銀は、お隣の少女結城友奈を自宅に招く。そこで自らの過去を話し、距離を置こうとするも、友奈はNOを突きつけたのだった。
月光の福音。
その実態は、多種多様な宗教組織の群体そのもの。その名が約三百年の時を経るまで残り続けたのは、なんのことは無く、失い、捻れ、変質していったその行く末で、また一周して戻ってきたに過ぎない。
「宗教組織」とは、それ自体が固有の性質を持つ、強烈に確立されたコミュニティである。程度の差はあれど、その規模はかなりのものだ。そんなコミュニティ同士のコミュニティが、それぞれの在り方を通しながら、有機的に繋がり纏まっていくには、分かりやすく強力な先導者が必要であり──そんな言い訳が、しかし真実であるせいで、ヒトは争いの環から抜け出すことがいつまでも出来なかったわけで。
結局、月光の福音というのは、紛争の巨大な種として、互いに互いを貶め、分断し、時に手を取り合いそして裏切る、そんなことを繰り返してきた。大社がそれを外側から静観し続けたのは、その火の手の及ぶのを忌避したからでもあった。
しかし、大社とて何も手を打たなかったわけではなく、月光の福音の勢力を、押し入れに布団を詰め込むようにして、丁寧に、大胆に、足元から遠ざけるため誘導してきた。今や大社本部のある香川、支部の点在する愛媛、高知とその周辺には、悪質な宗教組織は殆ど存在していない。
その結果、掃きだめとして成立した魔界。それが、徳島である。
薄汚れた空。
今にも崩れ落ちそうなアスファルトの縁に、廃墟と見紛うような建造物がこちらを見下ろしている。剥き出しの殺意がそこかしこから赤外線のように飛び交っていて、同時に全てを嘲笑うような暴力的な笑い声が響き渡っている。
「あなた。そこのあなた」
嫌に甲高い、中年の女の声がする。
フードの影からそれに瞳を向けると、彼女は目の前でわざとらしく口を押さえた。
「あなた。悪い霊に取り憑かれています。そのままでは、とても不幸な事が起こりますよ」
「え、ほんとうですか」
フードの少女は表情を見せぬまま、驚いたような声でそれに応える。女は餌を見つけた獣のように眼を見開き、振幅を上げて口を開閉し始めた。
「ええ。ほんとうです。でもそれも仕方の無いことかもしれません。大社の手によって、徳島は滅びようとしているのですから。でも大丈夫です。心配要りません。天にまします救世の神に祈りを捧げれば、あなたは救われます。隣町に協会があるんです。これから私と協会に行って一緒に祈りを捧げましょう。時間はかかりませんから、今からでもどうですか?」
「……なんという協会なんですか?」
「双星協会といいます。あ、新聞もあるんです。どうぞ」
カサついた紙の束を受け取る。
少女はそれを無言でめくっていき、ふと静止する。
“信者にお言葉をかける教祖の山伏しずく様”
瞳に映る写真と、その横の文字列。
「み〜つけた」
口角が吊り上がる。
悪い霊に取り憑かれているようだった。
*
「……寝れなかった」
呟いて、身体を起こし、スマホを手に取る。
5:42。
もう、すぐに支度をするべきだ。
だから適当に制服を着て、適当にパンを焼いて、適当に髪を結んだ。
ドアノブを握りながら、しかし自分のやっていることが全く無駄な気がして、半ば諦めながら捻った。
「……」
予想は外れ、友奈はそこに居なかった。
まあ、まだ6:01。当番でもなしに、そんな早くに登校する必要は無い。
いや。
結局、昨日の話を聞いて、考えを改めたのかもしれない。だって友奈だったら、自分の考えを先回りして、既にここに来ていてもおかしくないと、そう思っていたのは自分自身。
こんな面倒くさくてそのくせ人殺しのやつなんか、誰が好き好んで一緒にいたいというのか。例え友奈だとしても、アタシなんか願い下げだろう。
なんて、言い訳を連ねるように心中で捲したてる。希望と落胆と安堵が入り交じったしょうもない本音を、自覚するのが怖かった。
「わっ!!!」
「うおっ!」
だから、死角から飛び出してきたこの笑顔を見て、頬が緩むのを止められなかった。本当に、ダメダメだった。
「銀ちゃんの考えてることなんてお見通しだよ〜! ほら、学校行こ、銀ちゃん!」
「い、いやだから、アタシといたら友奈に迷惑がかかるし、人殺しとつるむなんて、そんなのやっぱりダメだろ」
目も合わせられないアタシの両手を取って、友奈は力強く答えた。
「銀ちゃんが人殺しだとしても、銀ちゃんは銀ちゃんだよ」
それで、何も言えなかった。何も考えられなくなった。己の意思と反して、全身に抱える重い何かがドサドサと音を立てて落ちていく。
ダメだ。拾わなきゃ。それが溶けて消えてしまう前に。
そんなのは許されない。
そんなのがあっていいわけが無い。
だって、それを受け入れてしまったら。
アタシの今まで感じてきたことも、してきたことも、一体、なんだったってことになる。
いや、違う! そうじゃないだろ。アタシは、アタシの罪は、アタシだけのものじゃない。何をしてしまったか忘れたのか。アタシは、アタシは、本当に、なんなんだ。
「銀ちゃん」
そう言って抱き締める身体。それでもアタシはまだ自分の世界の中にいる。
「私、仲直り出来たよ。銀ちゃんのおかげ。銀ちゃんが勇気をくれたから、私は全部言えたし、できた。だから銀ちゃんが何をしてしまっても、私は銀ちゃんの味方でいる。それが結城友奈。銀ちゃんが私のことを嫌ってなくて、それでも、銀ちゃんが自分をいじめるためだけに一人を選ぶのなら、私はずっとそばに居続ける」
「……どうしてそこまで」
「理由なんて、そんなの銀ちゃんが好きだからだよ。だけど結局、この先を選ぶのは銀ちゃんだから。私は、私が好きな友達と一緒にいるだけ。だから銀ちゃんがどうするかを、決めることは出来ない」
身体を離して、友奈は笑う。
「しばらくは銀ちゃんのためじゃなくて、私のために一緒に居てくれたらいいよ。ほら、行こ!」
「……」
アタシは頷くしか無かった。
友奈は全て分かっているんだなと思って、それが嬉しくて、だけどどうしようも無く情けなくて。それでいいのかという堂々巡りは、いつまでも終わらなかった。
気付けば、時が飛んだように、放課後になっていた。
友奈は習い事があると言って、慌てて帰っていった。寂しさよりも、安堵が勝った。
一人になりたい気分だった。
だからこそ誰かと繋がらなければならないと思った。
そんな思考回路の自分が、どうしようも無く愚かに感じた。
もう、何も考えたくはなかった。
だから考えるのを止められなかった。
地面を見つめて歩きたかったから、空を見て歩いた。
家に帰りたかったから、すぐには帰らなかった。
何をやっているんだろうと思った。
「……」
あてもなく歩く先に、小さな看板があった。その先にはやや急な坂道があり、アタシはぼうっとそちらに足を向ける。途中、用意されていた階段を見上げると、鳥居が備え付けられており、そこが神社の参道だったとようやく気付く。鳥居を跨いだところで、一人の男がアタシに気付いた。
「お嬢ちゃん、天空ん鳥居見に来たん? ここから歩くと五十分はかかると思うけんど、大丈夫?」
「……天空の鳥居?」
「はは、知らんで来たん? こん先山ん方へ進むと、お山んてっぺんに立つ鳥居があるんよ。けっこいで、街が一望出来て」
「へえ……」
「行くんなら、帰りんことも考えて、早めに行きや」
男は袋入りの小さな飴をアタシに渡し、手を振って社務所に戻っていく。
アタシは、それを握り締めて歩み始めた。
その道は狭く、参道であり山道そのもの。ジグザグとうねる坂道、代わり映えのしない景色を、ただ無心で進み続ける。所々に安置された鳥居が、それでもそこに神はおわすのだと、アタシを咎めてくるようだった。
生命の目覚める春、その空は、少し汗で滲むアタシの頬を、だんだんと鬼灯色に染めてゆく。踏みしめる土の向きは、どこかで素直にぐんぐん伸び続けるようになり。いつしか、アタシの靴は確かに石を擦り始めた。
その、“最後の石段”の先で、アタシの瞳には天空に立つ鳥居が映っていた。アタシはその鳥居が、何かを見ていて、それはアタシでないと気付いた。
振り返る。
「……綺麗だな」
誰もいない、アタシだけの世界。春風が髪を抜け、手足をくすぐる。今だけはその寂しさも心地よく。
座り、両足を広げて、見下ろす。広がる讃州の姿。
それを見つめながら、だけど、結局何も前には進んではいなくて。現在に身を投じた一瞬を搔き消すように、過去と未来がそんなアタシを押し潰すようで。息をしているだけで、空の赤は、それでも更に更に焼けてゆく。
溜息。
きっと、それはこの場には似つかわしくないもの。
アタシは、ここにも来るべきではなかったのか。
だったら、アタシは、どこで、どうやって、どんな風に息をすればいい──
「お、こんにちはー」
ふと、誰かが石段を昇って頂上までやってきた。讃州中学の制服。腰まで金髪のツインテールが伸びている。スタイル抜群の、そしてどこかオーラのある美少女だった。
「こ、こんにちは」
少し気圧されながら、立ち上がり頭を下げる。金髪は嬉しそうに笑って頭を下げ返した。
「いやしかし、こんな時間に、こんな場所で同中と出くわすなんてねー。一年生よね? 登るの大変だったでしょ。丁度いいから下までいちごミルク買ってきなさいよ」
「え……」
初対面にパシろうとしている。あまつさえここから往復させようというのか。ここまで登ることの労苦を知っていながら、一体何故。
「あはは、ウソウソ。アタシがパシる女に見える?」
ひるがえって笑う金髪先輩。
返答に困った。
「……いやいや、見えないです」
「ちょっと、何よその間は」
片眉を曲げ、いたずらっぽく笑う金髪先輩。そのままアタシの隣の石段を指さし、こちらを見た。アタシはその意図を汲み取り、頷いて一緒に腰を下ろした。
「……悩み事かね。恋?」
金髪先輩は首を傾げながら、弾むように尋ねる。アタシはやんわり笑顔を浮かべ、手を振りながらその瞳を見た。
「あはは、違いますよ。アタシはまだそういうのわかんないです。えっと……」
「風よ。犬吠崎風、よろしくね」
「三ノ輪銀です、こちらこそ」
差し出された手を握る。風さんは、ん、と頷き優しく笑って、続けた。
「アタシはねー、上手くいかない時とか、悩みが溜まってきた時とか、時々ここに来るんだ」
「悩み、ですか?」
「そ。アタシってさー、生まれつきなんでも出来ちゃう天才肌でね。運動も、勉強も。でも、これをしたい! ってのが中々見つからなくてさー、今日もチア部辞めてきちゃった」
なんだか、その物言いも、振る舞いも、裏表なんて存在しないと言った風で。それが、今のアタシには、少し気楽に感じた。
「贅沢な悩みですねー……」
「あら、嫌味すぎた?」
肩をすくめる風さん。アタシは俯き、目を細めてしまう。
「いや。アタシはその逆なんです。こうなりたいってのはあるんですけど、色々あって」
「ふむ。言ってみなさいよ。長くなってもいいから。無理強いはしないけど」
風さんはあっけらかんと答える。
アタシは、少し黙って、手を握り合わせて、葛藤の奥の無意識で、この流れに身を委ねることを選んだ。いや、それを、アタシが望んでいることを、無視することを。
それでいいのか、ダメなのか。考えることに、疲れて、負けて。
「実は……勇者に、なりたかったんです──」
アタシはぺらぺらと喋り続けた。
昔から色々なことに巻き込まれやすくて。
でも、困ってる人を放っておけなくて。
それを助けることが、喜んでもらえることが、嬉しくて。
でも、死なせてしまったあの顔が。
裏切って傷付けた友の姿が。
浮かんで浮かんで、苦しくなって。
その苦しみから逃れる為に、誰かに手を差し伸べるようになった自分が嫌いで。
自分の孤独を癒すため。自分の罪を忘れるため。
全部全部、自分のためで。
だから何もしないことを選んでも、それが正しいわけもなくて。
なら、アタシはどうすればいい。
アタシは、どんな風に生きたらいい?
アタシは罪人で、罪は消えたりしないんだ。
償い、贖うことでしか、生きてちゃいけないのに。
それが救いになってしまうアタシに、生きる資格がどこにある?
死ぬしかないのか。
生きることが間違いなのか。
でも──でも、アタシは……姉で……弟を置いて……死ぬことも……
「……あ」
いつの間にか、溢れ出した涙。アタシは誤魔化すように笑いながら、すいません、と顔を覆った。風さんはしばし無言で、アタシの背中をさすってくれた。
夕焼けが静寂を纏う。それを溶かして、風さんはゆっくりと口を開いた。
「……小さいというか、大きすぎるというか……中一らしくない悩み方してんのねーあんた」
ため息交じりに、風さんは続けて呟く。
「そもそも、あんたにとって勇者ってなんなの?」
「……それは」
友奈や須美、園子、クラスメート、先生、両親、弟たち……アタシの大好きなみんなの姿が目前に浮かぶ。
それ以上の答えなんてない。アタシに色んなものをくれた人たち。その姿は、まさしく、アタシが美しいと思った理想そのもので。
「辛いことや悲しいことがあっても、恐怖に負けずに頑張る人、誰かを笑顔にする人……」
アタシがなろうとしてもなることのできない、罪も無く優しいみんな。アタシがもう、どれだけ求めても届かない世界に生きている、その全て。
そんな人たちに、これ以上迷惑を、マイナスを、アタシが生きることで、被ることがないように、アタシは──
「……きっと、アンタは優しすぎるのね」
沈み切ったアタシを見て、困ったように風さんは笑った。
「英雄と呼ばれた偉人も、文豪と呼ばれた天才も、実はおっかない悪行を重ねてきている人が多かったりするものなのよ。善と悪を両儀的に持つのが、人間だからさ。でも、アンタはきっと正しすぎるんだね。正しすぎて優しすぎるから、自分だけが苦しむ道を選ばざるを得ないのよ」
アタシは顔を上げられず、黙ってそれを聞いた。風さんはアタシの頭を撫でながら、言葉を載せて紡いでいく。
「アンタは優しすぎるから、死なせてしまった友達とその母親に申し訳ないと思って、自分の為に生きられないのね。アタシからみたら、アンタはそのことについて全く責任を感じる必要はないと思うけど……ま、確かにそういう精神は人としては正しいことよ。大量殺人を犯した人間が幸せに暮らしてたら、そりゃ被害者は怒るだろうしね。でもね。世の中には正しさよりも大事なもんってのがあんのよ。多分、アンタはそれを既に知ってる。気付いてないか、ちゃんと理解しきれてないだけ。ま、精々悩んで答えを見つける事ね。いつか見つかるって信じてりゃ、多分向こうから歩いてくるわよ」
その言葉が、アタシの救いになるのか、そうなってもいいのか。結局、アタシには分からなかった。
けれど、この行きずりの向こうに投げられた確かな体熱は、アタシの胸の奥に何かを刻んだ実感があった。
未熟で臆病なアタシの深層に、その優しさが、何かが分かるまで、まだ生きていてもいいんじゃないかって──そう呼びかけていると、思えた。
「……風先輩って呼んでもいいですか」
「いいわねそれ。採用」
そう言って、風先輩はアタシの頭をわしゃわしゃとかき乱した。