大理石の胎児は加速世界で眠る   作:唐野葉子

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案の定、四万時を超えたので分割して二話投稿します。
一話目です


欠篇

 

 ――いごこちがわるい。

 

 週明け、月曜日の昼休み。もはや指定席となりつつあるラウンジ最奥の席で、ハルユキはその横に広いぷよぷよした身体を普段以上に縮めながら口の中のものを嚥下した。よく噛んだはずなのに何か粒が残っているような感覚が喉を通り過ぎ、胃の中で違和感を主張する。

 自意識過剰だ。そう自分に言い聞かせても、当人の意志とは関係なく研ぎ澄まされる聴覚は、周囲の生徒たちが興味本位で囁き合う噂を拾ってしまう。

 

「ねえ、あれが……?」

「ああ、間違いないって。俺、今朝校門前で直結しているとこ見たもん」

 

 土曜日に領土戦争のため登校した時には気づかなかった。クラスでは孤立しているし、ハルユキは部活をやっていないので、他の生徒と話す機会はまったくない。

 だから彼らの中でどんなとんでもない噂が蔓延していようが、つい十分前に新聞部に『どもども、恒例の梅郷リアルタイムズ《噂のあいつにヘッド☆ショット》のコーナーですぅ! ずばり、有田さんが黒雪姫さんと来春さん相手に二股をかけているという噂の真偽を確かめに来ましたっ』と教室で直撃取材を受けるまでそれを知る由もなかったのだ。

 『いやー、本当にあなたは話題に事欠きませんねぇ』と満面の笑みを見せる青葉先輩(何度も取材を受けているうちに名前を覚えてしまった)の顔が忘れられない。ブレイン・バーストをインストールしてからというもの、実は自分は頻繁にトラブルに巻き込まれているのではないかという予感を否定しきれなくなってきた今日この頃である。

 

 さらに案の定、最低のタイミングでというか、今朝方ライハが校門前でハルユキを待ち伏せしており、碌に説明もせずに大衆の目の前でXSBケーブルを満面の笑みで差し出してきた。恩義があり尊敬する先輩相手に、ハルユキが断れるはずがなかった。

 基本的に彼女はハルユキの心理を理解しており、無駄に負荷(ストレス)をかけるような真似はしないので、おそらく土日で蔓延していた噂が自分の行動により爆発的に広まることを見越した行動だったのだろう。愉快犯の気質がある実に彼女らしい行動だ。

 実際、そのおかげで昼休みになるころには今朝ライハが差し出したケーブルの長さ(五十センチ)まで正確に広まっていることが青葉先輩の口から知らされた。あらゆるデータが電子世界で管理され、前時代に比べ飛躍的に難易度が増したずる休みを本格的に検討した瞬間であった。

 後悔しても後の祭りである。もっとも、たとえこうなることがあの時点でわかっていたとしてもハルユキに断ることができたかどうかは怪しいことところだ。

 ライハの頼みであれば、多少自分が不利益を被ろうと叶えてあげたいと思う程度に、ハルユキは彼女のことを慕っているのだから。

 

 そう、だから自分のすぐ隣で絶世の美少女である恋人が白皙の肌の一枚下に不機嫌を完全に仕舞い込んで極冷気クロユキスマイルを浮かべていたとしても――やっぱり、ちゃんと断ったかもしれない。

 

 XSBケーブルにそんな機能がついているなどと一度も聞いたことは無いのだが、自分と彼女のニューロリンカーを繋ぐ二十五センチの有線(二か月半前より、彼女が常備しているケーブルの最短)からは言葉に依らないトゲトゲした感情が伝わってくる気がする。

 言い訳や言い逃れしようにも、口で敵う相手を探す方が難しいハルユキであるし、そもそもライハの目的がなんだったのかいまだに理解できないので言い訳のしようもない。

 

 

 

 今朝ライハがとった行動自体は単純明快、直結対戦を仕掛けてきただけだ。

 

 突然のことに困惑するハルユキに、ライハは戦意など欠片も見受けられない隙だらけの動作でふらふら近寄ると、べたべたとハルユキの全身を触りまくった。もとより事情も分からず相手を殴れるような楽観的なキャラクターはハルユキから程遠い。抵抗もできず、成すがままにされるだけである。

 金属装甲越しでも確かに感じる接触感覚にハルユキがオーバーヒートを起こしかけている間に、ひとしきり触って満足したのか、ふむ、と最後に肩甲骨の狭間を撫で上げてライハは口を開く。

 

「なるほどなぁ、そういうことじゃったか。納得したというか、なんというか……たかが強化外装の分際でようやる。寄生や侵食や闇堕ちがロマンというのは一理あるが……」

「あ、あの……ライハさん?」

「死者はおとなしく墓場におさまっておればよいものを。ま、儂が言えた義理ではないがのう」

 

 いつもへらへらとした笑みを浮かべているライハには極めて珍しく、乱暴に吐き捨てるようなその言葉は、おそらくは自分に向けられたものでもないにも関わらずハルユキをギチリと凍りつかせる冷たさが散りばめられていた。

 もっともその冷気は幻想だったかのように一瞬で消え、彼女はひらりと背中に回していた腕を解いて身を離す。そしていつもの軽薄な調子で、脈絡なく話題を転換した。

 

「ああそうじゃ、ハル坊に伝えようと思っていたんじゃ。この間ハル坊がやった超低空飛行な、もうやらん方がいいぞ。だってハル坊の翼は、空を飛ぶためのものじゃろ? 地を這うのに使うのはやめておけや。自分のキャラ設定を蔑ろにするやつに、大成はできんからのう」

 

 自分のやりたいことだけ好き放題やって、相手に伝えようとする意識は皆無。そんなライハの性格はこの一年にも満たない付き合いの中で熟知させられていたし、転換された内容もとても興味深い内容だったのでハルユキもあっさり意識を切り替えてしまった。

 

 実はあれから暇を見つけては新たに発見した飛行アビリティの使い方を練習していたのだが、『空中連続攻撃(エアリアル・コンボ)』と名付けた翼を使った変則三次元格闘の方はともかく、『零下曲芸飛行(マイナス・エアロバディックス)』と名付けた変則高速機動はまるで成功しなかったのだ。

 よくよく考えてみればリアリティをとことん追求したあの世界で、背中から生えた翼で揚力に従い飛んでいたのにも関わらず、肩を地面にこするような滅茶苦茶な飛行軌道で墜落しないはずがないのだ。あのときはできるという確信だけに満ちていて墜ちることなんて欠片も考えなかったが、いま思い返すと恐ろしい。

 現実世界と痛覚が大差ない無制限中立フィールドで、頭から突っ込んで首の骨を折りでもすれば、そのトラウマでしばらくは飛べなくなったかもしれなかった。なぜあのとき墜落しなかったのかは不思議だが、ひとまず自分の幸運に感謝するハルユキである。

 

「あの翼を使った格闘術はよしじゃ。上を向いておる。でも、地を這うのはいかん。確かにそれも忘れてはならぬハル坊の一部ではあるが、囚われないための翼を使ってそこに舞い戻るのはいかんよ」

「……! そうか。そうだったんだ……」

 

 ハルユキは深く納得した。

 あの時は大空を自由に飛んでいた自分を身の程知らずと思っていたが、そもそもハルユキの翼はあの空に手を伸ばすためのものだったのだ。その願いともいえる力で、かつての下ばかり見ていた自分の視界をトレースしようだなんて間違っていた。

 上手くいかないのは当然だった。むしろ翼があの時に戻ろうとした自分を引き留めてくれたのではないかとすら思う。

 墜落しなかったロジックはいまだに謎であるが、いっきにそこまで気にすることができるほどハルユキは器用ではないため、このときは気づかなかった。

 

「……ありがとうございます」

「うむ。どういたしましてじゃ」

 

 ライハはとても尊大な態度で頷いた。一般的には感謝のし甲斐が無いと言われる対応だっただろうが、ハルユキはそうは思わない。

 これがライハなのだ。ハルユキの大好きな尊敬する先輩。

 他人も自分も破綻させてダメにするのが得意で大好きなくせに、ハルユキが今は空を見上げているという理由だけで自分の(さが)を曲げて助言を(あまやかして)くれる人。当人にそう言えば、曲げたり歪めたりするのは得意分野だからと笑って躱すだろう。目に浮かぶようだとハルユキも不透過のヘルメットの下で微笑を浮かべる。

 

「さて、やりたいことはあらかたやったし、この対戦は儂のおごりにしておくな」

「へっ?」

「なあに、後輩は素直に甘えておくがよい」

 

 止める間も有らばこそ。

 ライハは『オーダー、スティール・ブレイド』とコマンドを唱えて先日ユキカゼが使っていた刀子を召喚すると、ざっくざっくと自分を切り刻んであっという間にHPゲージをゼロにしてしまった。血飛沫のように純白のダメージエフェクトが飛び散り、ハルユキの銀装甲の上で弾けて消える。

 そのあまりにショッキングな光景は『YOU WIN!!』の炎文字が視界に表示されて対戦が終了しても、プラグを引き抜いたライハがふらふらと軽やかな足取りで退場しても、完全に思考が停止したまま棒立ちになるほどの衝撃をハルユキにもたらした。

 視界デスクトップにあと五分で校門が閉まるという注意文が表示されなければそのまま遅刻していた可能性が高い。かろうじて遅刻こそしなかったものの精神ダメージは健在で、おかげで午前中の授業はまるで頭の中に入ってこなかった。

 周囲の注目やひそひそ話に気づかなかった一因でもある。そこまで計算していたのだろうか? ライハに限って否定できないのが恐ろしい。10バーストポイントではとても採算の合わない高い買い物であった。

 

 

 

『……なあ。直結している恋人が、どうも別の女のことを、それも複数人考えている気配がしたとき、どのように対応するのが模範解答だと思う?』

 

 ハルユキは機械的に咀嚼していたカレーライスを喉に詰まらせかけた。XSBケーブル越しに伝わってきたのはいっそ優しいとも言えるおだやかな声色なのに、怖くて振り向くことが出来ない。

 咳き込みそうになる生理的反射を、慌てて水を飲み込むことによって根性で抑える。今ハルユキと黒雪姫はわずか二十五センチの超短ケーブルで繋がれており、必然的に姿勢の自由が効きにくい。

 ただでさえ座高は黒雪姫の方が高いために、いつもは丸めがちな背筋を伸ばすことを強いられているのだ。正直な話、ハルユキにとっては正座並につらいものがある。でも今はそんなことより、咳き込むことによって黒雪姫がハルユキの平均を大幅に上回った体重に引っ張られ、体やニューロリンカーを傷めないようにするのが最優先だった。

 自分のいつものおっちょこちょいで、この席をぴったり隣に寄せた、奇跡のような美貌を持つ恋人が傷つきでもすれば、ハルユキは自分で自分が許せなくなってしまうから。

 今すぐ何もかも放り出して逃げろと叫ぶ本能に蓋をして、先日の対クロム・ディザスター戦に匹敵する勇気を振り絞り、恐る恐る斜め上にある白皙の美貌を見上げると、意外やそこには先ほどの声と同様に柔らかな苦笑を浮かべた黒雪姫がいた。

 その途端ガチガチだった身体からふっと力が抜け、どっと汗が噴き出してくる。冷や汗ではない。極度の緊張状態から解放された安堵による汗だ。思い出したようにカレーの後味が舌に蘇り、味覚が消えるほど緊張していたのだと、その時初めて気づいた。

 黒雪姫が苦笑を深くする。

 

『そんなに怖がらなくてもいいだろう? 傷ついちゃうな』

『えと、あの……怒って、いないんですか?』

 

 絶対に怒られると思っていたハルユキは、びくびくと首をすくめながら問いかけた。その思考発声を終える直前辺りでひやりとしたデジャヴを感じる。たしかニコにも同じような状況で、似たような質問をしたことがあった。つい三日前の話なのに、はるか昔のことのような気がした。

 幸いにも、黒雪姫は以前のニコのように激昂することは無かった。

 

『いや。むしろ自己嫌悪に満ちているよ』

『ええっ!?』

『子供っぽい行動をした自覚はさすがにあるさ。キミとライハの性格と関係を考慮すれば、やつの目的がどうであれ、キミは被害者だということはわかりそうなものなのにな。わが感情ながらまるで儘ならないものだ』

 

 自嘲に頬を釣り上げる仕草までもが完成された一枚の絵画のような気品と芸術性を持ち合わせている。今更ながら、自分がこの人の隣にいることが今世紀最大級の何かの間違いのような気がしてきた。

 黒雪姫が軽く柳眉をしかめる。

 

『何を考えているのかわかるぞ。卑屈をやめろとは言わんが、もう少し自分に自信を持て。私はキミを選んだし、キミも私を選んだんだ。そのことに私は何よりも誇りを持ち、日々幸福を感じているんだぞ?』

『すみません……』

 

 ハルユキは思わずうつむきそうになる首を慌てて上に向けた。なのに、黒雪姫の眉間のしわはますます深く刻まれる。

 

『いや、すまない……。謝るのは私の方だ。今も、先ほどまでもな。矛盾したことを言うようだが、別に私はキミに胸を張ることを強制したいわけじゃないんだ。変わってほしいわけじゃないんだ。理想を押し付けたいわけでもない。

 だって、キミは私なんかの想像とは比較にならないくらいずっと魅力的で、格好良くて、強くて、可愛らしい、そんな存在なのだから。前にも言った通り、私はキミの弱くてダメでフラジャイルなところも含めて好きだ。全部好きだよ』

 

 いきなりの褒め殺しにどうすればいいのか、ハルユキには皆目見当がつかなかった。笑えばいいと思うよ、などと言ってくれる親切な誰かはこの場にいない。ただ馬鹿みたいに硬直して、首から上に血液を集中させる。だらだらと今度は脂汗が顔から噴き出した。

 黒雪姫はいつからか携帯しだしたでっかいタオル地のハンカチでハルユキの顔をぬぐい、表情を柔らかな苦笑へと戻す。

 

『要するに、私はキミに甘えているのだろうな。感情のままに振舞っても、キミに嫌われはすまいと自惚れているんだ。今まで同年代が恋だの愛だので盛り上がっているのを内心馬鹿にしてきたが、いやはやどうして我が身に降りかかってくると、本当にどうしようもないな。

 幼稚な理由で稚拙に感情を上下させて、その時は辛かったり苦しんだり自分で自分が嫌になったりと散々なマイナス感情ばかりなのに、少し間を置いてからまとめて振り返るとそれが素晴らしくキラキラ輝いていて、決してそれらが嫌いじゃなかったと悟るんだ。

 自分でも制御できないこんなものに、キミを付き合せてしまうのは心苦しいばかりだが……』

『あのっ、それ自惚れなんかじゃありません! たとえどんなことがあったって、僕があなたを嫌うなんてあり得ない。もう僕は絶対にあなたを、二度と傷つけたりしない。それに僕、あなたの我儘を聞けるのなら大歓迎です。だって、だって僕は…………』

 

 言わねばならない。その使命感に突き動かされるままに吐き出した勢いは、そこで途切れてしまった。いくら思考発声の恩恵で舌と声帯が鈍くて重い肉体のくびきから解き放たれていたところで、ハルユキの退化したボキャブラリーとコミュニケーション能力からは逃れられない。言葉にできなかった感情が奔流のように暴れ回って視界が滲む。

 黒雪姫でさえ扱い兼ねているものなのだ。自分がまともにできないのは至極当然のことなのではないか?

 そんな思いが頭をかすめるも、絶対に諦めたくはなかった。

 走馬灯のように脳裏に蘇る、数々の黒雪姫。今はめっきり足が遠のいてしまったバーチャル・スカッシュ・ゲームのコーナーで手を差し伸べてくれた彼女。訳も分からないままに初めての敗北を経験した自分に、懇切丁寧に戦い方をレクチャーしてくれた彼女。ハルユキの初勝利を、自分のことのように喜んでくれた彼女。チユリとの一件で焼きもちを焼く彼女。光の当たる場所に出るのが怖くて、傷つけてしまった彼女。そして、白と赤と黒でしか認識できないあの光景――。

 言わなければならないのだ、自分が。他の誰でもない、ハルユキだけに許された特権で義務で権利なのだ。たとえ何かの間違いだったとしても、その場所にいるのはハルユキなのだから。

 溢れそうになった激情の滴は、ハンカチではなく白魚のような指でそっと拭われた。

 

『ありがとう、ハルユキ君。キミを選んで、キミに選ばれて、本当によかったと思うよ』

『僕も、です……』

 

 甘えているのは自分の方だ。聡明な彼女に、安易な構造の自分の思考回路が明け透けなのをいいことに、本来やらなければならない役割を満たせていない現状に甘んじている。

 でも、きっと伝わった。

 だからダメダメでも、できていなくても、今はそれでよしとしておこう。何か一つのきっかけで劇的に変化するだなんて覚醒した主人公みたいなこと、自分にはとうてい無理なのだから。

 でも、いつかは一つずつ確実に積み上げていって――物語の主人公みたいに。あなたの隣で、胸を張って。

 

 ちなみに、これらのやり取りはすべて思考発声で行われたのだが、首を回すのにも苦労しそうな至近距離で見つめ合い、表情をころころと変える二人の様子を見ていれば大体の雰囲気は理解できる。

 その雰囲気がピンク色に染まり始めたあたりから周囲では目を逸らして妙に甘くなったり塩辛くなった学食のメニューをかっ込むことに没頭する生徒が急増したのだが、ハルユキたちには関係のない話である。

 

 ひとまず最大の懸念事項を片付けた彼らの話題は、いつしか災禍の鎧討伐作戦の感想へと移っていた。金曜の作戦終了直後から土、日と話す機会は当然何度もあったのだが、あれだけの一大事件だ。語る話題は尽きることを知らない。

 

『それにしても、ライハさんには驚きましたよ。えーと、なんといえばいいのか……』

 

 その流れでハルユキはニコとの対面の時にライハが見せた、品行方正なお姫様のごとく立ち振る舞いを話題に挙げた。いくら和解が成立したとはいえ鎮火した直後の焼け跡の前で火遊びをするようなものであり、事実黒雪姫の口元はピクリとひきつったが、この不用意さもハルユキの一部である。そう考えたら愛すべき不器用さに思えないこともないだろう、たぶん。

 

『ン、まあな……。初めて見る分には驚くだろう』

『先輩はご存じだったんですよね』

『というか、あっちの方が実はやつの素に近い。普段のあれはキャラ作りだからな』

『ええっ!?』

 

 驚くハルユキだが、そういえば聞いたことがあるような気がする。そう、あれは確か黒雪姫が一般病棟に移り、改めてお見舞いに行った二か月以上前の話だ。確かに黒雪姫の口から聞いた。

 『慇懃無礼系毒舌敬語ロリキャラなんてもう流行おくれだから最先端のロリババァでいくなどという意味不明な理由でふざけた口調で喋るバカ』云々と前後で津波のように情報が散乱していたから聞き流していたが。

 

『素のあいつはあんな口調だ。ロリィタファッションに身を包み、にっこり笑って敬語で毒を吐く。まだ私が王で、やつが加速世界最低の犯罪者と呼ばれる前だったころ、初めて出会ったあいつはそんな感じだったよ』

『ろ、ろりぃたファッション!?』

 

 たしかフリルやレースを多用した、女の子らしいファッション……だっただろうか? その筋の人間に聞かれたら激怒されるか鼻で笑われそうな定義だが、ファッション雑誌など手を付けたこともないハルユキにはこれが限界である。

 頭の中でその曖昧模糊とした知識と普段のライハの融合を試みるが、どうしても上手くいかなかった。キャラが違いすぎる。

 

『加速世界にもそんなのあるんですか?』

『ああ、キミを連れて行ったらポイントを乱舞してニアデス状態になることが目に見えているから場所を教えたことは無いが、無制限中立フィールドには強化外装やアイテムを売買できるショップがあることは知っているだろう?』

『……はい』

 

 そんなことはない、と言えない自分が少し悲しい。たいていの場面において自分を信用していないハルユキだが、あのような場所では輪をかけてひどくなる自覚がある。もしもブレイン・バーストに出会わないまま将来的に経済的に自由が効く年齢に達していれば、立派な課金戦士の一人になっていたことだろうとすごく具体的かつ明確な未来展望が描ける程度には。

 

『私はまるで興味はないのだが、あれらのショップの中には女の子らしい小物や衣服の類を専用に扱っている店もいくつかあってな。ライハはけっこうな額をつぎ込んであの歪な人形のようなアバターの上から下までばっちりコスチュームを揃えているようなやつだった』

『なんだか、今の姿からは想像もできませんね……』

「……あるいはあれは、奴なりの制限だったのかもしれないが。強化外装は分身に反映されないから、一目で本体がまるわかりだったものな」

『へ。何か言いました?』

 

 一瞬、黒雪姫が肉声で何かを呟いた気がしたが、黒雪姫は何でもないと首を軽く横に振った。

 

『いや、今でもその影響か、あいつのバランス感覚は傑出しているぞ。こけたら最後、二度と起き上がれなくなるような靴や衣装を愛用していた恩恵か、あいつは転ばない足運びが実に上手い。

 ペンギンが陸上でする奇妙な歩き方は、その実エネルギー消費が人間よりずっと少ない効率的なものだという話は聞いたことがあるか? やつのあのふらふらとした、見ている方が心配になってくる歩法もその延長線上だ。体力を極力消費せず、頭の重量を使い引力と慣性を最大限利用した動きなんだよ、あれは。傍目には平衡感覚を喪失した病人にしか見えんがな』

 

 知らなかったことを新たに知るより、知っていたと思い込んでたことが実は知らなかったと気づいたときのほうが驚きは大きい。何も考えずにライハの一部として鵜呑みしていた歩き方の正体に、ハルユキは驚きを隠せなかった。

 人に歴史ありというやつだろうか。それにしてもロリィタファッションのライハなどという奇妙なものは想像しがたい。

 髪と目の色こそ派手だが、それはファッションでも何でもなく単なる色素欠乏症。これといったこだわりも見せず制服をきちりと着こなし、長い髪をぼさぼさのままに流している今のライハからはあまりにもかけ離れた姿にハルユキはため息をつく。

 黒雪姫も似たような、そして確実にその根底を非とするため息をついた。

 

『おそらくキミは誤解しているだろうが、あいつの髪型はセットしてあれだぞ』

『へ?』

『キミの前で髪を広げた時に整髪剤云々言っていただろう? あれは整髪剤で整えたという意味じゃない。整髪剤を落としても痛んでいないと言っていたんだ。

 あいつの髪質はもともと癖が無く、きめ細かい素直なものだ。それに毎日三十分以上かけて手入れしているから艶もある。それをわざわざ、キャラ作りの一環としてぼさぼさ頭に整えているんだ』

『な、なんでそんなことを……?』

『あいつの思考回路を私が理解できるものか。……まあ、長い髪でいる理由なら聞いたことがあるがな』

 

 黒雪姫は己の黒ビードロのような艶やかな髪に指をくぐらせた。あまりに艶めいた光景にハルユキは思わずぐびりと生唾を飲み込んでしまう。それに気づいた黒雪姫は一瞬にやりとした笑みを浮かべると、周囲に目をやってすぐに引っ込めた。

 

『長い髪を維持するには、何かと手間がかかるんだ。だから余裕が必要とされる。時間的にはもちろんそうだが、精神的な余裕もな』

『精神的な、余裕……』

『あいつが言うには長髪は真っ先に部位破壊の対象になるらしいから、安全的な余裕も加味されるかな? あいつなりのジンクスらしいぞ。長い髪が美しく保たれている間は、自分は大丈夫、とな』

『安全……ジンクス……』

 

 馬鹿みたいに黒雪姫の言葉を単語単語で復唱するしかできない。そのときのハルユキの脳裏には、あれほど想像しにくかった髪の手入れをするライハの姿がありありと描かれていた。

 あのときに見た艶やかな癖のない白と灰のまだらに染まった髪を、微笑を浮かべながら梳る少女。

 風呂上りなのかシャツ一枚というあられもない姿で鏡の前に座り、湿り気の残った髪をゆっくりと梳く。だいじょうぶ、だいじょうぶと腕を一度動かすたびに呪文のように、願うように唱え、自分自身に刻んでいくその光景は美しくも、涙が出そうになるほど儚かった。

 きっと黒雪姫には理解できない。最後の最後まで、本来人間であるならば譲ってはいけない領域を侵された人間が自分を守るために自分に課すルールなんて。

 ハルユキの場合はバーチャル・スカッシュ・ゲームがそうだった。あそこで無心にボールを弾き返している間は大丈夫だと、自分に言い聞かせることができた。

 彼女は何を思ってその最後の防壁を、乱した姿で社会に出るのだろう。ハルユキにはわからない。でも、きっとそれは悲しいことだ。正しくないことだ。間違っていることだ。

 なのに何もできない自分が、破裂しそうになるくらい悔しかった。

 

『ハルユキ君……?』

 

 心配そうにのぞき込んでくる美しい少女を見やる。そう、彼女は優秀だが、完璧ではない。まるで現実味がないほど完成された才色兼備の麗人だが、絶対ではないのだ。

 

『いえ……よくご存じなんだなって、思って』

 

 ハルユキは、誤魔化した。どうして自分でもそうしたのか、自分でもよくわからない。本当なら彼女にライハのことが理解できるように働きかけるべきなのかもしれない。

 たとえ本当は黒雪姫はハルユキが理解できた部分なんてとっくの昔に承知していて、自分がまるで見当はずれのことを偉そうに教えようとしているのではないか、などといった被害妄想が湧き出ようが、恐れずに進むべきなのかもしれない。

 その程度の恩義は彼女たちに感じていると思うし、その程度の恐怖なら跳ね除けられるだけの心の強さは身に付いたと思う。でも、結局できないということは、やっぱりハルユキは好意にも恩義にも目を瞑って耳をふさいで自分が傷つかないことだけを考える惰弱で軟弱なままなのかもしれない。

 わからない。ただ黒雪姫とライハの道が交わる機会が一つ失われたという、淡々とした結果が一つ残るだけだ。

 黒雪姫の顔が曇る。

 

『ン、それは、だな……』

「なーに話しておるんじゃ?」

 

 噂をすれば影が差す。

 ふにゃんと後頭部に押し当てられた、明らかに生き物特有のやわらかさと温もりに満ちた物体にハルユキの思考はジメジメとした葛藤から白濁、そして硬直へと移行を余儀なくされた。

 

「おい、来春が乱入したぞ。これがリアル三角関係というやつか。何がどうなるかまるで予想がつかんが修羅場になればいいのに」

「あれほど幸せそうだった二人の間に割り込むなんて、さすが来春だ。いつもあいつが介入した以上は通り台無しになってしまうのか、なるんだろうな。心が痛むぞざまあ」

「年上のお姉さま二人に挟まれてなんて羨ましいんだ。代わってもらいたいとは絶対に思わんが」

 

 思考が停止しても、いや思考が滞ったからこそハルユキの脳は無心に周囲の音を拾い集めた。周囲に敵が多過ぎである。

 年上のお姉さまって意味被ってんだろうが。荒谷か。

 そんな見当違いのことを調子はずれに考える。何気に荒谷のことを思い出しても心の疵が痛まないのは初体験だったのだが、気づく余裕は彼にはなかった。

 

「らっ……ライハァッ! 何やっているんだお前は!?」

「いやあ、一度やってみたかったんじゃよなぁ、『あててんのよ』ってやつ』

「ソーシャルカメラの前でやるやつがいるか馬鹿者っ。今すぐにその羨ましい態勢、じゃなくてけしからん真似をやめろ!」

「大声で喚くな黒雪姫、まるで儂がいけないことを大衆の前でしておるようじゃろうが」

「そのまんまだろうがっ!」

「ふふん、羨ましかろ? 心配せずともこの程度の接触では最悪厳重注意くらいじゃよ」

 

 普段の年齢不相応の落ち着いた雰囲気をかなぐり捨てて声を荒げる黒雪姫に、相変わらず噛み合っているような、いないようないつも通りの調子のライハ。ちなみにこの間もハルユキのぷくぷくとした首の両脇にはブレザーに包まれたほっそりとした二の腕が回されており、後頭部の圧迫刺激は思考停止信号となってハルユキの脳を支配している。

 が、さすがにしゃこんという乾いた音と共に『ワイヤード・コネクション』の警告表示が視界を埋めるにあたって、ようやくハルユキの思考も再起動を始めた。ライハが自前のXSBケーブルをハルユキのニューロリンカー端子に差し込んだのだ。

 黒雪姫が警戒も露わにライハを睨み付ける。

 

『おいライハ、いったい何のつもりだ?』

「いいからとっとと彼を離せ!」

『何のつもりもなにも、この場で大声でブレイン・バーストについて話すわけにはいかんじゃろ? 別に儂個人としてはいっこうに構わんのじゃが、そういうルールじゃし』

「あいあい。確かに衝動に駆られたからと言って、他人の恋人に無断でやるのは礼儀知らずの恥知らずじゃったよなあ。悪かった」

 

 器用に思考発声と肉体発声でまるで別のことを話す少女たち。思考発声はその原理として、言葉を発しようという肉体の運動信号を読み取って音声化しているためかなりの高等技術のはずなのだが、彼女たちにとっては造作もないことらしい。

 ちなみにハルユキは電子面のリンカースキルに置いては周囲から突出している自負があるが、このような肉体面を伴うともう無理だ。今だって鼓膜と脳を揺らす二通りの会話をたどることすら覚束なくなりつつある。

 するっと腕を解いてハルユキから離れたライハだったが、彼女の手持ちケーブルの五十センチという制限ゆえにどうしても三人で身を寄せ合う形となった。

 腰まで伸びるその白と灰のまだら色の長髪は、まるで手入れなどしていないようにぼさぼさで、ハルユキの胸がじくりと痛む。その視線に目ざとく気づいたライハがこてんと首を傾げた。

 

「おろ、もしかして儂のことを話しておったんか? 黒雪姫とは去年の夏の初めから学年が変わるまでの半年間同棲しておったから、どうしてなかなかこやつ、儂のことに詳しいじゃろ?」

『先日のケーキ君の伝言を伝え忘れていたことを思い出してな。えーと、たしか……《次の機会は本気で遊びますから》じゃったかな? 他にも何かあった気がするが、思い出せんということは些細な問題なんじゃろう』

「言葉を選べ気持ち悪い。同棲でなくて同居と言え」

『そうか……。忘れ去られた部分があまりにも不吉すぎるが、嘘ではないようだな。覚えておこう』

 

 多種多様な情報が交錯して酔ってしまいそうだ。ぐらぐらと揺れるような視界を抑えつつ、それでもハルユキは反射的に己の中で最優先事項にある加速世界関連の情報を拾っていた。

 ケーキ君とはもしかして、イエロー・レディオのライハの中での呼称だろうか。正直な話、五十名以上で囲まれた時はそのプレッシャーに気圧されたものの、その後にライハとユキカゼの活躍でしっちゃかめっちゃかに引っ掻き回されて、さらには災禍の鎧到来で前座扱いとなり、あまりハルユキの印象に残っていない。

 その彼がいかにも互角に戦った後の悪役のようなセリフを吐くのは、なんだか少し違和感があった。しかし、黒雪姫は違うものを感じたようでその声には深い感慨の響きがある。夜戦ステージで二人きりでいた時に、何かあったのだろうか。疑問を感じるも、深くそれを掘り下げるだけの余裕はなかった。

 彼女たちの会話は現在進行形でどんどん進んでいくのだから。

 

「おいおい黒雪姫、まだ怒っておるのか? もう謝ったじゃろうが。反省しておるようじゃし許してやれや。上に立つ者として、いつまでも済んだことをぐだぐだ気にかけるのはどうかと儂は思うなぁ。人の目が前にだけついておるのは、過去を振り返らん為じゃぞ?」

『こやつ、私デキル女ですみたいな顔をしておいて私生活はまるでだらしなくてな。掃除洗濯家事炊事、すべてダメな愚図だったんじゃよ。いや、整理整頓だけは上手かったかな、そつのないエリートらしく』

「どこかで拾ってきたような継ぎ接ぎな良い言葉を吐くな。腹立たしいわっ」

『なっ、貴様それをハルユキ君の前でいうか!? それに今では一通りできるようにはなったぞ!」

「取り付く島もないとはこのことか。傷つくのう」

『儂が仕込んでやったからじゃろうが。碌に皮むきも出来んくせにピーラーも用意しておらんかったときには眩暈がしたぞ。できないことはできないと認めて、ちゃんと簡単にするための手段を準備せんかい』

 

 表面上はつっけんどんな対応を取る黒雪姫という珍しい光景に注目が集まっているが、思考発声からは怒りの色を感じないところを見ると演技、いや、ポーズ的なところがあるのかもしれない。

 ライハもライハで傍若無人な対応なように見えて、黒雪姫の私生活にあたる情報はちゃんと思考発声でやっているのだから実は気遣い皆無というわけではないのだろう。

 二人の間で明確にルールが定められた、じゃれ合いのようなもの。

 そう認識出来てきた最近、ハルユキは彼女たちのこのような掛け合いを見るのが嫌いではなかった。表面上ケンカのように見えるからこそ逆に安心して見ていられるというか、そんな奇妙な感覚があるのだ。

 そろそろポンコツなハルユキの脳では思考発声と肉声の並列処理(マルチタスク)に限界が来たので、ハルユキは表面上は喧々囂々とやり合う鼓膜の振動を切り捨て、自分にとってより重要度が高そうな思考発声の方に焦点を当てることにした。

 ハルユキだって年頃の男の子である。年上で完璧超人に見えるこの恋人の、意外にダメな一面などというギャップ萌えの概念が具現化したような情報に興味を示さずにはいられないのだ。

 

『む、貴様だって言うほど料理が上手いわけじゃないだろう』

『リンゴの桂剥きができたら素人としては十分よ。ちゃんと食えたじゃろう? ちゃんと美味かったじゃろう? 家庭料理ならそれで十分。二次元じゃあるまいし、プロ並みなんてそうそう学生と二足の草鞋でいてたまるか。最前線で疲労骨折になるまで包丁を振るうプロの人に謝れ。

 ……と、最近は『二次元』という言葉も廃れてきたんじゃっけ。絵本までフルダイブやホログラムで三次元な時代じゃからのう。羨ましいやら哀れなやら。液晶に区切られた向こうの世界だからこそ、遠慮なく抱けた感情というのもあったというのに。実際に嫁が向こうから跳び出たところで、興醒めするだけじゃろ?』

 

 相変わらず、話題に一貫性が無い。舌の回転は速いくせに相手と会話しようという気が無いから、節操なくあっちこっちに話が流れるのだ。ただ、今回は珍しくライハはそこで言葉を区切り、自分からもとの話に戻ってきた。

 

『と、話がずれるところじゃった。それだけ偉そうにのたまうということは、ちゃんと自炊して食っておるんじゃろうな?』

『う、それは……』

 

 表情にも肉声にもまったく影響を出さずに怯むという器用な真似をする黒雪姫に、ライハは同じく器用に表面上の会話に合わせてにやりと笑みを深めて人差し指を振って見せる。

 たとえお互いに理解し合えておらずとも、黒雪姫とライハはたしかに繋がっている。そう感じさせる光景で、会話の内容だった。

 だったら、自分がわざわざいらぬ口を挟むのは逆に迷惑なのではないだろうか。

 その思いに対抗する術を、ハルユキは持たない。たとえそれが甘く堕落するマイナスへと続く道のりだったとしても。上手くいっているように見える関係に波紋を作ってまで修正しようという積極的な、独善的な強さを、ハルユキはいまだに持てていないから。

 

『おいおい、以前にも言ったじゃろうが。この時代のレトルト食品は凝り性の日本人らしく、味も栄養も金さえ出せばかなり高品質なものが期待できるが、それでも所詮レトルトじゃ。保障されるのは人間が発見した栄養素のみ。生の食材を料理して食べた時に身体が感じる滋味には及ばんぞ?』

『ぐ、こんなときばかり正論を……』

『そんな食生活じゃからアスパラガスのようななまっちろくて貧相な身体になるんじゃよ』

『白さも貧相な体つきもお前には言われたくないわ! だいだいアスパラガスは基本緑だろうがっ!』

 

 たしかにスレンダーな体つきも、メラニン色素が足りているのか不安になるような肌の白さも、黒雪姫とライハは案外共通している。

 ただ、全体としてみると黒曜石と処女雪で世紀の芸術家が作り上げた渾身の傑作と、半病人くらいの差が出るのが非常に不思議だったが。

 

『まあ、たしかに胴回りは儂の方が細いな。でも胸囲は儂の方が上じゃぞ?』

『なんでお前が私の数値を把握しているんだ!?』

 

 なんだか聞いてはいけない方向に話が流れてきた気がする。だからと言って口を挟めるわけがなく、ハルユキはだらだらと脂汗を垂れ流すしかなかった。ケーブルを引き抜くという単純明快な逃避方法を思いつけなかったのはそれほど追い詰められていたのか、はたまたハルユキも男だったということか。

 

『何でか知らんが、全体的にやせっぽっちのくせにトップの数値だけは同年代の平均あるんじゃよなぁ、儂。カップのサイズはトップ(胸の先端)とアンダー(胸の輪郭部分)の差で決まるから、アルファベットに換算すれば黒雪姫と儂の間には越えられない壁が――』

『戦争か? 戦争を求めているのか、お前は』

『まあ、トランジスタグラマーを名乗るには概算でも二回りほど足りんがな。将来に期待……してよいものか。前世(まえ)を考えると望み薄なんじゃよなぁ。

 そもそも、あんまり胸が大きくなると服が似合わんくなるだけじゃしなあ』

 

 思考発声のみで構成される極冷気のプレッシャーに聞いているハルユキの方がひえーと首をすくめたくなるのに、ライハは相変わらずのマイペース。会話のキャッチボールはおろかドッヂボールさえ通り越し、彼女の話題は投げ槍となって勝手気ままに投じられる。

 話題が悪かったのか、走馬灯の亜種か、なぜか先ほどの後頭部の感触を思い出してしまい、必死に頭を振って煩悩退散を試みるハルユキにその琥珀色の目が向けられ、にやりと細められた。

 

『そうじゃ。一人では作り甲斐が無いというのはよう理解できるし、ハル坊に食わせてやるという目的があれば意欲も湧くのではないか?』

『へ……?』

『なっ』

 

 突然話題の渦中に放り込まれマヌケな声と表情を晒すハルユキと、こればかりは内にとどめておくことが出来ず表情を変えて頬を紅潮させる黒雪姫をしり目に、ライハはうんうんと、とても楽しそうに頷いた。

 

『我ながら名案じゃな。自分の脳みそが恐ろしいわい。儂の家からもハル坊の家からもぎりぎり徒歩圏内じゃし、これから毎週金曜日は黒雪姫の家でカレーパーティーにしよう。うん、そうしよう』

『お、おいライハっ、勝手に決めるな』

『なんじゃ、嫌なのか? 別に恋人も呼べんほど散らかっとるというわけでもなかろうに。エリートらしく、整理整頓は得意じゃもんな』

『い、嫌というわけではないがな……』

 

 表を取り繕う余裕もなくもごもごと俯く黒雪姫に、周囲は急に黙り込んでいったい何事かと怪訝な顔をした。すぐにその原因と思しきライハに対し非難の視線が集中するが、所詮はありきたりで人並みな負の感情。真正面から透き通った鏡のような琥珀色の瞳に迎え撃たれ、例外なく目を逸らす。

 周囲をぐりりと見回して一網打尽に仕留めたライハは、その目をまっすぐハルユキへと戻した。

 

『な、ハル坊だって黒雪姫の家に行ってみたいじゃろう? 手料理を、食べてみたいじゃろう?』

『卑怯だぞっ、ハルユキ君に聞くだなんて』

 

 まさにそれは甘く滴る悪魔のささやきだった。

 恋人の家に遊びに行って、手料理までごちそうしてもらえる。しかも、この流れだと毎週。相手はあの黒雪姫だ。いつものハルユキなら錯乱気味に拒絶するか、期待や憧れ以上に恐れ多いと、恐怖にも似た怯みを感じてしまうのだが、いまだけは例外だ。

 だって、ハルユキは悪くないのだから。

 先導しているのはライハであり、ハルユキはそれに流されるだけ。さらには黒雪姫の食生活の改善という大義名分さえも用意されている。

 形だけは文句を言っていた黒雪姫も、まるで何かを期待するかのようにこちらをちらちらと見ているのだ。夢か、そうでなければ詐欺か何かなのではないかと疑ってしまうようなローリスクハイリターン。

 逃げ道を塞がれ、ご丁寧に正面の道だけは舗装され、思春期真っ只中の青少年に抗う術はなかった。

 

『えーと、あの、ですね……実は僕も食生活はあまりいいとは言えない環境でして。冷凍ピザとか、基本的に冷凍モノで済ませてしまうことが多いんです』

『む、それはいかんな。冷凍食品は旬の食材を使用していて栄養価が高いこともあるが、キミの場合はどうせ前時代から脈々と受け継がれてきた高カロリー高塩分の食事というより嗜好品の面が強いものばかりだろう?』

『は、はあ。おっしゃる通りで……』

 

 なんだか大真面目にままごとでもしている気分だ。客観的に見てもそうなのか、ライハの軽薄な笑みはもう零れ落ちんばかりに深められている。

 でも、この話の流れを無視して突如として挟まれた世間話のようなやり取りは、ハルユキと黒雪姫の今の関係では必要不可欠なステップなのだ。一足飛びに勢いに任せてならともかく、素面で切り出すには二人とも最後の一歩で尻込みしてしまうヘタレなキャラなのだから。

 

 ――言え。だから週一とはいえちゃんとした食事を誰かが作ってくれたらありがたいなーとか、いや、それじゃあライハさんが乱入してきかねないからもっと具体的に先輩のごはんが食べてみたいですとか、とにかく言うんだ僕!

 

 心臓はウサギのように飛び跳ねている。この季節だというのに全身から汗が止まらない。喉がカラカラで咥内の皮膚がくっつきそうだ。

 言うべきことはわかっているのに、直結による思考発声だから舌がもつれたりなどの鈍くて重い肉体の邪魔も入らないのに、それでも最後の最後でハルユキは己の内で暴れる言葉を吐きだしきれず、ヘタレた。

 

『で、でも最近はチユが食事に呼んでくれたりして、以前よりはマシになっているんですよ』

 

 これは戦略的一時撤退だ。だからすぐに取って返して追撃に移るんだと自分に言い聞かせる。

 ちなみに、一時は疎遠になっていたチユリとの関係が修復されつつあることも事実だ。ブレイン・バースト関連で彼女の怒りを買ったことは事実だが、同時にブレイン・バーストは幼馴染三人の輪に亀裂を入れていた最大の原因たる互いへのコンプレックスを緩和してくれた。

 決して消えたわけではない。むしろ、表面化したと言っても間違いではないだろう。ただ、椅子の下に爆弾が眠っていると知っているのにも関わらず、爆発するその時間まで座り続けていなければならないようなプレッシャーからは解放された。三人が三人とも意識しながら見て見ぬ振りをしていた近い将来の破滅はひとまず回避されたのだ。それは素直に喜ぶべきことなのではないだろうか。

 タクムが親友と胸を張って言える関係になった今では、チユリの家へと向けられる足運びも少しは軽くなろうというものだ。とはいえ、もちろんハルユキが積極的に訪問できるはずもなく、今までは何かと理由をつけて断っていた定期的なチユリママからのご招待を、受けるようになったという程度なのだが。

 

『――ほう』

 

 黒雪姫の口調が一気に冷えた。

 理屈より先に本能でやべっと身構える隙も有らばこそ。

 

『それは倉嶋君に感謝しなければいけないな。だが、いつまでも彼女の面倒見の良さに甘えているわけにもいくまい。ここは先輩であり、恋人である私がっ、お節介を焼かせてもらおうか。なあハルユキ君?』

『は、はひっ』

『今週から金曜日、キミを私の家にご招待してもいいものかな?』

『はっ、はい! 光栄です!』

 

 ゴゴゴゴゴ……と立ち上る漆黒のオーラにハルユキはひええええと全面降伏するしかなかった。もしも犬に生まれていれば迷いなく喉と腹を晒したことだろう。

 

『そうか。それでは拙いながらも腕を振るわせてもらうことにしよう』

 

 状況も忘れて見惚れそうにになる艶然とした笑みを浮かべる黒雪姫だが、その温度は氷点下。ぎちぎちと音を立てて空気が凍り付いていくのが見える気さえした。

 いったい何を間違えたのだろう。いやたぶん話題を間違えたのだろうが。ハルユキは泣きそうになりながら思う。

 これは一昔前のギャルゲーに即して考えれば間違いなく選択肢を間違えたヒロインの反応だ。しかし、なぜか恋人の自宅訪問というご褒美なイベントルートが確定しているっぽい。一筋縄ではないか無い現実の複雑怪奇さに改めて戦慄した。

 助けを求めるように逸らした目が、にやにやとこちらを見ていたライハとかっちり噛み合う。

 

 ――やったなハル坊。アシストをしたのはたしかに儂じゃが、ちゃんとゴールは自力で決めよった。

 

 褒められた気がした。肉声はおろか思考発声すら無かったのに。

 代わりに聞こえたのはずうずうしい提案。

 

『よし、決まりじゃな。儂も雪風と食材を連れて向かうわ』

『おいっ、お前も来るのか!?』

 

 ばっと黒雪姫が振り向き、二十五センチの制限に引っ張られたハルユキの首が変な音を立てた。もちろん年上のお姉さま二人が気にかける様子はない。

 

『当たり前じゃろう。おぬしがハル坊を押し倒したら困るし』

『ばっ……バカモノッ! するかそんなこと!』

『そんなに反応するなよ。本気にするぞ? どうせおぬしのことじゃから、そういうことはちゃんと社会的な立場と生活基盤を確立させてからやりたいよなあ。理性が強すぎるおぬしでは、勢いに任せてのアバンチュールはできぬよなあ。つまらん奴じゃ』

『ぐ、ぬぬ……。言わせておけば』

 

 狼狽したり赤面したりと忙しい黒雪姫に、基本的に飄々とした笑顔で固定されているライハ。そんな二人のやり取りを見ていると、なんだかハルユキは彼女たちの関係が気心の知れた友人というより、もっと違う関係に思えてきた。

 刺激的すぎる会話の内容から現実逃避しているというのとは、たぶん違うと思う。

 

『本当は人手が必要じゃろうという気遣いじゃよ。おぬし一人では失敗したときに潰しが効かんじゃろう? 記念すべき第一回のお手製料理イベントを、気まずい沈黙と気遣い溢れる笑顔で埋めるつもりか?』

『ぐ』

『変なところで不器用じゃからのう、おぬしは。プレッシャーに強いのは儂も認めるが、こういう方面は不慣れじゃろう? リアルで砂糖と塩とか間違えそうじゃ』

 

 なんだか、姉妹のように見えたのだ。

 勝手気ままな姉に、振り回されるしっかり者の妹。

 身長は黒雪姫の方が高いのに、何故だかそんな気がした。そのように考えれば遠慮が無い黒雪姫からライハに対する態度も、それでも切れない不思議な二人の繋がりも、納得できる。

 もし黒雪姫にこんなことを考えていることが知られたら、きっと彼女は声もなく崩れ落ちるだろうが。

 ハルユキが優しい目になっていることも気づかず、黒雪姫はそつのない優等生の仮面をかなぐり捨ててライハと口論している。

 

 残り短い昼休みであることを忘れるくらいにぎやかで、滅茶苦茶な日常。

 コミュニケーション能力が落第点のハルユキはそんな毎日を乗り切るのが精いっぱいで、だから気づくことが出来なかった。

 

 

 

 二股騒動なんてニュースが学校に広まっていたのにもかかわらず、真っ先に突撃してきそうな幼馴染が、今日一日ずっとうわの空だったことに。

 




余篇に続く

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