後輩の土居環。彼女は突き抜けて可愛いが、自分に恋愛感情は無いと悟る伊予島柚希。しかし。
やっぱりそんなことはなかった。
この世界の敵は、神様なんだ。
父と母は、空に指をさしては、私によく語り掛けていた。
だけど、心配いらない。誰にも負けない勇者様が、もうすぐ完成する。だから、何も心配いらない。
そう言って笑いかけていた。
私は、そんな勇者様に会いたくて、父に何度もせがんだ。困った父は、それでも、約束を守ってくれた。
弥勒夕海子。背が高くて、声が大きくて、何より、優しくて。それからというもの、私は、ずっと彼女のことばかり考えていた。
だけど、いつしか、彼女の話を、大人たちはしてくれなくなった。
──ぐるぐると回る世界。父の背中。大きな樹。木造の壁。白い服。空。土。虫。光。
“いい、亜弥”
消え入るような声だった。暗闇に貼り付けられた笑顔に、どろりとした何かが頬を染めていた。
“神様が来たの。だから”
ポケットに向ける手は震えていた。少し離れたところから、気だるげな足音が響いていた。
“どこか遠くへ、逃げなさい”
小さな手に託されたスマートフォン。そう言って、母は目を閉じる。
草を掻き分ける音よりも、脳裏に焼けつくような分厚い波が、私を責め立てていた。
お願いします。神樹様。勇者様──ゆみこさん。どうか。どうか。そう祈りながら私は走った。その逃避行が、記憶のほとんど全てを塗り潰した。そして、何も聞こえなくなって、何も見えなくなって、何も考えられなくなった時、私は、生が苦痛になることを知った。
……その先の記憶は無い。
だから、既にこれは私の夢ではない。
眼を開ける。立ち上がって見上げる焦げた空。花園へと降りゆく無数の星々、それらが今にも地表を砕かんと紅蓮を纏うその光景。すなわち。
未来。
「──っ」
噴き出した汗。覚醒は焦燥によりもたらされた。
ベッドを降り、スマートフォンから充電ケーブルを外す。snsに、メッセージ通知が届いていた。
今日は弥勒さん達、出かけるんだよね。
だから、大社にあややが巫女で、そこにいるって伝えたよ。今日、迎えが来るはず。
大社で会えるのを楽しみにしてるね。
差出人は、乃木園子。
生唾を飲み込む。
いつか大社の人間が自分を保護しに来るというのは、以前対面した際に伝えられている。この弥勒家で過ごす日々も、今日をもって終わるということ。
顔を上げる。素朴な勉強机。カツオのぬいぐるみ。おままごと用のティーセット。
全て弥勒夕海子という少女が存在した証。そして、その幻影は自分自身にも纏わりついている。
彼女が既にこの世にいないというのは、なんとなく分かっていた。園子に聞いて、それが確たるものとなる前から、それを想定せざるを得なかった。
だって、私は、弥勒夕海子では、無いのだから。
「!」
玄関の扉が開く音がする。大社の人たちが到着したのか。
亜弥はスマホを握り締めて、リビングから玄関へと向かう。
「夕海子、起きてる? 忘れ物しちゃって──」
立ち尽くす。玄関に立つ弥勒夫妻の視線の先には、小さな手に握られた傷だらけの携帯端末。
「ねえ、それ、何?」
だらりと滲む汗。弥勒母はただの一度も瞬きせず、こちらに歩みを進め始めた。
「あなた。夕海子に携帯、渡したの?」
無言で首を横に振る弥勒父。彼はもうこちらを見なかった。
「それ。渡しなさい」
目の前で手を伸ばす弥勒母。何かが壊れかけている。違う。再び壊れようとしている。
いつかこうなる気はしていた。スマホを見なくても、自分がこの人達の望む“弥勒夕海子”を辞めてしまえば、どこかで破綻するのは必然。
ここで素直に従えば、それは止められるのだろうか。その可能性は大いにある。この人達は蓋をすることに慣れ過ぎているのだから。
弥勒夕海子でいることで、弥勒夕海子となることで、国土亜弥は食と住居と安全を獲得してきた。生きること。ただそのために、自分は自分で在ることを放棄していた。
それでいいと思っていた。
それで二人が幸せなら、それで二人が笑えるなら、それで自分が、生きていられるのなら。
でも、あの日園子と出会って、名前を尋ねられた時。湧き上がる涙が、自分が、自分をどれだけ望んでいて、大切だったのか。自分が、自分でいられないのが、本当は苦しいんだということが。
自分は、国土亜弥でなければいけないということが。
もう、分かってしまったのだから。
「……嫌です」
「……いいから渡しなさい」
「いやだ!!! これはっ!!! お母さんの、形見なんだからっ!!!」
スパン。そんな音の後、静寂が反響した。刺すような痛みが頬に奔り、じくじくと目頭を熱くする。
何が起こったのか分からぬまま腕を掴まれ、引きずられる身体。見上げると、弥勒母は目を見開きながらブツブツと何かを呟いている。
声が出なかった。
何か言わないと、何かしないと。
そんな焦りの先が、何も生みだせなくなった。
心臓と気道の境目で、首を掴まれた鳥が暴れている。
やがて流れ落ちていく涙の輪郭以外、何も分からなくなった。
*
敬精霊地神連宮、大巫女神殿、大巫女の間、大扉前。
鎧を身に纏った少女達に見守られつつ、上里ひかげはその境界を跨ぐ。揺らす掌に宿る、確かな魂の感触を思い出しながら。
扉は間もなくして閉じられる。振り向くことなく、目前に広がる七色の世界──樹海にて、彼女は祖母の下へと向かい始めた。
その、少し前のこと。
ある静かな夜だった。
彼女は繋いでいた安芸の手を解き、居直し、その佇む影を見た。
「こんばんは」
響く男の声。
月明りに照らされたのは、見覚えのある白髪の老人。
「あなたは……乃木の、執事」
「もうその役目は終えたがね。……さて」
男は、ひかげの隣に立つ安芸の顔を一瞥する。安芸は視線を逸らし、男は少し目をつむってまたひかげを見た。ひかげはその瞳を迎え撃つように、口を開く。
「私に何かして欲しいことがあるんでしょ。なんでもいい。協力する」
「……どんなことでも?」
「ええ。それが安芸姉の望みなら」
「……その人は望んじゃいない。これは大社と……人類の望みだ」
婉曲な物言いに、ひかげは眉を顰める。安芸の腕は震えていた。
「君に、死ぬ覚悟はあるのか?」
男はそう問うた。
突飛なその言葉に、ひかげは確かにたじろぐ。
「君の役目は生贄だ。それは今までと変わらない。君が犠牲になることで人類が存続する望みは残る。しかしそうでなければ、全て無くなる。一見選択肢なんてないように見えるが、本当は君独り死んでしまうことに何の道理もありはしない。だから君は……彼女に“選べ”と言われたのではないか」
「ちょ……ちょっと待って。何のことか……私には……」
「君のお母さん」
男は声量を上げて、続けた。
「君のお母さん、上里ひなみは呪われている。分かるだろう。君のお母さんは随分前に豹変した。死霊に魂を溶かされる天の呪いだ。楔である上里がその呪いに完全に蝕まれたとき、霊的経路を通じて人類の盾である神樹へと伝播する」
「えっ……そんなこと……誰も今まで……」
「言えなかったのさ。君と君のお婆さんが呪いの一部を肩代わりしてくれなければ、とっくに手遅れだったから。要するに、君のお母さんは呪われていて、もう助からなくて、だけど人類の為に呪われ続けろ。なんて、小学生に頼めるほど君の周りの大人は強くないんだよ」
「……」
ひかげは絶句した。
その男の物言いにも、黒く濁った母の貌も、大社の神官たちにも──安芸にも。
……背中がざわつく。
違う。熱いんだ。
痛くて、重くて、ただ、熱い。何かがそこにずっと前からあって、それが今、幾万もの目玉となって周囲を見渡している。
「あ……うあ……ああ……ああああああっ!!!」
喉の奥底から、誰のものかも分からぬ叫びが解き放たれる。自分だけのものであるはずのその身体が、自分以外の何かに踊らされている。いつしか思考が左右にぶれ、視界が点と線だけになって。やがてその景色の奥に、よく知る少女の姿が浮かぶ。
乃木園子。
あなたと私は同じだと思っていた。大社の頭となる私。大国公社の頭となるあなた。この世界で、たった一人の自分と重なり合う人間。二人はズッ友だと言った。大好きだよ、と言ってくれた。どんなことがあっても、味方でいるって言ってくれた。
ねえ、そう言ったよね。それで、大社に来なくなったのはなんで?
あなたは、子供だから、まだ遊んでていいって?
私は全然学校に通えなかったのに、あなたはいつの間にか友達作ってて。楽しそうね。同じクラスになった時、あなたの私を見る顔はただの“お友達”になっていた。
大社には大人しかいなくて、私にはあなたしかいなかったのに。
それでさ。
お父さんもいつの間にかいなくなってさ。
お母さんには嫌われてる。
あなたには、どっちもいるんだもんね。お母さんもお父さんも、優しい執事だってさ。
友達だっているんだもんね?
ねえ。
どこが。
どこが同じだって言うの?
私は……私は……こんなに、こんなに苦しいのに。
あなたはいつも笑っていた。
あなたはいつも楽しそうだった。
あなたはいつも余裕があった。
あなたは全て持っていた。
あなたはずっと、私より幸せそうだった。
なんで? どうして?
私はどうしてあなたじゃないの?
私はどうして生まれてきたの?
私はどうしてあなたに、なれないの?
代わってよ。
譲ってよ。
ずるい。ずるい。ずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるい
「ひかげ……!」
安芸は頭を抱えてよろめくひかげの腕を取る。ひかげは反射的にそれを振り払ってうずくまった。
「……」
男はひかげに近付き、語り掛ける。
「君のお婆さんは間もなく死ぬ。そうなればもう呪いを抑えておくことは不可能だ」
「……ああ……ううあ」
「神樹が呪いを受けることを防ぐ唯一の方法は、呪い尽くされる前に肉体を殺すことだけ」
「もういい! もうたくさんよ! こんなのおかしい! この子はもう十分頑張ったでしょ!」
声を荒げて訴えるは安芸。小さな身体を守るように覆いかぶさる。男はその場にしゃがんで、息を吐きながらゆっくりと話し続ける。
「世の中は不公平だ。絶望しかない人生は惨めだ。だが……君にはまだ世界を救うという救いが残されている。やらなければ、君はさらに滅びという重すぎる罪を背負ったまま死ななければならない。……本当にそれでいいのか?」
「何よ罪って。罪があるとするなら、全部私達大人のせいに決まってるでしょ!?」
「……救う力を持つ者が、そんな考えに至れるはずがない」
聞き、ひかげは頭髪を忌々しく握り締めながら、顔を上げて男を、世界を睨んだ。唇を嚙み、どろどろと涙を流す瞳に熱血を滲ませ、怨嗟と共に吐き捨てる。
「いいわ……死んであげる。で、いつ死ねばいいの? 今? 首でも吊ればいいの?」
「ひかげ……」
安芸は声を震わせる。しかしひかげはもう彼女の顔さえ見ようとはしなかった。
男は少女の手を取り、表情を変えずに続ける。
「いいや。まだ君の力が必要だ。私も、世界を救いたい。人間として」