ当事者たちの精神的健康が確保できない。

 

 ラジオ体操と同じくらい気負いなく自分の首を掻き切る場面が安易に想像でき、ポイントの貯蓄も幾人も全損に追い込んできたため十分なライハでなければ、いくら培養器育成(インキュベーター・レベリング)とはいえこれほど短期間での促成栽培は不可能だっただろう。

 それに食らいついた、ユキカゼという少女の心の強さに、黒雪姫は素直な敬意を表す。才能などではありえない、単純な意志の強さがなければ成しえない偉業だ。願わくば不可逆な段階まで心に傷を負っていないことを祈るばかりである。

 

 もう一つの弊害は、これはパワーレベリングに共通した問題点で、プレイヤースキルが磨かれにくいということだ。

 もちろんレベル4以降になった後、担当者たちは新人のエネミー狩りに同伴しながらアフターケアを施すのだが、所詮は焼け石に水。強力なライバルたちとギリギリの戦いでしのぎを削って得た経験とは比べものにならない。

 エネミー狩りも、そのターゲットとなるのは攻撃パターンが限定された小獣(レッサー)級や野獣(ワイルド)級が多く、結局高度なプレイヤースキルを磨く機会を奪われた彼らは、上にいけずに足踏みを続ける羽目になるということが多々存在する。

 

 黒雪姫は、猛スピードで滑走しながら銃撃を余さず当てるという神業を演じる白い影を見やった。

 たしかに、その動きには荒さが見受けられる。常に最適かつ最短距離を動きすぎて、フェイントが少ないのだ。あのような乱戦の中ならば類比なき強さを発揮することもできようが、一対一の決闘では経験不足が足を引っ張るだろう。

 しかし一方で、あの動きの中には、特に防御に置いて対人戦を積み上げた特有の『におい』がする。

 ただ大人数を相手に移動しながら銃撃を当てる訓練なら、冷たく無機質なエネミー相手でも可能だろう。小獣級や野獣級は群れていることが多いから、デュアルアバターとの基礎スペック差に目を瞑れば練習台としては最適だ。

 だが彼女の動きには、圧倒的熱量を持った生命の炎にその身を晒し、焼かれながらも鍛え上げた技術の片鱗がそこかしこに見受けられるのだ。

 ライハではない。彼女は対人戦経験値こそ相当なものだが、それを相手に伝えられるような才能を持たない。それにあの動きは一人相手に訓練を積み重ねたものではない。多種多様な相手に研磨された、いまだ未熟ながらも百戦錬磨とその性質を同じくするものだ。

 ライハは自分の知らない人脈を持っているのか。得体のしれない情報網の存在は前々から感じていたが、そこに加速世界の武力を持った集団も存在していたのか。

 脳裏をよぎった疑問を頭を一つ振って追い払い、黒雪姫は気持ちを切り替えた。

 今重要なのはライハの弟子とスカーレット・レインの活躍で、このままいけばクリプト・コズミック・サーカスは十分もしないうちに全滅するだろうということだ。

 イエロー・レディオはなぜかくるくるとバトンを弄んだまま動こうとしない。

 

「どうした。動かないのか? 貴様の大切な配下が現在進行形で死んでるぞ」

「ええ、大切な誇るべき配下です。彼らの助けを求める声が聞こえますか? いいえ、聞えません。彼らは自分で戦おうとしているのですよ。そこに上から口を挟もうなどと、恥知らずなマネはできないでしょう?」

「ふん、どの口がほざくのやら……」

「ウフフ。まあ、獣に噛みつかれたときは引いても傷を深くするだけですから。ここまでがっぷり口の中に入ってしまえば、もうこちらとしては押し込むしかないというわけでして、ハイ。それが一番の理由というのは確かですよ。駒を相手にしても仕方ありませんからねぇ」

 

 つまり、行動を起こすのはライハが現れてからということだ。鵜呑みにするのは危険だが、今すぐに剣戟を再開ということにはならないのは確かだろう。

 好機だ。

 黒雪姫は仮想の肺に湿った空気を取り込むと、一つにまとめて吐き出した。

 いざ口に出そうとすると心が怯みそうになる。克服したように見せかけて、その実は取り繕って強がっているだけなのだから。

 誤魔化してこの場はやり過ごしてしまおうという囁きを切り捨て、代わりに脳裏に思い浮かべるのは、ぷよぷよでコロコロとした一つ年下の少年の姿。どれほど傷ついても空を見上げることを忘れなかった彼の翼は、黒雪姫を再びこの場所まで連れてきてくれた。

 彼はまっすぐに自分を見てくれている。あるいはその瞳に込められているものは憧憬が主で、彼女が望んでいる感情では無いかもしれない。

 それでも、今は彼は自分の恋人なのだ。自分が彼の彼女なのだ。

 彼の眼差しに恥じるような人間だけにはなるまい。

 その決意を熱に変えて、黒雪姫は口を開いた。

 

「――すまなかったな、レディオ」

「謝るくらいなら最初からやらないで下さいよ。……で、何に対する謝罪なんです?」

 

 飄々とした態度でレディオは応じた。予想していた中の最悪でなかったことに少し安堵しながら、黒雪姫はマスクの下の仮想の唇を動かす。

 

「あのとき、レッド・ライダーから騙し討ちで……首を刎ねたことだ。不使用(つかわず)の誓いを立てたはずの、あの力を使ってまで、な……。

 『せめて真っ向からの一騎打ちの結果であれば、納得して舞台を降りることが、彼にならばできたでしょうに』、だったか。あれはライダーの代弁ではない。()()()()()()()()()()()?」

「…………」

 

 レディオの返答は無言だった。知り合って以来、一度もなかったリアクションに黒雪姫は自分の推測が正しかったことを確信する。

 いつものような軽口をたたかないのは彼のなけなしの誠意の表れか、それともその余裕がないのか。

 

「二年前のあの日、私は友を裏切っただけではない。レッド・ライダーから加速世界を奪い、パープル・ソーンから最愛の恋人を奪い、ブルー・ナイトから親友を奪っただけではなく、純色の七王という集団の中から、かけがえのない一人を、誰もが納得できない方法で永遠に奪ってしまったんだ」

 

 そんな単純明快なことを、あいつに指摘されるまで気づくことができなかった。

 

 自嘲で彩られたその言葉は飲み込んだ。

 レッド・ライダーが自分に抱いているであろう恨みと怒りを想像して夜中に震えたことがある。ハルユキという初恋の人ができて、パープル・ソーンが喪ったものの価値を体感して身を引き裂かれるような痛みを覚えたことがある。ブルー・ナイトが見せた激怒に納得し、夢の中で断罪されたことも一度や二度ではない。

 しかし、あの場にいた七人の子供たちの中から、たった一人の『気のいいやつ』を奪ってしまったのだということは、理解しているつもりでわかっていなかった。

 罪悪感と名付けた自分自身を見つめるのに精いっぱいで、本当に傷つけられた相手を直視していなかった。

 

 ――おぬし、ちと自分勝手すぎるのではないか?

 

 琥珀色に光る瞳に見つめられながら指摘されたその言葉に、心の底から納得してしまったとき、黒雪姫は熱を出して寝込んだ。

 寄りにもよってライハなどに指摘されてしまった自分が、あまりにもあんまりすぎて。

 ただ、体調が戻るまでの三日間、学校を休んでまで誰もいないはずの黒雪姫の自宅に押しかけ、看病してくれたことは素直に感謝している。弱っているところを助けてくれたのに、それを不本意だの気持ち悪いだの文句を言うのはバーストリンカーとか黒の王以前に人間としてダメだと思うから。

 もっとも、その後半年に渡って居座られたことにはさすがに閉口したが。

 進級して何気に一番嬉しかったことは、ライハとの共同生活から解放されたことかもしれない。

 

「……謝らないんじゃなかったんですかぁ?」

 

 嘲笑交じりのレディオのその言葉は、二年間ライハと付き合ってきた黒雪姫にはテクスチャが透けて見える程度に荒い仕上がりだった。

 

「私が目指しているのはレベル10およびゲームクリアだ。あれは、間違ってもゲームをプレイするスタイルではなかった。ゲームクリアの過程で発生する被害者には謝罪しないが、ゲームを楽しむという大前提を覆すような悪質なプレイは反省して然るべきだ。違うか?」

「……やれやれ、アナタ、二年前はそんな口が回るようなキャラじゃなかったでしょうに。演説は得意だけど、弁舌はろくに回らないお子様はどこに行かれたんでしょうねぇ」

 

 レディオは大仰にため息をつくと、ピッと右手の人差し指を立てた。一応は必殺技のモーションかと警戒したものの、違うということは直感的に理解していた。

 

「だいたいね、迷惑なんですよ。貴女もライダーも。華がありすぎです。私たちのような日陰者には眩しすぎます。

 特にライダーさんなんて、熱血で暑苦しくて、どんな逆境も跳ね返す実力と精神力があって、仲間想いで人望があって、可愛らしい恋人までいやがってもうフィクションの世界に帰れと言いたくなるような典型的な勝ち組でして、私がどんな演目を描いてもそれが成功しようが失敗しようが、最終的にどちらも笑顔で幕を下ろせるような、そんな意味不明な方でして……」

 

 いなくなられたときは、さみしかったですねぇ。

 

 消え入るような声でこぼれたその一言は、黒雪姫が初めて見る一片の演技も偽りもないイエロー・レディオの心情の発露に思えた。

 覚悟していたのに、予想できていたはずなのに、塞がることのない傷口が開いて血が滲む。

 逃げてはいけない。これが自分の為した罪の結果なのだから。償う気がないのなら、せめて投げ出してはならない。

 そう思っていても、このとき少しだけ、ライハの気持ちがわかった気がした。

 背負いきれないマイナスというのは、きっとこういうものなのだ。

 でも、それらの痛みも重荷も連れていくと決めたのだ。絶対に自分は潰れないとあの時に決めた。誓うとか、覚悟とかではない。決めた。一つの法則として定めた。

 だから黒雪姫は潰れない。己の刃が生み出したすべての流血を呑み込んで、あの高みを目指して歩み続け、至ってやる。隣に彼がいるなら、それができると今なら思えるから。

 

 イエロー・レディオはくるっとその場で右回りにターンする。無数の金属製の円環を連ねて構築された二股帽子がしゃらしゃらと涼やかな音を奏でた。

 ビシッと一回転して華麗なポーズを決めたそこにいたのは、もう普段通りの道化師化粧を施した純色の七王が一人、黄の王だ。

 

「さて、お聞かせ願えませんか黒の王よ」

 

 その声には多分に装飾された揶揄の色があった。演目を演じる団長として、彼はクライマックスに相応しい気迫を滑稽な衣で飾り付けて舞い踊る。

 

「客観的にご覧になった感想はどうです? 他の王の首を狩ろうと、絆を踏みにじり、痛みを嘲笑い、手段を択ばず他を顧みず邁進する者を外から見た感想はどうでしたか? 果たしてそれは、嘆く者たちを量産してまで追い求めるような価値があるものに思えましたか?」

「お前……まさか、そのために……?」

「うふふ、さて、どうでしょうねぇ? ただ、仮にここで私の首が討たれたところで我々クリプト・コズミック・サーカスの演目は終わりませんよ。残してきた四転王(フォー・オブ・ア・カインド)の皆様が、私よりもずっとうまくカーニバルを続けてくれるでしょうから」

 

 黒雪姫も疑問に思わないでもなかったのだ。

 第一期ネガ・ネビュラスに四元素(エレメント)がいたように、黄の軍団クリプト・コズミック・サーカスにもサブリーダーが四人存在する。彼らはその役割からそれぞれトランプのスートが割り当てられ、攻撃(スペード)防御(クラブ)支援(ハート)生産(ダイヤ)の四人を合わせて四転王(フォー・オブ・ア・カインド)と呼ばれており、そこに黄の王(ジョーカー)が加わると五嫌帝(ファイブカード)とも呼ばれる。というか、そう自称している。

 その四転王(フォー・オブ・ア・カインド)が一人でもこの場にいれば、こうまで脆くクリプト・コズミック・サーカスの面々が崩れることはなかっただろう。所詮こちらは少人数である以上、いくら王とはいえ正攻法では勝ち目は薄いのだから。

 おかげで彼ら相手に練っていた奇策が無駄になってしまった。それどころか、この場には名の知れた黄のレギオンのハイランカーさえ数えるほどしかいない。

 学生ゆえに、予定が合わないというくだらなくも致命的な事態でもあったのかと邪推していたが……。

 

 もちろん、鵜呑みにする気はさらさら無い。黒雪姫の愚行を気づかせるために自分とレギオンを捧げるような聖人君子な男でないことは百も承知だ。

 

「こんな過去に縛られた演目に、未来を担う人材をつぎ込むわけにはいかないでしょう? この場にいるのは皆、私の我儘に付き合ってくれた愛すべき愚かな団員です。

 過去から学ぶことは大切ですけどね、それはサーカスのお仕事じゃありません。そんな小難しいことは頭でっかちのエリートどもにやらせていればいいんです。サーカスのお仕事は、未来に生きる子供たちを笑顔にすること。常に目先の楽しいことばかり考えて、ただそれだけで、それでいいんですよ」

 

 だが、二人の王と敵対するとわかっていたこの場に、この慎重な男が最も信頼する切り札(フォー・オブ・ア・カインド)を一人も連れてこなかったのも純然たる事実だ。

 

 ――世間などという言い方をするな。おるのはただの個人の群れじゃ。誰にでも悪意を向ける者がおらんなら、誰にでも善良な者もおらん。

 嫌なやつと思うなら、それはおぬしがそやつに嫌な顔をさせただけの話じゃ。

 

 いつだったか、ライハに言われたことを思い出す。あまり納得していない言葉だ。ライハの言うことを鵜呑みにするなどと皆目あり得ないが、これはその中でも聞いたときに特に納得いかなかったことを覚えている。

 人間を個人としてみれば信頼に足る人間は存在するということを、黒雪姫は十四年の人生で学んだが、反面世間という群体はとても残酷で非情なものだというのも、同じように経験で学んだ。それこそ異世界のもう一人の自分が、四肢を鋭い刃で固めてしまうほどに。

 

 でも、あのときやつが言いたかったのはこういうことなのかな、と黒雪姫は今になって思えた。

 誤解していたとは言わない。ただ、理解していたと思っていたのも間違いだったのだろう。

 自分はイエロー・レディオのこういう側面なんて、想像したことさえなかったのだから。

 相変わらず好きにはなれない相手だ。ただ、認めることはできる。今なら敬意を払える気がする

 

 ……もしかすると『彼女』にも、自分が見えていないだけでそういうものがあったのだろうか?

 それに気づくことができれば、何かが変わっていたのだろうか?

 

 湧き出しかけた想いを黒雪姫は意図的に刈り取った。『彼女』への憎悪は今の自分を支える重要な柱の一つだ。これで偉そうにハルユキたちに説法を解くなんて自分でも聞いて呆れるが、今これを失うわけにはいかない。

 

「で、客観的に見た感想をお聞かせ願えませんかねぇ?」

 

 厭味ったらしいその声も、敬意というフィルターをかければ受け入れられる、かもしれない。やはり少し、いやけっこう腹は立つが。

 

「……なあレディオ。お前はあと何年この世界が続くと思う?」

「おやぁ、話題転換に逃げるんですかぁ?」

「回答に必要だから聞いたまでだ。答える気がないのなら黙って聞け」

「くっくっく……」

 

 神経を逆撫でするような笑い声を漏らしながらも、言われた通りレディオは黙って聞く姿勢を取った。嫌味なやつだがその辺りは礼儀正しい。生徒会の業務をやっていれば時折出くわすような、大声を上げて相手の言い分を聞えないようにすればそれで勝ちだと思い込んでいる馬鹿どもとは一線を画している。

 その辺りも白と灰のまだら髪の自称『仲良し』との類似を感じながら、黒雪姫は彼女とその話をした時のことを思い出していた。

 

「私は長くてもあと五年、すなわち最年長のバーストリンカーが成人を迎えるのがリミットだと考えている」

 

 ――もってあと三年。

 

 ライハはそう即答していた。加速世界への愛着がまったくと言っていいほど存在しない彼女は、その辺りの見極めがかなりシビアだ。バーストリンカー特有の甘い幻想を共有している自分よりも、その評価は信頼に値すると冷徹な黒雪姫の理性は判断している。それを受け入れられるかは、また別の話だが。

 

「お前だって噂は知っているだろう? ブレイン・バースト以外の加速世界の存在を。

 しかしバーストリンカーが現実世界(リアル)で加速を使って活躍したという話はたびたび聞くが、バーストリンカー以外の加速利用者がそのような偉業を成し遂げたという話はまるで耳にしない」

「……噂に踊らされるのですか? 黒の王ともあろうお方が」

「ふん。根拠無用の妄想であることは否定せんよ、今のところはな。オリジネーターどもの口がもっと軽ければわかることも多そうだが……」

 

 イエロー・レディオは馬鹿ではない。むしろかなり頭が回る部類だ。でなければ策士など気取らない。黒雪姫の言わんとしていることはすでに察したようだった。

 

「でも私は半ば確信している。ブレイン・バーストは特別ではないということを。バーストリンカーに加速が使えるのならば、きっと別のプログラムで加速できる存在がいるはすだと。

 いや、過去形で言った方が正確か。おそらくそれらの加速世界は、私たちの知らないところで始まって、すでに終わっているんだ」

 

 気づいたのはいつのころだったか。おそらくは加速世界から離れていた二年の間だ。あまり認めたくないことだが、ライハの影響も大きいだろう。

 ブレイン・バーストというゲームから、製作者の悪意にも似た冷酷な感情を感じるようになったのは。

 

 ――あの世界はな、できている自分が優れているのではなく、できないやつらが劣っているのだと切り捨てる、エリート特有の悪臭がするのじゃよ。ゆえに好かん。

 

 その言葉を理解できるようになったのはいつだったか。

 

「お前だってまさかブレイン・バーストの製作者の正体が清廉潔白で善意溢れる天才プログラマーで、ある日突然子供たちに季節外れのクリスマスプレゼントを配って回っただなんて夢想していたわけじゃあるまい。むしろお前は臆病なまでに相手の悪意を推し量る男だものな。

 きっと彼ないし彼女には何らかの目的があり、私たちはそれに付き合わされているだけなんだ」

 

 そして、その目的にそぐわなくなった他の加速世界はGMの手によって打ち切られたのだ。

 

 その先は言葉には出さずとも、イエロー・レディオなら理解している確信があった。

 

「……いたずらに停滞させたところで、逆に数ある加速世界の一つでしかないブレイン・バーストというゲームの寿命を縮めるようなもの。だから貴女が汚れ役を引き受け、再びこの世界に波乱の熱をもたらした。まさかそう言いたいのですか?」

「それこそまさかだ。別に私は実験に付き合わされたそのことに文句を言いたいわけではないさ。製作者に思うところが無いわけではないが、この世界から数えきれないほどの恩恵は受けたし、彼ないし彼女が加速というツールを使って目指したその先を、私も知りたいと思う」

「ならば、いずれ終わってしまうものならばこの手で幕を引きたいとでも?」

「それも違う。見方によっては近いかもしれんが」

 

 思い出す。初めて自分が肯定された瞬間。自分自身でさえ罪深いものだと嫌悪していたのに、あっさりと当然のように抱き留めてくれた、キラキラと輝く宝物そのものの記憶。

 それは何人たりとも冒せない神聖な場所。それはたとえ過負荷(マイナス)相手であろうと例外ではない。

 

「『どんなゲームでもエンディングを見るのを放棄して、永遠にその直前のマップをうろつきたいなんて奴がいたら、そいつはただのアホだ。上のレベルがあるのなら目指すのは当然。だって、そのためにブレイン・バーストは存在するのだからな』」

 

 イエロー・レディオのマスクの奥できょとんとした光が瞬き、黒雪姫は初めて彼からはっきりと一本取れた気がした。

 かつて愛しい人が自分に投げかけ、救ってくれた言葉は、加速世界で幾星霜を過ごした王の一人にも、いや加速世界にどっぷり浸かった王だからこそ意表を突く、確かな説得力があったらしい。

 

「ゲームのエンディングを目指すのは正しいことで、当たり前のことなんだ。ブレイン・バーストの世界はあまりにも巨大過ぎて、そんなごく当然のことを見失ってしまう者が多すぎた。

 だから私はレベル10を目指すし、その先のエンディングも目指すよ。この加速世界がGMに見捨てられていない以上、きっとそこに製作者が目指した何かもあるはずだからな。制限時間があるというのなら、タイムリミットが来るまでに必ずたどり着いてみせる。その結果として終焉が来ようと、それは遅いか速いかの違いでしかないさ。どちらだろうが同じことだ」

 

 轟っ、とブラック・ロータスの身体から闇夜の中でもなお黒い光が立ち昇る。内側から弾けるような熱を仮想の血管に満たし、全身から青紫の炎を噴き上げながら、黒雪姫は湧き上がるすべての想いを言葉にせんと声を張り上げた。

 

「客観的に見た感想だと? 腹立たしいに決まっているだろうが。数少ない()()()を横合いから薄汚い手で掠め取ろうとしやがって。

 だがな、お前の取った手段は何一つとして否定しないよ。お前の策はすべて正々堂々真正面から裏をかいた卑怯な手だ。敵対プレイヤーを罠にはめるのも、手強い相手を大勢で囲むのも、ゲームを楽しむうえで何一つ否定されるものではない。二年前の私には理解できなかったし、今も好まざる手法であることは否定せんがな。

 ……災禍の鎧をチェリー・ルークを使って復活させた一件だけはバーストリンカーとして認められるものではないが、それの犯人はお前ではないだろうし、な」

 

 ニコやハルユキたちの手前、これから衝突が想定される敵であるイエロー・レディオにすべての罪を押し付けたが、先にも黒雪姫自身が口にした通り、彼は臆病なほどに慎重な男だ。それは彼個人の性質というより、策士という人間に共通した性なのかもしれない。

 

 そんな人間が、災禍の鎧という不確定要素の塊のような存在を、二年半も自分のストレージの中にしまい続けるだろうか?

 

 誰かに預けておいた? どこかに隠しておいた?

 それこそあり得ない。その正体が負の心意の極地の一つだと知っている王が、それが一時的であれ自分の手の届かないところに置くことなどできるはずがない。

 

 そんないつ爆発するかもわからぬ爆弾を、何食わぬ顔で腹の中に収めて日常生活を数年間も平然と過ごせる、狂気にも似た、あるいはそのものの精神力の強さ。

 七分の一の確率を当然のように引き当てる、選ばれたような引きの強さ。

 

 それに該当する人物を、黒雪姫は今のところ一人だけ知っている。

 

 ふと白と灰のまだら髪が脳裏をよぎったが、あれはベクトルが完全に違う。質としてはあるいは非常に似ているのかもしれないと、感じることは多々あるが。

 

「お前は今回、二人の少女からリークされた情報に従い動いただけだ。違うか?」

 

 返答は、乾いた拍手だった。

 パンパンパンパン、と片手にバトンを持っているのに器用にいい音を立てる黄の王は、笑顔に固定されたマスクの奥で細波のように嘲笑を浮かべる。

 

「いやあ、お見事。相変わらず演説上手は変わっておられないようで安心いたしました。論拠の大半が物的証拠なしの妄想に近いものだという一点に目を瞑れば百点満点を上げましょう」

「ふん、そうか。光栄だと言っておこう」

 

 すでに周囲は拍手が鳴り響くほど静寂が耳を塞いでいる。話し合いの時間が終わりつつあることを、二人とも感じ取っていた。

 イエロー・レディオはどこからともなく大判のハンカチを取り出す。剣戟のさなかにいつの間にか消えていた水玉模様のものだ。彼は見せつけるかのように大仰な動作でそれをロッドに被せると、ばさりと一振りしてハンカチごとロッドを消して見せた。

 相変わらず気に障るしぐさの数々だが、今ならそれが彼の譲れないこだわりなのだろうと受け入れることができる。それよりも、武器を消したことが気になった。発声もなしにアイテムや強化外装を出し入れするのはアビリティの一環と考えれば説明がつくので、そこは問題ではない。

 武装の放棄は、たいてい戦闘の放棄と同義とみなされる。しかし、ここで王ともあろうものが途中で戦いを投げ出すなんて絶対にあり得ない。

 来る。おそらくは切り札を通り越した伏せ札の類であることを予期し、黒雪姫は精神を集中させる。

 

「そろそろ彼女が次の幕に移りそうなのでね。ここで貴女との決着を付けさせていただきますよ」

「ふん、悠長にやらせると思っているのならおめでたい限りだな」

「やらせますよ。貴女なら」

 

 ピエロの釣り目に、邪悪な光が白く輝いた。

 

「出番ですよ、停止信号(シグナルレッド)

 

 止めることは、できただろう。必殺技を発動させないように食らいついた先ほどのように。

 しかし、ある種の予感にかられた黒雪姫は見守ることを選択した。

 レディオの右手に炎がともり、小さく、しかし激しく燃え上がる。一瞬で静まったその炎は、その実鎮火したのではなく圧縮され物質化したのだ。

 その手に握られた真っ赤としか言いようがない色合いの大口径の拳銃を見て、黒雪姫は自分の直感が正しかったことを静かに悟った。

 その銃身には、この距離でも見間違えようのない交差する拳銃の紋章(クロスガンズ・エンブレム)が鮮やかに刻まれていたから。

 

「それは…………」

「二年前の夏。レベル9にのみ適応される特殊サドンデスルールの存在を知った直後に、私はレッド・ライダーにとある注文をしました。『自害用の拳銃を作ってほしい』、とね。

 時を同じくして特殊ルールの存在を知ったライダーは、まるで殺し合いになることを前提としたような私の注文に渋りましたが、最終的には私の演出好きな性格への理解と、『いざという時のために一発の弾丸を胸に抱えておく』ことへのロマンへの共感から、引き受けてくれたのです。

 一発で9erの装甲を撃ち抜ける超高火力、ただし単発式で、有効射程距離は短すぎて護身用としてさえ満足に使えないシロモノ……まあ、そう注文したのは私ですけどね」

 

 くすくすと笑いながらイエロー・レディオは手の中で拳銃を弄ぶ。その鮮やかな手つきは、何度も、何度も、この銃を手に取ってきたのであろう年月を感じさせた。

 実戦ではとても満足に扱えないであろう性能の拳銃を、暇を見つけては幾度となくいじってきたのだろう。まるでお気に入りのトランペットを磨く少年のように。

 

「材料は私持ち、代金も相応のものを支払ったとはいえ、ライダーはいい仕事をしてくれましたよ。ちなみに仕上がり、手渡されたのはあの会議の直前です」

「……っ!」

 

 息を呑む黒雪姫の前で、イエロー・レディオはだらりと力なく両腕を下げる。それはあたかも、西部劇で決闘に臨むガンマンのようだ。

 

「そう、つまりこれは彼の最後の作品。図らずもその名の通り、彼の停止信号(シグナルレッド)となってしまったのです。

 『加速世界最強の遠距離火力はスカーレット・レインだが、加速世界究極の遠距離攻撃能力は永遠にレッド・ライダーである』というのは古参ランカーがよく口にする言葉です。つまり、彼の製作した銃から放たれる一撃は、彼の攻撃であると多くの者が認めているということでしょう。

 ねえロータス。貴女が本当にライダーに申し訳ないと、一片たりとも思っているのであれば、この銃の有効射程距離である二メートルに入るまで動かないでもらえませんか?」

 

 レディオから滲み出した悪意が奔流となって黒雪姫を飲み込んだ。

 たとえばこれが、銃口を突き付けて、正義を盾に振りかざし、断罪しようというのであれば黒雪姫は突っぱねただろう。自らの罪深さは承知しているつもりだが、ここで一人だけに裁かれてやるわけにはいかない。

 しかし、イエロー・レディオはまるで彼を彷彿させる決闘者(ガンマン)としての姿でブラック・ロータスの前に立った。

 二メートルという距離設定もまた絶妙だ。間接攻撃に特化したイエロー・レディオが、慣れない射撃で近接特化型のブラック・ロータスに弾を当てられるかもしれない、しかしブラック・ロータスが躱せるかもしれないギリギリの距離。

 あれほど精度に拘ったレッド・ライダーがそれを犠牲にしてまで確立した威力だ。一発という弾数から逆算されるゲームバランスからも、まず間違いなくロマン砲。夜戦ステージという状況下で急所に受ければ、攻撃にポテンシャルをつぎ込んだブラック・ロータスのHPゲージは根こそぎ吹っ飛んでしまうかもしれない。

 しかしその一発を躱すことができれば、逆にブラック・ロータスの必殺技でレディオの首は地に落ちるだろう。

 

 一方的な処刑ではなく、不利な条件で提示された決闘。

 

 停止信号(シグナルレッド)のカタログスペックに嘘がなければという前提の上の話だが、黒雪姫はレディオの言葉に嘘はないと直感する。

 彼は今、完全に黒雪姫という一人のバーストリンカーの性格を読み切って罠を張っている。その罠が綻ぶようなマネを自分からするようなことはないだろう。

 黒雪姫(獲物)はもう、飛び込まざるを得ないのだから。

 

「……最低だな、貴様は」

「ふふっ、何をいまさら」

 

 否、と肯定の返事を受け取っておきながら黒雪姫は内心で自分の言葉を否定した。

 イエロー・レディオは、何もかも台無しにされ最低の目を引かされながらも、それを呑み込んだ上で自分の持ち札を駆使し、この場限りであろうが五分の状況まで持ち直したのだ。

 何より、最低と呼べる人間を黒雪姫は一人しか知らない。

 

「すまない。訂正しよう。貴様は策士だ」

 

 黒雪姫の言葉に、黄の王は意外そうに目を瞬かせた。初めて見た黄の王の素顔がハルユキの力を借りて見たものなら、これは純粋に自分だけの力で得た表情だ。

 そのことに少しばかりの誇りと満足を抱く。

 

「お褒めに預かり、光栄の至り」

 

 細長い身体を折り曲げて、どこまでも慇懃無礼にイエロー・レディオは一礼した。

 かつて幾度も競い合った友であり、今もまた友であると確信できた少年との会話は、それで十分だった。

 自分たちはバーストリンカー。あとは対戦で語るのみ。

 

 

 

 黒雪姫は忘れていた。

 この状況が、一体誰の仕切りでもたらされたものなのかを。

 彼女の影響下で、積年の友人との決着などという『いかにも』な結末が、迎えられるはずなんてあるわけないということを、完全に失念していた。

 

 一歩近づく。爪先のカールした靴のようなレディオの足が、砂地となった大地を踏みしめる。

 二歩近づく。潮風が二人の間を吹き抜け、夜空のどこかで繰り広げられている争いの騒音をかすかに届けた。

 三歩目。上げた足を、イエロー・レディオは下ろすことができなかった。

 

 ぱりん、という呆気ない音と共に彼の胸から黒銀の板が生える。

 

「え?」

 

 予想外の出来事にごく普通の少女のような声を漏らした黒雪姫の脳は、当人を置き去りにしてイエロー・レディオの背後に忍び寄った何者かが、彼を後ろから剣で串刺しにしたのだと解析した。

 思考は動かなくとも、経験は裏切らない。しかし、肝心の思考が、心が働かなくては加速世界では動くことは敵わないのだ。

 まるで人形のようにぶらんと力なく吊り下げられた好敵手を呆然と見つめる黒雪姫の耳に、ピシピシと世界が崩壊する音が聞こえる。

 一瞬で亀裂は夜空に広がり、派手な音を立てて崩壊する天球の破片を浴びながら、一匹の獣が吼えた。

 

 まるで加速世界の本質は友情でも敬意でもなく、ただお互いの心を削り合う闘争であると主張するかのように。

 

 

 今回の真の敵であったクロム・ディザスターの姿を間近で見ても、黒雪姫は動き出すことが出来ないでいた。

 脳内の歯車が外れてしまって思考が纏まらない。ただ、考えの断片となって無数に湧いてくる。その大半は意味のない疑問だった。

 何で? どうして? 何がどうなってこうなっちゃったの? 何が悪かったの?

 

「何も悪うないよ。良いことも悪いことも理由なく起きて、意味もなく去ってゆく。それがこの世界というもんじゃろ?」

 

 至近距離から発せられた、脳髄に突き刺さってドロドロに溶かすような甘い声が一気に思考を鮮明にした。歯車はがっちりかみ合い、頭脳明晰の黒雪姫が帰還する。

 もはやそれはパブロフの犬に近い条件反射的な行動だった。二年の歳月の中で何度も思考破綻と強制蘇生を経験させられた思い出(トラウマ)が、一瞬にして黒雪姫を臨戦態勢まで引き上げる。

 

「っ!? ライハァッ!」

 

 とっさに本名を読んでしまった黒雪姫に見向きもせず、そこには予想通り白と灰のまだら色に彩られた異形のアバターがいた。彼女はふらふらとした特徴的な足取りで串刺しにされたイエロー・レディオに近づいていく。

 身長の関係で、レディオの胸から突き出た剣先はちょうどマーブル・ゴーレムの額の高さにあった。そっとそれを避けたライハは、精いっぱい背伸びをして黄の王の頬に手を当てる。

 

「けろけろ。久しぶりじゃの、ウラン精鉱(イエローケーキ)君」

「……嗚呼、やはりあなたは、うつくしい……」

 

 うわごとのように呟かれたその言葉に、黒雪姫は初めてイエロー・レディオがこの場に登場した理由がもう一つ存在したのではないかと思い当った。

 

「相変わらずトランプを武器にして戦っておりそうな顔じゃ。『自己犠牲的弾頭(サクリファイス・ボム)』」

 

 しかし、その思いを深く考察する暇はない。しれっと爆発しやがったバカの効果範囲外に離脱しなければならなかったのだから。

 とっさにバックステップで飛び退いたブラック・ロータスの爪先の数ミリ先まで白い光で満たされる。かなり必殺技ゲージをつぎ込んだ個体だったのだろう。夜戦ステージでクリティカル・ポイントに災禍の鎧の一撃を受けたというのも大きいだろうが、光が消え去ったその後には小さなクレーターが残り、中心で黄色い光の柱が寂しく揺れる。

 

「……おいライハ。貴様、いつから見ていた?」

 

 対面で同じく飛び退いていたノーダメージのクロム・ディザスターを睨みつけながら、黒雪姫は背後に問いかけた。

 返答が帰ってくる確信があった。幻影(ファントム)の『ダメージを受けたら消失する』という制限がなければ、あいつは剣を避けるようなマネをしない。頭に剣先がめり込もうと構わず前進し、真正面からレディオを抱きしめたことだろう。

 

「おぬしが『揚げ足』と呼んでいた歩法な、あれは間違いじゃ。揚げ足は相手の意識の間隙をついて移動することだけに特化し、取ったところで相手を不愉快にさせる以上の効果はないのよ。仮に勢いのままに体当たりしたところで、体幹の崩れておるこちらの方がダメージを受けるような無為な技じゃ。

 移動直後に攻撃に繋げられるような有用な足運びは、ゆえにもはや揚げ足とは呼べん。あれは『浮舟』と言ってな。まったく、スノウといいおぬしといい、人の技を勝手に一歩先まで進化させよる。これだからエリートは嫌いなんじゃよ」

 

 案の定、当然のように背後から返された言葉は、婉曲ながらも要するに一部始終初めから見てました宣言だった。

 それに対し思うことがないと言えば嘘になるが、黒雪姫は納得するだけで済ませる。先ほど見たスノウの機動力があれば、徒歩で移動していた黒雪姫たちの先回りをすることも可能だろう。

 視線の先では、獲物を取られたことに獣が猛り吠え狂っている。変声期前の少年の声で奏でられる獣声は常識的に考えて心胆寒からしめるものがあったが、今の黒雪姫には関係なかった。

 腹の底に熱がある。

 対戦の最中に血管を流れる炎ではない。現実世界でも時折感じる、もっと原始的で根源的な感情だ。

 

「ン、わかるよ。とてもよくわかる……」

 

 自分でも驚くほど穏やかで優しい声が出た。腹の底の熱が臓腑を通じてじわじわと全身に広がっていくのを感じながら、黒雪姫は二年半以来の暴食の獣に語りかける。

 

「ここぞという直前で、ライハに斜め下から手を伸ばされて台無しにされるのは腹が立つよな。心中ご察しする。とても共感できるとも。だがな――」

 

 二年半前は恐怖を義務感と誇りで押し殺しながら、対戦の熱で何とか怖気を塗りつぶして立ち向かった相手だった。しかし、今となってはあの程度の冷気では黒雪姫を凍えさせるのにはとても足りない。

 二年の間に蓄積された経験もあるだろう。相手が災禍の鎧に取り込まれて比較的日が浅いというものあるだろう。

 しかし何より、黒雪姫は激怒していた。

 

「あれでもあいつは加速世界を治める純色の七王の一角、黄の王イエロー・レディオだ。貴様ごとき獣風情が獲って喰おうなどと、この加速世界でも千年早いわっ!」

 

 漆黒の装甲が、災禍の鎧から滲み出る闇より深く、苛烈に燃え上がる。青黒い魔都ステージの空間に黒い閃光が走り、一瞬にして間合いを詰めたブラック・ロータスの右の刃が、迎撃に出たクロム・ディザスターの大剣とがっぷり噛み合った。

 ギゥイイインッ! と異様な音がして黒の刃が黒銀の刀身にわずかに、しかし確実にめり込む。

 弾かれたように後退した黒銀の獣は、傷つけられた己の武装と、後退を選択させられた屈辱を主張するように吼えた。

 

「ほう、怒るかよ? 安心しろ、私もとっくの昔に腹に据えかねている。このどこにも持っていきようがない数多の感情の憂さ晴らしを、貴様でやらせてもらうぞ。よもや嫌とは言うまいなぁ」

「グ、ガガガガッ! 喰ラウ、喰ラウ、喰ウッ!」

 

 もとより気の長い方ではないのだ。もっとも、今こそ激情に身をゆだねているが、理性が強すぎるとライハに評された思考はいまだ明晰で、ニコの依頼がこの戦いのきっかけにあったことは忘れていない。純色の七王総がかりで互角の勝負だった過去の災禍の鎧の記憶も覚えている。とどめを刺すまでには至らないだろう、たぶん。

 

「安心院さんではないが安心せい。儂らは負けんよ」

 

 本当に絶妙なタイミングで水を差してくれる。ふらふらと隣に並び立ったライハの声に、黒雪姫は自分の煮えたぎって吹き零れる直前だった感情があっという間に治まったのを感じた。いまだ沸騰中であることに変わりはないが、器の中で静かに煮えたぎる程度だ。

 

「なぜならば、いま儂らの後ろには敵がおるからじゃ。ここで負ければ儂らのみならず、復活ごとにやつらも災禍の鎧に喰われる羽目になる。

 つまり今の儂らは味方の想いばかりか、敵の命までを背負って戦っておる。人間というのは誰かのためになら限界以上の力を発揮できるものじゃからな。たかだか五代続いた個人の怨念ごときが、敵うはずがなかろうて」

「お前、まさかそのためにレディオを呼び寄せたのか……?」

「当然じゃろう」

 

 単眼以外はのっぺらぼうの分際でドヤ顔をして胸を張るマーブル・ゴーレムの姿に、へなへなと膝が萎えそうになった。

 誰かのために戦う。これはいい。その誰かが敵だったりすれば、まさに少年漫画的王道展開で燃えることだろう。理解できる。

 しかし、だからといって、その状況を作り上げるためにわざわざ敵をおびき寄せて罠にかけて一網打尽にするなどと、何かが致命的なまでに間違って歪んで壊れて狂っている。

 

 この世界に知る者は当人を除き誰もいない。

 災禍の鎧という強敵を前に発奮したライハが、味方を鼓舞するために頭をひねり、自身が一番思い出深い戦いの決着、すなわち箱庭学園生徒会戦挙会長戦の顛末をリスペクトした結果がこれである、などということは。

 悪意よりも敵意よりも、善意で動く過負荷(マイナス)の方がよっぽどはた迷惑で恐ろしい存在であるという証明の好例であろう。

 

「ユルヲオオオオオ!」

 

 会話している二人を隙と見たのか、クロム・ディザスターは咆哮と共に大剣を一閃する。

 剣の間合いを遥かに超えた斬撃が空と大地を切り裂いた。ブラック・ロータスは装甲一枚掠める形で最低限の動きで見切り、マーブル・ゴーレムは反応すらできずに真っ二つになる。一瞬鏡面のような切断面を晒した白と灰のまだら色アバターは、音もなくポリゴン片となって消える。あとには何も残らない。まるで幻影のように、いや、幻影そのものか。

 

「けろけろ。平地での戦闘は数で勝る儂らの方に地の利があるぞ」

 

 偉そうなことを口にしながら、どこに隠れていたのかと黒雪姫が呆れてしまうほどの数がぞろぞろと周囲に湧き出てきた。下手すれば百に届くだろう。先の自爆から察するに、中には本体と同等のステータスを持った個体も少なくないかもしれない。必殺技ゲージを稼ぐ時間は彼女にはたっぷりあったのだから。

 しかし無意味だ。裏で暗躍する先ほどまでならともかく、このような表側の真っ当な戦場では、ライハの勝ち目は万に一つを通しこしてマイナスしかないということを、黒雪姫はよく知っている。

 異形の群体が自分を包囲するという、まともな感性が残っていれば怯まざるを得ない状況に放り込まれても、クロム・ディザスターの動きに淀みは発生しなかった。包囲網を作成しているマーブル・ゴーレムの一人に迷いなく開いた左腕を向ける。

 

 次の瞬間、いくつかのことが立て続けに発生した。

 

 自分に何が起こるのか、そのトリックまで完全に理解した動きでマーブル・ゴーレムが左腕を盾のように前へ突き出し、その腕の半ばからチッとごくわずかな火花が散る。

 その時にはもうすでにマーブル・ゴーレム自身の右の手刀が、左腕を切断しようとしていた。切断しきれなかったのは、分身を前提とした最低値スタータスアバターの攻撃力の低さゆえで、不幸にも同じく最低値であるはずの自らの装甲を断ち切ることが出来ず、手刀は半分喰いこんだところで止まる。

 そんなことは百も承知とばかりにマーブル・ゴーレムは自身を引っ張る強力な引力に合わせて身体を大きくひねる。半ば切断された左腕に力が集中し、引き千切られるようにしてその部分から折れた。マグネシウムを燃やしたような純白の激しいダメージエフェクトが傷口から噴き出す。

 無制限中立フィールドの痛覚のフィードバックは通常対戦フィールドの二倍、現実世界と大差ないと言われている。普通なら腕を半分切られ、残りの半分を引き千切られた痛みで動けなくなるものだが、この場にいるのは押しも押されぬ、押そうにも出ているところがない過負荷(マイナス)。常識の対義語のような彼女は平然と指示を出した。

 

「ロータスッ!」

 

 不本意なことにライハと長い付き合いと言える関係になりつつある黒雪姫は、その意図を察してしまい、それが戦術的にも有効なものだから動かざるを得ない。

 一足飛びに距離を詰めたその先には、前に突き出した左手に白と灰からなるほっそりとした左腕の切れ端を掴み、アビリティ発動直後のわずかな停滞(ディレイ)に縛られているクロム・ディザスターの姿がある。

 紫電一閃。

 青紫色の軌跡を虚空に描く黒き刃は、黒銀の騎士の左手首から先を綺麗に切り離した。くるくると宙を舞い、どすんと重い音を立てて青黒い土の上に転がった二人分の左手は、まるで場違いな現代アートのようにシュールで無機質であった。

 

「オオッ!」

「ユルゥラァアアアアア!」

 

 この機を逃さずに追撃をかけるブラック・ロータスの雄叫びと、クロム・ディザスターの怒りの咆哮が交錯する。

 右手一本で扱っているとは思えない軽々とした動きで振り回されるくろがねの巨剣と、いっそ儚げにも思える優美な黒刃が、一対四の死と暴力で彩られた乱舞を開始した。

 刃と刃が噛み合うごとに球状のエネルギーが迸り、互いの装甲の上で弾ける。青紫と赤の円弧は、その秘められた破壊力ゆえに美しく曇天の下に輝く。

 数の有利は漆黒にあるが、押しているのはむしろ黒銀。

 両者ともに加速世界の悠久の時の中で積み上げられた百戦錬磨の武勲。単純な技の冴えであれば、王と呼ばれた漆黒に一日の長があるかもしれない。

 しかし漆黒が王であるのならば、黒銀は災禍だ。

 災禍は消えない。妄執は滅びない。致命傷には至らないまでも両者の装甲に刻まれた傷の内、黒銀のものだけが赤い光と共に癒えてゆく。それは体力にも同じことが言え、人が積み上げた武勲ゆえに限りある漆黒の集中力は、人ならぬ執念に囚われた黒銀の濁流に押し流されようとしていた。

 漆黒の左回し蹴りと黒銀が振り落した大剣の柄頭の衝突が、新たに小規模のクレーターを作るほどの破壊力をまき散らし、両者を反対方向に弾き飛ばす。

 

「わー」

「きゃー」

 

 ぐるりと周囲を取り囲んでいた白灰まだらの一部に頭から突っ込んだ黒雪姫は、その緊張感に欠ける悲鳴に集中力が萎えそうになった。衝突のショックでまとめて三人のマーブル・ゴーレムがはじけ飛んだが、代わりにブラック・ロータスにダメージはない。

 素早く身を起こすと一方ではゴーレム軍団がわらわらと黒銀の騎士に纏わりつき、動きを阻害しようとしているのが見えた。あっさり振り払われ消し飛んでいたが。サポートしてくれると言ってもあまり間違いではないはずなのに、どうして彼女はここまで巧みにやる気をそげるのか、いっそ不思議なくらいだった。

 

「おいロータス。あやつ、なかなかやりよるぞ。あっさりと儂の本体を見抜きよった」

 

 一番近くにいたマーブル・ゴーレムがひそひそと耳元で囁いた。五体満足であるところを見ると分身だ。

 

「ふん。驚くには値しないだろう、そんなもの」

 

 マーブル・ゴーレムの『自己代用的幻影(オルタナティブ・ファントム)』は初見でこそそのショッキングな光景から対応が難しいが、落ち着いて観察すれば『幻影(ファントム)には影がない』というあからさますぎる識別方法がある。夜戦ステージのような特異な状況ならともかく、日光も雷光もある魔都ステージで見極めるのは容易だ。

 一説によれば初代から着用者の戦闘経験がすべて蓄積され、次世代の着用者にフィードバックされると言われている災禍の鎧がその程度を判別できないはずがなかった。

 ちなみに黒雪姫もその説は真実だと思う。

 チェリー・ルークはそのカラー名から判断して特色持ちの遠隔寄りだ。中には血まみれ仔猫(ブラッディ・キティ)のような例外は存在するとはいえ、本来なら大剣を持って黒の王である自分と互角の剣戟を交えることが出来るような腕前の持ち主とは思えない。

 異常な回避速度も、常軌を逸した経験が成す未来予知に等しい予測だと考えれば説明がつく。先代とは外見も戦い方も違うが、狂気に犯されながらも冷酷に最短効率で相手を狩る太刀筋は以前の記憶と通じるものがあった。

 だが、ライハはさらに一歩先までいっているようだ。

 

「まあの、前情報通りじゃ。災禍の鎧は全ステータスに多大なボーナスと、膨大な戦闘経験に基づいた未来予測アビリティを与える。さらにはドレインに当代着用者のスキルもそのまま使えるとなれば、まさに呪いのアイテムに相応しいぶっこわれ具合じゃのう。ま、着用者の属性がどうあれ、基本的には大剣等の大型武器で戦う近接スタイルに固定されるようじゃが」

「……お前なあ」

 

 そういう情報(こと)を知っているのなら早く言えよ!

 黒雪姫の無言の抗議を前にライハはへらへら笑う。クロム・ディザスターは振り払う傍から湯水のように雪崩れかかるゴーレム軍団に阻害され、なかなか体勢を立て直せないでいた。

 しばしの幕間といったところか。短いながらも休憩時間を作ってくれた彼女に感謝するべきだと理性では判別がつくのだが、感情が納得しない。「あーれー」とか「あべし」と言いながら次々に吹っ飛んでいく幻影を見ると、すごく馬鹿にされている気分になるのだ。

 そんなことで彼女に対しわずかなりとも自己嫌悪を覚えている自分が、なんだか情けなくて馬鹿らしくなる。

 

「けろけろ。昨日今日災禍の鎧と戦うことが決まったおぬしらと違い、儂は半月前から仮想敵に上がっておったのじゃぞ? 調べぬわけなかろう。

 ちなみに当代クロム・ディザスターであるチェリー・ルークの特色は『ワイヤー・フック』。極細の鋼線を掌から放ち、相手を捉えて引き寄せる常時発動型アビリティで、射程も牽引力もかなりのものじゃが、あの通り予備動作があるから避けるのはおぬしなら容易かろう。

 それをメインにレベルアップボーナスを注ぎ込んでおるゆえ、他に特殊な攻撃手段はないと思ってよいぞ」

 

 本当に、彼女はどこからそんな情報を仕入れてくるのだろう。呆れた視線を向けたところで「情報屋が知り合いにいるのじゃよ、なの~」とふざけた答えを返すだけだった。

 

「ただのう、不動障害物(ストラクチャー)をフックして高速移動する『長距離ジャンプアビリティ』としても活用できるようになっとるから、下手を打てば逃げられる恐れがある。

 だからもう片方の掌も切り落としてくれんか?」

「無茶を言うな。こっちがやられないようにするだけで精いっぱいだ」

 

 だからといって撤退する気はさらさらないが、適度に冷えた頭ではこのままだと勝ち目が薄いことは十分理解できる。本来なら赤の王との協力体制でいく予定だったのだが、クリプト・コズミック・サーカスの精鋭を一時とはいえ一手に引き受けていたスカーレット・レインは中破しており、その後の無双のクールタイムが終わっていないのか煙を吹いて沈黙していた。

 

「情けないのう。せっかく人が片腕を犠牲にしてまでやつの左腕を奪ってやったというのに」

「切り落としたのは私だろうが。大きな顔をするな」

 

 ライハが指差した方向には、黒銀の左腕と白灰まだらの左腕が握手に失敗したオブジェのようにもつれ合って転がっていた。違和感が頭を掠めるが、ついにクロム・ディザスターが体勢の立て直しに成功したため思考を切り替える。

 

「シッ!」

 

 受け身に回れば、やられる。

 その直感に従い、再び黒雪姫は自ら災禍の鎧へと突っ込んだ。

 疾走の最中、ふと、肩甲骨に温もりを感じる。

 視線だ――彼が見ている。

 そう思っただけで全身から力が抜けるのがわかった。たびたびライハに脱力させられていたが、あのような不快感は欠片もない。むしろこの状況にも関わらず心から安心できる。

 我ながら現金すぎると苦笑を一つ。それが最後の硬さを解きほぐした。

 

「ユルウッ!」

 

 相変わらず黒銀の暴虐には衰えがみられない。降りかかる濁流を、黒雪姫はそっと受け入れた。真紅の暴風に、やわらかな青紫の清流が寄り添う。

 今度の剣戟は、刃が噛み合うことはなかった。

 ときに受け流し、ときに躱すブラック・ロータスの動きに淀みは一切存在しない。力尽くで相手を屈しようと猛り狂う刃の悲鳴は鳴りを潜め、代わりに刃が触れ合うたびにりぃん、りん、と水晶のように澄んだ音が辺りにこだまする。

 

 そうだ。怒りに怒りで対抗してはならない。負の蓄積なら災禍に勝てるはずもない。

 漆黒の装甲の下に、視線から注がれた熱が満ちているのがわかる。身を焼き焦がすような熱さではない。芯からほぐれていくような、母親の胸の中で子供が感じるような温かさ。

 

 本当に、彼は間違いかけた自分を引きもどして導いてくれる。

 

 彼が見てくれているだけで自分はどこまでも強くなれる。そのことがこんなにも誇らしい。私は彼が好きなんだ。その自覚がマスクの下の仮想の頬を綻ばせる。

 ブラック・ロータスによって受け流された攻撃は、そのまま優しく包み込むような円環の動きでクロム・ディザスターへと返されていた。狂気の騎士は手首から先の無くなった左手まで振り回して応戦するものの、その猛攻すらも静かな流れに乗せられて返されるのだから防御が間に合うはずもない。

 流れは変わり、黒銀の装甲の上に次々と薄い線が刻まれ始めていた。

 それは端から赤い光に包まれて再生していくものの、新たな傷は次から次へと、その深度を徐々に深くしながら刻まれ続ける。

 

 どうだろう? キミは見てくれているだろうか。これがキミに対して、私が唯一胸を張って誇れるものだ。

 

 明確にそう思考が定まったわけではない。心はふわふわと形を定めずに流れ続ける。ただ、黒雪姫は満たされていた。

 一番大切な愛する誰かに、自分の一番カッコいいところを見せ付けている自覚があったから。

 

「なんじゃい。やればできるではないか」

 

 そんな無粋な声も、今だけは恋する乙女にとっては足の下に転がる小石ほどの価値もなく聞き流せた。

 黒き双剣のように巧みに捌き、蒼き風のように苛烈に攻め、緋の炎のように穏和に寄り添い、流れる水のごとく廻る。今のブラック・ロータスの四肢は剣にして剣にあらず。黒雪姫の心の器の中に満たされた、中身そのものだ。

 過去も未来も現在も、すべてが解けて線になる。刃を向けているはずの相手に、自分の一番大切な場所を曝け出す矛盾。

 すべてを剣に捧げるのではない。黒雪姫のすべてが剣になるのだ。

 辛かったことも楽しかったことも苦しかったことも嬉しかったことも寂しかったことも後悔したことも憎んだことも、これまでのすべてがこの一振りになる。これから得るであろうすべてが次の一振りになる。先の一振りは、現在の黒雪姫を構成する世界すべてだ。

 いつの間にか自分に向けられていた負の濁流は、満たされ溢れかえった心の器の中に映る影となっていた。それは積み上げられたどこまでもの怒りと憎しみと拒絶の記憶だったが、ともすれば見逃してしまいそうなほど小さな欠片がそこかしこに散りばめられている。

 嫉妬は憧れと細い線で繋がり、憎しみは愛情の裏側に位置している。こんな自分は嫌だという叫びには、僅かであろうとたしかに現状に満足しない戦う意思が込められていた。

 

 いいだろう。とことん付き合ってやる。

 なぜならたとえ災禍といえど、『災禍』という形で存在を認められた加速世界の一部であり、ブラック・ロータスは加速世界の王の一人なのだから。

 彼女の心意を反映するようにいっそう青紫色の光は鮮やかに咲き誇り、赤い暴風は慰撫されるように流れに巻き込まれて溶けてゆく。

 

 

「すごい……」

 

 ハルユキは茫然と見守ることしかできなかった。

 

 無数のマーブル・ゴーレムで作成された人垣で覆われていた時は、それでも外からわかるほど危ない場面が何度もあった。しかしノックバックによるインターバルを挟んで以来、まるでブラック・ロータスが何かに気づいたように動きが変わり、徐々に、しかし確かに優位になりつつある。休憩時間を稼ぐためにゴリゴリとゴーレム軍団が消費されたため今では人垣も隙間だらけで、内部の様子がはっきり見渡せた。

 ユキカゼの神業と思えた一連の戦闘も、これを前にしては敏捷性と反復練習にモノを言わせた荒削りな動きでしかなかったのだと嫌でも理解できる。

 目で捉えられないほど速いのではない。いっそ緩やかにも思える動きが、目で追えないほどに洗練されているのだ。

 きっとインターバルの間にライハが何か的確なアドバイスでも送ったのだろう。さすがは二年の付き合いだと、ハルユキは素直に感心し、少しだけ羨ましい。彼女の恋人であるにも関わらず、こうして見ていることしかできない自分とはえらい違いだ。

 

 その隣では、タクムも息を呑んで自らがマスターと仰ぐ黒の王が演じる剣技の神髄を見ている。剣道部期待のホープであり、彩度の高い青系近接型アバターである彼には、あるいはハルユキ以上に目の前で行われている神技の価値が理解できているのかもしれない。

 

 災禍の鎧討伐作戦に参加したはずの二人は、本戦を前に観客に徹することしかできないでいた。

 

 より正確に言えば舞台下で唯一普段通りであったライハに観客席へと引きずり込まれたのだが、仮に彼女がいなかったところであの場に足を踏み入れられたとは思えない。

 立場が違いすぎる、と言えばややマイナス的な言い方になるが、実際舞台に上がる資格がまったく足りていないと目の前の対戦を見ていると思い知らされるのだ。

 実力が違いすぎる。

 単純明快に言えばそれだけの話。人の手で築き上げられた奇跡を前にして、自分程度の実力が割って入って舞台を汚すようなことは一人のゲーマーとしてしたくない。そんな厚顔無恥なマネができるのは、舞台が台無しになってもいっこうに構わない隣の白灰まだらの先輩くらいだろう。

 実際、彼女はハルユキたちの隣にいながらも舞台に上がっているというなかなか複雑な立場だ。かつては使い勝手が悪そうだと密かに同情したものだったが、こうして見ると使い方によっては有用どころではないスキルである。自らの見る目の無さに多分の反省と、案外使いこなしているライハに少々以上の驚きを覚える。

 以前ハルユキが恐れたのは、あくまでライハ自身でありマーブル・ゴーレムではなかった。格ゲーのキャラを真っ当に使いこなすライハの姿が、まるで想像できなかったためだ。

 

 少しでもタイミングがずれていればハルユキは、この予選落ちにも等しい現実を前に卑屈に萎縮したことだろう。しかし今は、ヘルメットの下の目を凝らして少しでも目の前の奇跡を焼き付けようとした。

 いずれはあそこまでたどり着いてみせる。

 

 ――いつかきっと、あの人のところまで。

 

 そう決めたから。そう決めたことを思い出したから。

 もっとも、タクムの方はそこまで割り切れていないようで、もどかしげに右の爪先を動かした。

 

「……あの、マーブル先輩。本当にぼく達は行かない方がよいのでしょうか? たしかに、真っ当にクロム・ディザスターと向き合えば足手纏いにしかならないというのは、流石に理解できます。ですが、マスター一人に戦わせて見ているだけというのは……。

 せめて、囮くらいなら――」

「けろけろ。先ほども説明したじゃろう? 今回のは半分以上お仕事じゃ。できることだけやって、できないことはできる上司に押し付けてしまえばええ。仕事というのはそういうものじゃからのう。

 パイル氏は取り付かれたら弱いレイン嬢の護衛、ギン坊は機動力のあるクロム・ディザスターの捕獲、それぞれ任された役割があり、現状ではどちらも必要ない。だからのんびり構えておけや。

 黒の王と災禍の鎧の一騎打ちなど、どれだけバーストポイントを積んだところで見れるものではないぞ? きっとこれから先の参考になるはずじゃ……道半ばで心折られなければ、な」

 

 有言実行というべきか、マーブル・ゴーレムはのんびり腰掛けるとスノウを手招きして呼び寄せた。先ほど左腕を切断されながらも消えなかった『本体』が舞台上にいたことを考えるにここにいるのは幻影のはずなのだが、さっぱり見分けがつかない。

 ゲーム的な判別方法以前に、気配があまりにも本人そのものなのだ。

 呼ばれたスノウが、てこてこと小さな歩幅で近づいてくる。クリプト・コズミック・サーカスの面々を鎧袖一触にしたときとはえらい違いだが、ハルユキはその気持ちがよくわかる気がした。

 彼女は親友のニコこそがスカーレット・レインであることを知らなかったのだ。しかし、少しでも知識があればあの巨大な強化外装で正体は判別できるし、ある程度聡明ならば状況からも逆算可能だろう。今、彼女の前には自分の過去の発言が大きな溝となって立ちふさがっている気分に違いない。

 しかもその親友と話し合い、心の隙間を埋める前に二人目の親友であり、最凶の敵であるクロム・ディザスターが現れた。現れてしまった。本来の目的に備えるという大義名分を得た彼女は、ニコへと話しかける機会を失ってしまったのだ。

 デュアルアバターはその大半が顔を硬質のマスクで覆われ表情に乏しいが、その実内心は現実世界以上に反映されるとハルユキは思っている。闇の中では透明感があったのに、今はややくすんで見える白い装甲は、いくら経験を積もうとも本質的には幼い少女である彼女の弱さの発露なのではないだろうか。

 もちろん、ライハは助けない。その弱さこそがライハの愛するものなのだから。

 お願いされたら存分に甘やかすだろうが、自主的に動く気は全くないだろうとハルユキは他人事ながら断言できた。

 

「……なんですか、ししょお?」

「こんなこともあろうかと、おぬしに『名状しがたき卵のようなもの』を渡しておったじゃろう。いまここで食おうや」

「げっ……本当に食べる気なんですか、あれ?」

 

 スノウの顔がますます曇ったのは、決して親友との関係のためばかりではないだろうと何故かハルユキは断言できる気がした。

 

「スノウ、目が合ったり鳴いたりするものを食材と呼びたくないんですけど」

「なあに、活け造りとそう変わらんよ」

「東洋でもっとも残忍な調理方法とも呼ばれるシロモノと並べられましても……」

「おいおい、見た目はちとグロテスクかもしれんが害はないぞ。せいぜい見えちゃいけんもんが見えたり、聞えちゃいけんもんが聞こえたり、しばらく『いあ、いあ』としか喋れなくなる程度じゃ」

「……スノウ、状態異常(バステ)にかかるようなものを食材と認めたくないんですけど」

「なあに、酒とそう変わらんよ。それにバステじゃないぞ? バステだと儂消えてしまうし」

「バステだと思わせてくださいよっ!」

 

 このままだと何だかとても恐ろしい目に合う気がする。ハルユキはただひたすら真っ直ぐ黒雪姫の頼もしい背中を見つめ続けた。

 言葉にならない溢れ出る感情をただそのまま視線に込めて、祈る。

 横で形容しがたい鳴き声がしたり、ぐちゃりという咀嚼音がしたり、断末魔の悲鳴や何かを目撃してしまったらしいタクムのひぐっ、という喉の鳴る音が聞こえたりしたが、ひたすら気にせずに集中した。

 もぎゅもぎゅ、こくんと口の中のものを咀嚼し、食べながら話さないという普通にお行儀のよいところを何気に発揮しながら、ライハは改めて口を開いた。

 

「ま、よおく見といてやれや。久々のあやつの晴れ舞台なんじゃから」

 

 もとより目を逸らすつもりはない。タクムもその言葉に納得したのか、あるいは別の要因か、焦燥に駆られることはなくなったようだ。

 今の黒雪姫の剣舞は、見ていて胸の中がいっぱいになってくる。

 感動と、言葉にすれば一括りにできる感慨だろう。

 だからハルユキはあえて明晰な思考に還元せず、何故だか涙が溢れてきそうになる青紫と赤の光の乱舞を見守った。

 

 

 

 不意にライハが軽く息を吸い込み、溜める。

 ただそれだけの仕草に、ハルユキは根拠無用の猛烈に嫌な予感を感じた。

 その正体もわからぬまま慌てて止めようとしたが、少しだけ遅かった。

 

「勝ったな」

 

 ドヤ顔で放たれたその語尾に被せるように、轟音。

 シルバー・クロウの装甲を赤熱させるような至近距離を通過して、何人たりとも邪魔立てできない舞台と思われていた中心を、真紅の壁が埋め尽くした。

 

 物語が破綻しようと、決着はまだ先のこと。

 

 




異篇に続く

レディオの場面を書ききって満足して、そのまま燃え尽きかけたのはここだけの秘密。


◆いまさらながらの用語解説◆

・スキル
 黒雪姫がたしか十二巻で「このゲームにスキルは存在しない」という旨の発言をしていますが、当作品では必殺技とアビリティを総称してスキルと呼んでいます。
 イメージとしてはライハが使い始めたのが黒雪姫を始めとした周囲に広がり、今ではハルユキの周囲では当たり前のようにこの呼称が使われている感じです。
 ゆえにこの呼び方が加速世界全体でも通用するかは謎です。



 あと何か他にも書こうとしていた気がしたけど忘れました。

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