五年前に母を失い、極度に他人を怯えるようになってしまった鷲尾須美を、幼馴染の乃木園子は心配していた。園子は須美がクラスの中心的人物であった三ノ輪銀に興味を示していたことに気付き、何やら考えていたが……
「起立、礼」
がたっ、統制の取れた椅子の摩擦音と共に、児童達は姿勢良く教師を見つめ、今か今かと逸る心を抑えながらその合図を待っている。放課後の到来は即ち、校内という制約からの解放であり、同時に子供達だけの、気ままで激しい、そんなプレイングの始まり。ある者は公園、ある者は友人の宅、ある者はショッピングモール──それら全てが「楽」で満たされる、至上のボーナスタイムである。……しかしなぜだかその中に、どこか強ばった面持ちで、じっと直立不動している少女が一人。
「はい皆さん、さようなら」
「「「さようならー」」」
ランドセルを一目散に背負い、教室からミサイルのように飛び出していく男子たち。それを傍目に置きながら、緊張をそのままに、意を決して拳を握るは乃木園子その人で、
(今日こそは、やるぞ〜!)
その視線の先には、駆け出そうとする三ノ輪銀がいた。
──乃木園子は知っていた。本来なら、彼女の性格から察するに、あの中に混じっていても何もおかしくはないし、実際そうなのだが、その目的は、友人と放課後を過ごすことではないということを。
そう、彼女には二人の幼い弟がいる。そのお世話の為に、一刻も早く帰宅する必要がある。ふふふ、リサーチはパーフェクト。私は優秀なスパイなんよ……そんなことを考えつつ、園子はランドセルを背負い微笑する。
「そのっち、今日も用事なの?」
それを見て、恐る恐る尋ねる須美。
「あ、うん……ごめんね、わっしー」
罪悪感を滲ませながら、園子はその小さな頭を撫でた。
訳あって、園子はここ最近、放課後の須美との図書館デートをキャンセルし続けている。それは別に面倒になったとか、須美に愛想を尽かしたからだとか、そんな悲しい理由では全くなく、寧ろその愛ゆえの辛い選択だった。
「それじゃ、帰ろっか」
「うん」
二人も、他の生徒を追うように、教室を後にする。
須美と園子の通学路は基本的に同じ方角である。正確には須美の家の更に先に園子の家があり、つまりは行きも帰りも、須美にとってはずっと園子と一緒にいることになる。
そして、園子の“用事”──彼女にとっては「任務」だが──は、須美と別れを告げてから始まるのだ。
「明日も、用事ありそう?」
「うーん……まだ分からなくて。ごめんね」
「ううん、いいの。じゃあ……またね」
声量乏しく、儚げに手を振る須美。
うう、そんな寂しそうな顔しないでおくれ、と、目にする園子は胸の中で滝のように涙を流す。本来なら、こう何日も日数を跨ぐミッションではないはずだった。
全ては、園子自身の踏ん切りがつかないから、意気地がないから、なんて声をかけて良いのか分からないから──まあ、そんな、容易いようで困難なコト、なのだ。
「三ノ輪、銀……さん」
数分後、右手と左手に枝木を握り締め、彼女はこそこそ尾行をしていた。
任務とは、ずばり三ノ輪銀の尾行。彼女の家は、須美や園子よりも学校からやや遠い場所に位置していた。須美の家を過ぎた後真っ直ぐ帰宅せず、銀が自宅に到着する前に急いで彼女の姿を見つけ、そのまま後をつける……それこそが、乃木園子の使命だった。
大丈夫、気付かれていない、そんな揺るぎない自信が園子にはあった。なぜなら、この尾行はそろそろ一週間に達しようとしており、その期間が、園子に自分自身の隠密能力が高いという自信を肥大させていたからだ。
「あ、ダンゴムシ〜」
しかし長きに渡る尾行に飽きが回ってきたのか、園子もとうとうみんな大好き虫のアイドルの誘惑に屈してしまった。エビと同じ甲殻類であり、あまり美味ではないが非常食としては優秀らしいダンゴムシ。危険を察知して、ボールのように丸まってしまう彼らの習性は子供心にどストライクである。
とはいえ、尾行において対象から目を離すというのは愚の骨頂。気付いた時にはもう遅い。
「あれ、あれれ!? 三ノ輪さん、どこー?」
「ここだよ……」
信じられない声が聞こえる。そして若干呆れてもいる、そんな感じの。まさか、これは幻聴か? と少女は現実さえも疑い始めた。
「ば、ばかな……」
可愛らしい声に、あまり似つかわしくない感嘆詞。思わず三ノ輪銀も笑いを隠せないでいる。
「やーっぱ乃木さんだったのか」
「い、いつから」
「えーっと、六日前……くらいかな」
「ば、ばかな……」
それはまさしく尾行開始日。積み上げてきた自惚れが、一挙に崩れ去る瞬間であった。
しかしさてさてどうしよう。尾行がバレたらどうなるものか。お縄にかかって打首か? 或いは拷問、問い質し? そんな生温いわけがない。ストーカーの烙印を押され、この少女に、嫌われて……こんなことならもっと早く、いや普通に声を掛ければ──
「えーっと……まあ、とりあえず、うちくる?」
「え」
これに対し、うんともすんとも言えず、流されるままに園子は三ノ輪家の敷居を跨いでいた。状況が中々に整理しきれておらず、未だ頭上のクエスチョンマークの表示が消えずにいる。尾行していた、そして気づいたらターゲットの縄張りに入り込んでいた。これは一体どういう展開なのか。
「えっと……なんで?」
「え?」
「いや、だから……なんでアタシを尾行してたの?」
うん、そりゃそうだよね。と、園子はようやく正常な思考を取り戻す。とりあえず、どこから話したものか。
「んーっと……説明が難しいな」
「なら、やっぱその話は後でいいよ、それより……」
言いながら、三ノ輪銀は部屋を後にする。
対して園子は再度混乱し始める。約一週間も尾行されておいて、「それより」と切り出してくるとは。三ノ輪銀という人物にとっては、そんなこと、ミジンコスケールの出来事だとでもいうのだろうか。
もしかしたら、この少女はとんでもない大物かもしれない……そんな事を考えていると、
「ほら、乃木さんこれみて」
客間に戻りつつ三ノ輪銀が指差していたのは、小麦色の髪をした、少女の写真が表紙の、古ぼけた……本だった。そして、彼女の名は──
「乃木、若葉……」
「そう! 乃木若葉! 乃木さんにそっくりだし、それに」
「名字、一緒だね」
大体察しがついた。この子は気付いてしまったのだ。乃木園子の、秘密に。
「すごいね三ノ輪さん。こんなマイナーな人知ってるなんて」
「まあね。それで、乃木さんって乃木若葉の子孫なんじゃないかって思ってたんだ」
「……そうなんだ」
園子はイエスともノーとも答えぬままこう尋ねた。
「それ、貸して貰ってもいい?」
「あ、うん」
銀から手渡された本を、パラパラと眺める。
「やっぱり」
その本の頁は園子にとっては案の定、殆どがどす黒く塗りつぶされていた。そして裏表紙には、「大社検閲済み」という印。
──乃木若葉が乃木園子の祖先。それは紛れもない真実である。代々続く名家である乃木家の家系図、その一代目の名は、確かに乃木若葉と記されていたからだ。
しかしそもそも乃木若葉という名を目にする機会は、この国の人々には全く無いと言っても差支えはなかった。だから、乃木園子が乃木若葉の子孫であろうがなかろうが、大多数の人にとってはこの上なくどうでもいい事実と言えるはずだった。
歴史の教科書には、彼女の名前は載っていない。何を為し、何故伝記を描かれるほど名を残すに至ったのか。そして、何故その本が検閲されてしまったのか。知る術も無ければ、知ろうとするきっかけも無い。この本も、凡そ失われたのと同義であり、こうして残っているだけでも奇跡であった。
園子はその矛盾を容認しなかった。いや、乃木という立場上容認出来なかった。しかし名も知られていない己の祖先の存在が、何故かくも否定されているのか。そんな極々個人的な、乃木家特有の悩みを、疑念を、誰かに相談することは出来なかった。
だから園子にとって三ノ輪銀がこの検閲された本を所有し、興味を持っていたという事実は予想外だが、そのことは彼女自身に対してどこか救われるような気にさせた。
自分の存在のひとつのルーツである乃木若葉、その真実を詳らかにすること。それは、乃木として生まれた自分の責務であるはずだと、どこかで感じていたのだ。
「実は私もね、気になってたんだ。うちにもこの本あるんよ。だけどどのページも真っ黒。乃木若葉は確かに居たはずなのに、どんな人なのか全く分からないの」
「え、そうなの? でもそれ、塗りつぶされてないページがあったはずだけど……」
「え、ほんと!? どこどこ!?」
「ここ」
そう言って銀が開いたページには、くっきりはっきり、見開き丸ごと、本としての意義が残っていた。右には文字が、左には恐らく版画と思われる、象徴的な巨大な樹の描かれた挿絵が。
「検閲ミスだ……うちのは全部真っ黒だもん……えっと……」
勇者乃木若葉は、地の神より賜りし力を遺憾なく発揮し、星屑の悉くを切り伏せ、天の遣わした邪神を打ち倒す。遂に生大刀を神樹に捧げ、四国は結界に包まれ、人々はあるべき魂の姿を思い出した。かくして乃木若葉は英雄となり、新たな時代の幕開けを象徴する現人神として
「これは……」
「ね、凄いでしょ! 乃木若葉って、英雄で、神様だったってことだよね!」
「うーん……どうかな」
正直なところ、園子にはこれが真実であると容易には信じることが出来なかった。地の神、天の遣わした邪神──これではただの作り話としか思えないだろう。園子は心の中でガックリ項垂れてしまった。
検閲するに至ったわけも以前よりは考察の余地が広がったと言えるが、彼女が欲しかった内容は、こんな抽象的なことでは無くて、乃木若葉の人柄だとか、具体的に何を為したのか、だとかであったので、御先祖様が廃れた宗教の神話の英雄のモデルになりました、なんてぶっ飛んでいるようで実際下らない結末だったら、期待外れもこの上ない。
「ね、もし良かったら、乃木さんの家にお邪魔出来ないかな」
瞳を輝かせて園子を見つめる。知的好奇心に突き動かされる真っ直ぐな少女の目だった。
希望を裏切られた内容だったとはいえ、この本の全てが明らかになった訳ではないし、言うまでもなく乃木若葉についてもまだ何一つ分かっていない。故にこの子と協力して乃木の秘密を探っていくことはなんとも魅力的であった。
だが、園子がここに来たのは、自分の都合に周りを巻き込むためではない。
園子は理性に言い聞かせ、頷いた。
「ガッカリさせちゃうかもだけど……」
「やった!」
銀は大袈裟にガッツポーズをとる。慌てて園子は横槍を入れ、
「でもでもその代わり、お願いがあるの。尾行してたのも、それでなんだけど……」
「ん、言ってみ」
笑顔の銀。
さあ、言うぞ。園子は短く息を吸う。
「鷲尾須美と、友達になって欲しいの。三ノ輪さんも何となく分かってると思うけど、あの子が……その」
「ああ、いいよ。直接聞くからさ」
随分と軽く、簡潔な返事だった。クラスメートが、別のクラスメートに、自分の友達と友達になって欲しいというシチュエーションは、本来特殊である筈である。交友関係の始まりにこんなネゴシエーションを介するというのは、あまりまともとは言えないからだ。
しかし、三ノ輪銀はなんの抵抗もなくその申し出を受け入れた。何故だろう、と園子は奇妙に感じざるを得なかった。何がこんな器を形成するのか。今まで、こんなサッパリした人物は見たことも聞いたこともなかった。
「でも、なんでアタシ?」
本人からすると、もっともな意見である。
少々呆気に取られていた園子であったが、恐る恐るまた口を開く。
「……あの子は……わっしーは、警戒心が人一倍強くて、誰かと必要以上に近づこうとはしないんだけど、三ノ輪さんには、興味があるみたいなんだ」
これを聞いて、今度は銀が惚けた顔をしている。
一気に顔を赤らめて、気恥しさで頬を染め、我慢出来ずに笑顔を零した。
「あはは……そっか。なんか恥ずいな。でも、きっとアタシは鷲尾さんが思ってるようなヤツじゃ……」
「だめ……かな」
やはり突拍子が無さすぎたのか、と園子は諦めかけるが、
「いや、鷲尾さんとは前から仲良くしたいって思ってたし。もうお願いじゃなくて、アタシの意思で友達になるからさ」
「ミノさん……!」
望んでいた以上の完璧な返答。至上の喜びに、園子自身の制御から外れた自我が顔を出した。
「み、みのさん?」
「あ、ごめんね。私あだ名つける癖があって……やだった?」
銀は数秒拳を顎に当てて考え込んだが、顔を上げて、また屈託なく笑う。
「なんか牛みたいだけど……まあいいか、アタシはミノさんな」
「わーい! ミノさん優しいね! わっしーが惚れるのも分かるな〜」
「しかし、突然話しかけても怖がらせちゃうよな」
うーん、と再度銀が唸る。
「それなら、私にいい考えがあるんよ!」
そう言って、園子は銀に耳打ちし始めた。