根の世界にて、ひなたは久美子と話をする。その末、久美子はひなたを庇い化物に噛み付かれ、そのまま「根」の一部と成り果ててしまった。
『……救急車』
そう、若葉が呟いた。暗転する。全身の浮遊感がだんだんと薄く、そして足先に重力が集まっていく。夢と現の境界をくぐる。世界が再構築される。霧が晴れていくような。私は、タマは、タマは──走っている……?
「タマっち!? 良かった、起きてくれた!」
「あんず……? あれ……?」
後頭部から、柔らかな反発を感じる。朧げな視線の先に、涙で濡れた少女の瞳が輝く。金色の髪が揺れているのを、再起動した脳が無意識に追っている。
タマは走っていた。なぜ? 化物から逃げるため。なぜ逃げていた? それは……若葉が危険だったから。
「そうだ、若葉は!?」
上体を起こしつつ、慌てて尋ねる。視界の端に、太い根の傍でうなだれている若葉の姿が。
「若葉さんはあれから目を覚ましてない……タマっち、若葉さんのこと背負ったまま気絶して、私二人のこと抱えながら走ってたんだよ。もうダメかと思った……」
「え……まじか。すまん」
そうか。そういえばタマは途中からおかしな夢を見てた。なんだか、見たことのない景色があって、ぐるぐる場面が変わる、すごく……悲しい夢だったような。
若葉を見る。大蛇と戦った時も、瀬戸大橋でも、一度も出てこなかった紅い靄。巨人型の化物、加えて、濁りきった水球を携えた巨大な怪物が現れた時、若葉の胸にはじめてそれが宿った。巨人型を仕留めた後、若葉の靄は消えていなかった。それに気付くのが遅かったせいで、若葉は敵の攻撃をもろに食らってしまった。靄はまだ消えずにいる。
考えたくはない、けれど、靄を持つ人間は、放置すれば死に至る。運命がそうさせる。それはタマが誰よりもよく知っている。その未来を変えられるのはタマだけだ。でも今のタマには何ができる? タマは医者じゃない。若葉を治す方法なんてわからない。助けたい。助けなきゃ。方法が分からない。すぐそばにいるのに。何もできない。おかしいだろ。この力は、助けるためのもんだろ。こんなの、こんなの、意味がないだろ──!
「若葉さんが起きるまでここで隠れてよう。背負って移動するのは危ないし」
「ああ、でも、化物にバレたら……いや、そうか。その可能性も……」
今現在、自衛できないのは若葉だけ。今の若葉の危険度はタマとあんずの非じゃない。だから、この靄はタマが化物から若葉を守り続ければ、消えてくれるかもしれない。なら、調べる必要がある。今の若葉のコンディションを。
膝をこすりながら若葉に寄る。呼吸はある。胸に耳を当てる。……こいつ見た目より結構でかいな。高尾山くらいは……ってそんな場合じゃない。心臓もちゃんと動いてる。顔色も……顔色はすこぶる悪いな。しかも少しうなされてる。これは……どうなんだろう。
「……なああんず、若葉、そこまで悪い状態に見えるか」
「うーん……外傷はないように見えるけど、でも、あの化物のこと全然分からないし……あれ?」
あんずが眉を顰める。見ているのは、若葉の肩のあたり。ベージュのベストが、そこだけ……焼け焦げている。恐る恐る掌を当ててみる。
「あっづぅ!?」
「タマっち!?」
飛び上がった身体をあんずに受け止められた。涙目になりながら右手をぶんぶん振る。ちくしょう、それにしても、どうなってやがんだ。
「あんず、若葉の制服、少し脱がしてみよう」
「そうだね、肩に触れないように」
頷いたあんずは、若葉に近付き、まずリボンをほどいた。光の矢を開いた手のひらから生成して、首元からベストの下のワイシャツごと持ち上げ、切り裂く。カッターのようにして慎重に切れ目を広げていき、若葉の右腕の部分だけノースリーブ状態に変えた。そして器用だなあ、なんて思考はすぐに吹っ飛ばされた。
「なに、これ……」
何か焼き印のような赤黒い模様が、肩から肘のあたりまでびっしりと浮かび上がっている。それに、その模様は数秒にミリ間隔で広がり続けている。はっきり言ってグロテスクだ。いつからこんなことになっていたんだ。やっぱり、あの化物の攻撃のせいなのか。
「まって、タマっち、自分の肩見て!?」
「え」
お気に入りのパーカーがいつの間にか破れていて、脱がなくても肩が露出状態になっていた。そして、タマの肩にも、円状の模様が発光して浮かび上がっていた。一体いつからだ? 若葉に比べれば大して大きくはないみたいだが、この差は何によるものなんだ?
「あんずは……?」
「えっと……私はない……どういうこと……?」
……顎に手を当てて考えてみる。
真っ先に考えられる原因は、やはりあの化物の水球攻撃。それを食らった若葉を担ぎ上げたタマにも、その影響があったのかもしれない。……いや、それだとおかしい。杏はタマと若葉を抱えて逃げたって言ってた。だったらあんずにだけ模様が無いってのは理屈に合わない。鮮度? 量? でも、それ以外には考え付かない……
ヒュン、という音。
ヒュン?
「「……」」
突風。一瞬感じた熱。少しして鳴った炸裂音。離れて粉になっているいくつかの根。
「走るぞっ」
「うんっ」
すぐさま若葉を背負い、根の森を駆ける。走行中、根が悲鳴を上げ、破壊されていく音が聞こえる。おそらく今度の敵は狙撃型。憎たらしいことに探知機能付きらしい。立ち止まることなく逃げ続け、若葉の覚醒まで時間を稼ぐ。タマと杏だけで仕留められる相手か分からない。でも、もし、二体目が現れたら──
「なんだ!?」
「地震……!?」
根の世界が揺れている。それも並みの震度じゃない。立っているだけで精一杯なくらいだ。まさか、これも敵の攻撃だっていうのか。
直後、断続的な破壊音が左方から響いてくる。それは少しづつ近付いてきて、気付けば周囲は煙に覆われ、数秒後には周囲の様子が分からなくなっていた。
「あんず、そこにいるか!?」
「タマっち!」
あんずがタマの肩を掴んできた。これではぐれる心配は無くなった。
「若葉は起きそうにない、なんとかここを離れるぞ!」
「う、うん!」
左手で若葉を支え、右手と両足で揺れる大地を押し付ける。
「「せーのっ!」」
同時に飛び上がる全身。根の森を上空から見渡すと、根が一定の高さを境に横なぎに壊されていた。そして──三体の化物が、根の森、いや根の密集地帯を抜けた先、光源へと続く根の丘にて、行く手を阻むように並んでこちらを見上げている。
「くそっ、数的不利じゃねーかっ」
「一旦引こう、頑張ってもっと離れるしかないよ、これ」
「おいまて、あんず、靄がっ!」
「もや?」
振り返る。より高みにてこちらを見ていた四体目──
巨大な影とともに漆黒に染まる視界。意識を刈り取るが如く響く衝撃。思考が吹っ飛ぶ。身体も飛んでいる。落ちている。風が頬を殴りつける。Gの強襲。時と空間の断絶。ここはどこ、私は誰? ああ、ああ、ああああ、ああっ、いてえ、いてえよ、くそっ、いたい、いたいけど、痛がってる、場合じゃねえっ!!!
「っづあああああああっ!!!」
全身を縦に半回転、若葉は離すなっ、両足を地に向けろ、右腕を突き出せっ!
「──!」
煙が舞う。腕と足が痺れて、肋骨が、もう、すげえいだいぞ。
「はあ、はあっ、はあっ」
影だ。暗い。顔を上げる。……あ? なんだこいつ。黒サソリか? ずいぶんでかいサソリだなあ。ははっ。いいぜ、タイマンだよ。かかってこいよ。
「はあ、はあっ、びびってんのか? この、サソリやろー……」
若葉を降ろす。若葉はまだ寝てるからな。まあ、まだ討伐数ゼロのタマとしては、ここらで武勲を立てないと、だし。
「はあっ、はあっ」
尾のようなものが持ち上がっていく。先端には鋭い針みたいなものが。ふーん。分かりやすくていいな。
「っ、はあ、タマが……」
迫る。
「守って、みせる──!」
突き出す楯。踏みしめた両足。迎え撃つ一発。吹き抜ける衝撃。もう一発。鼓膜を削る音。もう一発。軋む両腕。もう一発。回る頭蓋。もう一発。押し潰される内臓。もう一発。吹き飛ぶ意識。もう一発。もう一発。もう一発。もう一発。一発。一発。一発──
あの時、タマが見た景色。そうだ、あれは夢じゃなかった。
タマが見たのは、若葉の、記憶。そして──若葉自身の心の姿。交わした言葉。答えられなかった。何も言えなかった。
「タマは……憎いよ。いじめてた奴もそうだけど、なにより、あの小百合って奴が、どうしようも無く憎い」
『それは、どうして』
「だって、あいつは死ぬ必要なんて少しもなかった。タマが言えた立場じゃないってのは分かってる。辛かっただろうって思う。でも、あいつにはお前がいた。ひなたって子もいた。何があっても味方でいてくれる奴がいたのに……あれじゃあお前らに対する……裏切りだ」
『……まあ、お前の言うことも分かる。それは、至極真っ当な意見なんだろう。でも、私もあいつも幼かった。あいつにとっては、きっと考えて考え抜いた末の、とても重大な決断だったんだろう』
「お前は……後悔、してるのか」
『……私には、分からなかった。あいつは、奴らと、自分自身、どちらも報いを受けるべき対象だと考えていたのかもしれない。私を苦しませる原因になったから……けれど、なら、あいつを、小百合を死に追いやったのは、立ち向かう機会を奪い続けた私でもある。だったら、私も報いを受けるべきなのでは無いかと思った』
「そんなの、違うだろ」
『ああ、お前も見たように、ひなたに止められた。そして私は……あいつに消えない傷を作ってしまった。……小百合は自分と奴らを罰しはしたが、最後まで私のことを罰することは無かった。私が周りに悪意を向けられていたからこそ、あいつはきっと自分自身を許せなかったんだ。それなのに、私があいつの後を追ってしまったら、あいつの死も、あいつ自身も、私自身が否定することになってしまう』
「……」
『ひなたも、小百合も、強い私を願っていた。気高い私を誇っていた。だからこそ、私はこうして刀を握っている。しかし……私があいつの死の要因のひとつを担っているという事実は、もう二度と消えることも変わることも無いんだ』
「でも、お前は悪くない!」
『いつも同じことを言っていたよ。夢の中で、あいつも。不思議だよ。眠れない夜、ズキズキと痛む頭の底で、思考が奥へ奥へと下っていく時、いつもあいつの懺悔と、私への声援が聞こえ始めて、それで私は目を覚ますんだ……夢は私自身が作り出すものだ。私も自分の非を認めたくないのだろう。あいつに謝罪させてまで……』
「……若葉」
*
「……あ」
掠れる声。それが自分自身のものであると、すぐに気付くことが出来なかった。私が誰で、何をしていたのか、そんなことに辿り着くまでが億劫で、瞼を開くと、少女と怪物が睨み合っている光景が見えた。
あれはタマっちだ。助けないと。
全身が痛い。でも無視した。
立ち上がる。弓を構える。矢をつがえる。大丈夫。これで倒せなかった敵はいないんだ。だから、もう、大丈夫。
放った。
外れた。
あれ、おかしい。当たるはず。絶対に当たるはず。
たまたまだよ。大丈夫。言い聞かせて構えた。
矢は、信じられないくらい大きく外れていった。タマっちに、怪物が攻撃を始めた。
「……なんで、なんでよ、なんで!? なんでなの!?」
構えた。放った。でも当たらなかった。もういい。直接刺してやればいいんだから。私は矢を握りしめる。
「タマっちを、いじめないで!!!」
そう叫んで踏み出した。瞬間、一筋の紅い彗星が目の前を横切った。攻撃の主が、離れた場所でこちらを見ていた。背後から、右から、左から、知らない化物が私を取り囲んだ。少し向こうで、もう二体の別個体が、動かずにこの惨状を眺めている。
何、これ。
なんで何もしないの。楽しんでるの。これを。
見世物じゃないんだよ。
人が死にそうなんだよ。
あんたたちがやってるんだよ。
「どいてよ」
なんなの。
「どいてってば!!!」
吠えて、走ろうとした。
雷が落ちた。
全身に、純粋な苦痛が迸った。神経が焼き切れる。意識とは別に、涙が溢れ出した。身体が言うことを聞かない。痛い。痛い。痛い痛い痛い痛い痛いいたいいたいいたいいたいいたいいたイタイイタイイタイイタイイタイイタイいたいいたいたいイタイイタイイタイイタイイタイイタイ。
「はぇあ……ひ……」
いだい。いだいけど。わらしは、わたしは、おこってるんだよ。おこってるんだってば。
「わ……だひはねえ……おかあさんを……ころされてるんだよ……わかる……? はんにんはねえ……おかあさんを……すきだったんだって……それでさ……私の前で……殴り殺したんだよ!!!」
許さない。許さない。それだけが何度も何度も胸の内で響く。
「統合失調症? 幻覚? 妄想? 知るか!!! 親を殺したやつ、人を殺したやつ!!! そんなやつが、許されると思うな!!! 誰だか知らないけど!!! タマっちを殺したらねえ!!! ぜったいぜったい、許さないから!!!」
再雷。
全身が跳ね上がる。でも、もう痛くもなんともないよ。だってねえ、私は怒ってるんだよ。怒ってるんだよ。もう、本当に、本当にさあ!!!
「う……うさあい……うるさあい……タマ……っちは……私の……」
母が死んで。私が、怖くて動けなかった時。タマっちが、犯人を倒してくれた。タマっちは、私の王子さま。救世主で、ヒーローなんだ。それなのにさあ。それなのに、お前たちは、お前たちはさあ、何をしようとしてるんだよ!!!
「あの日から……私は、怒ってばっかり……それなのに、まだ怒らせるつもりなの……本当に、本当にさあ……」
矢を天へと放り投げた。雷撃がそこに吸われていく。
確認せずに走った。矢をまた握った。
立ちはだかる紅黒の怪物。
「死んでよ」
跳んだ。掴んだ。突き刺した。崩れていく。弱い。
そのままサソリ型の元へと突き進む。紅の矢の雨を感覚で避けた。タマっち。もう大丈夫。
尾の軌道が変わる。私に狙いを変えたみたい。数珠繋ぎになった尾で、私を殴りつけるつもりだ。
でもそんな単調な攻撃、当たるわけな──
「え」
身体が、止まった。
ああ、そっか。
神様の、くそやろー。
「──」
身体が吹き飛んでいる気がする。
ああ、でももうそんなのどうでもいいよ。
腐った世界、救われない私、助けてくれない神様。
私はこれから殺される。ああ、殺されてあげるよ。
でも呪うよ。呪い殺すよ。化物どもも、その親玉も、どうにもならないこの世界ごと。
呪ってやる。消えてしまえばいい。何もかも。許さない。殺してやる。この世界が滅ぶまで、何度でも、何度でも──
*
私は、何のために戦っていたのだろう。
この世界を救うためだ。
でもなぜ、世界を救いたいと思ったんだろう。
贖罪?
いや……刀を取る理由が欲しかっただけだ。
私は、幼少期から刀と共にあった。
刀を持つ理由を知る前から、刀を握っていた。
だから、刀が無いと不安だった。
刀があれば、不安も、迷いも、断ち切れると思っていたのかもしれない。
──利己的だ。
己が抱える闇と、その種と、そして、自分を案じる人々と向き合うことをせず、ただ、救いの道に縋った。
私に、刀を握る資格はない。
私が世界を救うなど、あまりにも不遜だった。
──どうでもいいじゃないか──
どうでも、いい?
──私はそなたを救うことができる。そなたは私を使うことができる。ただそれだけの話じゃないか──
お前は、これでいいと思うのか?
──ああ、そのままでいい。神剣生大刀の名において、そなたを赦そう──
*
根の世界。化物は七体。土井球子、伊予島杏、共に戦闘不能。死を待つ二人。しかし──
「神剣・生大刀。今ここに、その威を示し給へ」
一振りの神風が吹く。
なんのことはない、ただの演武。しかしそれは正しく神の舞いであった。
殺人器と謳われた神代の戦士たち。ただし所詮は対人兵器に過ぎない。
今の乃木若葉には、偏に風の前の塵に同じ。
鎌鼬が円状に流れ、それは殺人器の群れを芥へと変えた。わずか数秒の出来事だった。
静寂が訪れる。回復した二人が見たのは、根の世界で刀を納める、武神の姿だった。