結城友奈・曲筆【本編完結】   作:おーたまー

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第二部 諏訪の大湖が干上がる日

 星屑に囲まれる。夥しい量の血を巻き散らしながら、藤蔓は舞い続ける。もはや動いていられるのが不思議なくらい、彼女は傷付き、苦しみ、疲労し、悶え、それでも、自らの意思で戦いを辞めることは、決してしなかった。

 

 しかし、限界は万理にあり。忽然と片腕の重みが消える。視界の縁で紅い滝が吹き上がっていて、すべてが真っ赤に染まっていく。倒れこむ身体。もはや感覚という感覚が消えていた。最後の力を振り絞り、その少女を一目見る。

 

 おつかれさま、うたのん。

 

 涙を流しながら、確かにそう言って彼女は笑った。最期にその声が聴けて良かった。そう、白鳥歌野は大地へと還る。

 

 ──その、はずだった。

 

 喪われた結界の内側で、蒼き月光が、血みどろの少女を照らす。

 

 それが、全ての始まりだった。

 

 

「……どこよ、ここ」

 

 呟く。

 白鳥歌野はどこか知らない山中で、大の字になって空を見上げていた。嫌に澄み渡った青だった。

 

 むくりと起き上がる。傷一つない体で、歌野は戦装束を身に纏っている。藤蔓は無い。これは一体どういうことなのか。

 

「わあ、こんなところに人間がいる!」

 

 背後から、弾むような声が聞こえてくる。

 振り向いてそこにいたのは、桃色の髪を後ろで結んだ、碧眼の少女だった。白絹のような衣服に身を包んだその姿は、浮世離れしすぎたような、異様な美しさそのもので。

 

「ねえねえ、私お腹すいちゃってさ。何か食べ物もってない?」

「あ……そ、ソーリー、何も持ってないわ」

「そっかあ、じゃあ村まで案内してよ」

 

 どうやら、この少女は自分がたまたまこの山に立ち寄った、近所の村民だと思っているらしい。そうは言っても、放浪者である歌野に案内なんてできるはずもない。

 

「ごめんなさい、私もあまりここに詳しくないの」

「えー、そっかあ。もしかして迷子?」

「じ、じつは……」

「おっ! なら一緒に山を下りようよ! 帰れるかもしれないよ」

「えっ、えっ」

 

 返答を待たず、手を引いて走り出す桃髪。なんだかやけに行動力の高い子だ。髪色といい、瞳の色といい、まるで不思議そのものだ。

 

「あ、もしかしてあれって家かしら」

「えっ、どこどこ」

 

 指さす向こうに、不自然な穴の開いた洞穴のようなものが。

 

 ……いや、待て待て。

 

 二十一世紀の現代に、洞穴で暮らす者がいるはずがあろうか。いやなかろう。なんで家なんて口走ったんだろう。そんな歌野の疑念を吹っ飛ばし、桃髪は即座にそれに駆け寄った。

 

「人間! いるー!?」

 

 入り口の前で叫ぶ桃髪。ぬっと出て来た小さな老婆。

 

「オーマイゴッド……」

 

 本当に住んでるなんて思わないじゃない。歌野は驚愕のあまり絶句する。でも、素敵だわ。原点回帰、自然そのもの、これぞワイルドライフ。一周周ってときめく歌野。

 

「やあやあよくぞ。ささ。お入りください」

 

 中に入る。三秒と経たず、焼き固めた土の器に盛られた魚のようなものを、許可も無く食べ始める桃髪。さすがについていけず唖然とする歌野。ふと顔を上げて、桃髪は老婆に尋ねた。

 

「ねえ、これなに?」

 

 指さす場所に、桜の花びらを載せた土の器があった。まさか、この子は桜を知らないのだろうか。

 

「これは、名前の無い花です。あまりに美しすぎるがゆえに、誰も名前をつけられずにおるのです。ですが、もし名をつけるとしたら、きっとあなたの名がつくでしょうね、ヒメ」

「……オオヤマツミには内緒だぞ、人間。家出中なんだから」

 

 名前の無い花、ヒメ、オオヤマツミ? なんだか変だ。穴の家も、この少女も、自分自身の存在さえ。

 

 ふと遠くで聞こえてくる複数の男の声。ヒメ、どこにおられるのか。そう叫んで走っている。

 

「げ。もうこんなところまで。ごちそうさま。それじゃね」

「え、ちょっと」

 

 勢いよく飛び出したヒメ。慌てて後を追う歌野。直後、視界がぐにゃりと歪む。空間そのものが、目まぐるしくかき混ぜられていく。世界が、時空が、鳥が、木々が、“白鳥歌野を除くすべて”が、別の何かへと練り替えられていくような。

 

 やがて、加速していく世界の中で、目に飛び込んでくる“人の営み”。争い、培い、戦い、生み出し、少しずつ少しずつ、進んでいく。

 

 そして最後に見えたのは、干上がった湖上で月に向かって吠える、猛き炎の巨人の姿──

 

 

「……夢でも見てるのかしら」

 

 呟き、再び立ち上がる。

 辺りを見回すと、そこには見覚えしかない景色が広がっていて、細胞を湧き立てる澄み切った空気が全身を満たしているのが分かる。

 

 畑は、あの時よりずっと小さい。それは、この場所が、“あの場所”ではない可能性があることを意味する。しかし白鳥歌野が、その記憶を違えるだろうか。

 

「確かめるしかないわね」

 

 そう言って、白鳥歌野は大地を蹴る。

 勇者の力は未だ健在。それは土地神の加護が失われていないことを意味する。それだけが大きな謎で、それだけが希望で、それだけが走る理由でもあった。

 

 白鳥歌野はふと回る足を止める。

 見上げてそこにあるのは、見知らぬ誰かの家。

 そう、見たことのない家なのだ。

 

 もし──もし、ここが“あの場所”であるのなら、ここは……白鳥という家族が暮らしているはず。だが、表札に刻まれている文字は白鳥などではない。

 

 歌野は無言で、再び走り出す。

 街行く人の目も、今は気にしている場合じゃなかった。

 木々に挟まれた国道を行く。今のところ、何もかもが記憶と酷似している。けれど、あれか、あれを見るまでは、まだ分からない。

 

「……諏訪、大社」

 

 辿り着き、呆然とそのお社を見上げる。諏訪大社、前宮。確かにそこに建っている。じゃあ、やっぱりさっきのは守屋山のふもとなのか。

 

 辺りを見回す。

 祭りの準備をして、複数の大人たちが慌ただしく動き回っている。下には既に複数の出店が建てられている。

 

 まさか。

 

 北へ北へと再び走る。街の飾りも、人の量も、何もかも、非日常の様相。道の途中で、束帯を身に着け、何かを担ぐ人の列が。顎に棒をのせ、器用に上下させる見世物をする者たちが。馬を引き連れ、人力車に乗る小さな子供が。

 

 間違いない、これは。

 

「御柱祭……!」

 

 千二百年以上の歴史を持つ、諏訪を代表する七年に一度の神事。それはまさに、現代まで続く数少ない神秘であり、色褪せぬ伝統。

 

 だが、それは絶対にありえない。なぜなら、西暦2016年の御柱祭は、バーテックスの侵攻によって中止され、次回は2022年に予定されていたはずなのだ。もし、もし御柱祭が開かれるとしたら、それは2018年ではなく──いや、本当に今は2018年なのか? 

 

 ……やっぱり変だ。こんな疑問を抱かなければならない時点で。考えられる可能性は、これが夢であるということ、もしくは今まで歩んできた人生が夢だったということ。だが、白鳥歌野は戦装束を身に着けている。あの戦いが、幻であるはずがない。

 

 神だ。

 

 あの時、化物を目の当たりにし、それを打ち破った日。歌野も、世界も、神という存在を認識した。神はいる。超常は超常ではなくなった。だったら、この不可思議な今は、神による介入──

 

 

「……とはいっても、あちらからコンタクトがないんじゃ、どうしようもないわ」

 

 いつの間にか、日が沈みかけていた。ベンチに座って、歌野は諏訪湖をぼうっと眺めている。

 

 諏訪湖を再び見られるとは思っていなかった。風に吹かれて、穏やかな波音が鼓膜をくすぐる。広大で雄大なその景色を日常とするのは、諏訪に住まう者の特権。いつまでも人々を包み込んでくれるそれは、きっと諏訪の水神のギフトなんだろう。

 

「なーんて寛いでる場合じゃないわよねー……」

 

 腕の布から、五千円札を抜き取る。

 なぜか失われていなかったその金は、戦いの後、町で買い食いをするために常に仕込んでいたちょっとしたへそくりのようなもの。すっからかんではなかったが、これじゃ一泊だって出来るか怪しい。

 

「ま、いいや。使っちゃお」

 

 中途半端に大事にしておくような額でもなし。さっさと使って切り替えよう。

 

 そう思って向かったのは、地元で有名なホテル付き銭湯。屋上近くに設けられたその浴場からは、なんと諏訪湖が一望できる。日帰りで利用できるため、とりあえず湯船に浸かって考えることにしたのだ。

 

 

「あああ~いぎがえるわ~」

 

 丁度夕刻、鬼灯色の天空を反射する諏訪湖は、それはそれは美しい。今だけは全てを忘れてもいいだろうと、全身全霊で脱力する。

 

 そうして景色を眺めながら、ふと脳裏に浮かんだ光景。あの広大な湖が干上がってしまうワンシーン。あれは一体、なんだったんだろう。

 

「ん?」

 

 誰かが新たに入ってくる。

 ──まさか。

 

「んみいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいちゃん!!!」

 

 ざばあ、と飛沫を立てて立ち上がり、ぎょっとする周囲の視線を独り占め。

 間違いない、あの薄茶色のふんわりとした髪、優しく垂れたラブリーな目尻、そして控えめな佇まい。

 

「へ?」

 

 濡れた浴室を構わず駆けては、躊躇いもせずその胸に飛び込む。

 

 そこには、悲鳴だけがあった。

 

 

「えーっと……」

 

 気付けば、白鳥歌野は黒塗りの車に乗車することを余儀なくされ、謎の施設に連れてこられていた。

 

 大きな大きな寺のような、和風建築の豪邸。こんな場所、果たして諏訪にあっただろうか。

 

「てめえかあ、お嬢様に襲い掛かったクソガキってのは」

「お、お嬢様……?」

「すっとぼけてんじゃねえ! 誰の命令だ!」

 

 指の欠けた男たちに囲まれ、吠えられ、一際貫禄のある偉そうな人に睨まれる。

 

 間違いなく、そこはヤのつく怖いお兄さんの本部的な場所だった。さしずめ藤森組。一体全体どういうこと~、ワッツハップンヘルプミー。そんなこんなで超ピンチである。

 

「まって、みんな!」

 

 引き戸を開いて飛び込んできたその子は藤森水都──諏訪で共に戦った歌野の親友にして巫女。のはず。ヤーさんのお嬢様なんかでは、決してないはず。

 

「神託が降りたの。その子が、大明神に選ばれし勇者みたい」

 

 一斉にこちらを振り向く男たち。

 三秒後には、誰もが畳に頭を擦り付けていた。

 

「頼む。諏訪を、救ってくだせえ、勇者どの!」

「ワッタッファ〇ク……」

 

 

 気付けば、諏訪大社上社、前宮に逆戻り。もう全く訳が分からないまま、歌野は目をうずまきにしてふらふら歩く。

 

「ごめんなさい、なんだか振り回してしまって」

「え? ああ、あはは……」

 

 隣で歩きながら、申し訳なさそうにこちらを見る水都。しかしもう歌野には気の利いた返事をする余力が残っていない。数年に渡り諏訪を守り続けた歌野にも、流石に限界が来ようとしていた。

 

「素戔嗚様、わざわざおいでくださって」

 

 両手を合わせて、お辞儀をする水都。

 視線の先、前宮のお社の前で、着物を身に着けた一人の老人が佇んでいた。

 

「お前が、タケミナカタが選んだ勇者か」

「はあ……えっとあなたは?」

「俺は最後の国津神さ。さて、何があったか聞かせて貰おう。月の礫が消えないうちに」

 

 そう言って、石段に座り込む老人。歌野は何のためらいもなく隣に座った。

 

「私は、こことは違う諏訪から来た人間です。バーテックスという化物から数年諏訪を守り続けてきましたが、力及ばず、私は敗れ……そうだ。ここに来る前にまた違うところにいたんです。桃色の髪をした、ヒメという女の子と出会って、すぐにここに飛ばされたんです。……言ってること分かりますか?」

 

 言いながら不安になり、尋ねる歌野。彼女は自分でももう何を言ってるのか怪しくなっていた。

 

「お前の身体には諏訪の土地神とは別に、月の力がわずかに流れ込んでいる。恐らくそいつの仕業だろう。そいつが世界を、お前という異分子をここに寄越すことによって、歪めさせたんだ」

「歪めさせ……? 何のために?」

「俺は日と月の神の弟だ。だが()()()()()()()()()()()()()()()()()()し、何をしているのかも分からない。だが、別天津神より必ず何かしらの役割が与えられているはずだ。例えば、世界のバランスを保つとか」

「はあ……」

 

 歌野はいよいよよく分からなくなってきている。それをお構いなしに、素戔嗚は語る。

 

「神々の争いは世界の均衡を崩す。お前の力が、それを鎮めるに足るものだと判断したのかもしれない。まあ、真相は俺にも分からないが」

「なるほど……」

 

 話をまとめると、月の神様とやらが歌野に魔法をかけて、彼女を諏訪Aから諏訪Bに移してしまったというわけだ。それが神様的にベターだったとか。

 

「それで、お前はこの世界が最終的にどうなるのか、奴から教えられているのか」

「え……? えっと、もしかして諏訪湖が干上がるあれですか?」

「そうだ。三日後、ここに諏訪の神の宿敵が天降る。それは諏訪湖が干上がる日。もし奴を止められなければ、諏訪はおろか、世界は炎に包まれ、滅ぶだろう」

「は……? あの、前の世界よりずっとハードに聞こえるんですが。そもそもなんでそんな方が諏訪に?」

 

 素戔嗚は地面に手を突っ込み、おもむろに大きな何かを引っ張り出した。それは土塗れになった琴。けれどそれ自体は丁寧に手入れされ、美しい状態を保っているように見える。軽く土を払い、素戔嗚はそれを二、三回弾く。すると、目の前に靄がかった映像が浮かび上がってきた。

 

 そこにあったのは、巨大な深紅の太陽の下に広がる、雲と灰と、煉獄の世界だった。もともとそこにどんなものがあったのかは分からない。けれど、大いなる何かに燃やし尽くされ、生命の気配がまるで無いように見える。

 

「これが今の高天原。天の神の世界だ。何があったかは検討もつかないが、これでは殆どの神は命を落としているだろう。だが、天上の神を除いて、唯一生き残った者がいる。それがタケミカヅチだ」

「じゃあ、その神様が、地上に逃げてきている、ということですか?」

「その理性がまだあるのならな。だが奴らにとって地上は所有物だ。どのみち戦わねばならん」

 

 素戔嗚は立ち上がり、歌野と水都を手招いた。二人は顔を見合わせ、ついていく。

 諏訪大社前宮のその先は、本来立ち入りが許されない禁足地。歌野も水都も、何があるのかは当然知らない。

 

 真夜中の山中、道なき道を進む。歌野は水都の手を取り、支え、やがて素戔嗚は立ち止まる。

 再び地面に手を突っ込んだ素戔嗚は、そこから蔓に巻き付かれたうねった剣の化石を取り出し、歌野に放り投げた。

 

「わ、えっとこれは?」

「墓から引っ張り出した。タケミナカタの蛇行剣だ。奴だけじゃない。諏訪の土地神どもがお前を試すと言っている。その神器を目覚めさせろ。お前は、世界を救いたい人間だろう」

「ええ、まあ。それにしても随分古いですねえ。どうしたらいいんで──」

 

 突如、どこか近くに、とてつもなく巨大な何かが落下したような音が、衝撃と共に全身を揺らす。急いでお社の方に戻ると、そこには見るも立派な大岩が、敷地内に鎮座していた。

 

「千引岩だ。これをぶっ壊せ」

「え。ちょっとまって素戔嗚様! ここに置いたら、御柱が……!」

 

 そんな歌野の抗議も耳に入れずに、素戔嗚は地面の中へと消えてしまった。

 こりゃあ大変なことになったと、二人は頭を抱えるのだった。

 

 

「おいおい、こりゃなんだあ」

「でっけえ岩だなあ、これほんとにどかせんのか」

 

 翌朝、前宮には沢山の人だかりが出来ていた。突如現れた大岩に、誰もが驚きを隠せないでいる。ちょっとした小山ほどもあろうかというその大岩は、到底数日そこらで撤去できるようなものでもない。

 

「安心してください!」

 

 その岩の上に立ち、高らかに叫ぶ少女が一人。

 

「この大岩、明後日まで、いや明日までに、必ずなんとかしてみせましょう!」

「あぶねえから降りてきな、嬢ちゃん」

「しんじまうぞー」

 

 当然、誰も信じやしない。

 それでも、歌野はこの誓いを、人々に確かに約束したのだ。そして、歌野の、千引岩破壊作戦が幕を開けた。

 

 如何に勇者の力を持っていたとしても、それは破壊神になれるようなものではない。地道に、地道に、衝撃を加えていく必要がある。

 

「せいっ、せいっ」

 

 拳を一突き、そして二突き。放つたびに、確かに岩の表面には傷がつき、その衝撃は失われてはいないと分かる。けれど、ペースと歌野の体力を鑑みて、誰もがとても間に合わないと思った。ただ、そのひたむきな姿と人智を超えるパワーは、諏訪の人々を湧き立たせるのに十分だった。

 

「やってるなあ、歌野ちゃん、差し入れだよ」

「わあ、ありがとうございます!」

 

 いつの間にか、歌野の千引岩破壊活動は地元の名物になっていく。差し入れに、応援に。拳を叩きこんでいくだけで、みるみる有名になっていく歌野。

 

 そして、一日目の夜を迎えた。

 

「はあ、はあっ、ちょっと休憩」

 

 力尽き、大の字になって倒れこむ。そんな歌野の下に駆け寄る、一人の少女。

 

「うたのん、お疲れ様」

「ああ、みーちゃん、また来てくれたのね」

 

 水都から弁当と水を受け取り、勢いよく掻き込んでいく。歌野の頼みで、水都はかつてのあだ名で彼女を呼び始めた。心底嬉しがる彼女に、水都は奇妙に思いながらも好意を感じ始めていた。

 

「あのさ……前の私って、どんなだった?」

「うーん、ヤクザのお嬢様ってとこ以外は、あまり変わらないかしら。優しくて、素敵なみーちゃんよ」

 

 水都は歌野の隣に、膝を抱えて座った。

 

「諏訪の神様を祀る現人神の家系だったんだけど、どこで道を踏み間違えたのか、いつの間にかね……」

 

 水都は、千引岩をちらりと見る。

 最初に見た時に比べれば、確かに削れていることが分かる。けれど、やはり無茶な話だ。そもそも、歌野の体力がとてももたない。例え間に合ったとしても、その後に彼女は神と戦わなければならないのに。

 

「別に、無理しなくていいんじゃない? うたのんひとりが、そんな背負い込まなくたって……」

「ノンノン。私はやるよ。あんな思い、もう誰にもして欲しくないもの」

 

 思い出す。

 

 水都の口から伝えられた大襲撃。諏訪陥落の決定通告。滅びを知って、普段通りに振舞って、それでも、どんなに取り繕っても、心の中では確かな恐怖が渦巻いていて。

 

 救えなかった無念、届かなかった未来、最後の最後に諦め、受け入れるしかなかった絶望。

 

 歌野の守れなかった世界は、きっと乃木若葉をはじめとした勇者たちがなんとかしてくれる。そして、歌野は再び諏訪を守るチャンスを得た。これは望んでいた戦い。失われた命に報いる唯一の手段。

 

「よっし。続き!」

 

 立ち上がり、再び大岩と向き合う。

 水都はその姿を、朝日が昇ってもなお見守り続けた。

 

 

「やってるなあ、歌野ちゃん」

「がんばれ! 歌野ちゃん!」

 

 午前、再び集まりだした諏訪の人々。千引岩の表面に、努力の結晶かやや抉れた拳の跡が見える。徹夜続きの歌野はその声援を受け、泥だらけの顔で笑う。

 

「よーし、いきます! うーたーのー! パーンチ!」

 

 ドン。太鼓でも叩いたような鈍い音。木々から鳥が飛び立つ。

 

 バキ。なんだかそんな音が少し聞こえてきたような──

 

 直後。卵の殻の如く細かな亀裂が、千引岩に奔りに奔る。それはそれは一瞬に、大岩は粉微塵に崩れ去った。

 歌野の拳は、内部から千引岩を破壊したのだ。まさしく、神の妙技と言うべきものだった。

 

「「「やったあああああああああああ!!!」」」

 

 声援が巻き起こる。

 歌野は期限まで半日残して、たった一夜で神代の大岩を破壊してのけたのだ。誰もが信じることのできぬ奇跡。しかし、それは確かな現実となった。

 

「喜ぶのは早いですよ! 前宮の建て御柱は明日! すぐ準備に取り掛からなければ!」

「えっ、うたのんまさか」

「私も手伝いまーす!!!」

「えー……」

 

 

 その夜。準備を間に合わせた歌野と水都は、地元民の盛大な打ち上げに付き合わされることになった。既に出来上がっている大人たち。やけに楽しそうな人々を見て、歌野は何故かご機嫌だった。

 

「なあ、歌野ちゃんも飲むか?」

「未成年ですから!」

「そりゃそうだ、かっかっか」

 

 隣に座る壮健な老人は、そう言って、歌野の紙コップに麦茶を注ぐ。

 

「あの。もし明日、諏訪が滅びるとしたら、皆さんはどうしますか」

 

 歌野は紙コップで乾杯しながら、何気なく尋ねる。

 人々は少し考えて、こう言った。

 

「俺たちゃ、それが本当なんだって、死ぬ間際まで信じねえだろうよ。そんで、諏訪の土に埋まんのさ。みんな仲良くな」

「そいつはちげえねえ。もう諏訪を出るなんて考えらんねえな」

「……そうですか」

 

 歌野は頷き、麦茶をグイっと飲んだ。

 この人たちは、紛れもなく、歌野が守りたかった諏訪の人々だ。世界が違っても、歌野を信じて最後までついてきてくれた人たちは、ここにいる。

 

 みんな諏訪が大好きで、みんな最後まで諦めない。

 だから、歌野は戦える。

 

 

 翌日。

 御柱を建てる民衆は、ふと空を見上げた。

 

「おい見ろよ、日食だぜ、ありゃあ」

「随分と縁起がいいじゃねえの、月の女神も祭りが好きなんだな」

「女神? なんで女ってわかるんだよ」

「え? そりゃあ……なんでだろうな」

 

 

 歌野は諏訪湖の傍で、水都と共にその時を待ち続ける。危険を察知した土地神が、諏訪を囲む山々を引き延ばし、超巨大な結界を形成する。もはや、その内部に立ち入れるのは、ただ一つの災厄となった。

 

 やがて、上空から巨大な炎の彗星が、雲を突っ切って流れ落ちる。間違いない。あれがタケミカヅチ──タケミナカタとこの湖上で雌雄を決した、天界最強の武神。

 

「スクランブル! 白鳥歌野、行って参ります!」

「うん。頑張って、うたのん」

 

 地を蹴り、湖の上空へと翔ける。

 その発進を合図として、諏訪湖を囲うように、無数の柱が飛来する。

 

 御柱祭──それは、一本の木から神を宿した柱を建て、祀る神事。今この時、諏訪にあるすべての御柱は、歌野の手足となる。

 

 湖上に張り巡らされる御神木の足場。彼女は着地し、そして間もなく、諏訪全域に響き渡るほどの轟音と、異次元の高波が諏訪湖を荒立てる。

 

『グオアアアアアアアアアアアアアアアア!!!』

 

 それは、もはや天津神と呼ぶべきものではなかった。

 

 恨みと悲しみ、怒りと苦痛に吞まれた荒神、炎の巨人タケミカヅチ。

 

 かつて敗れた地上最強の武神タケミナカタの、時を超えたリベンジマッチの時。

 

「我は剣。我は矛。我は力。故に我は誉れを求む。弓を持て。矢を番えよ。戦神にして武神にして闘神のこの双腕は、熱く吹き往く血を啜り、紅く、紅く、紅く染まりて、勝利と共に生を得る。今ぞ我が身証と成り、不遜天空に刃を穿つ。我は龍。我は龍なり!」

 

 蛇行剣を握り締め、脳裏に浮かぶ呪言を詠唱していく。一節一節に宿る言霊が全身に眠る神力を引きずり出し、歌野の背後に、目の前の巨人に迫る超巨大な竜の化身が現れる。

 

「目覚めの一発!」

 

 蛇行剣の刃先を巨人に向け、全身全霊でいざ! 

 

千引怒龍砲(タケミナカタキャノン)!」

 

 龍の牙の隙間、向けた神器の切っ先から、超極太の怪光線がぶっ放される。諏訪湖はおろか、北陸を震動が支配する。やがて、長野にある複数の火山が思い出したかのように活性化し、黒雲が諏訪の山間から覗く。

 

 まともにその砲撃を食らった巨人は、頭から諏訪湖に倒れ堕ちる。天の炎に包まれたその身体が湖を沸騰させ、激しい上昇気流に歌野はよろめいた。

 

 これにより一気に水位が下がり、歌野はどんどんと下へ追いやられていく。

 

「……やっぱり、第二形態はマストよね」

 

 間もなくして立ち上がり、こちらを見下ろす焦げた影。タケミカヅチの全身は、やがて蒼き氷の山となる。

 

 神話において、タケミカヅチはその腕を氷の剣に変え、タケミナカタを下したのだ。つまり、本来の彼は、氷の使い手。

 

 諏訪湖は、干上がるどころかみるみる凍っていく。

 

「未来が変わったってことよね……私が勝つ未来に」

 

 巨人を睨みつける。間もなく、巨人はその片腕を諏訪湖に叩きつけた。

 

 御神渡り。真冬の諏訪湖は、轟音を立てながら湖面の氷を山のように盛り上がらせ、道を作る。それは本来、上社に住まうタケミナカタが、下社に住まうヤサカトメノカミの下へと向かう道。

 

「これが道なもんですか……!」

 

 飛び上がり、木造の足場から氷上へと移る。割れて叩き上がる氷の巨岩らが、御柱を無残に破壊していく。

 

 直後、迫りくる氷の拳。それはとてもとてもゆっくりで、勇者たる歌野には容易く躱せるもの──ではなかった。

 

 あまりにも大きすぎる。その拳の影は、もはや歌野の周辺数キロメートルを覆いつくしていた。

 

「しまった!」

「うたのん!」

 

 水都の悲痛な声が聞こえたと思えば、歌野の背後で再び巨龍が目覚める。

 

「ああああああああああああああああ!!!」

 

 受け止める化身。揺れる全身。両足は諏訪湖を砕きながら下へ下へと沈んでいく。圧倒的な質量差に、歌野は諏訪湖の底へと堕ちていった。

 

 ──記憶が目覚める。

 

 歌野の肉体に紐づいた、武神の屈辱と怒り。負けてなるものか。敗れるものか。

 

 もう、二度と、あんな思いは──させたく、ない。

 

「あれ……?」

 

 水都が見たのは、御柱が独りでに燃焼し始める光景。今や優に氷点下に達している諏訪において、御柱は確かに燃えている。そして、その煙に含まれる虹の礫のようなものが、黒き拳の隙間へと流れ込んでいく。

 

「そんのっ手を……どけなさい!!!」

 

 拳を万力で押されたタケミカヅチが、氷の湖上に尻餅をつく。氷が勢いよく破壊され、全身が大きく沈み込む。片や拳の穴から飛び出した歌野は、龍と共に追い打ちを狙う。

 

 龍の化身はその爪で、巨人の皮膚を引き裂かんと振り下ろす。しかし巨人はその腕を締め上げ、空いた片腕で頭部を思いっきり殴りつける。

 

 本体である歌野の顔から、鼻血がつうっと垂れていく。

 構わず、その牙をもって噛みつこうとするが、痛烈なアッパーカウンターに龍ごと吹き飛ばされた。

 

「うたのん、もういいよ! それ以上は死んじゃう!」

 

 歌野の龍はすでにほぼ陽炎、曖昧な煙のようになってしまっていた。もう、彼女に戦う力はほぼ残されていない。それほどに、敵は強大だった。

 

「はあ、はあっ……ノープロブレム。こんな修羅場、何十回と繰り返してきたわ……たかが一体、屁でもない……」

 

 巨人が両手を向け、勢いよく突進してくる。それを、正面から迎え撃つ。組み合う龍と巨人。繰り返された神話の大相撲は、しかし再び天の武神に軍配があがってしまうのか。

 

「はあっ、はあっ……」

 

 水都の顔をちらりと見る。あの時のまま、不安そうな表情をしていた。

 

 それに、ああ、なんて馬鹿だったんだろうと、忘れていたモノに気付き、歌野は笑った。

 

 大切な人が、大切な場所が、大切な人々が、そこにいる幸せ。そんなみんなと過ごした日常。

 

 歌野は、勝ちたいんじゃない。負けたくないんじゃない。

 かけがえのない日常を守りたい、それだけだった。

 

 戦いを終わらせる手段はあった。それに彼女は気付かなかっただけ。いや、心のどこかで、再び諏訪で暮らす日々を夢想して、躊躇っていたのかもしれない。

 

 でも、歌野にとっての大願は、これで確実に成就される。

 だったら、もう、迷う必要なんてなかった。

 

 彼女には、龍より先んじて、月が宿っていたのだから──

 

「……滅尽を憂う影の秘神よ。大地に堕ちし猛き荒魂に、今ぞ安らけき終焉を寿ぎ給へ。特異たるこの神話を越え、永久の行く末に、汝は尚も揺蕩う。放ちたるは音無き咆哮。目覚めと共に、其は、甘き夢に抱かれよう」

 

 契約は済んだ。

 途端に漲る規格外の波動。下手投げで巨人を倒し、龍は消え、そこには歌野だけがいる。

 

「ぐっすりおやすみ……!」

 

 巨人に掌を向ける。それを見て、水都の魂は目を覚ました。

 

 別の世界の何かと繋がる幻想。脳裏に浮かぶ眩しい景色。

 

 桑を持ち、笑い、耕し、戦い、傷つき、そして、水都に“特別”をくれた、最高の親友──

 

月詠波動砲(ツクヨミブラスター)!」

 

 天上の黒き月が輝いて、全ては祭りの夢となる。

 

 遥か彼方へと続く光の螺旋が、その残像と共に消えた後──巨人も少女も、跡形も無くなっていた。

 

 そして、世界から独立した諏訪という土地は、天の観測も、外の人々の記憶からも解き放たれ、時限的に完全な箱庭となった。その日常は、月が地上を照らす限り、失われることは無かったという。




第二部 諏訪の大湖が干上がる日 完
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