若葉を案じ、雲の世界に入り込んだ球子。しかし力の差は大きく、黒髪によって致命傷を負ってしまう。しかし球子は、最期まで若葉を信じていた。
あの瞬間、黒い化物が天から貌を覗かせたその時から、世界はひび割れ、壊れてしまった。私は世界と秩序という、大きすぎるその喪失を受け入れることが恐ろしかった。
けれど。
私は誰よりも、この崩れ行く世界を認め、あまつさえもたれかかっていたらしい。
死を見た。手に届く場所で、命が消える音を聞いた。そして、気付かぬふりをした。
死を見た。凶器に跨りながら、その声なき叫びと呪いを浴びた。そして、気付かぬふりをした。
気付かずにいられたのは、若葉ちゃんという無二の絆、そして、烏丸久美子という大人の存在ゆえ。……いや、“気付かない自分”というものを後押しされていたというべきか。彼女は無茶苦茶で、非常識で、型破りだったけれど、それが頼もしくて、私はそれに縋り、利用していたのだ。
思えば、マリンドームの根に触れる時、私は少しも躊躇わなかった。話を聞いて、実際、そこに選択肢が存在しないということはきっと分かっていたけれど、それでも、それはこれまでの私への明確なる決別であって、もう戻れはしない分かれ道だった。それなのに、私は一瞬も迷わなかった。考えすらしなかった。僅かな恐れも介在していなかった。選択の意味を考えず。目を開けず。崖の先へと。ただ前へと。肉体だけが進んでいた。
──確実に久美子さんの影響だった。
私が死から目を背けられていたのは、彼女がずっと傍らに居たから。彼女が前を見続けていたから。その先が、悪夢の如き破滅であっても、私は別に構わなかったのだ。
誰よりも臆病で、死を恐れ、死を遠ざけ、しかし死を否定することもできない中途半端な上里ひなた。ただの一度も選択せず、それでいて個としての意志を持つふりだけしてきた上里ひなた。小百合ちゃんが亡くなっても、若葉ちゃんを傷つけることを恐れ、その死について真っすぐ話し合うことを先延ばしにし続けてしまった、上里ひなた。あの時から、私は少しも変わっていなかった。
バスが投げ出されたあの時。状況的に、本来若葉ちゃんが助かる見込みは無かった。私はそれを理解していながらも、“それがはっきりする未来”というものについては少しも信じていなかった。きっと、若葉ちゃんの死体が目の前にあっても、私は私を壊してでもそれを受け入れなかっただろうと思う。思えば小百合ちゃんが亡くなったあの日も、その後も、いつまでも実感が伴わなかった。両親が死んだ後、それを省みて哀しみに浸ることが一度でも私にはあっただろうか。
葬式で眠る赤子。亡骸を知らぬ幼児。上里ひなたは、それらとほとんど変わらない。死という概念を理解していても、それを解釈する為に必要な何かが、欠けてしまっていた。
ああ、だから結局──“死”を教えられるのは、私と同じ、破綻者の久美子さんしかいなかったんだ。
死は、死そのものは、ずっと変わっていない。平等で、絶対で、恐ろしく、儚く、美しく、惨たらしい。その理から、逃げ続けた結末。世界がこうなるよりもずっと前から、私は狂っていて、おかしかった。
物言わぬ根の一部となった久美子さんの瞳が、何も映さぬ空虚な表情が、静止した時の狭間へと誘う。見たくない、そんなもの見てはいけない。私の生物としての根源が目を覚まし、心臓と脳を激しく打ち付ける。しかし、私の身体には既に業という名の鎖が繋がれ、瞬きさえ許されることは無く。
これが死か。これが恐怖か。これが死に逝く者の孤独か。
理解と共鳴、融合と統合。身体が根となりモノとなり、精神の連結が喪われ。全てが染み出し溶け出して、私はようやくそれを識ル。
そうして辿り着いたのは、大地の底の更に底。
そしてそして、始まりました。とある誰かのドキュメンタリー。
浮かび映って漂う記憶。これはいったい誰のもの?
天に生まれしその神は、しかしその実暴れん坊。真面目で堅実、理性に忠誠、そんな古の神々の、異端も異端、異分子は、母を知らず、愛に飢え、泣いて喚いて天界の、治世を乱してさあ大変。創生の神、伊弉諾が、息子に告げた最後の言葉、「地獄に落ちろ、ドラ息子」。
ドライな父に捨てられて、落ちてしまったドラ息子。しかし彼はついに見つけた。愛する者と、世界とを。
私はこの国を守ります。そう決意して、幾星霜。大地の神が滅した後も、いつでも人の傍らに。あらゆる時代と思念と営み、それら全てを見守った。
彼は大地を愛す神。人を愛して止まぬ神。まるで私だ、無茶苦茶だ。人間こそが、大地の主役。これからずっと、人間よ、生きてこの世を紡いでおくれ──
『しかし、多くの人間はもう生を望んでいない』
『循環と無常の移い続ける世を好ましく思えぬほど、人間が生に苦しみ、そして死んでいくのだとすれば』
『破滅と終焉こそが救いであるならば、私はその願いを汲んでやらねばならないのでは』
神様は悩んでいました。人が彼に訴え続けたせいです。こんな世界、もういらない、と。
神に最も近い者は天に、恨みを持つ者は地上に、それ以外は根のもとに還ります。いつしか、あまりに多くの魂が地上に留まり、怨恨を巻き散らすようになっていたのです。
彼は太古の昔から、地元の神様が、地上を自分たちの秩序に染めようと、狙っているのを知っていました。だから人を導き、天に抗う術を教え、それをこの時まで絶えることなく繋げていきました。でも、これは本当に人間達のためのことなのでしょうか。
『おやおやどうした上里ひなた。お前もこっちに来てしまったか。せっかく助けてやったのに、やれやれそれも人間か。なあ上里ひなた。お前はどう思う。それでも“お前は、世界を救いたいか?” 分からない? ふうん、お前らしいな。死を見過ぎて、同情してしまったんだな。かわいそう? そうだな。まあ私もそう思うよ。意外? お前は私をなんだと思ってるんだ。ん? 何? あの時、なんで私を助けたのかって? さあ、分からないと言わなかったか。……まあ、なんだ。私は友人がいないと言っただろう。私は物事がずっと同じ状態のままでいるのを見るのが大嫌いで、それを理解してくれる奴なんていなかったんだ。型破りを気取ろうと、いつの間にか型に嵌ってしまう。混沌を好む者も、やがて混沌そのものに固執してしまう……その葛藤まで共有出来るやつは、結局一人も見つからなかった。……私は、別に少数派でいること自体が好きなわけじゃない。多数派が嫌いってだけなんだよ。だから……理解者だって一人くらい、いてほしいし、共感して……欲しかったんだろうな、きっと。まあ分からんがな。はは。……ん。なんだその顔。お前は多数派だが、精神性は少数派だった。そうだろう? お前、乃木若葉とかいうやつが一番って顔しているが、本当はどんな奴も見捨てたくないって思っているだろう。普通逆なんだよ。みんな綺麗なとこを見せたいだろう。お前は何というか、馬鹿で愚かで自罰的で、無駄でおかしい極めて変な、最高に優しい人間なんだよ。実に私好みだ。確かに私は魔王になって、やりたい放題やってみたかったさ。でもそれは結局代替行為に過ぎない。私は満足して生きてて良かったって思えればそれで良かったんだよ。私みたいなやつには、現実は向いてなさ過ぎたからな。ほら、もう答えは出てるだろう。実に惜しいが、お前はもう少しつまらない奴になった方が幸せになれる。だろ。……はあ、乃木若葉も世界も見捨てない、か。はいはい。分かった分かった。もういいさ。ならもう行ってしまえ。ほら、これやるからさっさと出ていけ。前に素戔嗚からくすねた蛇の比例。肉体が無いと始まらんだろうが。あと、こいつも連れて行ってやれ。知り合いなんだろ。……はあ、ったくさっさと行け、この……人間野郎』
「……」
気付けば、私は巨大な樹木の傍らで仰向けに倒れていた。起き上がり、そして目に飛び込んだのは、巨大な暗雲の結界。それを拳で叩きつけながら、叫ぶ一人の金髪の少女の姿。私は慌てて彼女に駆け寄った。
「勇者の一人ですか!? 若葉ちゃんは!?」
「え……? あ、あなたは……?」
「若葉ちゃんはどこですか!」
「若葉さん……は……この中に、いるみたいです……タマっちも……」
金髪の少女は、言いながらぼろぼろと涙を流し、嗚咽を漏らす。不安、絶望、悲しみが溢れている。この人にも大事な人がいることがすぐに分かった。この暗雲の中に、二人。だったら。
「私に任せてください。乗り込みます」
「できるんですか……?」
「まだ、間に合うはず。私の中にある、一握りの分御霊、そして、若葉ちゃんへの想いで──!」
右腕を突き出す。死と怨恨の手触りがする。だけどもう、私はこれを知っている。絶対に恐れたりしない。けれど、私自身を、この先の世界が受け入れるかどうかは五分の懸け。大地の化身が伝えている。その先は天の世界、それはお前を拒絶する。神の資格を持たざる者に、その扉は開かない。
「例え、そうだとしても……!」
全身に、これまで感じていた黒い感情とは別の何かが侵していく感覚が広がっていく。天の呪い。生気と精神を蝕む呪詛。しかしまだまだ耐えられる。天の神の力が、この程度だというのなら。
「届けぇええええええええええええ!!!」
私の決意は、阻めない。指先から魂を飛ばし、押さえつけてくる結界を打ち破る。そして、戦う二人の少女の脇を縫うように、愛する者のもとへと手を伸ばした。
私は、彼女の亡骸を見ることは出来なかった。
助からないと分かっていた。死んでいたと分かっていた。
でも、見てしまったら、本当に逃げ場が無くなってしまう。
それで初めて気づいた。
私は、臆病者なのだと。
「──」
ねっとりとした視界が広がる。四肢には鉛がぶら下がり、喉の奥には泥の塊が詰め込まれている。
そこは、丸亀中学の校庭で。
磔の私は、手を伸ばすことはなく。
血だらけでぐちゃぐちゃになった肉の塊を、ただ、何もせず、呆然と見つめている。
自分がなぜそこにいるのか。自分が何をしているのか。自分が何を見ているのか。
自我、意思、解釈、想像、思考、いずれにも届かぬまま。
だって、それをしてしまったら──
『人を殺した人間に、のうのうと生きている資格があるの?』
世界の全てが目を覚ます。
神棚の下、真剣に手を伸ばす私の背後で、彼女は呟く。
振り向く。そこに、小さく幼い、初めて出会った時のその姿。
『罪を自覚していれば、それで許されるの?』
振り向く。少女が言う。月日が流れ、共に歩んでいた頃の姿。
『私は、もっと生きたかった』
振り向く。女が言う。訪れるはずだった、成熟した一人の人間の姿。
『『『私は、ほんとは死にたくなんてなかった』』』
彼女たちは言う。その視線の先で、
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ──」
自らを締め上げる怨嗟の渦から逃れるように右を向くと、そこには彼女がいる。
『私を縛っていたのは、若葉だよ』
左を向く。彼女がいる。
『でも、守り抜くって、そう誓ったはずだよね』
顔を上げる。彼女が見ている。
『ねえ、どうして?』
『私が、間違っているとでも、言いたそうだね?』
『自分で死を選んだ、私が悪いってことかな?』
響く。彼女がいる。彼女が見ている。彼女が私を責めている。
小百合。小百合がたくさん。白鞘小百合。あれは小百合あいつも小百合あそこも小百合。小百合が小百合で小百合の小百合を小百合も百合は小百合に小百合小百合小百合小百合小百合小百合小百合小百合小百合小百合小百合。
「はあ、はあ──」
かぶりを振る。違う。違う。違う違う違う違う。
手紙。手紙。手紙を、持ってる。読んだ。覚えてる。私は、あの時、気付いた。気付いたんだ。
『じゃあ、どうしてかな?』
『ねえ、若葉。私が死んだのは、どうしてかな?』
「お、おお、お、お前が、しし、し、死んだ、のは、は……!」
喉が締まる。声が分からない。瞼が閉じない。身体が震える。息が出来ない。罪。罪が、罪が来る。来ている。ああ、言わないと、言わないと潰される。言え、言え、はやく、はやく。
「私の、せい……だ……!」
言えた。私は安心して顔を上げた。
『へえ!!! そうなんだ!!!』
『じゃあ若葉、なんで生きてるの!?』
『ねえ、なんで? なんで生きてるの??? なんで??? ねえ??? ねえ!?』
「はあ、はあ、ご、ご、めん、な、さい、ご、ごめん、なさい、ごめん、なさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
『謝れば済むと思ってるの?』
瞼を開く。
だから。もう死んでしまったから。
生き返らない。死んだまま。彼女は一言も喋らない。だって
いつの間にか握られていた刀。
──否。私は、自ら刀を手に取った。
『ちゃんと出来たら、許してあげるよ。若葉ちゃん。私たち、友達、だもんね?』
本当は何も聞こえなかった。でも、そう言っている気がした。
四肢に繋がれていた鎖が、次々に外れていく。
もっと早く、こうするべきだったんだ──
「え……?」
血だ。あれ? 私の血じゃない。だって痛くない。
──なんてことだ。私はこれを知っている。
自分以外の誰かに刀を突きたてる感触。自らの手で罪を上塗りした瞬間の脱力。
「そんなの、許しませんから」
刀から滴り落ちるその色も。
一言一句違わぬ、親友の放つ一節までも。
「大丈夫です。このくらいで死ぬ私じゃありません」
そう言って、ひなたは刀を握りつぶし、光の礫へと変えた。
私はいつまでも呆けた顔のまま、ひなたの瞳の輝きを見つめていた。
「ねえ若葉ちゃん、あなたの命はあなたのものだから、本当は私に許さないなんて言う権利、ないんですよ。でも、それでも私はあなたに自決なんて、絶対させません。これは私のわがままです」
世界の在り方が変わる。
闇のみを知るはずの空間が、少しづつ可変性を帯びていく。
「若葉ちゃん。人がみんな正しくて、なんの迷惑もかけずに、なんの害もなさずに生きている世界は、たしかに美しいかも知れません。でもね。人と人がわがままを言い合って、喧嘩したからって、人間は生きてちゃいけないと思いますか? そんな世界は、本当に無価値だと思いますか?」
ひなたが、私の頬を静かになぞる。暖かい。その掌に触れた瞬間、目の前がじんわりと感情で歪んだ。私は、ひなたの肩にしがみついて震えた。
人の前で泣いたのは、生まれて初めてのことだった。
寂しかった。一人が嫌だった。けれどそれ以上に、そうでなければならないと、自らを脅迫し続けていた。
何が正しいのかも分からぬまま、もう二度と間違わないために、そうする以外に何も見つけられなかった。
情けないと思った。自分が大嫌いになった。これ以上ないほど嫌気がさした。
それでも、愛する友との絆は、こんなにも自分を溶かしていく。
「これは誰にも決められません。誰にも分かりません。ただ、そんな世界に価値を見出すのは、人間にしか出来ないんですよ。よく目を凝らしてみてください。この空間を為すものが何であるのか」
瞼を拭い、振り返って世界を見上げた。
「これは……」
鏡面に映る人の記憶。感情と思いのさざ波。どこまでも深く、暗く、色んな沢山の出来事が混じって拗れて、いずれも黒く塗りつぶされている。それでも、か細く、か弱く、静かに放たれ続けるその声は、どこか違って聞こえてくる。
「そうです。これらは死した人々の魂、その連なり。恨み、悩み、抗い、もがく。そんな人間たちの思いのカケラ。そして、あなた自身の苦しみでもある。感じますか? それらが今、あなたの魂を見つめているのを。あなたが、あなたが抱えるものに、どんな答えを出そうとしているのか。この人たちは知りたがっています。そして──この子も」
ひなたの傍らから、懐かしい匂いがする。
──そうか、お前……ずっとそこにいてくれてたのか。
「──」
世界の極点を見据える。
心は決まった。辿り着いた訳じゃない。何か現実が変わったわけじゃない。だけど、足踏みするのはもうやめにしようと思う。
反芻する。私のルーツ。世界と対話する物差しを握り締める。
──若葉。答えは見つかったかい──
刀を掲げ、鞘を突き出す。指先に熱が戻っていく。
今までありがとう。迷惑かけて、済まなかった。
この埋め合わせは、一生かかってもできないかもしれない。
しかし、悪いが……これからもよろしく頼む。亡き友よ。生ける友よ。醜く美しき世界よ。
「ばあちゃん。私、分かったよ。何事にも報いを。報いるべきがなんなのか。それは──」
自分自身の、願いだった。
「ああああああああああ!!!」
全身を浸していた怨念の泥を跳ね除ける。雲の世界に呪詛が飛び散り、霧散し、自らが暴風の渦となる。
「なっ……!?」
驚く黒髪をよそに、足元に転がっていた刀を拾い上げた。
──乃木若葉。精神防壁を貼れ──
生大刀の意思が脳裏で響く。
だが、私はいらんと突っぱねた。
剣の記憶を通して学んだことだ。英雄神スサノオも、大地の王オオクニヌシも、試練は己の魂で乗り越えてきた。人々は彼らを勇者と称え、数多の信仰を呼ぶようになった。
だから私も、その系譜を紡ぐ者──勇者として、この壁を越えてやる。
「はあ、はあ、はあ……! まだ勝負は、ついていない!!!」
「はっ! 何が勝負よ! あんたそこで何を見たのよ! あんたの正義は紛い物! 人類などただのクズよ! それがまだわからないの!?」
「わからないに、決まっているだろう!!!」
刀身を突き上げる。
身に纏うボロボロの制服が、神代の礼装へと変化する。けれど私は神じゃない。欲と矛盾の人間だ。袖口から黒く染まっていき、ところどころが藍色を帯びる。
「分からないこと、だらけだ!!!」
一歩踏み出す。片足を引く黒髪。構わず、私は距離を詰めていく。
「死した人類が、この世界の終末を望んでいるのよ! 今生きている人々の何倍もの怨念が!!! 本当に人類を救うというのなら、ここで死になさいよ! あの子を死なせた罪を贖うなら、大人しく滅びを受け入れなさいよ!」
「いやだ!!!」
黒髪の瞳を突き刺すように睨みつけ、思いっきりそう叫ぶ。視線の先の顔が、怒りで歪んでいく。
「死した者達がどんな絶望の最中に没したのかは知らん! 小百合が私の死を望んでいるのかどうかも知らん! 分からないんだ! 分からないことだらけなんだ! でも! 私はこのままこの世界を終わらせたくない! 生き残った人々を護りたい! なにより、死した人間たちの望みは、その奥底にある願いは、
歩みを止めず、間合いを詰めていく。黒髪は大鎌を構え直した。
「世の中は不公平だ……! 絶望しかない人生は惨めだ……! だが──それでも前を向く強さが、私達にはあるはずなんだ!」
黒髪の上体から、途端にエネルギーの奔流が噴出した。ひたすらに純粋な漆黒。それでも決して歩みは止めない。
「私は……私はッ、勇者だ! 勇者なんだ! だから人間の勇気をッ! もうこれ以上、否定する訳にはいかない! これが私の願いだ! 押さえつけていた叫びだ! 私自身の心のカタチだ!」
神殺の間合いに入り込む。鞘に左手をあてがい、刀身に勇気を込めて納刀した。
「だから私は、二度と罪を啜るだけの生き方はしない! たとえ間違っていても、私は──!」
全身から放たれる蒼き風。湧き出した力の咆哮が天の雲海の全てを吹き飛ばし、半紙に墨汁を垂らしたような無機質な世界の姿がむき出しとなった。
「勇者として、戦い!!! そして、勝つ!!!」
吠え、猛り、決意を指先にまで漲らせる。
そして……生大刀と、それを振るってきた神々に乞う。
大国主よ。神剣・生大刀、その全ての権利を、私は貴方から奪い尽くす。文句があるならば、この力もろとも奪い返せばいい! だが、この一大刀だけは──!
「絶対に譲らん!!!」
地を蹴る。音速を超え、光速を超え、神速に至り風穴を開く。
鞘から覗く銀の輝き。瞬きの後、神器と神器が交差する。
「くっ──!」
「あぁあああああぁあああああああぁああああああ!!!」
あらゆる生者の立ち入りを拒む衝撃が、純粋な破滅の波動を吐き出す。空間が揺らぎ、時空が悶え、永遠で静的で独立していたはずの天の世界が、自らの内側で勃発した大喧嘩に白旗を挙げる。奔る亀裂。崩れる基盤。理が目を丸くする。
「私は!!! 世界を救う為に戦う勇者!!!」
そして、割れた。ドミノゲームの終局の如く、全てが過去のものとなる。
「誰がなんと言おうと──」
同時に黒髪が持つ大鎌が、ぱきん、と切断され──
「私は、勇者、乃木若葉だああああああああああ!!!」
勝者は、神とは程遠い、何かに醜く抗う獣。人間だった。
自らの醜さを嫌悪し、清く生きることもできずに、その在り方を探し続ける哀れなピエロ。
それでも乃木若葉は、自らを勇者と称すると決めたのだ。
例えどんな汚名を被り、恨まれ、間違いを犯そうと、その生き方を貫くと誓ってしまった。
乃木若葉は世界を救う英雄、勇者なのか。それとも──
それとも、この世で最も歪な怪物なのか。
「ふふっ。これであなたも、ひとごろし」
決着の間際にそう呟いた黒髪は、脾腹から肩にかけて血を夥しく巻き散らしながら、見知らぬ大山の山頂から吹き飛ばされ、そのまま山腹を真っ逆さまに転がり落ちていった。
いつの間にか消えていた根の世界。夜の山頂を、淡い月光が照らしている。風に擦れる葉音が現実を転換させ、戦場にその役目の終わりを示しているようだった。
戦いを終えた乃木若葉は、眠るように目を閉じたままの、穏やかな表情で事切れている、血だらけの小さな少女を呆然と見つめる。杏はそれに気付き、その場にぺたん、とへたり込んだ。彼女は土居球子の白い死顔を、その両眼に刻み込むようにして、決して瞬きをしなかった。ひなたは杏を抱き締め、かつてのその小さな少女のように、再び喪った杏の代わりに涙を流した。若葉は球子に静かに近寄り、その頭を抱いて、何度も言葉を選んだ。かすれる声で、ありがとう、と祈った。少しして、少女はゆらりと体勢を戻し、ふらふらと大樹に近付き、倒れこむように得物を突き刺した。
「それでも私は、勇者だ」
第二章 黒百合の姫 終幕