須美の救出に向かう銀は、再び対峙した西暦の亡霊により意識を奪われる。須美は大量の呪いを浴びてしまったが、果たして──
第十五話 神代再来
ねっとりとした視界が広がる。四肢には鉛がぶら下がり、喉の奥には泥の塊が詰め込まれている。磔の私は、我を忘れて手を伸ばす。関節が引きちぎれる。痛みは足枷にならなかった。私は叫ぶ。行くな。頼むから。やがて恐怖で詰まる声。それでもあの子は、あるべき場所へ還るのだと示すように、抜け殻の笑顔で羽ばたき、心身を天地に献上した。
その音は聞こえなかった。それだけが救いだった。彼女の現在と現実を繋ぐまでの猶予が、何よりも必要だったから。
けれど、きっとそれすらも与えられるべきではなかった。そこで、すぐに彼女の後を追うべきだった。そうしなかったのは、彼女ほど追い詰められてはいなかったからで、だからこそ、なおさらそうするべきだった。なんて愚か。愚か故に、私は未だ生を貪っている。
だったら、だけど、そうだ。過去を変えることは出来ないが、未来を終わらせることは出来る。これから生まれる過去を、なかったことにもできる。ああ、ならいっそ、ここで──
違う。
下りる視線。回る眼球。掌に宿る、肉を穿った記憶。刀身は、唯一無二の絆を吸って震えている。
『そんなの、許しませんから』
ああ、ああ、ああ、ああ。あぁ……。
「は……」
暗闇。温い汗が、首筋を舐める。
上体を起こしつつカーテンを開くと、月光が全身を貫いた。
時計の針は右九〇度でぴったり重なっていて、秒針の音が、こちらを見るなと咎めている。
少女は少しの思考の後に、寝間着を脱ぎ、袴と胴着を身に纏う。数分の後、摺り足で縁側をなぞり、音もなく道場に足を踏み入れる。
神棚の下、供え物のように飾られた真剣。意思を超えて震えだす我が身。それは抑えつけることが出来ないと、何度も思い知らされてきた。けれど諦めきれなくて、立ち止まることが既に怖くなって、自分が立っている場所すら朧げなままに、その下へと歩みを進め。そして、月と星々に見つめられながら、意を決して手を伸ばした。
間もなく呼吸が乱れ、心臓が上体を後ろへと押しやる。脚が重い。関節が石化した。それでも、指先に執念を込め、不可視の縄を破ろうともがく。
「あ、あ……う、ああ……」
眼輪筋が歪む。時折、ガチガチという音が口内から頭蓋を揺らす。いつしか遠く耳鳴りがして、全ての振動が深海に堕ちた。
「あ……ああああああああああ!!!」
何も見えなくなって倒れこんだ。生きるために喘いで、細糸のような気道に酸素を掻き集めた。指先さえも思い通りにならなくて、まるで四肢がもがれたまま暗闇の底に放り出された気分だった。それで何も出来ないと痛感して、同時に、ほっとして、情けなくて、うずくまって、泣いた。自分が、よくわからなくなった。
『何事にも報いを。それが乃木の生きざまだ』
祖母の教え。私はその意味を、正しく理解していたのだろうか。ただ、悪意には悪意を、善意には善意で返す、それだけじゃだめだってこと以外、分からないまま。
あの日から、刀が持てなくなってから、体と共に、心が錆びた。私は、もう、居合の道を引き返すしかないと思った。
祖母は言った。「今のお前にこそ、真に刀を持つ赦しがある」と。言わんとすることは分かるような気がする、けれど、私は、赦しが欲しかったわけじゃなくて、ただ、大切なものを守りたかっただけだった。
もう、嫌だった。刀に救いを求めてしまう自分も、蜃気楼に溶けていく未来も。
自分の価値を見失った途端、世界すら、機械仕掛けに感じるようになり。なんだか、もう。
「はあ……」
「24回目。それ逆に疲れません?」
とある電鉄の中、並んで座る二人一組の制服の少女たち。窓際に座るは乃木若葉。小麦色の髪を後ろで結んだ、凛々しい顔立ちの中学二年生。同じく上里ひなた。黒い長髪、前髪をリボンで上げた、目尻の下がった若葉の同級生。
「退屈そうですし、パンフレットでも読みます? 博識な若葉ちゃんのことですから、大体は既にご存じでしょうか」
「ああ……どうだろう」
どこか上の空の若葉にむっとしつつ、パンフレットを開くひなた。
「いいですか若葉ちゃん、我々が向かっているのは島根県出雲市。そこの観光名所たる出雲大社は、全国各地の神様が一堂に会するまさに神社の中の神社。シュラインオブシュラインなわけです。で、若葉ちゃん、貴方は今何のためにそこに向かっているのでしょうか」
「……えっと」
「あのですね若葉ちゃん、私たちは本来既に現地に到着しているはずなんです! なぜそうなっていないか。それはあなたが寝坊したからですよね!?」
「ああ……すまん、お前を巻き込んでしまった」
「あなたと一緒に向かっているのは私の意思ですから別にいいですけど。問題はその態度です! 一体いつまで……」
しまった、とひなたの表情が叫ぶ。若葉は目を逸らし、トンネル内で真っ暗な窓の向こうに何かを探しているふりをする。
「……ごめんなさい」
消え入るような声がして、若葉は唇を噛む。
「……お前が謝るのは……おかしい」
若葉は結局、そんなことしか言えなかった。それじゃ足りないと分かっていた。自分にはそれが精一杯だということも。
だけどそのままにする踏ん切りもつかなくて、少しだけ俯いた顔を上げてみても、彼女の右手が脾腹を抱えているのに気付いて、若葉は萎むように瞼を閉じる。
もう、何を言えばいいのか分からなかった。
「おお、着いたか、乃木。まあ楽しみで眠れなかったんだろう。過ぎたことだ、とにかく楽しみなさい」
「はい……」
出雲大社の“中の鳥居”が、各々が大社を巡った後の集合場所となっている。今から1時間半弱、15:00までの間は自由行動だ。若葉は一礼し、境内に向かう。
「乃木が遅刻か……あいつ、大丈夫ですかね? 小学校の頃はもっと元気で成績もよかったって聞いてたんですがね」
「まあ中学生なんてまだまだ子供ですからねえ、シシュンキですよ、シシュンキ」
「……」
教師のたわごとを拾いながら、ひなたは孤独な背中を追う。
「ふう、ちょっと若葉ちゃん、なーんで先に行っちゃうんですか!」
「ひなた……」
「ほらほら、自由時間、目いっぱい周りますよ。広いんですからね」
「……」
境内を進んでいく。平日だが人はそれなりに多く、植木の隙間から日光が視界を照らしてくる。神々の集会場らしく、厳かというよりは賑やかな神社だった。観光客やクラスメートは、御守所のある本殿、もしくは大しめ縄のある神楽殿を目指して歩いているようだ。
「まずは神楽殿ですかね。行きましょう、若葉ちゃん」
そう言って、若葉の手を引いて歩く。しかし、すぐに若葉は歩みを止めてしまった。ひなたは怪訝に振り返り、首を傾げる。
「やっぱり、一人で周らせてくれ」
俯き、震える声で、そう告げた。ひなたの表情は、確認せずともたやすく想像できた。
「え、どうして……」
「それが一番いいんだ」
繋がれた手を解く。逃げるように、足早にその場を去る。少しして振り返ると、立ち尽くすひなたの周りにクラスメートが集まっていて、それでも彼女はこちらから目を離さずにいた。今にも泣きそうな顔をして。
気付かないふりをした。これでよかったのだと言い聞かせて、そうやって、やがて、日差しも人々の声も、木々の擦れる音も、世界から締め出されていく。ふと顔を上げると、そこは既に神楽殿で、大しめ縄が委縮した彼女を見下ろしていた。
しめ縄には、結界の役割があるらしい。神の領域にある何かを、こちらの世界に漏れ出でぬよう塞いでいるのだ。
出雲大社とは、大黒様ことオオクニヌシが、国譲りと引き換えに、天に住まう神に建てさせた、いわばオオクニヌシのために作られた神殿のようなもの。ということは、あのしめ縄が抑え込んでいるのは、天の神に国を奪われたオオクニヌシの怨念なのだというのが、一説として存在する。
それなのに、オオクニヌシの御利益を受けるために訪れる人々は、誰もあのしめ縄を外してやろうとは考えない。自宅を全国各地の神々の集会場にされ、かつて散々面倒を見てやった人間には観光地にされ、そのくせ自分はそこから一歩も出られない。まさに不遇の神である。
そんなことをぼうっと考えながら、神殿に近づいていく。長さ約13メートル。間近に見るとさすがの迫力であった。
「はあ……」
自分の心の揺らぎを自覚して、また嫌になる。何を楽しんでいるのだろう。どうしてここに来てしまったのだろう。
遅刻は嘘だ。本当はここに来ないつもりだった。許されないと思ったし、そうあるべきだと思ったから。それで心配をかけてしまうということは分かっていた。ひなたにも、両親にも、祖母にも。けれど、心配なんてものを与えられる立場に自分はいないし、だからこそ自分は、もう二度と心配をかけなくてよいようにすべきなのだ。
ああ、そうだ。それさえも許されない。分かってるんだ。幻影を掻き消さんと拳を力いっぱい握りしめる。
気が付くと、あいつと、ひなたと、一緒にここで、笑いたいと、そんな夢がちらついていて、そんな現在を見つめて、ああなんて愚かなんだと、自分を殴りたくなる。
「もう、戻ろう……」
言い聞かせるように呟いて、振り返ろうと思った。思っていたんだ。神殿の奥より現れた、白絹を纏った少女の姿を見るまでは。
彼女は桃色の後ろ髪を結んで、宝石のような碧眼を見開いていた。かっ、かっ、と奇妙な形をした下駄のようなものを鳴らして、賽銭箱に飛び乗った。
はっとした。誰もあの少女に興味を示していない。ここにいる自分自身を除いて。
なにかがおかしい、もちろんそう思った。けれど、なんだか目が離せなくて、分析的な思考が、無粋なものとして奥へ奥へと追いやられていくような、というより、酒を飲んで、酔っぱらっているような、そんな白昼夢を見せられている。前頭葉が麻痺して、どうやら乃木若葉という少女は、三脚付きのカメラになってしまったらしい。
そして謎の少女は、両手を何度か握っては開いてを繰り返し、目を閉じて上体を捻る。そして波動のようなものを漲らせながら、銅像のふりをするようにじっと動かなくなり。瞬きの後には、数メートルほど離れていたはずのしめ縄に一瞬で身を寄せ、ボレーシュートの体勢で、木っ端みじんに粉砕していた。
インパクトと共に弾けたしめ縄はなぜか砂粒手のように細かい粒子となって、ざばあ、と真下にいた人々を飲み込んでいく。悲鳴が響き渡り、砂まみれの観光客はパニックになって転倒を繰り返している。
「押忍!」
見事な着地の後、現行犯は一仕事終えた、といった顔でそう叫んで、灰となり、風と共に消えた。
直後のこと。青空は曇天に塗り替えられ、稲妻が上空で疾走する。たちまち大地が揺れはじめ、若葉は膝をついた。
呼んでいる。誰かが私を、求めてる。
瞬間、その一念が全てを支配した。己が身体は思念の内に溶け、実感は精神に内包される。
地面を這う。その場から離れようなどとは微塵も考えなかった。ただ、呼び声のする方へ。それ以上の理由は何一つ持たず。目を見開いて膝を擦る。
地響きが収まった時、若葉の右手に握られていたのは、錆び付いた刀の化石。
ああ、刀だ。私、刀をまた、握れたんだ。
決意を漲らせ、立ち上がり、間髪入れず回り出す両足。何かがおかしい。すぐにひなたと合流しなくては。
「あれ……なんで、私はこんな古びた刀を握っているんだ……?」
ふと途切れる世界。何かが跳ね返るように口を突く疑問。
思考はいつになくクリアになっている。先ほど起こった全ての出来事は鮮明に思い出せる。だが、どうして刀が呼んでいると思ったのか。なぜそこに刀があると思ったのか。なぜあの状況で、刀の獲得を優先したのか。
「“どうでもいいか”」
そんなこと、どうでもいいじゃないか。今はひなたの無事を確認することが最優先で、それ以外の思考はいらない。いらないんだ。
肌に打ち付ける風の勢いが増す。上空に竜巻が渦巻いて、何か黒いものがそこから放出されているような。異常気象? 台風でもやってきたのか。先ほどの少女は? なぜしめ縄を砕いたのか? どれも分からない。だったら考えなくていい。“どうでもいい”。
「若葉ちゃん!」
「ひなた! 無事か!?」
ひなたは中の鳥居の近くの第二駐車場におり、クラスメートもそこに集まっていた。しかし全員ではない。何人かの女子たちはすすり泣いて、同様に少数の男子は過呼吸を起こしている。あとは何が何だかわからない、といった様子だ。
「……何があった?」
「私にもよく分かりませんが……“黒い怪物”を見たと……」
「……」
この状況で虚偽を語るとも考えにくい。“怪物”と形容したということは、我々にとって脅威の対象だということ。何人かのパニックの度合いは尋常ではない。
空を見上げる。黒い怪物。竜巻から放出されている“何か黒いもの”が、恐らくそれだ。ここから見て取れる黒いものの動きを見るに、相当のスピードで動いている。若葉は頷き、クラスメートに向き直り、大きく息を吸って唱える。
「バスに乗れ! 今すぐだ!」
「若葉ちゃん!? 先生がいないんです、勝手な指示は」
「死ぬぞ、私たち全員! いいから乗るんだ!」
「「「……」」」
有無を言わさぬ若葉の剣幕に、立ち尽くすひなたを含むクラスメート。表情を変えず若葉は静かにバスの入り口に立っていた男子のそばに移動し、その首根っこを掴んでは、バスの中に投げ飛ばした。男子は鈍い悲鳴をあげ、訳が分からないといった様子だ。
「の、乃木……?」
「乗れと言っている。乗れ。置いていくぞ」
一分も経たず、全員乗り込んだ。助手席には、ひなたが座っている。
「若葉ちゃん、まだ三枝さんが……」
「これ以上ここにいたら危険だ。出るぞ」
エンジンをかける。鍵が刺さったままで助かった。
「本気ですか……?」
「さもなければ死ぬ」
ハンドルを握る。ひなたからは、その腕には微塵の震えも確認できなかった。
無免許運転、何故か携えている古びた刀から察するに、窃盗も犯している。それでいてこの冷徹で迷いなき態度、加えてこの状況。普通じゃない。いつもとあまりにもかけ離れている。……というより、“戻っている”ような──
「!? ま、待ってください若葉ちゃん、三枝さんが来て……」
「「「きゃああああああああ!!!」」」
悲鳴はバスの内部からだ。女子らの視線の先には、浮遊しつつこちらに接近する巨大な“黒い怪物”。手足はなく、顔と思しき部位のほとんどを覆う程非常識な大口と縦長の歯のみが備えられている、丸々とした超巨大なミジンコの如き姿。それが、助けを求めてこちらに向かっていたクラスメートの骨盤から下を食い破る。表情は苦痛のみを反映。絶命の際に現世との楔を求め、右腕をこちらに伸ばす。怪物はそれをこれ幸いと引きちぎった。身に纏う衣服はすっかり真紅に染まり、間もなく性別の識別が不可能となった。
そして運転主と黒い何かの、存在しない視線が交差する。
人類の敵、後に星屑と名付けられる怪物と、後に英雄として祀られる少女の、邂逅の瞬間であった。