奈良県に住まう、一人の少女。赤い髪を後ろで束ねた、丸い瞳のあの子のこと。
少女は捨て子だった。いつどこで産まれたのか分からず、あてがわれた誕生日と年齢は、真実、実際とは乖離していた。それでも優しい里親に引き取られ、痛ましい境遇を跳ね除けるように真っ直ぐに育っていった。
しかし彼女には、仲のいい友人が、ただの一人もいなかった。清らかな心を持ちながら、当時周囲の子供たちと彼女が溶け合うことは無かった。
彼女は友達が欲しくないわけではなかった。けれど、自分と友達にならなくても、既にみんな幸せそうだった。だから、このままでいいと思っていた。
それが、その思考が、感覚が、彼女を孤立させているという自覚が無かった。考えなかった。
──そんな彼女の帰るべき家が、ある日、大火に包まれる。
彼女は火災発生の同刻、ちょうど外出中で、幸い巻き込まれることは無かった。しかし彼女の両親は無残にも灰と化してしまった。
少女は消火を続ける消防隊、それを眺める近隣住民の群衆に飲まれながら、揺らめく黒雲を呆然と見上げ。ふと自分を見つめる視線に気付き、そして微笑んだ。
見ず知らずの子供である自分を憐れみ、悲しんでいる周囲の人間に、自分は大丈夫だと、だから心配しないで、と、伝えたかったから。だから彼女は笑ったのだ。
しかし、結局のところ。そのまなざしは、己が住まいの燃え盛るところを眺めて不気味に笑う、一人の少女に対する畏怖にすぎなかった。
高嶋友奈。それが少女の名であった。
高知県に住まう、一人の少女。傷んだ黒髪で傷跡を隠す、白い手足のあの子のこと。
彼女には、そもそも味方がいなかった。
母は既に死んでいた。手首から血を流して、風呂場で息絶えているのを見た。原因は、父親の不倫だったらしい。
そして父親は、ほとんど家に帰ってくることは無く、少女は日光の当たらぬ北向きの家屋で、山のように置かれているインスタントラーメンを啜って生活していた。
ほとんど娯楽のない過疎地に住まう人々にとって、住民のゴシップは極上のコンテンツ。荒れた家庭の惨状は隠す間もなく明るみになる。息の詰まるような不自由さと、聳え立つ鬱屈な山々に不満を溜め込んだ住民達は、弱くみすぼらしい少女を見下し、当たり前に非人間として扱うようになった。
この少女には逃げるべき非現実も、幻もない。ゲームもパソコンも、触れたことすらない。故に彼女が自らの存在を確かめる手段は、周囲の人々と同じく、自分より弱いものを力で捻じ伏せること。小指ほどの羽虫を踏みつけ、引き裂き、握り締めて、彼女はこれからも現実に魂を捧げて生きていく。それが如何に矮小であるかなど、確かめることも出来ぬまま。それ以外の生き方を、彼女は知らないのだから。
郡千景。それが少女の名であった。
これは、神々に立ち向かう英雄譚でも、煌めく超常の蔓延るおとぎ話でもない。
歪められた二人の少女の辿り着く終着点までを綴る、ただの曲筆に過ぎないのである。
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古びた電車から、大荷物と共に少女が降りる。
晴れた空。連なる山々。湿気を含んだ空気が重たい。生命の躍動の気配を感じて、荷物を降ろして伸びをした。
「ふう。着いた着いたあ。ここが高知かあー、うんうん、大自然って感じだね」
高嶋友奈。中学三年生。火災によって両親を亡くし、しばらく施設に入っていた彼女は、諸々の手続きを終え、高知にある祖母の家に移り住むことになった。出身地は奈良。高知まではやや長旅ではあったが、まだ元気がある様子。荷物をもう一度抱え上げて、歩き出す。階段が辛そうだが、すいすいと進んでいく。駅から出て、早速地図を広げた。
「うーん……? これが……ここ? いやこっちかな……」
地図を用意したはいいが、初めての土地ということもあり、中々方角が定まらない。頭がパンクしそうで、目がうずまきになりはじめた。
すると、目の前に一台の普通車が停車し、中から壮年の女性が現れる。
「友奈ちゃん、こっちこっち」
「おばあちゃん! 来てくれたんだ!」
「迷子になったら困るからねえ。ほら、荷物後ろにね」
荷物をトランクに積み、そして二人乗り込んだ。祖母に言われ、友奈は後部座席に座った。
「よく来たねえ友奈ちゃん。でもごめんね、こんな田舎で」
「ううん。奈良より空気綺麗だし、ご飯も美味しいって聞いてるから、きっと好きになるよ」
「そうだねえ、魚は美味しいかもねえ」
窓から外の景色を眺める。物凄く大きな田んぼが、ずらっと続いている。どこを見ても山があって、小さな民家がちらほら点在している。
「それにしても……大変だったね」
「ううん! 大丈夫。お母さんとお父さんも、私が悲しんでたら嫌だと思うし」
「立派だねえ、友奈ちゃん。でも、辛かったらいつでも言ってくれていいからね」
「……うん! ありがとう!」
明るく朗らかに答える友奈。
しかし、祖母が友奈に気付かれないように涙を流しているのが、バックミラー越しに見えてしまった。友奈は途端に胸が締め付けられ、耐えきれずに口を開いた。
「お、おばあちゃん、ご飯なにかな!? 私も手伝う!」
「ああ、うん、そうだね、じゃあ、帰ったらカツオ捌こうかな」
「わあ、カツオ! 楽しみだなあ!」
──家に着くまで、絶え間なく友奈は祖母に語り掛けた。自分が何を話しているのか、認識できないままに。
*
「は──」
眼を開く。ベージュ色の高い天井。むくりと上体を起こして、ぼうっと部屋を見まわす。
「そっか、私……」
呟いて、はっとして、頬を両手でぱちんと叩いた。勢いよくベッドから降り、トランクから着替えを取り出す。
昨日奈良から引っ越してきて、今日からもう高知の学校に通うことになっているのだ。慌ただしいが、初日から休むわけにもいかない。
「奈良から来ました、高嶋友奈です。よろしくお願いします!」
黒板の前で、深々とお辞儀をする。顔を上げると、そこにいるクラスメートは十五人ほどで、奈良の学校に比べるとかなり人数が少ない。
担任に促されるまま、最後尾、窓際に座る黒髪の少女の隣に着席する。すぐにでも話しかけたかったが、ホームルームの途中ということもあり、休み時間をそわそわと待った。隣の少女の顔は長髪で隠れていて、どんな表情なのか分からない。仲良くなれるかな、と、少し不安を感じていた。
「ねえ、奈良って、奈良の都市部からきたの?」
「ううん。田んぼとか山とかたくさんあったよ」
「ふーん、田舎出身か……また田舎で残念だったね」
「あはは。そんなことないよ」
休み時間がやってきて、早速友奈はクラスメートに囲まれた。受け答えを繰り返していると、隣の少女の周りに別のクラスメートが複数人やってきて、半ば強引に教室外に連れ出していった。その時、揺れる前髪の隙間から覗いた少女の瞳を目にし、友奈は突然立ち上がった。
「ご、ごめん、ちょっとトイレ……」
教室から出て、先ほどの少女とクラスメート達の後をつける。校舎から出て少し歩き、その後彼女らは校庭の隅で黒髪の少女を投げ飛ばした。
度肝を抜いた友奈は、しかし声を潜めて耳を傾けた。
「今日は俺いいよ。見てるわ」
「ごめん、私我慢できない」
「あんた顔こわ……いいよ。私も今日は譲る」
投げ飛ばされた黒髪を複数人が取り囲んで、その様子はまるで分からない。しかし、聞き慣れない鈍い打音が、耳に届いてきた。
まさか。いや、そんなわけ。
少しづつ、気付かれないように近付いていく。しかし小石につま先が擦れ、一人を除いて全員が振り返ってこちらを見た。眼筋を歪ませて光る瞳は、どこか獣のようだった。
「ちょ、ちょっとやばいって、いったんストップ」
「うるさい、邪魔しないでよ!!!」
腕を振り上げながら叫ぶ少女。その傍らには、苦しそうに横たわる黒髪がいた。乱れた前髪から、青く晴れた瞼が。砂に汚れた片足から、膿んだ膝小僧が見える。
「キモイんだよ、触んな、糞親父! 被害者ぶってんじゃねえぞクソババア! いちいちうるせえ、クソ教師ども! あああああああうざいうざいうざいうざいうざい! 死ね、どいつもこいつも、死んでくれよおおおおおお!!!」
気付けば、友奈は荒ぶる少女の腕を掴んでいた。暴乱を咎められ振り返るその表情は、もはや怒り狂う怪物に近い。今この場において、この者は、己が人間であるということを放棄し、捨て去っている。
「ああ……あんた、転校生……そう……そうなんだ……」
振り上げた腕を降ろして、魂の抜けたように少女は目を閉じた。
「ごめん、ちょっと喧嘩しちゃっててね、大したことじゃないか──」
「そんなわけないよ!!!」
我を忘れて、友奈は叫んでいた。彼女にとって、生まれて初めてのことだった。この時、彼女自身、自分がどんな顔をしていたのか知るはずもない。しかし、紛れもなく、心が鬼に目覚める瞬間だった。
「どうして……どうしてそんなこと……」
握り締めた拳が震える。流れ落ちる涙と裏腹に、心臓が燃えるように鳴り唸る。理解を超えていた。この少女の凶行も、周囲の人間の傍観も、何もかもが分からなくて、何もかもが友奈を狂わせる。
「どうして……? どうしてって、これ以外私たちに何ができるって言うのよ」
黒髪を殴っていたのとは別の少女が、静かに声を震わせる。そして友奈を睨みつけた。
「私たちに逃げ場なんてない。何もせずに耐えていられるほど私たちは強くなんてない! だから殴るのよ。だから蔑むのよ。そうしないと私たちは、何もかも許すことができなくなる。あんたに気を遣ってこんなところでこそこそしてんのに、何も知らないくせに、知った風な口きかないでよ!」
「……! うるさいよ!!!」
虚勢と実勢がぶつかり合う。飛んでくる拳を腕で巻き付け、上体を捻って地に叩き落とす。亡き父の置き土産。あらゆる武道を叩きこまれた高嶋友奈の近接格闘。反撃のしない人形のみを相手にしてきた無頼の少女に、勝てる道理があるはずもなく。
巻きあがった砂塵にたじろぎ、後ずさる取り巻き。
「もう二度と、その子をいじめないで……ください。お願いだから」
「「「……」」」
こちらを縋るように見つめて、諦めるように去っていく。その意味から目を背けながら、友奈は黒髪の手を取った。
「名前……なんて、いうの?」
「……」
黒髪は言葉を発することが出来なかった。震える唇が、何かを紡ごうとしているのが分かり、友奈はそれで十分だと思った。黒髪の立ち上がるのと同時に何かが零れ落ちたのに気付き、それを拾い上げた。
郡千景。鍵に取り付けられたストラップに、そう記されている。
「えーっと……ぐんちゃん、かな。ぐんちゃん、ぐんちゃんか」
「……」
黒髪の少女千景は、頷くことさえもしない。けれど、首を振ることもなかったから、友奈は笑って、彼女を背中におぶった。千景が、少し息を飲むのが分かった。
「私、高嶋友奈! これからよろしくね、ぐんちゃん」
これが、友達のいなかった高嶋友奈の、初めての友達。郡千景。その出会いだった。
*
登校初日の帰りのHRを終え、机の横にかけてあった鞄を持つ。一人ぼうっと隣に座ったままの千景を見て、逡巡の後、口を開いた。
「高嶋ちゃん。ちょっと」
発声を遮るように、背後から声がかかる。振り向くと、休み時間に声をかけてくれた子だった。友奈の返事を待たず手招きされ、千景を気にしつつ、怪訝に思いながらもついていく。
やがて人気のない踊り場にて、ようやくその子は立ち止まった。
「休み時間の、見てたよ」
「えっ」
休み時間といえば、あの修羅場のことだ。
「これは私からの忠告。郡の肩を持つのは危険だよ」
「? えーっと、こおり? 氷?」
「……あの、郡千景のことなんだけど」
「あ! 私てっきり、ぐんって読むんだと思ってた! ぐんちゃん何も言わないからさ」
頬を赤らめ、たははーと笑う友奈。少女は一瞬目を丸くして、すぐに鋭く尖らせる。
「これは真面目な話。郡へのいじめは確かに度が過ぎるかもしれない。でもこの町ではあの子のことは“そう扱ってもいい”空気になってる。確実に高嶋ちゃん、浮くよ。そうしたらあの子の二の舞になる。それに……」
「う、うん」
「郡を殴ってたやつ。少し前にあいつと喧嘩した子がいたんだけど、今行方知らずになってる。丁度そのあたりの時期に、近くの海岸にすごく古い船が流れ着いてきてたんだけど、あまりに見つからないから、あいつが無理やりそれに乗せたんじゃないかって学校で噂になってたりもする。まあ、これは眉唾だけどさ」
友奈は考えたふりをして、こう答えた。
「私、ぐんちゃんと友達になりたいんだ。心配してくれるのはうれしいよ。でも……」
「……」
少女は少し残念そうな顔をして、目を逸らして言った。
「そう。じゃ、もう私に話しかけてこないでね。私の友達にも。巻き込まれるのは、御免だし」
一瞥もくれずに、少女は鞄を持ち直して足早に去っていく。友奈は反射的に呼び止めようとしそうになったが、やめた。空に伸ばした手を戻して、やり場のない気持ちを握り締めた。
夕暮れの空を眺めながら、一人通学路を歩く。二羽のカラスが頭上を飛んでいる。友奈はいいなあ、と呟いて、ため息をついた。
鬼灯の天井を反射する河川敷を見て、なんとなしに向かった。芝生に鞄を降ろして、足を抱えて光を浴びる。ふと視線の端に黒い何かがあるのに気付き、そちらを見る。カラスじゃなくて、長い黒髪。友奈はもしやと思い、静かに近付いていく。驚かせようかと思ったのだ。
十分近付いたところで、何をしているのだろうと盗み見る。確かにその子は郡千景で、そして彼女は虫を指で押し潰していた。
「ぐ、ぐんちゃん?」
びくりと跳ね上がる少女の身体。怯えた顔でこちらを見る焦茶色の瞳。千景は固まり、鞄から紙とペンを取り出して、何か書き始める。少しして、そこには、“ごめんなさい”と書いてあった。
「……それって、虫をつぶしてたことを?」
千景は黙って頷く。
友奈は何を言っていいのか分からず困り果て、汗を流しながら瞬きを繰り返す。
「ぐ、ぐんちゃん、うち……くる?」
気付けばそんな言葉が口を突いて飛び出した。千景は何を言っているのか分からないという顔をしていた。
「そ、そーだよね、いきなり困るよね、親にも伝えなきゃだし」
なにいってるのかなーわたし、そう言って笑ってごまかす。すると千景はまた紙に何か書き始め、こう伝えてきた。
“いいんですか?”
友奈はその文字を凝視して、瞳を輝かせた。これは、つまり、いえすってことだ。友奈は千景の手を取って、立ち上がった。
「行こ!」
河川敷を後にして、手を繋いで再び帰路に。通行人の妙な視線も意に介さず、友奈はご機嫌で歩き続けた。
「おばあちゃん! ただいま!」
勢いよく玄関に入り、そう声を掛ける。間もなくして祖母がやってきた。
「あら友奈ちゃん、もう友達できたの! でももう大分遅いけど、親御さんには聞いてあるの?」
「あ。えっとぐんちゃん、連絡ってとれる?」
「……」
“おとうさん、もうずっと帰ってきてないんです。でんわも、もってません”
紙に書かれた文字と、みすぼらしいその姿を見て、高嶋祖母は微笑んだ。
「……そっか。じゃ、私が後で連絡しておくから、友奈ちゃんとお風呂入っといで。沸かしてあるから」
「ありがとうおばあちゃん! ぐんちゃん、私の着替え貸してあげる!」
「……!」
手を引かれる千景。もはやなすがままだった。
「あのさぐんちゃん。虫で遊ぶのも楽しいけどさ。もっと楽しいものがあると思うんだよ」
風呂を出た二人、自部屋にてそう語る友奈。
「そこで、これをみなされ!」
スーツケースから取り出したそれは、プレイステーションだった。発売されたのは、おそらく十数年前の機種だ。
「お父さんが時々やっててさ。持ってきたんだけど、難しくて。ぐんちゃん、一緒にやってみない?」
千景はその少し大きい本体を食い気味に見つめ、頷いた。ケーブルをコンセントに挿し、モニターに繋げ、電源を点ける。少女の瞳にポリゴンの光が反射する。コントローラーに吸い付く両手両指。スティックの傾き、ボタン押下と反応するUI。──ゲーム開始。
それから、千景は両手以外微動だにしなかった。洗練された立ち回り。なぎ倒される敵MOB。減らないHPバー。無駄に動く友奈本体とついていくことしかできない友奈のアバター。
「すごい! すごいよぐんちゃん! クリアできるよ! ぜったい!」
「二人とも、ごはんできたよー」
祖母の声を聞き、ポーズ画面にして、千景はこう伝えてきた。
“いいんですか?”
友奈は千景のペンを取り、その紙の下にこう書いた。
“一緒に食べよ!”
「いただきまーす!」
パン、と手を合わせて箸を取り、食べ始める友奈。みそ汁、アボカドとカツオ、ちりめんじゃこの載ったトマトサラダとアツアツの白米。それを見て千景は気圧される。見たことのない彩色の豊富さと量に、どう手をつけていいか分からず何もできずにいるのだ。
「ぐんちゃん、あーん」
カツオの刺身を箸で挟んで、こちらに差し出してくる友奈。無邪気なその眩しさを直視できず、顔を真っ赤にして視線を逸らしながらそれに従う。
「美味しい? 千景ちゃん」
「……」
“いままででいちばん、おいしいです”
尋ねた高嶋祖母はそれを見て嬉しそうに微笑む。
それから、千景の箸は少しずつ動き出した。
「そうそう、連絡してみたけど、繋がらなくて。今から帰るのは危ないから、今日は泊まっていって」
「うん、そうしよ!」
千景は静かに頷いた。
食後、縁側で二人並んでアイスをつつく。初夏に入り、空気に湿りが増してきていた。
千景はアイスを置き、また紙を友奈に見せる。
“どうして喋らないのか、聞かないんですか?”
「あー、えっとね。まあ、いろいろ、あるのかなって」
“ごめんなさい”
「え!? いやいや、私は、友達ずっといなかったから、傍にいてくれるだけで、うれしいというか……」
そう言って顔を赤らめ、恥ずかしそうに笑う。
「あ、でも敬語は寂しいから、なるべくため口がいいかな」
「……」
千景は顎に手を当て、しばらく考えてこう書いた。
“わかった”
「えへへ。……そういえば、私がなんでおばあちゃんと暮らしてるのか、言ってなかったね。実は家が燃えちゃって、両親もそれで死んじゃって。それで、なんというか、悲しくてしばらく何もできなかったんだけど、ぐんちゃんと友達になれて、今はすごく幸せだなって……あはは。話変わり過ぎだね」
「……」
千景は恐る恐る、友奈の頭に手を伸ばした。
友奈は微笑んで、千景の肩にもたれかかる。そして、ポケットに入れていた桜の押し花の栞を、千景の掌に置いた。それは友奈の母が遺した、大切な形見だった。
「これ、あげる。ぐんちゃんに、持ってて欲しい」
千景は頷く。瞳を輝かせてそれを見つめた。
そして二人はずっと友達でいようと、誓ったのだった。
*
友奈がやってきてから、数カ月が経過した頃のこと。
千景を殴った少女が、友奈にこう伝えてきた。
「郡に、謝らせて欲しい」
少女は泣きながらこう語った。
人には言えない暴力を父親から振るわれていたこと。そのせいで母親も精神的に不安定になり、誰からも助けて貰えなかったこと。しかし最近離婚が成立し、父親の支配から逃れ、やがて自分の愚かさに気付いたということ。
友奈はこれを千景に伝えた。
千景は泣きながら頭を垂れるその少女を見て、何も言えずにいる友奈を見て、そしてその少女を許した。友奈は千景を偉いと褒めた。だから千景はこれでいいと思った。
「私が間違ってた」
登校初日に、友奈に忠告をした少女も、面と向かって謝罪の申し入れをしてきた。自分に勇気が無かったから、何もできずにいることを正しいと思い込んでいたと。友奈は快くそれを許した。
気付けば、友奈の周りには人が溢れていた。町の誰もが、友奈に好意的だった。千景へのいじめも無くなり、風当たりも軟化した。千景の身体に傷が増えることはもう無かった。
*
「友奈、今日カラオケいこ」
「あー、えっと……」
千景の方を見やる。千景は友奈の方を見て、首を振った。
「う、うん、いこっか」
友奈は、複数の友人と共に教室を後にする。名残惜しそうに千景を気にして、密かに手を振って。
千景はそれを見送って、誰もいない教室から、校庭をしばらくぼうっと眺め続ける。帰ってもどうせ誰もいない。何もない。何もしない。だったら、帰る必要なんかない。だけど、ずっとここにいるわけにもいかない。でも、いいじゃないか。殴られることも、嫌われることも無くなった。それで十分じゃないか。
「それで……じゅうぶん」
呟く。
『ほんとうに?』
頭の中で響く。
怪訝に思い、顔を上げて周囲を見渡す。
誰もいない。いるはずがない。だけど。なんだ。なんだか、身体が疼く。ここにいてはいけない。行かなければならない。呼んでいる。呼ばれている。だったら、すぐに。
鞄を持って廊下を走り抜ける。階段をジャンプで全段飛ばしで飛び降りる。靴箱で慌ただしく上履きを履き替える。
「ねえ、しってる? 行方不明になったあいつ、見つかったんだって」
「あー聞いたそれ。でもなんか変な病気にかかってたって。両手がブヨブヨになるとかなんとか」
与太話を遮るように、校内を後にする。どこに向かっているのか分からない。だけどどこに向かうべきなのかはっきりとわかる。早く、早く。呼んでいる。
“誰かが私を、求めてる”
「……はあ、はあ」
辿り着いたそこは、人気のない寂れた神社。管理する者のない、喪われた神の家。けれど、居る。それに、会いに来たのだから。
もはや躊躇いは無かった。お社の奥、神殿に入り込む。
あった。これだ。
手に取ったそれは、人の背丈ほどもあろうかという巨大な鎌。錆び切って、とても使い物にならなそうな、風化した得物。何故かぬめり気があったが、この際どうでもいい。
千景はそれを両手で抱え、自宅まで持っていくことにした。
「私、一体何を……」
部屋に大鎌を立てかけ、ぬるついた掌を眺めながら、呟く。
寂れて参拝者の消え失せた神社と言えども、そこに置かれていた物を持ち帰るというのは、千景とて間違っていると分かる。けれど、あの時の自分は己の過ちを理解すらしておらず、それが正しいとさえ感じていた。
……仕方ない。後で返しに行こう。そう決めて、千景は風呂場に移る。
服を脱ぎ、扉を開け、シャワーの温度を調節する。
「いたっ……」
傷跡に水が染み、小さな悲鳴が漏れる。顔を上げると、怯えた自分の表情と、醜い肌が瞳に映っていた。
痣、打撲、切り傷、擦り傷、火傷、腫れ跡。それぞれの、その時の全てが瞼を開いた。空気の質感、擦れ合う地と服の感触、鼓膜に入り交じる人の声、己の息遣い、破裂しそうな鼓動、網膜に焼き付いた悪魔の狂気さえも。
詰まる呼吸。鏡に手をついて、動けなくなる現実の身体。あれは痛かった。あれは怖かった。苦しかった。
感じる痛みも、不快な笑い声も、孤独に流れる涙さえ、何もかもが心に消えない傷跡を残す。多少体の傷が癒えたとしても、刻まれた歪な体験、重ねられ続けたその記憶はどうやっても無くなることはなかった。
視界の隅に映る黒紫色の礫と共に、段々と蘇っていく。高嶋友奈と出会う前の自分の在り方が。
姿も、記憶も、何もかもが、過去へとスリップしていく。振り返る度に零れ落ち、産声をあげる両極の感受性。喪われていく喜びと増していく怨恨。感情と自分を守る為に歪んでいった郡千景の人生。
例え何度酷い目にあったとしても、何故辛いのかが分からなければ、例え何度痛みに耐え続けようと、痛みを感じなければ、例え何度涙を流しても、涙の意味を知らなければ──記憶を消せるのなら、楽なのに。そんなことを願っても、脳に刻まれる情報は痛みと共に鮮明さを増していく日々だった。
何も分からずに死ねたらどんなにいいだろう。何も分からずに消えることが出来たらどんなに救われるだろう。けれど、人として生を受けてしまった以上、なによりも優先すべき生物としての習性、生存本能には容易に抗うことは出来ない。死ぬのは、怖い。どうしようもなく怖い。自殺なんて、自分に出来るわけがない。けれど、また、明日も、これからずっと、こんな思いをしながら、誰にも優しくされず、ただただ苦しみを耐え続けることが、それが、自分が生まれた理由なんだとしたら、神は冷酷で、世界は現実化した悪夢でしかない。
──でも、それは実際、正しかったのだから。だから、死ぬのを辞めて、希望を持つことを諦めて、怒ることを諦め、抗うことを辞め、考えるのを辞め、未来を夢想することを辞めた。
今の自分には何が残っている? 今の自分には何が許されている? 母が死に、父が去り、友が消え、道ゆく人には唾を吐かれ、見知らぬ誰かに肌を焼かれ、見知った誰かに刺され、蹴られ、靴を隠され、教科書を破かれ、私物を奪われ、水をかけられ、服を脱がされ、食を汚され、糞尿をかけられ、髪をちぎられ、虫を食わされ、吐くまで腹を殴られ、血が滲むまで顔を叩かれ、罵倒され、嘲笑され、憎まれ、蔑まれ、あらゆる望みを奪われ続け──
「ふざ……けるな……」
鏡の前の少女の瞳が、歪んで開いて呪詛を放つ。ひたすらに怒りが全身に駆け巡る。自分を虐げる子供達。存在を嗤う大人達。そして、無責任に己を作った両親に。
何故だ、何故だ、何故だ、何故だ。
何故、こんな腐った世界に自分を産み落とした。
何故、こんな腐った世界に自分は嫌われるのだ。
「ああ……殺したい……殺したい……!」
自分の溢れる感情を、思いのまま解き放ってやりたい。
畜生以下として弄ばれる為に生まれたというのなら、せめて世界と神に一矢報いてやりたい。
例えば、鎌だ。鎌を見せつけてやるのだ。脅えた顔を見て愉しみながら、容赦なく、少しずつ肌を削いでいく。
それで、許してあげるのだ。もう、止めるって。
そして、安堵したところで、また鎌を振り上げる。
すると、恐怖した顔で固まった首が、夜空に舞って──
『自分が何したか分かってる?』
『殺人者』
『家畜が人間様に歯向かうんじゃない』
『気味が悪い』
『不吉だ』
『気色悪い』
『醜い』
『汚い』
『生意気』
『阿婆擦れ』
『生きる価値無し』
『存在が不快』
『生理的に無理』
『最悪』
『社会の屑』
『役立たず』
『死ねよ』
『死ね』
『逆らうな、家畜』
『死ね』
『逆らうな、家畜』
『死ね』
『逆らうな、家畜』
『死ね』
『逆らうな、家畜』
『ごめんなさい、ごめんなさい』
自分で作りだした妄想は、謝罪する己の四肢が、住民全員の手で引きちぎられて終わった。
頭の中で、冷たい何かが下っていく。
フラッシュバックとともに寒気が襲い、電撃を受けたかのように激しく身震いする。
湧き上がるような吐き気が襲うと思えば、また数多の傷跡の記憶が蘇り、脳裏に鈍い痛みが走る。
妄想の中でさえ、自分は畜生以下だった。
「私が……全部悪いんだ……」
自分という存在が、それ自体が間違っているのだとしたら。間違っているからこそ、誰も千景を認めてくれないのだとしたら。
そんなの、最初から分かっていた。自分が一番わかっていた。
死ねばいいんだ。なんで今になって気付くんだろう。
死んでしまえば良かった。
死にたいじゃない。死ななければならなかったんだ。ずっと、迷惑をかけてしまっていたのだ。反吐が出る。間違っているのに生きてしまっていた、自分の愚かさに。ああ、ごめんなさい、ごめんなさい。今まで、不快な思いをさせて、ごめんなさい。
死のう。今日、ここで、死んでしまおう──
『呆れた。あなた、本当に意気地がないのね』
「え……」
辺りを見る。誰もいない。
『こっちよ。こっち』
声がする。居間の方だ。
服を着て、敷居を跨ぐ。そこには、物言わぬはずの鎌だけがあった。
「あなたなの……?」
『正解。私はあなたの願いに呼ばれてやってきた神様よ』
鎌に近付き、そっと触れる。
『あのね。誰かのために死ぬのだけは絶対にダメ。そんなのは、あなたの本当の願いじゃない』
「私の……本当の願い……?」
その声は、いつか昔、どこかで聞いたような声だった。
甘く蕩けるような、人を魅了し尽くすほどに、美しく力強く、縋りたくなるような、そんな響きで。
『殺すのよ。殺して殺して殺して殺して殺す。そして殺すの!!! 知ってる? 人間ってね、みーんな生きてる価値ないの。だって人間って存在が害悪なんだから。そうでしょ?』
「……そう……かも……しれない」
『だけどね千景ちゃん。あなたは違う。あなたは私という神に選ばれし存在なの。だから、ね。復讐しよ。わたしと一緒にさ』
突如、ドアを激しく打ち付ける音が聞こえてくる。千景は鎌を持ち、玄関の前で立ち止まる。そして、ドアノブを静かに捻った。直後、倒れ込んできた男の身体。間もなくしてこちらを見上げた瞳の形は、知っていたような気がする誰かのもので。
「千景ぇ……お父さんが悪かったよ……なあ……お前なんだろ? ……頭が……割れそうなんだ……生きているのが……辛い……申し訳なくて……情けなくて……後悔が……波のように襲ってくるんだ……なあ……許してくれ……好き勝手に生きて……お前の気持ちなんて……考えてこなかった……だけど……心のどこかでは……お前のことが……ずっと……」
“お前さえいなければ”
母の死体の傍らで啜り泣く自分を見下ろしながら、狂乱に叫ぶ男の姿が脳裏によぎる。この男は自分を怨み、疎み、いずれ千景を元より無き者と認識して姿を消した。責任も呵責も現実からも逃れ、誤魔化し、己を省みることなく。
そんな彼も、今やその手足が半液体化して、およそ人のものでは無くなっていた。まるで人間と軟体動物とのキメラとなりかけているような、そんな姿と果てていた。
千景の脳が、破裂しそうなほど震えて燃えていた。もはやどうしたらいいのか分からなかった。目の前にいるのは紛れもなく父親で、恨んで、縋って、求めて、憎み続けていたその人で。だけど、その男は千景に心からの謝罪を向けていて、変わり果てた身体で、苦しんでいて。
許したいと思った。一方で、また裏切られたらという葛藤があった。そんな場合じゃないという思いもあった。見捨てて放っておけという考えもあった。焦りと迷いと恐れと怒り。感情が入り交じり、全身がぐちゃぐちゃになっていく感覚。無価値で無意味な現実を与えられ、酷く醜い世界の姿ばかり教えられてきた。その全ての根源は、この男に在るのではないのか。自分という悲しみは、この男さえいなければ、本当は存在し得なかったのではないのか。膨れ上がる憎悪。湧き上がる憤激。そして反転し満たしゆく葛藤。自身を咎めるが如く吠える理性。自分に唯一残されたもの。縋るべきもの。それを排して刈り取った先に、一体何があるというのか。それでも、それでも自分には何も無い。それとも、それとも何も無いからこそ、手放してはならないのか。震え、嘆き、怯えて求めて、そうして動けずにいる千景の欠片を導くように、甘き声が頭に響く。
『殺しなさい。そんなクズ』
「で……でも……」
呼吸が一層激しくなる。もはやそこには恐怖しか無かった。誰に従えばいい。誰を信じればいい。どれが正解なの。どれが間違ってるの。分からなくて、辛くて、怖くて、逃げ出したくて。涙が止まらない。もう嫌だ。もう、何も考えたくない。
『そう。考えたくないのね。なら、私に委ねなさい。大丈夫。だって、私は、神様なんだから』
千景の精神はその声に、逃げ込むように反射的に縋ってしまった。しかしそれは“誓ひ”。神が絶対の契約に用いる、言霊による呪詛。執着者の声が千景の中で響き渡り、蕩けるような快感が全身を掻き乱す。二度と別つことも無く、孤独な心のもとに一つとなった
『え……な、なに、これ』
直後に意識を取り戻した千景の叫びは、もはや千景自身にしか聞こえていなかった。肉体のコントロールを封じられ、魂という檻から外界を見ることしか、もはや彼女には許されていない。
──鎌は案じていた。郡千景という存在、感じてきた思い、悲しみ、満たされない心、そして決して虚構ではない怒りを。
彼女は魅ていた。郡千景という少女の本質とそれを捻じ曲げた環境による矛盾する怒りを。
不安定な燃え盛る感情は焚き火のように激しくもあり、しかし消える時は眠るように穏やかであり。だからこそ、朽ちる前に薪を焚べ続ける必要があったのだ。怒りたい。だけど怒れない。恨みたい。だけど恨みきれない。その弱さ、ちぐはぐさ。鎌を侵す侵略者の狙いは、始めからそれ一つのみ。
しかし鎌自身は震えていた。主を止めようと、主を救おうと。
線香花火のように頼りない発光が、絡みつく血泥のようなものを振り払おうと点滅する。しかしその風情ある光の宝玉は、いずれも消失する美しさの為に灯されたもの。主を守れぬ無念を煙のように天へと立ち上らせて、鎌の心は憎悪の底へ儚く堕ちていった。
「死ね」
その二文字が、父親を血飛沫のソテーへと変えた。足元で転げ回る生首。それはつま先に止まり、抜け殻となった眼球がこちらを恨めしそうに睨みつけている。
『お父……さん』
「なに? その声は。あなたが殺したんじゃない。あなたが私に委ねたんじゃない。あんたは! もう! 殺人者なんだよ!!! 私と一緒だねえ!!!」
千景の瞳が、炎を宿す宝石のように輝く。全身を凝固した怨念の塊が包んで、熱く冷たい渾沌の波に抗いもせずただ呑まれていくうち、千景の魂はもはや自分が誰なのかすら分からなくなっていた。何人のものかも分からぬ記憶と心を綯い交ぜにしたような風景画が、目まぐるしく眼前に入り乱れ、変温を繰り返す真情の重力と無重力の交差と連結と同化と隔絶、そしてその全てが“この世界への怨恨”という終着点で折り重なった時、郡千景という少女は、「呪い」の霧散機として生まれ変わる。
『「ああ……あああアアアアアアあああああああハハハハハハハハハハ!!!」』
絶望が存在しない胸中を満たして直後、精神が崩れていく音が聞こえた。
肉体との楔を失った千景の魂が己を死の国へと解き放つ最後の一手は、絶対的な罪であった。
叫ぶ郡千景──否、黒髪の少女は、いつの間にか継ぎ接ぎの黒装束を纏っていた。
穴が空いた箇所から覗く、これまで身に受けてきた古傷が開いて紅蓮の閃光を放つ。右手に握り締めた鎌の形状すら変化し、洗練されていたフォルムは筋組織から飛び出した骨のように歪に隆起していた。
「おやすみ、親指姫」
*
カラオケを終え、手を振って友人と別れる友奈。帰り道を共にするのは、千景を殴っていたあの時の少女だった。
「楽しかったね、友奈」
「うん、そうだね」
頷いて、笑って、空を見上げた。友達のいなかった友奈にとって、今の生活は求めていた夢を叶えた、文字通り理想の生活であるはずだった。誰からも好かれ、人に囲まれ、そうやって楽しく過ごす日々が。
「友奈……今日上の空じゃなかった?」
「えっ、そうかな?」
「だってほら、私が歌い終わったあともずっとぼーっとタンバリン叩いてたじゃん、みんな大笑いだったけど」
「あー、まあ、あはは」
少女は笑って誤魔化す友奈をちらりと見て、俯き、恐る恐る語りかける。
「やっぱり郡のこと……気にしてる?」
「……あはは」
友奈は案の定寂しそうに笑う。傍らの少女は泣きそうな顔で友奈を見つめた。
「私らといたら、郡いやだと思って距離とってるけど、友奈を郡から取っちゃってるんだよね。本当は分かってた。でも……私らは、少なくとも私は、あんたと一緒にいないと、なんだか不安で……」
「えっ、そ、そうなの」
「だって友奈……私らのこと全然嫌ってない……むしろ好いてくれてるって分かるんだもん……初っ端あんなところ見て、郡に酷いことしてきたって、もう知ってるのに……」
「……」
「ごめん、私、ちょっと今日どうかしてる。先帰ってよ。頭冷やしていくから」
「え、で、でも」
「いいから」
友奈からは、それ以上何も言えなかった。振り向き、視界の奥へと彼女が消えていくまで、ただ立ち尽くすことしか出来なかった。
そして一人、ようやく地面を見つめて、帰るべき場所へと歩き出す。ふと昨日書いた日記の内容が、友奈の脳裏に浮かんで来た。
“私、高嶋友奈は嘘をついています。私は、みんなのことが嫌いじゃないです。大好きです。でも、本当は、ぐんちゃんのことが一番好きです。他の誰よりも、ぐんちゃんと一緒にいたいです。でも、それが言えません。みんなに嫌われるのが怖いわけじゃないです。傷つけるかもしれなくて、それがどうしても怖いんです。でも、ほんとうにほんとうに嫌なのは、ぐんちゃんが辛い思いをすることです。でも、どうしたらいいのかな。私って、おくびょうだな”
「ただいま……」
自宅に戻り、そう呼びかける。
友奈は首を傾げた。普段ならすぐにおかえりって返事が来る。不安に思い、居間に急ぐ友奈。
「友奈ちゃん……」
「えっ、おばあちゃん……!? どうしたの、それ!?」
高嶋祖母の右手の掌が、半液体化してだらりと垂れ下がっていた。友奈は駆け寄るが、どうしたらいいか分からない。
「ごめんね……友奈ちゃん……お母さんとお父さんを……守ってあげられなくて……ひとりぼっちで……なんにも……できなくて……」
「おばあちゃん、違うよ! おばあちゃんは悪くないよ! 仕方なかったんだよ、誰も悪くないんだから!」
「ああ……あの子たちの代わりに……先の短い私が……死んであげられたら……」
「いやだ! おばあちゃんが死ぬのなんてやだ!」
友奈は祖母を力強く抱き締め、言った。
「おばあちゃんがいてくれて、ずっと心強かった。友達だって出来た。おばあちゃんがいてくれて、私、幸せだよ。だから、おばあちゃん、ずっとそばにいて……」
「……友奈ちゃん」
半液体化した掌が、少しずつ元の形に戻っていく。祖母はゆっくりと目を閉じ、安堵した表情で眠りに落ちた。友奈は涙でぐしょぐしょになった顔を拭って、祖母の呼吸と心音を確認する。大丈夫。おばあちゃんは死んだりしない。
震える手で携帯を開いて、119を呼ぶ。
「きゅ、救急です──」
友奈は魂の抜けたような顔で、フローリングに座り込む。突如携帯に電話がかかってきて、慌てて応答した。
「はいもしもし、高嶋です」
『友奈……? あのさ……やっぱり私って死んだ方がいいよね』
「えっ!?」
出たのは、先程途中まで一緒に帰宅していた少女だった。憔悴しきった声で、今にも消えてしまいそうな響きだった。
「いま、どこにいるの!?」
『まだあの河川敷のとこに……』
「い、いく、いくから、まってて! でんわ、切らないで!」
とはいえ、家にいなければ救急隊が困る。すぐに戻るつもりで、ドアの前にメッセージを書いた紙を張りつけた。
慌てて走る。只事じゃないということは分かっている。それだけはダメだ。自殺なんか、絶対に。
『私ずっと、死にたいくらい辛かった……でもそれが、郡を苦しめていい理由になるはず無い……私みたいなやつって……許されていいのかな……』
「そう思うんだったら!!! ぐんちゃんに、償い、しようよ! 死ぬのは、絶対に違う!!!」
『でもさ……郡は……私に死んで欲しいって、思ってるんじゃないかな……だって私は……今でも父親に、死んで欲しいって、思ってる……』
「はあ、はあっ、そんなことないよ。ぐんちゃんは、そんなこと……!」
『正解。大正解。うふふふふふ。あはははははは』
「えっ!?」
通話が鈍い音と共に切断される。今のは一体誰の声だ。同年代くらいの声のような、でもあんな声、今まで聞いた事──
「はあっ、はあっ」
「あら。高嶋友奈ちゃん。よく来たわね」
河川敷に到着した友奈。そこに居たのは、首の外れた血濡れの肢体と、変わり果てた郡千景の姿だった。
そう。その声の主は、郡千景のものだった。
「聞いたこと無かったんでしょう、この声。ずっと喋れないんだと思っていたんでしょう? 違うのよ。この子、貴方に可哀想な姿を見せたくて、そうじゃないと構って貰えないんだと思って、ずっと喋れないフリをしてたのよ。本っ当に、哀れよねぇ」
「……ぐんちゃんじゃ、ないんだね」
友奈は静かに、郡千景の肉体に宿る少女を睨みつける。その少女は口角を吊り上げながら、何かを友奈に投げつける。
友奈の手に収められたそれは、かつて友奈が千景に託した、母の形見、桜の押し花の栞。
「ずっと、ずーっと身に付けていたみたいよ。それなのに、あなたは他の子にかまけて、言い訳して、その結果がこれよ」
「これって何。ぐんちゃんはまだあなたの中にいる。まだ“結果”じゃない。“過程”だよ」
友奈は言いながら、逆手を打つ。
──かつて、奈良県のとある神社の神主に伝えられた記憶。
“友奈。危ないと感じた時。誰かを守りたいと思った時。逆手を打て。きっと、それはお前に力を授けるだろう──”
いつの間にか友奈の両腕に、白桃色の篭手が身に付けられていた。
高嶋友奈は神を知っている。いつか災いがやって来ると、一人の神が既に友奈に伝えていたからだ。一見胡散臭いその男の言葉を信じることが出来たのは、友奈が極めて、神に近しい素質を持っていたからに他ならない。
「天の逆手……!」
黒髪の目の色が変わる。途端に、周囲に複数の気配が近付いてくるのが分かった。
振り返る。そこに居たのは街に住まう人々の、変わり果てた姿。手足だけではない。顔も身体も赤黒い半液体組織に置き換えられ、もはや人とは到底呼べないものになっていた。
「「「縺斐a繧薙↑縺輔>」」」
奇怪な音を発しながら近付いてくるそれらは、確実に友奈の方を狙っていた。友奈はもはや躊躇わなかった。この人達はもう元には戻らない。誰かを襲う前に、私が、この人達を止めなければならない。そう、思ったから。
「はあっ!」
突き出した拳。弾け飛び散る紅い液体。その意味も、もはや考えようとはしなかった。全てを蹴散らし振り返ると、黒髪のどこかに走り去っていこうとする姿が見える。
「逃がさない!!!」
黒髪に負けぬ高速移動でその背中を追う。足止めをするように襲い来る大量の赤黒い化け物。
「はああああああああああっ!!!」
逆手を打つ。
友奈の周囲に放たれた桜色の波動が、化け物の群れを紅の霧へと変質させる。
そうして黒髪を追い続けるうち、やがて海岸に辿りついた。そこには古びた一隻の小舟があり、他には何も無かった。
「観念して、ぐんちゃんの身体を返して!」
「……返せるわけないでしょ。あの子が私にくれたんだから」
一際数を増した化け物共。友奈は片っ端からその群れを吹き飛ばし、黒髪へと近づいていく。
「……仕方ない。千景の力だけで戦うしかないか」
呟き、鎌を友奈に突きつける。海には月の影が反射し、星々がこちらを静かに照らしている。
突風が吹く。さざ波が鼓膜を揺らす。
──突貫。
一手。
擦れ合う神器。互角。衝撃が両者の身体を突き抜ける。
二手。
意表を突く友奈の回し蹴りが、黒髪の大鎌を跳ね上げた。
三手。
友奈の背後から何かが迫っていた。それは他の個体と異なり、辛うじて人のカタチを保った怪物。白髪の混じったサイドテールを携えた、かつて少女だったモノ。襲いかかるその化け物を、友奈は裏拳で粉々にぶちのめし、迎撃体制をとった。
四手。
大鎌の渾身の一撃を躱す。必殺の好機が友奈に訪れる。そして──
地に伏したのは、高嶋友奈の方だった。
心臓に突き刺さる大鎌の刃先。それが、無造作に抜き取られる。勢いよく流れ落ちる血量は、既に致死量に達していた。
黒髪は光の消えた赤い髪の少女の姿を一瞥し、どこか遠く、新たな戦場へと飛び去っていく。これで、一夜にして、高知県のとある町の住民は、壮年の女性一人を除いて、完全に蒸発してしまった。黒い浮遊する化物による襲撃の裏で、巨大な赤黒い化物の亡骸が散らばったその土地の一件は、時の流れとともに、世にも奇妙なただの都市伝説となっていく。
“ヒル人間の呪い”
人々はその怪奇談を、そう呼ぶのだった。
*
「良かった」
光の礫となって笑顔で消えていく少女を見送りながら、彼女は噛み締めるように呟く。
そこは剣の世界。世界を守護する一振りの魔法、その深淵にある異界。
戦いを制し、世界を救った少女が選んだのは、生大刀の中で、悪鬼羅刹と化した人間達を浄化することだった。
それは、人間同士が繰り広げた神々の代理戦争であり、同時に、生と死の奪い合いでもあった。勝利した生大刀は、神樹と繋がると同時に、その時点で彷徨っていた悪霊を刀身に取り込んでいた。
かつて、死を司る神が、一日に千人の人間を殺すと誓い、生を司る神が、一日に千五百人の人を生むと誓った。生存陣営が生と死の争いに勝利したということは、その均衡が崩れるゆらぎを意味する。人を生かす使命を持った生大刀は、新たな生命を生み出す魂という素材を、一方的に手に入れる権利を得たのである。それは二度とないイレギュラーであり、そして、多くの無念を救う、たった一度きりのチャンスでもあった。
乃木若葉は、生大刀を手伝うと申し出た。結局、彼女は何があろうと罪の意識から逃れることはできず、どんな償いの機会も、見逃すことが出来なかったのだ。例えそれが、それこそ、約三百年に渡る自由の剝奪であろうとも。
「……」
立ち上がり、乃木若葉は次の扉を開いた。
暗い暗い部屋だった。
カップラーメンの積みあがった部屋の中で、黒髪の少女が膝を抱えてうずくまっていた。
「なあ。名前を教えてくれないか」
若葉は尋ねた。
返事は無かった。だから、若葉は黒髪の隣に座って、天井を見上げた。そうやって、幾星霜の時が経った。ある時点で、若葉は無言で立ち上がり、辺りを見回した。そして、黒髪が何かを握っているのに気付いた。
「それ、見せてくれないか」
「……」
黒髪はそれを若葉に手渡した。
桜の押し花でできた栞。優しく、美しい、思いやりの塊のような温かさがあった。
「私は……人を殺したの。大切な大切な、たった一人の友達だったのに」
「うん」
「彼女は誰からも好かれる子で、私をずっと苦しめてきた人も、あの子は許し、寄り添ってあげていた。でも、私はそれが辛かった。だって……だってあの人よりも、私の方が……ずっと、惨めで……可哀想だった……私が、一番、可哀想だったのに……!」
「……うん」
黒髪は咽び泣いた。若葉はその頭を抱いて、ただ頷いた。
「だけど……だけど……高嶋さんは何にも悪いことしてない……悪いのは私……私が、わがままで、嫌な奴で、全部、全部私のせい……私……あの時……高嶋さんのこと、全然考えてなかった……自分のことばっかりで……高嶋さんのこと、信じていた、つもりだったのに……!」
「……そうか」
景色が変わる。薄暗い部屋から、夕焼けの河川敷が視界に広がっていく。
足音が聞こえる。若葉は見上げて、頷いて、その場を去った。
「おまたせ、ぐんちゃん」
黒髪は、腫れ上がった瞳を、その声に向けた。そして、涙があふれて、何も見えなくなって。赤い髪の少女はその手を取って、笑って言った。
「行こ!」
友達のいない千景だから、きっと、自分を必要としてくれると、そう思ったから。だから、友奈は、千景を求めることが出来た。
何にも縋れない千景だから、他に誰もいない、それが事実だったから。だから、千景は、友奈の傍らで歩くことが出来た。
歪で、不健全で、正しくなんかない二人。それでも、それで幸せだった。
高嶋友奈と、郡千景。二人は、ずっと、ずっと──
第三部 建依別にて 完