讃州に越してきた銀。息付く間もなく現れたお隣の女の子、結城友奈。彼女は優しく、朗らかで。けれど。園子や須美を拒絶した銀に、その笑顔を受け入れる資格はあるのだろうか……
目が覚める。
身体を起こす。布団と自分の摩擦の音ばかり聞こえる。ついでに無駄に広い寝室を無感情に見回した。
リビングに出る。トースターから取り出した食パンにジャムを塗って椅子に座りつつ、貼り付けられた秒針を意味も無く追う。
昨日はこれから通学する讃州中学の入学式だった。校門の前で両親や友人と笑顔で写真を撮る周囲の人々を尻目に、自分は式が終わるや否や真っすぐ自宅へと戻った。唯一の知り合いの友奈から声を掛けられる前に。けれど家ですることも無かったので、ただぶらぶらと讃州を練り歩いていた。
もう数十分で中学生活が始まろうとしている。自分の感じているものが憂鬱さなのか不安なのか、それとも別の何かなのかも、まだ、よく分からない。
突如インターホンが鳴った。途端に巡る思考。大社? 勧誘? こんな朝から? いや、まさか──
「あ! 銀ちゃんおはよー! 昨日探したんだけど会えなくて寂しかったよー。あ、準備できてる?」
「ゆ、友奈……」
太陽よりも眩しい笑顔。気圧される全身。考えてみれば十分有り得た話だ。隣に同じ中学の知り合いがいて、一緒に登校するために迎えに来てくれる、という流れは。
「あ、あのさ友奈。きっとアタシと一緒だと遅刻するぞ」
「え? まだ時間あるよ?」
「いや……えっと……」
反論は出来ない。咄嗟に説明出来そうもない。こうなったら、実際に体感してもらうしかないのか。
自宅を出て、並んで歩く。友奈は心底楽しそうに語り掛けてくる。だが、アタシは気が気ではなかった。進行方向からやってくる小さな少女。泣きべそをかいて誰かの名前を呼んでいる。
「銀ちゃん。もしかして」
「あー……」
アタシはだろうな。と頷く。少女に手を振りつつ声を掛けてみる。
「どしたの。お姉さんに教えてみ」
「サンチョが、サンチョがいなくなっちゃったあ~!」
「さ、サンチョ……?」
なんだサンチョって。
「銀ちゃん、サンチョ知らない? きまぐれ猫のスペース・サンチョ。最近巷で人気なキャラだよ」
「く、詳しいな。えっと、キーホルダーとか?」
「ううん。ぬいぐるみ。四角いの」
「もしかして……あれだったりする?」
指差す友奈。三叉路の片方から、挑むようにこちらを見つめているデカい犬。咥えているのはカラフルな枕……よく見ると猫の顔が付いている。
「あー! サンチョ!」
駆けだす少女。犬は当然逃走する。
「友奈、先学校行っててくれ」
「えっ、銀ちゃん!?」
友奈を置いて、全力で走り抜ける。鞄から取り出したノートの紙を何枚も引き裂き、押し固めて即席のボールを作り出した。それをスライダーよろしく犬の視界に入るよう投げてみる。犬は一瞬立ち止まり、放物線を描くそれを眺めたが、未だ枕は離さないまま。しかし逃げ続ける先に、横道から行く手を阻む少女が現れる。
「銀ちゃん、今だよ!」
紛れもなく、その救世主は結城友奈だ。
たまらずUターンするわんこ。その瞬間を逃さず、アタシは犬をがっしり両腕でホールドした。しかし吊り上げられた魚のように暴れまわり、とても手が付けられない。
友奈はそんな犬の死角から、その背中をさっと手で擦り──瞬きの後には、それは腹を見せて服従を示していた。
アタシはへたりこみながら、地に這いつくばるサンチョを拾い上げ、少女に手渡す。
「はい、サンチョ」
「ありがとう、おねえちゃんたち!」
枕を大事そうに抱えながら、少女は走り去っていく。
それを見届けて、ふう、と一息ついて顔を上げた。
「な。遅刻しそうだろ」
「あはは。そうだね」
友奈は笑った。まるで気にしちゃいないようだった。
結局、時間ギリギリ間に合った二人。
初回ということもあり、校内見学にちょっとしたレクリエーションや自己紹介という流れで進み、午前授業ということであっという間に放課後になっていた。
いつの間にかグループが形成されていて、一際賑やかなクラスターからはカラオケに行くとか行かないとか、そんな話し声が聞こえてきている。
アタシはもはや聞こえないふりをして、こっそりと教室を出ようと立ち上がった。
「あれ、銀ちゃん帰るの?」
「ああ、うん」
「じゃ、わたしも!」
鞄を抱え上げ、友奈はアタシに並んでそう言う。
「でも友奈、カラオケとか行かなくていいのか」
「うん。ちょっと今日は夕方から用事があるんだ」
「……そか」
アタシは頷いて、友奈と共に廊下に出た。初日にも関わらずみんな楽し気で、複数の男子は喚き散らして浮かれ切っている。まあ、付近の小学校から集まってきているのだろうし、多くは見知った友人がいるのだろう。
そんな様子を見ているからか、アタシは少し疑問だった。
明るくて、社交性があって、親切で優しい友奈。友達がいないなんてのはあり得ない。けれど、自分に付き合ってくれるのは、一体どうしてなのだろう。
「そういえば、銀ちゃん、部活は入るの?」
「部活……いや。考えてない。入らないと思う」
部活。仲間、友人、そして青春が生まれる場所。
そんなの、自分にはもうあり得ない。
「そっかあ」
「友奈は?」
「私も放課後は学外のことで忙しくなりそうだから、入れないかな」
「へえ、そうなのか」
登校時に見た友奈の動きは、かなり洗練されていたように銀は感じている。少なくとも何かしらのスポーツに打ち込んでいることは想像に難くない。それこそ、地元の中学の部活レベルではないんだろう。そんなことを考えていると、ふと友奈の表情が申し訳なさそうに変わった。
「えっと、銀ちゃん、実は相談があって」
「え、うん」
突然だなと思いつつも、銀は頷く。
「どこかゆっくり話せる場所があったら、そこで話したいんだけど」
「あー……じゃあうちくる?」
「え、いいの?」
「いいよ。どうせアタシしかいないから」
破顔してやったー、と嬉しがる友奈。
それを目にしつつ、しかしアタシの心臓は冷たくなっていた。
まだ間に合う。早い内に断ち切るんだ。これを純粋な親切心からの提案であると友奈は思っている。そこまで分かっていながら裏切りの手段としてこれを思案している自分の姿は、傍から見たらどこまでも冷酷無比に映るだろう。きっと友奈はそんなことになるなんて思ってなくて、だから心底傷つけてしまうことになる。
けれど、もう、自分にそれ以外の選択肢は残されちゃいない。友奈だけを選ぶなんて、そんなのが許されていいはずがないんだから。
「いやー、それにしても立派だね」
「そうだな。アタシには勿体ない」
家の前に立ち、そう返す。
脳裏にちらつく光景。乃木邸に泊まった時の、二人の笑顔、そして愚かな自分の姿。
かぶりを振る。そのまま友奈を客間に招き、お茶を淹れた。
「ありがとう銀ちゃん。お茶淹れるの上手だね」
「はじめて言われたよ。はは」
枯れ葉のような愛想笑いを誤魔化す為に啜る茶の味は、アタシにはまるで感じなかったけれど。
「それでね、実はわたし……友達と喧嘩、してて」
「へえ、意外だな。友奈も喧嘩なんてするんだ」
相談内容は、予想だにしていないものだった。友奈は本当に気配り上手で、欠点なんてまるで無くて。アタシもまだ付き合いは全然浅いけれど、どうこんがらがったら友奈と喧嘩が出来ようものか、想像することも出来ないくらいだったのだ。
「正確に言うと、仲直りできてない友達がいるというか。小学校の頃からね。でも、向こうはもう来週には讃州から引っ越しちゃうって聞いたの。だけど……なんて言ったらいいか、分かんなくて……」
「……うーん」
困った。
自分がその立場だったらどうするか、思ったよりも答えが出ない。
……というか、まさに今アタシが置かれている状況と似ているような気もする。
……いや。だったら、自分自身が答えだったじゃないか。
「アタシだったら、きっと逃げちゃうよ。なんというか……友奈がその子に何をして何をされたのかは分からないけど、酷いことをした自分と仲良くしてもらうのが、もう迷惑なんじゃないかって、自分には、もうその資格がないんじゃないかって……だから、友奈は偉いよ。逃げずに向き合って」
自分自身の言葉が、次々と跳ね返って突き刺さっていく。園子と須美がこちらを見ている気がして、ふと我に返る。一体何をしているんだろう。これじゃ、何の回答にもならないじゃないか。
「友奈は、なんで仲直りしたいって、思うんだ?」
「……考えたことなかった。……えっと……確かめたいから、かも」
「確かめたい……」
「うん。確かに、あの子……ハルちゃんは私のこともう嫌いになってるかもしれない。でも、もし私と同じ気持ちだったら、絶対、仲直りしたほうがいいと思う、から」
「……そうか」
頷き、アタシは過去の自分を見つめた。
須美と園子。須美の親を、そして今や須美をも死なせてしまった自分。須美がどれだけ大変で、辛い思いをしてきたのか、あの図書室ではじめて聞いて……東郷美梁が須美の母親だと知って、それで自分が許せなくなった。
須美の母、そして須美の人生を台無しにしたのは自分だ。だから、須美がアタシを許せなかったとしても、それは当たり前のことなんだと思う。
でも、結局須美はアタシを許してくれただろう。園子もそうだ。だけど、それを確かめなかったのは、わずかでもそこに恐怖があったからで……例え二人が許してくれたとしても、許してくれなくても仕方が無いことをしたという現実──罪そのものが消えるわけじゃなくて。
だから……結局、アタシは二人と一緒にはいられなかったんだと思う。
でも。確かめることだけは、しておくべきだったかもしれない。あの時そう思えなかったのは紛れもなく、自分自身の弱さだったんだろう……。
「……友奈さ、もし友達の母親を、間接的に死なせてしまって……それでも自分を受け入れてくれる友達を、自分のことに巻き込んで酷い目に合わせて……死なせてしまったら、どう……思う?」
「え……」
困惑……あるいは、それ以外の何か。アタシには、そこにどんな逡巡があったのかは分からない。でも、友奈は、俯きながらも、恐る恐る言葉を紡いでいく。
「……きっと、自分を許せないと思う。……代わりに私が死んじゃえば良かったかもって……落ち込むと、思う」
「アタシがそれなんだ」
聞いて、友奈がゆっくりと顔を上げた。目の前で、今にも泣き出しそうだった。アタシは湧き上がる暗く弱い何かを押しのけて、真正面からその潤む瞳を見つめた。
「アタシは人殺しだ。だから、やっぱり友奈とは一緒にいられない。そんな相談を受けられる立場じゃないんだ。この家に一人で住んでるのも、そんな事情があるからさ」
「……私は、そうは思わない」
友奈はずい、と顔を近づけてくる。
またしても予想外の反応に、気圧されるのは銀の方だった。
「私、銀ちゃんの言ってること、分かるよ……私、自分が許せない……どうして、あんなこと言っちゃったんだろう。謝らなくちゃいけないって、サヨナラしなくちゃダメだって分かってるの。でも、でも……ハルちゃんに、私、絶交って言っちゃったんだ」
「……友奈」
友奈は拳を握り締めて震えていた。自分への怒り。あの時、大社墓地での自分の姿が重なる。
「ありがとね、銀ちゃん。銀ちゃんがいなかったら、会えないままお別れしてたかも」
「え、アタシは何も……」
「あのね、なんだか、銀ちゃんと居ると勇気が湧いてくるんだ。怖いことにも、立ち向かおうって思えるの」
覚悟が決まったようだった。震えは止まっていなくとも、友奈は既に前を見ている。
「銀ちゃんが一緒にいられないと思っていても、私はそうは思えない。ハルちゃんが私と会いたくなくても、私はハルちゃんと話がしたい。それだけで、良かったんだ」
友奈は鞄を持って立ち上がる。アタシは動けないままだった。
「銀ちゃん。私銀ちゃんのこと大好き。だからこれからもよろしくね。私、行ってくる!」
光の速さで飛び出していく友奈。
アタシは、相変わらず微動だに出来なかった。