第一部 狼少女、神世紀元年に立つ
西暦二〇一八年から、神世紀元年。その変化を、人々が当たり前に受け入れる少し前のこと。
世界は、その在り方を再定義した。
『こんにちは。大社宗主、上里ひなたです。大社は、皆さまの生活を守り、安全を保証します──』
鳴り響く街宣車、繁華街での電光掲示板、手に持ったスマートフォン。表示されているのは、いずれも一人の少女の笑顔。
大社は、遥か神代から、時代の裏側で存在し続けていた影の組織。企業と繋がり、政府と繋がり、いつか来る超常の再来を待ち続けていた。
「大社は私たちを騙している! あの黒き化物は大社の創り出したフェイクにすぎない! 私たちの命を、得体の知れない組織に委ねるわけにはいかない! そうは思いませんか!」
旗を掲げ、少女の声をかき消すように訴える複数の人々。顔ぶれは、複数の宗教組織の代表者。
今は選挙期間中ではない。何より、選挙などという民主主義の心臓は、既に肉体を喪っている。
今この世界は、国会も、内閣も、裁判所も、機能を停止している。戦時中ではない。戦は人々の知らぬ間に、既に終わっている。
ただ一つ、人々が縋る新秩序。
大手電気会社の全権を掌握。独自通貨の発行。報道機関の規制と独占。あらゆる活動に対する県知事の形式上の承認とその報道。現行の法律の否定──化物の襲撃の裏、水面下で行われていた征服活動。世界が完全なる混沌に陥る前に、人々は大いなる力を否応なく認識させられた。
これは、残された者たちの、その後のとある一幕である。
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「ひとつ質問をしよう。お前は、世界を救いたいか」
突然現れた一人の老人。森のような白髭。しかし眼光は力強く、肉体は若々しい。友人は拳を握り締め、何も言わず頷いた。
「え、ちょ」
目を丸くして呼び止めようとすると、既に彼女は消えていた。直前に出会った金髪の少女と共に。唖然として立ち尽くす私。代わりに、どこからともなく猛スピードで現れた自家用車が、境内にもかかわらず私の目の前で停車した。
「乗ってください」
そう言って運転席から現れた巫女服の女性。
いやいや。なんなんだこれ。
私は何も言えず、汗を流して後ずさる。
直後、少し離れた場所で見知らぬ悲鳴が響き渡る。空を仰ぎ見ると、激しい竜巻と共に、巨大な濁ったあられのようなものが降り注いでいる。
「さあ、早く」
──ええい、もうどうにでもなれ。
半分ヤケクソ気味に、私はそれに乗り込んだ。
その後なぜか、私は瀬戸大橋記念公園に連れてこられていた。私よりも幼い女の子たちと、巫女服の女性が集結していた。比較的年齢の近そうな女の子がいたけれど、話す間もなく、私は巫女服と共にその場を後にすることになった。
そして、今。
私は、見知らぬ神社の中で、あの場にいた幼い少女たちと共に何かを待ち続けていた。何を待っているのかは、ここの誰も分かっちゃいない。時折、先の見えない不安から、ぐずり泣く子がちらほら。笑ってる子なんて一人もいない。みんな、同じ気持ちだった。
スマホを開く。私に家族はいないけど、ありがたいことに友達は何人かいた。修学旅行に病気で来られなかった子から、心配している旨のメッセージが届いている。私は大丈夫、と返信した。するとすぐに、短い動画が送られてきた。
「お姉ちゃん、何見てるの?」
「ん、ああ、友達からなにか送られてきてさ」
再生。
どうやら、長野県の高速道路上の動画。一見、ただの運転映像だが。──いや、違う。山が
「山、伸びちゃったね……」
「うん、そだね……」
いよいよわけがわからなくなってきた。こんなおかしなことが、色んなとこで起こっているのだろうか。私は頭が痛かった。
その後、巫女服の女性が食事と布団を持ってきて、私たちはそこにしばらく寝泊まりすることになった。少し経てば、みんな神社の生活に慣れてきて、次第に仲良くなっていく。年長だった私は、子供たちに頼りにされることに喜びを感じるようになっていた。
「安芸様。ちょっと」
ある日、巫女服の一人が私を呼んだ。なんの説明もなく、実質的に飼いならされている事実を思い出し、私は巫女服に文句を言ってやった。巫女服は深く頷き、とある場所に寄った後、本部に招きたい、自分たちのことを知ってほしいのだと言った。私はそれを了承した。
再び乗車する。すると、一冊の本を手渡された。表紙には、凛々しい少女の顔が貼られていた。
巫女服は言った。これが私たちの世界を救った英雄です、と。
私は目的地に向かう間、それを黙って読んだ。表紙の少女は、乃木若葉というのだそうだ。乃木若葉の生い立ち、性格、経験してきたこと、挫折等、センシティブなものまで赤裸々に描かれていた。大量の写真と共に。
これ、写真減らせばもっと薄く済むでしょ、なんて思いながら読み進めていくと、突然話が転回した。
これ、古事記じゃん。国生みから、国譲りまでの。いや、よく読んでいくと違う。誰が書いたんだろう、これ。と思ったら、今度は現代の出雲大社に舞台が移る。日付は──私の修学旅行の日。てことは、乃木若葉はあの時同じ場所にいて……“勇者・土居球子”……。
「ねえお姉さん、そういえば、球子って今どうしてるの? この本に出てきたよあいつ。どういうことなの」
「……」
なんで黙ってるんだろう。まあ運転中だしな……へえ……ほんとかなあ、これ……ええ……おお……
「ねえ」
「……」
「ちょっと車止めて」
「……」
「止めてって言ってるよね?」
「……はい」
「ねえ、これ……球子死んだって、ほんと?」
「……」
「……あんたたちについていったはずだよね。あの子。で、そしたら戦わされて? で、死んでるってどういうことよ。大体なんなのこのおとぎ話。あるはずないでしょ、大蛇だの根の世界だの。ねえ。ほんとのこと教えてよ。いや、そんなのどうでもいい。球子に会わせてよ。どこにいるの」
「……」
「……降りる」
「おまちくださ──」
ドアを開くと、そこから見える白絹。
顔を上げる。黒髪。白い肌。写真で見た幼い顔。
「ようこそおいでくださいました」
「……球子に会わせて」
「……ついてきてください」
振り返る少女。その背中についていく。途中で気付いた。穏やかな波音。ついこの間連れてこられた瀬戸大橋記念公園。そしてここは、イベントなどに使われるマリンドーム。……のはずだった。
……墓じゃん。
墓地になってるじゃん。
じゃあなに。あの子……あの子は……
「楯子さま……」
同伴していた巫女服が、一つの大きい墓標の傍に立っていた女性に近付き、声をかける。いや、まって。あれは球子の……ママ……だ。
「あら。真鈴ちゃんじゃない。来てくれたの」
「あ、はい……」
見上げる。土居球子。その四文字が刻まれている。
「球子ママは、知ってたんですか」
「……
言いながら、足元の水桶から、柄杓を掬って墓石に流す。
愛媛から遠いはずなのに、汚れ一つついていなかった。
「……そんなの嘘って思うかもしれないけどね。土居の家系は、代々、十代半ばの間に他人の死が見えるようになるの。大昔にこの国を治めていた神様の奥さんが、その神様を守るために持っていた力なんだって、素戔嗚様は言っていたけど……あんなの、ただの呪いよ」
淡々と言いながら、花瓶の水を入れ替える。
「でも、あの子が戦いたくないと答えたら、戦わせるつもりはないって素戔嗚様が、そう言ったから、私は……素戔嗚様を責めることは出来ない」
球子ママは二本の線香に火を点け、一本を私に手渡した。私はそれを受け取って、一緒にお供えした。
「悪いのはね。悪いのは……──……全てを……裏切ってでも……あの子を……守り……抜くって……覚悟が……出来なかった……私……」
崩れ落ちる。
無力を悟った私は、ただ彼女の肩を抱いた。それ以外に、何もできなかった。何の言葉もかけられなかった。涙は、出なかった。泣けなかった。自分が泣く権利は無いと思った。
安芸真鈴が、ずっと蚊帳の外だったということを知ったから。
*
「思い出したよ。上里さん、あの時マリンドームにいたよね。あの苗木に選ばれたのは、あなただったんだ」
記念公園を海沿いに歩きながら、そう話しかける。
私は巫女服に促されるまま、あの時苗木に触れた。何も起こりはしなかったけど、それは上里さんがあの場にいたからだったんだ。何が起こったのかは知らないけれど、選ばれたこの子が、大社とかいう組織の顔として働いているわけだ。
「そうです。私はもともと大社の人間じゃありません。今は宗主ということになっていますけど」
受け答えもしっかりしてる。多分年下なのに風格の差がすごい。この短い期間で何があったんだろう。
「……アタシさ、なんも知らないんだなって思い知らされちゃったよ。球子が死んだわけも、この世界がいきなり変わっちゃったのもさ、一日二日、みっちり説明してもらわないととてもついていけそうにない」
「もちろん、お招きしたのはそのためでもあります」
「でも、それだけじゃないでしょ? 大社、ものすごく忙しいでしょ。そのくらいわかるよ。まだあなたたちの組織を信じたわけじゃないけど、組織の頭が中学生に時間を割いてる余裕なんてない」
「安芸さんは凄いですね……でもまずは、この世界のことを知ってもらいたいと思います。こちらへ」
そう言って、上里さんは先導して私を招く。少しして、小型クルーザーが停泊しているのが見えた。間もなく、私は促されるままに乗船する。動き出す。随分周到だなと思ったけれど、ここで船に乗る目的はなんだろうか。……ってか。
「ね、ねえ、アンカー刺さったままだけど……」
「ああ、大丈夫です。すぐに分かります」
「そ、そう……?」
腑に落ちないまま、数分が経過した頃。
「!? え、何?」
ブレーカーが落ちたみたいに、一切の視界が消失する。ひたすらに広がる漆黒。地の底の底と見紛うほどに、わずかな光さえも締め出された錯覚。
「慌てないで。いったん後退してください」
上里さんが合図してほどなく、再び瀬戸の海上が陽光を反射する。
「ど、どういうこと?」
「単刀直入に言うと、四国の外は、『無』になりました」
「……え?」
無? 無て、無?
「若葉ちゃんの本を読んでいただいたと思いますが、今、四国には結界が張られています。しかしそれは、四国全域を別世界、別の理を孕む空間で包んでしまうこと。四国の外からすれば、四国は存在しておらず、四国からすれば列島は存在しない。それが今の状況です」
「え、ちょ、ちょっとまって、仕組みはよくわかんないけど、じゃあ四国以外はどうなったの?」
「ほぼ間違いなく滅んでいるでしょう。星屑によって」
「そんな……」
うそでしょ。四国以外って、日本って、世界って、四国の何倍の広さなわけ。それが滅ぶって、この短い間に、あの……黒い変なので急に滅ぶなんて。……待ってよ。それがほんとなら、出雲大社にいたクラスメイトや先生たちは──
「ごめん、ちょっと信じられない……」
「大丈夫です。伝えられることを伝えておくのは私の意思ですから」
「……え、てかさ、四国だけだったら、輸入品とか、四国外のものとか、何も手に入らないってことだよね。それで、この先やっていけるの?」
「神樹様の力で、この先数百年はリソースで困ることはないというのが大社の考えです」
「神樹様……ああ、本に出てきた……」
黙りこんでしまう。この子には悪いけど、騙されてるんじゃない? 確かに四国の外は真っ暗だし、そんな大掛かりなこと、人力でやるのは無理だと思うけど、でも……それが嘘だったらアタシは、何を信じたらいいの? アタシは身寄りのない施設暮らしの中学生。崩れてしまった世界で、アタシが生きるためには、何を……
「とりあえず戻りましょうか」
「あ、ああ、ごめん……そうして」
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車の走行音が鼓膜を揺らす。アタシを気遣ってか、巫女服も上里さんも話しかけてはこない。どうやら今は大社本部とやらに向かっているらしい。
……アタシはあれこれ考えていた。
これからアタシは、大社の歴史とか、大社の仕事とか、いろいろプレゼンされて、そんで大社の人間として扱われることになるんだろうと思う。あの後、アタシが巫女で、神樹の声を聴く素養があるとか、マリンドームにいた女の子はみんなそうなんだとか、そんな話を少しされた。あの子達もみんな大社で働くことになるんだろうな。
……大社か。
もしほんとに四国以外なくなっちゃったんなら、今までの行政システムじゃ色々難しいのかも。県知事も大社に任せるって言ってたしな。じゃあ、アタシ、公務員になるってことか。
変な気分だな。アタシ、まだ中学生なんだけど。でも、年下の上里さんがこれだけ頑張ってるのに、そんな言い訳したらかっこ悪いよな……。
……。
……球子、アンタほんとに四国を守って死んだわけ? そんなの、やんなくて良かったんじゃないの。四国は助かったけど、それ以外は……だったら……。
いやいや、何考えてるんだ。あの子は必死に頑張ったわけで、そのおかげで四国は救われた。英雄だよ。偉いよ。すごいよ。よくやったよ。
……でも不安だよ。球子。アタシ、あんたが今傍にいてくれたら、何も怖くなかったのに……。
「……球子ぉ」
良かった。ようやく泣けた。
「アンタ、何死んでんのよ……もう……バカ……」
*
その後、アタシは大社本部とやらをようやく目の当たりにした。
それは、宇多津にあるゴールドタワー。今は貸切って、大社がオフィスとして使用しているらしい。だけどそれは一時的なもので、山の中にある神樹の近くに新たに本部を建設しているのだとか。中に入り、アタシは巫女服と上里さんの後ろからついていく。
「今日安芸さんを個別でお招きしたのは、私の個人的なお願いのためです。大社に所属するかどうかは、また少し経ってから改めてお尋ねすることになっています」
「お願い?」
尋ねたところで、上里さんは扉の前で立ち止まり、ノックをして開いた。そこには、病院にあるような本格的な病室があり、ベッドで一人の少女が眠っていた。
「あ、あの子、出雲大社にいた……」
「伊予島杏さんです。今は薬で眠っていますが、未だ錯乱しています」
「錯乱?」
「戦いの中で、なんというか……球子さんの死のショックと、“よくないもの”の影響で……」
「よくないものって?」
「説明が難しくて……また改めてお話ししますが」
ベッドの傍に二人で寄る。
美しい金髪に、浮世離れした綺麗な顔立ち。けれどどこか得体の知れない何かを感じる。なんだろう。でも全く分からないでもないような……。
「えっ」
ちょっと待って、ベッドの下にあるこの鎖は何? という声が出なかった。
「それは……どうしても必要で」
「そ、そんなレベルなんだ……それで、アタシは何をしたら……?」
「大社の見立てでは、時間と共に杏さんは意思疎通が取れるように回復していきます。ですが心の傷はそう簡単にはいきません。勝手ですけど、安芸さんが適任だと思って、それで……」
「……」
なるほどね。確かにこれはほっとけないわ。
「そばにいてあげればいいんだよね」
「! ありがとうございます!」
「いいよこのくらい。忙しいでしょ。この子はアタシに任せたまえ」
「私もなるべく時間を作って来ますので、杏さんをよろしくお願いいたします……」
「上里様、そろそろ」
巫女服が声をかけ、ぺこぺこ頭を下げながら上里さんは部屋を後にした。手持ち無沙汰なアタシは、杏ちゃんの頭をそっと撫でて言った。
「これは球子、アンタの役目だと思うよ」
*
ゴールドタワーの会議室にて、巫女服と束帯が、議長席に座る一人の少女、上里ひなたに視線を集中させ、その声に耳を傾ける。
「メーカー・小売業者、運送業者との連携によって食料、医療品等の全家庭への生活必需品の供給はかなり安定してきました。おかげで国民の大社への信頼も高まってきています。国造班さんの努力の賜物です。ただ、以前からご指摘のあった通り神樹様と若葉ちゃ……乃木若葉様への信仰による統治戦略は難航しており……これに対する宗教団体の反発も大きく、この方針を続けるべきかどうか……」
「上里様、それについてご覧いただきたいものが」
そう言って、一人の若い巫女服が資料を全員に配布する。
「宗教連合、月光の福音結成……ああ、もうこんなことになってしまいましたか……」
「見てのとおり、既存の大型組織が軒並み参加している形となっています。その規模は無視し続けられるものではありません」
「ええ、ええ、そうですね……」
「独自通貨を発行したとはいえ、円をすべて回収することは出来ていません。もし円を使用し続ける企業が“月光”に出資し始めたら、いよいよ戦うしかなくなります」
「……戦う、ですか」
拳で額をトントン叩きながら、苦虫を嚙み潰したような顔で黙り込むひなた。
「神話と共にあった大社の在り方を尊重していただけるのは非常に喜ばしいことです。ですが私たちは常に素戔嗚様に付き従ってきたにすぎません。ですから、この先の判断は上里様に委ねます」
「……」
全員、真っすぐにこちらを見ている。ひなたは天を仰ぎ見て、数秒後にまた口を開いた。
「最終決定は、追って報せます」
会議室を後にし、宗主室の扉を開く。椅子に座り、はあ、とため息をついた。
『犬吠埼は今日も親切だったな』
「また嫌味ですか……」
頭の中で響く女の声。ひなたは空を睨みながら呟く。
「大社の皆さん、犬吠埼さんも、私には素戔嗚様がついてると思って大事なことは全部私に決めさせて! 今の私のどこが操り人形だっていうんですか!」
『操られてるだろ。運命に』
「……はあ、なんで素戔嗚様じゃなくて久美子さんなんですか」
『楔が二人いたから、神託は樹海に取り込まれた私を中継して地上のお前に伝える構造になったわけだな。ま、嬉しいだろ? 愚痴る相手が出来て』
「私はアドバイスが欲しいんです! 久美子さん今まで助言したことありました!? 無いですよね!?」
『アドバイスならある。自分を信じろ!』
「……はあ、はいはい、もういいです」
ひなたは書類を手に取り、目を通し始める。
『そういえば犬吠埼って某大手エンタメ会社で企画担当だったらしいぞ。大社職員との二足のわらじだな。あのゲーセンのハンマー叩き、あいつの企画なんだとさ。なんでも素戔嗚の剛腕でも簡単に壊れないくらい頑丈で──』
「ちょっと静かにしててください、仕事中です」
『はいはい、お仕事頑張ってな~』
そう言って、久美子の声がぷつりと聞こえなくなる。
静寂とともに、ふと思い出す。そういえば、杏さんと真鈴さんはどうしているだろうと。
真鈴を招いてから、数週間が経過しようとしている。時間を見つけてまた訪ねに来るとひなたは約束していたのだ。
どうせ“月光”と統治方針のことで頭がいっぱいで、何も手につかないだろうし。行ってみようかな。そう思って顔を上げた。
『あー……ひなたサマ?』
「なんですか、はいそうですよ。仕事は一旦置いておきます。でもそのくらい別にいいじゃないですか。私だって──」
『伊予島杏が暴走したみたいだ』
数分前──
「あんずちゃーん、おはよー。今日は大社の人にメロン持ってきてもらったよ-」
そう言って、スツールに腰掛ける真鈴。杏は相変わらず意思疎通ができる状態ではないが、真鈴が来てからは薬が無くともかなり落ち着いていた。今は虚ろな目のまま、壁のシミをぼうっと見つめている。
「食べる? 食べたい? いや私が食べたいだけやないかーい! あはは。まあメロンは一旦置いとこっか、うん。じゃあ今日はなんの話しよっか。そうだなあ、球子の恥ずかしいひみつシリーズその17いっとく? 聞きたい? 聞きたいよね~」
「ぁ……」
「……え? 今……杏ちゃん、返事、した?」
真鈴がそう言うと、杏は彼女の瞳を見つめた。
──一度破壊された魂が、塞がれていた傷だらけの心が、絶対安全領域から顔を覗かせようとしている。いつか必ず必要になるプロセス。しかしそれは痛みという代償に耐える灼熱の道と同じ。
この少女は誰だ。
記憶が音を立てて積みあがっていく。倒れた体。支えてくれた細い腕。その傍らにいた一人の少女。助けてくれたのは誰。
嫌だ。知らない。そんな人覚えてない。怖い、来ないで、見たくない、だって、私、知らないもん、知らないもん、知らないもん、知らないもん知らないもん知らないもん知らないもん知らないもん知らないもん知らないもん知らないもん──
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
高さ158メートルのゴールドタワーを、一人の少女の裂帛が揺らす。薄布は吹き上がり、繋がれていた鎖は細枝のように切り折られた。
神威を宿した少女は獣神となり、窓を突き破り犬小屋から脱走した。
「え、あ、杏ちゃん!?」
窓枠から身を乗り出す。ここは二階だ。落ちても大したケガは……い、いない……
「ま、真鈴さん、杏さんは!?」
上里ひなたが束帯とともに病室に現れた。息も絶え絶え。これはただごとじゃないと、真鈴はごくりと喉を鳴らす。
「ひなたちゃん、え、えと、その、窓から落ち、て」
「……! 真鈴さん、一緒に来てください!」
突然手を引かれ、抵抗する間もなく連れてこられた放送室。
「杏ちゃんにはスピーカーを取り付けてあります、とにかく止めてください彼女を!」
「ええええ!? む、無茶ぶりでしょそれは!」
「真鈴さんがやらねば誰がやる!」
そう言ってスイッチを押すひなた。真鈴は条件反射的にマイクに近付いた。
「あ、あんずちゃーん? いまどこー?」
『私はあんずちゃんではありません! 剣山のヌシ、土地神様なのです! 土地神アンド狼の私は今、この変な建物の外壁を四足歩行で登っています! あ。今てっぺんにつきました! やったー!』
す、すげえ不思議ちゃんだな。
「土地神様、戻っておいでよ。メロンあるよ」
『いりません! あと、あなたとは話したくありません!』
「ど、どうして?」
『……嫌なものは嫌なんです!』
真鈴は困ってひなたの方を見た。
「アドバイスです。自分を信じましょう!」
拳を握り、小声でそう唱えるひなた。真鈴はがっくりと項垂れ、腕を組み、数秒ののちにまたマイクに指をあてがった。
「杏ちゃん。お母さんのこと……聞いたよ。球子のことも……辛かったね」
『……』
直後、ゴールドタワーが再び振動に襲われる。これが杏によるものなのだとしたら、いよいよ洒落にならないことになる。
……でも、このまま放っておくわけにはいかない。そもそも、私に任せたひなたちゃんが悪い。そう思い、真鈴は話し続ける。
*
頭がぼうっとぼやけてて、だけど目の前はくっきり見える。
少し前まで、とてもくるしいユメを見ていた。人の声、人の顔、人の気持ち。それらがぐちゃぐちゃに絡まって、私もそれに包まって、何もかもを恨んで怒っている、終わりのない世界。でも気付いた。私は人じゃない。神様だ。だから私は自由だ。怖いものなんてないんだ。
だけど、なんだかすごく嫌な感じがする。あの女の子の声を聴くと、すごく頭がむずむずして、身体が崩れそうになる。だから、私に構わないで。私を放っておいて。
そう、言ってるのに。
『私は、自分のこと強い奴だって思ってた。まあ、普通の人よりは少し強いかもしれないけど、実際そんなことなかったよ。でもそんな風に思えたのは、球子がいてくれたからなんだ。杏ちゃんも、そうだったんじゃない?』
「うるさい!!!」
鉄の外壁を叩きつける。
私は神様だ。神様だから、人間の話なんて嫌いなんだ。もう、いい。これ以上私に嫌なことをするんだったら、こんな人工物、粉々にぶっ壊してやる。
『杏ちゃん。球子のこと、忘れちゃうの?』
「……っ」
うるさい。そう思って、拳を振り上げた。──でも、どうしても身体が動かない。どうして。私は神様なのに。
……私、神様、だよね。壁だって登れるし、硬いものも壊せるし。……だけど、どうして。
私、どうして泣いてるの。
『杏ちゃんは神様なんかじゃないよ。球子もそう。私もそう。だから、辛いことがあったら逃げたっていい。神様になってもいいよ。今私が杏ちゃんと話してるのは、私が味方だって、知って欲しいだけだから』
「……うるさい、うるさい」
震える唇から漏れる声は、驚くほどか細くて。
目の前がぼやけて見えないから、拭って拭って、それでも、止まらなくて。それがすごく嫌で、腹が立って、だけど、どうしたらいいのか分からなかった。
四国の空も、街並みも、水没して歪み切って、代わりに、だんだんと忘れられない笑顔が浮かんでくる。それは正しく救いだったはずなのに、どうして、こんなにも苦しいのか。
──ああ、そっか。変だと思ったんだ。そういえば私って、神様じゃなかった。
「そんなの、いやだぁ……」
むき出しの心を覆い隠すように身を抱くも、涙は地上へと振り注ぐ。
一粒流れ出る度に、己自身という消えない傷が浮かび上がっていくのを感じた。
土居球子。彼女の名前は土居球子。それを知る私は、ただの伊予島杏だった。ひび割れたこの魂は、紛れもなく私のものだった。
この亀裂は、お母さんが死んで、私が崩れたからできたもの。だけどタマっちが笑ってくれた。それで私の残りカスはまた固まった。タマっちにまた会いたい。そう思うと、ツギハギの私がまた立ち上がった。そのはずだった。
──でもタマっちも死んだ。この目で見た。抗えぬ死の様は、私にはもう見間違えようもなかった。
それで、私が消えた。消したんだ。そうしないといけなかった。
だって私は……私は、
「私……もう壊れたくないんです……独りになりたくないの……」
『うん、うん』
「……タマっち、生きてたよね」
『うん。ずっと一緒』
「タマっち、笑ってるよね……」
『うん。バカだから』
「……私、また……立てる……かな」
『倒れても、私が支えてあげる。球子よりもしっかりね』
「……うぅ……うううううぅぅぅ……はあっ、はあっ……タマっち、タマっち……うう……うううううう……わたし……私、私はあっ……!」
……その後も真鈴に問いかけて、おんなじようなやりとりを何回も何回も繰り返して、そうして、ひとしきりぐずり泣いた後。ようやく、杏は涙を拭い、震える声で挑むようにこう唱えた。絶対に失いたくなかったという気持ち。心から愛していたという真実。それらをかき集めて、それでも彼女のように前を向きたいと、怯えた顔で願いながら。
私は伊予島杏。私は──
“私は、土居球子が、大好きです”
──やがて、ヘリがゴールドタワーの頂上を旋回する。
鬼灯色の夕日を背に映る長髪のシルエットは、二足歩行に目覚めた狼人間のようだったという。
第一部 狼少女、神世紀元年に立つ 完