色々あって園子は銀の家に立ち入り、そこで自らの先祖である乃木若葉の伝記を発見する。銀は乃木若葉に興味を持っていたため、園子の家に訪問することを条件に、須美と友達になって欲しいと伝えた。問題は、どうやって友達になるかだが……
「もう、用事は済んだの?」
放課後、長い廊下、遠く児童らのけたたましい声が響く中央階段から少し離れたところで、須美は園子に訊ねた。
先週はまるきり都合がつかなかったのに、今日は園子自ら図書館に誘ってきたというのは、聞かずともそういう事なのだろうと須美には分かっていたのだが、分かりきっていることだろうと話せることならなんでも話しておきたかったので、というより園子の声が聞きたかったので、須美は声の高まりを人知れず抑えながら、言った。
「う、うん、そうそう。大したことじゃなかったんだけどね」
「……」
どんな用事があったの? とは聞かなかった。個人的なことまで詮索するのは良くないだとか、しつこいと思われるかもしれないだとか、聞かない理由はいくらでも足し加えることも作り出すこともできたが、結局のところ、園子自身から自分に言ってくれない、自分に知られたくないことがあるのだとはっきり認識することが怖かったという、たった、それだけのこと。
誰にだって、秘密の一つや二つあって当然だし、須美自身にも人に言えないことはある。ただ、数少ない須美の友人であり依代である園子について、自分の知らないことがたったひとつでさえも存在するという事実が、言いようもなく晴らしようもない、判然としない不安を須美の胸に蓄積させていく。
この気持ちは、自分だけなのだろうか。それともみんなそうなのか。独我的かつスピリチュアルであるが故、誰かに相談することを気恥しさが邪魔をする。もっとも、相談できる相手なんて隣にいる園子だけなのだが。
「……わっしー?」
「え?」
「図書室、着いたよ」
うん、と細く返事をして、ドアノブを捻る。
須美と園子の通う大社館第一小学校は、その潤沢なる資産量の顕れか、広さも然ることながら美しさ、機能性、ありとあらゆる設備が整いすぎているほどに整っている。更に図書室の蔵書数は市の図書館のそれを軽く上回っており、小学校にしてはやや過剰と言われたりもする。
一週間ぶりの図書室は、冬の夕暮れのように少し光量が乏しい。明るすぎる照明は白い紙に反射して目にあまりよろしくないという学校側の配慮らしいが、須美も園子も、旅人の訪れを待つ山奥の古い貴族の屋敷のような、世間離れした異界的な雰囲気が堪らなく好きだった。
「相変わらず、利用している生徒の数と見合ってない広さだよね〜、私は全然いいんだけど」
「私も、やっぱり落ち着くな……」
二人の使用する席は、いつも決まった場所。窓際の席は所々出張った柱で分かたれているのだが、出口、つまり西口方面の、壁に隣接している区画の一つ右の左端。この場所を選ぶ理由は特に無いとそれぞれ答えるだろうが、電車で端の席を取ろうとする心理と、恐らく同じことだろう。
少し高めの椅子の下にランドセルを降ろしてから、二人一緒に今日の本を探しに行く。
須美も園子も、嵌ってしまった本で、図書室にいる間に読み切れなかったものは、借りて家にまで持って帰って、気絶するまで齧り付くタイプだったので、こうやって図書室に来る度に本を探す、ということが多い傾向にある。
「わっしーは今日も西暦時代の本を読むの?」
「うーん……神世紀の始めのあたりの本って、何故か限られたものしかなくて……最近の本も面白いけれど、昔の人達の考えてたこととか、やっぱり気になってしまうの」
「そっかー……んー……、じゃあ私はこの伊予島先生の新刊にしよっかな」
「今話題の本ね。いいと思う」
園子はまだピカピカの、須美はくすんで折り目が幾重にも重なったボロボロの本を手に取り、いつもの席について、流れるように読み始めた。
二人とも、一度読み始めたら基本的に邪魔をしないというのがポリシーである。そもそも図書室はお喋りは控えるようにというのが常識。心配性で寂しがり屋な須美にとってはどうなのか、と園子は思ったりしたこともあったが、こうなってしまえば、もう言葉を交わす必要も無かった。なぜなら、一緒に並んで本を読んでいる、という事実が、何よりも二人を強く結びつけるからだ。
だから、須美は何の憂いもなく活字の世界に飛び込んでいけた。なにより彼女の読書に対しての集中力が並外れていたのもあったが。
「あれ……?」
しかし園子の作戦は、その須美の特性を逆手にとったものだった。
ふと顔を上げると、園子の姿はどこにもない。振り返っても、立ち上がって辺りを見渡しても、どこを見たって、全く影も形もなかった。机の上の、これみよがしに置いてあるノートの切れ端を除いて。
お花摘みに行ってくるぜ!!!
「い、勇ましい……」
ちなみに、何故か猫の絵と、それに握られている謎の植物が付け足してあった。植物だけ妙にリアルで、図鑑で探してみるとツルツメモドキという名前。花言葉は「強運」らしい。……なんというか、気づかないうちに随分と凝ったことをしていたものである。園子がいないことに思わず慌てそうになったが、何だかんだで須美は落ち着けた。
すぐに戻ってくるだろう、と切り替えて、彼女はまた読書に戻ろうとした。
「ここ、いい?」
思わず飛び上がりそうになった。
誰かがいた。いや、現れた。そして自分に話しかけてきた。すぐそこで。それまでその気配にまるで気づくことも出来なかった。
しかしそれも仕方ないといえば仕方ないこと。今の今まで、この閑散とした図書室の、更に人が訪れないであろう最奥で、園子以外の人間と話すどころか、目にすることさえ今まで一度も無かったのだから。
その上、須美の目に写っているのが、三ノ輪銀──同じクラスにありながら、眺める以上の関係を持たなかった彼女だと言うのは、なんとまあ心臓に悪いことか。
「多分、ここ、園子でしょ? 二人仲良いもんね。園子が来たら代わるからさ、ちょっとだけ」
「え、あ、う」
およそヒトの作り出した言語とは程遠い、母音のみで構成された鳴き声を発して、ノーともイエスとも判別が出来るような点頭を見せた。
「ありがと。それじゃ、失礼しまーす」
銀はそれをひと目見て快諾と受け取ったらしい。
さてどうか。そのまま銀は須美の方をちらりと盗み見て、悟られないように反応を確かめる。
肘を伸ばしに伸ばして本を両手で握りしめ、口を一文字に引き締めつつ、さらに瞬きは一秒に平均四回、顔は真っ赤に上気して、よく見ると瞳がナルトのように渦巻いている。
「……」
わかりやすすぎるなあ、と銀は思わず苦笑する。
──いい、ミノさん、わっしーと私はいつも放課後図書室に通っているの。弟さんに早く会いたい気持ちは分かるけど、そこに行けばわっしーと必ず二人きりで話すことができる。これこそが最大のチャンスなんよ。そこからは、いざミノさんの本領発揮。五分も経てば二人は親友、固い絆が結ばれるはずだよ〜!
って言ってもなあ。と、ミノさんこと三ノ輪銀はノープランで来たことを後悔し始めていた。
とりあえず、なんか話さないと。
そう思い、口を開く。
「鷲尾さんは、いつもここに来てるの?」
「……え!? あぁうううんはいそうです?」
何故か疑問形になってしまった須美は、とうとう固まってピクリとも動かなくなってしまった。
(ダメ、突然話すなんて無理無理無理。どうして急にこんなことに。確かに仲良くなりたいとは思っていたけど、私なんかが三ノ輪さんと話すなんてそんなこと天地がひっくり返って太陽が瀬戸内海上に降ってきてもあるはずないのに……分かった、これは夢だわ。夢ならばありえること。私の願望が具現化した夢なんだ。これが明晰夢というやつなのかしら。夢だったら何でも出来るはず。今なら空も飛べるはず──)
「ひええっ!?」
何かが起こり、須美を現実に引き戻した。
何が起きたのかは、まだ彼女自身にも解析できていない。ただ……ただ、この耳に残るむず痒い感覚は──
「あ、ごめん、つい……」
棒読みで謝罪する三ノ輪銀は、バツの悪そうな顔を取り繕っていたが、口元から笑いが零れそうになっている。
か、からかわれた。
それは衝撃的ではあったが、かえって冷静にもなれた。
いつまでもこんな態度をとっていたら、三ノ輪さんにも失礼だろうと、須美は小さく咳をして切り替えを図る。
「こちらこそ、取り乱したりして……で、でも、なんで突然……?」
「なんで……うーん……」
言葉に詰まる。園子に頼まれたから、なんて言ったら台無しだ。しかし嘘をつくのも如何なものか。
「ほら、アタシ最近、鷲尾さんと仲良い乃木さん、アタシは園子って呼んでんだけど……と仲良くなったからさ、鷲尾さんとも話したくなったというか」
まあ、嘘ではないし、これなら傷つかないだろう。そのまま銀は続ける。
「それにしても鷲尾さんって、園子と滅茶苦茶仲良しだよね」
「うん……私、そのっちしか友達いないから……」
う、となんだか重たい雰囲気に呑まれそうになる銀。とはいえ無理矢理明るく取り繕うのも違う気がした彼女は、そのまま須美の話に耳を傾けることに専念することにした。
「そっか。でも、あれだけ仲のいい友達がいるって、凄く幸せなことだと思うよ」
「……でも、私、そのっちのお荷物になってると思うの。いつの間にか三ノ輪さんとも仲良くなってるし……」
「だったら、鷲尾さんもアタシと友達になろうよ」
須美は思わず銀の方を向いた。
その先にあった表情は、不安も疑問も含んでいない、あっけらかんとした笑顔だった。
「でも、私なんかでいいの?」
須美は、三ノ輪銀という存在から目を離すことを忘れていた。人に嫌われ、拒絶されるという恐怖がそっぽを向いていた。期待や不安のどちらでもなく、ただ三ノ輪銀という少女を、まるで火を初めて見つけた古代人のように、ぼうっと惚けた顔で見つめていた。
「うん、鷲尾さんがいーの!」
銀は、なんの思考プロセスも介せず即答する。
そう。三ノ輪銀はいつもこんな調子だった。
鷲尾須美が知っている彼女の姿は、いつもクラスの中心という、クラスメートの──一義的な側面ではあるが──所謂上に位置する立場でありながら、誰かを傷つけることもなく、人を気遣える優しさがあった。どんな状況でも、自分をどこかに置いやって、他人を支えるということに抵抗がなかった。
思いやり、優しさ、強さ。その全てを兼ね備えた彼女の姿は、鷲尾須美にとって憧れずにはいられない、人という存在の理想形だったのだ。
三ノ輪銀にとっては知る由もないだろうが、須美には銀の学校以外の様子を知る機会がしばしばあった。
ショッピングモール、公園、街の外れの一本道──三ノ輪銀はいついかなる時、場所でも、困っている誰かに手を差し伸べていた。誰に頼まれるでもなく、自分の利益に結びつくこともなく、その途中で泥だらけになっても、そのせいで日常的に遅刻が増えようとも、彼女の行動原理が覆されることは一度も無かった。
声をかける勇気すらなく、ただ見守ることしか出来なかった須美は、目にする度に羨望と劣等感を胸に抱いていたが。
「……私は──」
須美は伝えた。
自分の家庭事情、感じてきた辛さ、苦しさ、嬉しかったこと、楽しかったこと。園子との馴れ初め、園子への気持ち、変わりたいという意思、変われない自分への罵倒、周囲への罪悪感──
園子以外の誰にも、きっとこれから話すことはないだろうと思っていた、自分自身を形作る多くのモノを、この数分間、たった数フレーズの関係しかない、すぐ隣に座る少女に、気弱な少女は言葉を紡ぎ送っていく。
喋り続ける須美自身にも、疑問は淡く浮き上がっている。こんなことを園子以外の誰かに夢中になって話すなんて、まるで自分が自分でないようだと。
話し続ける少女の胸には、もはや一抹の不安もありはしなかった。
見つめる銀色の瞳にも、自分の姿が映っている。
あの一瞬、あの笑顔に、そっと背中を押された。
気付けば、自分の中の何かに急かされている。
──そっか。
少女は確信した。
三ノ輪銀は、誰かに「勇気」を与える存在なのだと。
「ごめんなさい、どうでもいいことまで話しちゃって」
「いや、アタシは嬉しかったよ。鷲尾さん、ありがとね」
「ねえ」
「ん?」
「銀って呼んでもいい?」
「じゃあアタシも、須美って呼んでもいい?」
(……ありがとね、ミノさん)
二人の左隣の区画に座っていた園子は、開いていた本をそっと閉じる。
夕暮れで差し込む傾いた光が三人の影を真っ黒に浮かび上がらせていて、それら等身大のみっつの影を、一本の柱が無慈悲に分けていた。
もう、きっと私は必要無い──
「おい園子、そろそろ帰るってさ」
「え、そのっちいたの?」
「え、うん、ずっといたよ。な?」
「えええええええええ!? もういるならいるって言ってよそのっち!」
なんて、そんな勝手を許す二人では無かった。全ての影はかつての座標をまるきり忘れてしまったようで、今は全てが小さく寄り添っている。
「一緒に帰ろうぜ、園子」
昨日と同じ、屈託の無い笑顔は、アタリマエだと言わんばかりに輝いていた。