上里ひなたは廃れた神社、乃木若葉は根の世界へと飛ばされていた。ひなたはそこで会った巫女服の女と共に瀬戸大橋に向かう。若葉は根の世界にて二人の少女、土居球子・伊予島杏と対面する。
また、根の世界にてうどん屋の出店を開いていた店主は、化物の襲撃は天に住まう神によるものであり、世界を救う為には、四国にて顕現した土地神の集合体・神樹に、若葉が手に入れた剣を接続する必要があるのだと語る。その後試練と称し、彼は神話の怪物、八岐大蛇を三人に差し向けた。
「はいどちらさま」
ドアを開く。そこに立っていたのは、小さな女の子と、その母親。片手に吊るしている、おそらく菓子が入っている紙袋が視界に映る。この時点で、来訪の理由は大体察しがついていた。
「突然お邪魔して申し訳ありません。こちら土居さんの御自宅でよろしかったでしょうか」
「はい、そうですが」
「私、そちらの球子さんに、溺れそうになっていた娘を助けて頂いて。是非お礼にと」
……そうか。ずぶ濡れで帰ってきた、あの時だな。
「──ああそう、えと、溺れ……はい。失礼ですが、どちらで……?」
「確か、三崎港の辺りだったと……そうでしょ?」
「うん、そう……です」
女の子が、母親の袖を握りながら頷き、答える。教えてくれてありがとう、と微笑みかけ、また母親に向き直った。
「あの子、またぶらぶらと……すいません、今から呼んできますので」
そう言って、一度ドアを閉めようとするが、
「あ、あの!」
「は、はい」
親子の背後から、また親子が。
「恐れ入ります、土居球子さんのお母様でいらっしゃいますか?」
「え、ええ……」
「突然すいません、実はですね、お嬢さんに目を離した隙に車道に出ていた娘を拾って頂きまして……もう轢かれる寸前で、本当に本当に感謝のしようもなく」
「──あ、はい、お気になさらず……今、あの子を呼んできますので」
そう伝え、慌ててドアを閉める。その直前、二組目の親子の後ろにも数組別の親子が並んでいるのが見えた。小さくため息をつく。
そして廊下を進み、ノックもせず、娘の自部屋を思いっきり開く。
「球子!」
「うわっ!?」
悲鳴を上げ、手に持っていた懐中電灯を落とす娘。大きな鞄には、既に多くの道具が詰められている。
「あんたどこ行く気。明日の修学旅行の準備、ろくにしてないでしょう」
「いやぁ、ただの散歩だよ、散歩……」
「嘘! またぶらぶら出歩いて危ないことするんでしょ!」
「なっ、ちげーって、ただの散歩だってば。いや、ちょっと走ったりもするけど」
「ただの散歩でなんで何人も何人もうちに知らない方々が押しかけてくるのよ」
「え、あちゃー。やっぱ住所教えない方が良かったかなぁ。でもどうしてもって言うからさ」
「全く……とりあえず顔出しなさい」
──案の定、感謝に次ぐ感謝で、対応には時間がかかった。ようやく玄関からリビングに戻ると、テーブルには山のように高価な菓子が積み重なっている。中には数十万の現金を持ってきていた者もおり、断るのは骨が折れた。
球子は頂いたクッキーを小さな口でもぐもぐ頬張りながら、懐中電灯の電池を取り換えている。
「あのねぇ、球子。人助けはいいけど、港に飛び込んだり、車道に出たり、いくらなんでも向こう見ずが過ぎるわよ」
「へいへい、気を付けますよ~っと」
見向きもしない。こいつ聞いちゃいねえな。まったく、誰に似たんだか。
「……次危ないことしたら、アウトドアグッズ全部売っぱらうわよ」
「冗談……だろ?」
青い顔をしているが、ようやくこちらを見た。お小遣いを散々ぱらそれ系統の道具につぎ込んできた球子にとって、その行為は悪夢そのものだ。
「そう思う?」
二コリ、と笑いかける。本当は今すぐにでも破棄したいぐらいだ。例えそれが親のエゴだとしても、娘の命を守るためなら、嫌われたっていい。けれど、その程度でこの子を止められないということも、十分に分かっていた。だから、危ない時に、自分を心配している人がいるということを分かってほしい。それぐらいは、させておくれよ。
「……」
母ちゃん、結構怒ってるな、これ。返事も何もできず、電池をはめ込む手が動かせない。
……でもさ、そんなこと言ったって、自分の手が届くなら、その程度の不確実なリスクを理由に、引っ込めてなんて居られない。死にに行ってるわけじゃないんだ。それって、タマがおかしいっていうのかよ。
狼狽えてる間に、もっと遠くへ行ってしまったら、誰があの子たちを救うことが出来たんだ。
タマは危ないことをしているんじゃない。やれることをやっているだけだ。ただ、それがたまたま、よく考えると危険性がちょっとばかしあったってだけの話だ。それを理由に、あの子たちを見捨てるなんて、出来るはずがない。
タマがおかしいっていうのかよ。
──タマは、そんなこと認めねえぞ。
翌日。朝は早く、父ちゃんはまだ寝ている。玄関で母ちゃんの荷物チェックを受けてから、ドアノブに手をかける。
玄関の靴棚の上に飾られたじいちゃんの写真に、行ってきます、と伝えて、タマは集合場所に向かった。就学旅行先は島根。初日は出雲大社に行くらしい。
うちの学校はあまり人数が多くない。だから移動にバスなんて使わない。自家用車に、少人数で分けて現地まで向かう。修学旅行は何年のいつにやる、と時期が決まってなくて、それは全学年で一斉に修学旅行に行くからだ。タイミングによっては、一年生や三年生の時に行くこともある。
人数が少ないから、クラスメートとの絆はめちゃくちゃ強い。同じ車に乗るのは、特に仲のいい、安芸真鈴だった。
「おや。球子、寝坊せずに来たね」
「朝弱いのはますずの方だろ!」
軽口を言い合いながら、車に乗る。お願いします、と教員に伝え、その後走り出した。
「……ますず、ちょっといいか」
「え、なに?」
肩のあたり。ワイシャツの襟から、赤い腫れが見えている。ますずは寂しそうに笑って、自分でそこをつねった。
「づっ──」
痛々しい叫びを無理やり押し込めて、ますずは俯く。
「……またやられたのか」
「はは。ほんと良く気付くよねえ。蚊に刺されたってのももう通用しないし」
ごめん、と謝って、目を伏せた。
ますずは三年生だから、タマより一学年上。母親が生まれてすぐに死んで、小学生の時に父親が病死して。頼れる親戚もいなかったらしかったから、今は児童保護施設に預けられている。環境はあまりよくない、はっきり言ってサイアクだ。幼い子も多くて、ストレスのかかる職場らしく、それでいて閉鎖的な世界だ。職員に手をあげられることも珍しくないという。
「慣れたら大した事ないない。何年いると思ってんのよ」
「……」
どうしてやり返さないのか、とは言わない。その結果どうなるのか、他の子を見てますずはよくわかっている。飯と屋根があるだけでもありがたいのだと、彼女は口癖のように口にしていた。
他の大人たちに助けを求めたところで、何かが変わるわけではない。今の職員が解雇されたら、誰が代わりを務めるのか。やりようはある。しかし母数がそもそも少なすぎる。誰もやりたがらないし、やろうとしない。だから、仕方ないで割り切るしかない。耐えて、耐えて、耐えて、その先が今より少しは安らかでありますようにと、誤魔化しながらますずは生きている。何もできずにいる、タマ自身も。
「ますずはさあ、強いよなあ」
「ああ、まあね」
「そこ、謙遜するとこだぞ」
「強けりゃいいってもんでもないからね。強いほうがいいに決まってるけど」
「……? なんて?」
時々、ますずは言ってることがちんぷんかんぷんになる。きっと何か深い意味があるんだろうけど。
「にしても。職員の人たちが、ますずくらい強けりゃな」
「たらればね。夢のある話だけど、辛さしか残らないから、アタシは好きじゃない」
タマはムッとして、言い返そうとして、やっぱりやめた。確かにそうかもしれないと思った。けれど、空想の中でくらい、希望があったっていいじゃないか。
……そう思うのは、タマがますずとは違うからなんだろうか。
「まあ、悩みとか、不安とか、なんだか怖いものを自分の中に留めておくのって、結構難しいみたいだからね。みんな吐き出さないとやってられないのよ。そりゃ私らはいい迷惑だけどさ」
ますずの顔を見た。傷だらけの心を、諦念と笑顔で覆い隠しているように見える。タマは職員のやつらを徹底的にぼこぼこにしてやりたいと思って、乗り込もうとしたこともある。結局、直前でますずに止められちゃったけど。それなのに、どうしてますずはあいつらを許そうとしているんだろう。ますずの言ってることは正しいかもしれない。けれど、だからと言ってそこまで寄り添うことなんてないだろう?
「……どうして、ますずはそんなふうに考えられるんだ?」
「そりゃあ、私が強い人間だからだよ。それが私にとって幸運なのかは、神のみぞ知るってとこだけど」
強さ、か。
タマにはまだ分かりそうにないよ。ますずのその生き方が、ますずにとっていいことなのか。それとも、タマの心が狭いだけなのか。
許さないって、そんなに悪いことなのか。許すことが、絶対に正しいことなのか。
だってますず、お前の
─七年前─
「じいちゃん!」
笑顔を咲かせ、駆け寄る球子。
祖父はいつも縁側に座っていて、いつも孫を見て、いつも嬉しそうに笑う。
「タマちゃん、よく来たね」
隣に座った孫の小さな頭を、弱々しい掌が撫でる。
「もう球子、玄関からお邪魔してっていつも言ってるでしょ。挨拶もしないで」
「まあまあ、元気に越したことはないですから」
「ほらぁ! じいちゃんもそういってる!」
「全く……私も元気でいてくれた方がいいとは思ってますよ。でももう少しエネルギーの使い方を考えて欲しくて」
球子の靴を脱がせながら、祖父は母にうんうんと頷く。
「なるほど。でもね。こんなに全力で生きられるって、とっても凄いことなんですよ。タマちゃんみたいな子は、周りの人に力を与えてくれる。私だってその一人です」
「そうやってお父さんが甘やかすから調子乗るんですよ」
「はは。そう言いなさんな。これが老人の性ですよ」
球子の祖父は、既に妻に先立たれていた。誰もいない家屋で、静かに暮らしている。物は少なく、部屋の飾り物も、昔とある神主に貰ったとか言う古びた円盤のようなものだけ。自然を愛していて、無欲で、静かで、穏やか。常に球子の味方だった。球子にとって祖父は、優しい春の木漏れ日のようだった。
「なに、せんせい」
「お母さんからお迎え来たから、急いで帰りの準備しよう」
「え、なんで?」
「それはお母さんから聞いた方がいいかもね」
休み時間に、校庭で遊んでいる時のことだった。
この時は、全然何も考えていなかった。どうしてかそのことを、この先も球子はずっと忘れずにいる。
「じいちゃん、どうしたの」
「大腸っていうお腹の辺りのところがね、ちょっと悪くなっちゃったみたいなの」
「……じいちゃん、大丈夫かな」
「球子がいれば、きっと元気になるよ。飲み物買ってくるね」
病院のベッドで、祖父は横たわっていた。高い棒に繋げられたチューブが、掛布団の中に続いている。
“タマちゃんみたいな子は、周りの人に力を与えてくれる。私だってその一人です”
思い出したのは、祖父の言葉。ベッドに近付き、細い掌をそっと握りしめる。
「……おお、タマちゃん、来てたの」
「ごめん、起こしちゃった?」
「いやいや、来てくれて嬉しいよ」
「じいちゃん、大丈夫?」
「ああ、タマちゃんのおかげで、随分元気になった」
「ほんと?」
「ああ、本当だよ」
優しく笑う祖父。
球子はそれが飛び上がるほど嬉しくて、嬉しくて嬉しくて。毎日のように、病院に通うようになった。
「タマちゃん、また来てくれたのかい」
「うん、またすぐに来るよ」
「ほんとかい? 嬉しいよ。でも、忙しかったら無理しなくたっていいんだよ」
「無理じゃないよ。タマ、じいちゃんのこと元気にしたいからさ」
次の日、祖父は午前中に手術をするらしい。球子がいなかったら、きっと心細いだろう。
「じいちゃんが大変って時に、学校なんて行ってられねーよ!」
「ダメ。学校に行きなさい。じいちゃんが大変だから、球子もちゃんとしないといけないの」
「意味わかんねーよ! 休むったら休む!」
その日の朝、球子は過去最高に駄々をこねた。どうしても譲れなかった。手術なんて、大事じゃないか。学校なんていつでも行けるだろう、そんなことを叫んで叫んだ。
それでも結局、学校に行くことになった。親父は俺に任せろ球子、という父の言葉で。
「母ちゃん、じいちゃんは!?」
「はい、はい、分かりました。はい、ありがとうございました」
「母ちゃん?」
「手術、成功したって」
「よしっ!」
学校が終わって、球子は飛び出すように病院に向かった。
「じいちゃん!」
「おおタマちゃん、久しぶり」
「元気そうでなによりです」
「ええ、お陰様で。来月退院することになりました」
「退院って?」
「お家に帰るってことよ」
「おお〜すげーじゃん」
「ふふ。お父さん、落ち着いたら、旅行にでも行きませんか」
「それだったら、新潟の弟のところにお邪魔しましょう、みんなで」
その日父親は仕事で忙しく来れなかったが、快諾してくれた。
楽しみだなあ、じいちゃんと旅行。その日は、ワクワクして眠れなかった。でも、じいちゃんは思ったよりすぐに元気にはならなくて、結局、旅行の予定は、いつになっても固まらなかった。
──それから、数年後。西日本、特に近畿地方を中心に、未曽有の災害が襲う。球子達と祖父が住む四国、愛媛は比較的被害が小さかった。しかし祖父の家周辺は地質が弱く、長時間の揺れによって山体崩壊が起きた。
丁度、球子は祖父の家に遊びに行っていた。
祖父は、家屋の下敷きになって死んだ。不可解なことに、同じ場所にいた球子は、傷一つなく生存していた。
それから、球子の人生は一変した。
特定の人間の心臓部に見られる、奇妙な紅の“靄”。今まで見えなかったもの、見えるはずのないものが、見えるようになっていた。
靄は、
可能性。つまり必然的な宿命ではない。外れる可能性もあった。
ただし──
トロッコ問題という有名な問いかけがある。
レバーを動かせば一人が死に、動かさなければ複数の人々が死ぬ。しかし動かせば、自分が殺人を犯したことになる、というものだ。
レバーを動かせば誰も死なず、動かさなければ一人が死ぬ。もしそんな問いかけであったら、レバーを動かさない人間はいないだろう。
それでは、土居球子が“靄”を見たら、その人を救わなけば、殺人と同じということになるだろうか。介入しない場合、誰かが死んでも、殺人じゃないと言えるだろうか。
トロッコ問題の理屈では、これは殺人にはならない。
けれど、本人は、そう思えるだろうか?
──────────────
長い移動を経て、現地に到着し、ますずと出雲大社を周る。その間も、相変わらず靄は消えない。
この靄が自殺か、他殺か、事故によるものなのかは、判別のしようがない。運命を変えられるのはタマだけだ。だから、ますずの傍を離れるわけにはいかない。しかし、如何せん境内は人が多い。他にも、靄がある人がいたっておかしくはない。
「──!」
見えた。紅い靄。ますずの手を引き、対象へと近付いていく。長い金髪で、タマよりずっと背が高い。
「ちょ、球子、いきなり何──」
金髪がぶっ倒れた。すかさず受け止め、呼びかける。
「どうした、おい」
「はあ、はあ、すいません……虚弱体質で、よくあるんです……あれ?」
金髪の顔を見ると、それはそれは可愛らしい、異次元級の美少女だった。
っと、そうじゃなくて、ひどい熱もあるみたいだ。急いで先生に伝えないと。
「タマっ、ち……?」
「え?」
美少女が呟く、タマっちという名。それは小学生の頃のタマのあだ名だ。しかし小学校にこんな美少女はいなかったはず。……いや、そういえば、金髪の女の子と、いつかどこかで──
「あ、あんずか!?」
「うん、あんず、伊予島杏……! ずっと、会いたかった……」
「……えっとお、どういう展開かしらこれ」
あんずはタマが救った数ある少女たちの一人だ。まさかこんなところで会うなんて思わなかったが。
「とにかく移動しよう。おぶってやるから、ほら──!?」
すぐ横を通り過ぎた男性、その胸に見える紅い靄。まさか同時に同じ場所で、二人も死に迫っている者がいるなんて。
……いや、違う!? あの人も、あの子も、あの人も、あの人も──
「球子?」
怪訝にこちらを見る真鈴。その胸に宿る靄。そうか。これは、“災害”のアラートだったんだ。
「地震か、火事か? 土砂崩れか、台風か? なんだ、何が──」
「“天災”だ」
しわがれた男の声。何年振りかに声帯を使ったかのような、そんな声色。振り向くと、白髪と白髭の長身の老人がこちらを見下ろしていた。
「ひとつ質問をしよう。お前は、世界を救いたいか」