ひかげは選択し、願った。ただ、生きたいのだと。
第四十三話 銀色の世界─破─
姉は、まさしく太陽だった。
優しく、強く、真っすぐで、明るい。幼子の世界にとって、その存在はほとんど全てであった。
人というのはこういうもので、これこそが人なのだ。人は成長し、こうなっていくのだ。そう、明確に考えていたわけではないにしろ、彼はその生きざまを、引き寄せられるように学習していく。
けれど。
姉の全てを、彼はまだ知らない。
笑顔が彼女の本質だと。強さが彼女の印であると。その理解に揺らぎが生じたのは、いつからか。
「──」
畳みかけの衣服を手に持ったまま、液晶を見つめる姉の顔。この近くで人が殺されたというニュースだった。確かに、彼女が暗いニュースに表情を翳らせることはあった。悲惨でやり切れない話だ。けれどその時の彼女の顔は、これまでとまるで違っていた。
──姉は怯えていた。まるで、そうではない、と安心していた事実が誤りで、救われたはずの何かが、本当は失われていたと思い知らされたかのように。
そして、姉は数日病気で寝込んだ。衰弱する姉の姿を見るのは、生まれてはじめてのもので。
彼女を蝕むほどの、その意味が、恐れが、彼には結局分からなかった。声を掛けることも出来なかった。だって、姉は自らを“勇者”だとそう言った。救われるのではない。救い主なのだ。怖いものなんてあるはずない。怯えることなんてありえない。
そうじゃ、ないのか。
それでも、彼はそんなことを、姉に聞くことは出来なかった。不屈の象徴、憧れであった“完全”が誤りであったと知ってしまった時。疑うことなく信じていた希望が打ち砕かれるのではないかと、どこかで恐れてしまっていたのだ。
ある日。白い服の大人が家に来た。
詳しいことは分からない。でも、姉がどこか遠くに行ってしまうと、そんな話をしているみたいで。
正直、彼には意味が分からなかった。姉がいない家、姉がいない生活。
怖い。寂しい。それでも姉は弟に笑いかける。
その、枯れ木のような笑顔を見て、弟ははじめて過ちに気付いた。
姉は、弱い。
本当は、強くなんてないんだ。
飛躍した結論。それでも、もう、弟の目に映るその姿は勇者ではなかった。説明なんて出来ない。ただ、自分がとんでもなく酷いことをしてしまっていたと、そんな風に彼は思った。
彼は考えた。自分は、姉に、何かするべきことがあるはずだと。それで彼は、出立前日、玄関で佇む姉の前に、人形を突き出した。
大事な、一番の宝物。いつか返しに来い、と。それだけ告げて。
そうすれば姉は、すぐに戻ってきてくれるんじゃないかと。根拠もなく、そう思った。
それで、寝て起きて、もう姉はいなかった。
彼は泣いた。泣いたけれど、それを家族に見せはしなかった。
カレンダーを見て、姉が旅立ってからの日数を数え続ける日々。姉はいつ帰ってくるのか、良い子にしてれば帰ってくるよ、なんて繰り返される両親との問答。弟の中で、何かが膨れ上がっていく。
それが弾けたのは、姉と仕事の父抜きの、ちょっとしたお出かけの日。訪れたその場所は、少し広いお寺だった。
母は彼と繋いでいた手を放し、並べられた石造りの人形の前で、両手を合わせて目を閉じる。その後、再び目を開けた母に、彼は問いかけた。
「ねえ、母ちゃん、何お願いしたの?」
「んー? それはね……」
母は言った。本当は、彼にはもう一人、姉がいたんだと。
けれど、消えてしまった。まるで天へと昇るように、綺麗さっぱり、お腹の中からいなくなっていたと。
だから、一緒に居られなかった分、せめてその子が、幸せであればと。
そう、願ったらしい。
帰り道。彼はぼうっと考えていた。
姉は、そのことを知っているのか、と。
家族の中でそれを知らないのは、もしかして、姉だけなんじゃないかと。
そんなの、ダメだ。弟は、拳を強く握り締める。
だって、三ノ輪鉄男は、三ノ輪銀の弟で、三ノ輪銀は、三ノ輪鉄男の姉なんだから。
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ざあざあ。手に持つ傘に、地に、跳ねて弾ける雨嵐。そんな、前も見えないくらいの土砂降りだけれど、ようやく辿り着いたスーパーマーケット。
「ふう……」
傘を置き、店内に入る。ぐしょぐしょになった足元を見て、少し項垂れた。
今日は線状降水帯が来ていたらしく、そこまでひどくはならないだろうと高を括っていたが、結果はこの通り。とはいえ、食料も尽きてきていたし、やむを得まい。
当然、こんな雨模様では客は少ない。ほぼがらんどうの店内を、いつも通りのルートで周りながら、かごの中に放り込んでいく。
買うものはいつも同じだ。思いがけず始まった一人暮らしだが、食べるものも固定化してきた。
「んーっとあとは……あ、塩麴も無かったっけ」
引き返し、調味料置き場へと足を進める。そこに、自分より一回り背の低い女の子が、懸命に背伸びをして手を伸ばしているのが見えた。
「これ?」
隣に立ち、めんつゆを手に取って差し出す。
「あ、あり、ありがとうございまひゅ!」
慌てて腰を曲げる少女。改めてその顔を見ると、はて、どこかで見たような。
「樹~卵取ってきたわよ~ってあらあら銀じゃない! 奇遇ね元気してた?」
隣の区画から卵パックを片手に、いつぞやの少女が現れる。
「風先輩じゃないすか。てことは、妹さん?」
「そ。樹っての。かんわいーでしょ~あげないわよ」
「お、お姉ちゃんそういうのいいから!」
赤面して訴える小動物のような姿。なるほど、確かに。
「今日は親の結婚記念日でね。ちょっくらケーキでも作ってしんぜようと思って買い出しに来たんだけど、知っての通りどっしゃの極み。どうしたもんかねー」
「ケーキ? え、でもそれ、めんつゆじゃ……」
「え、めんつゆって使わないんですか?」
「……まあ、こういうところもキュートなわけよ」
乾いた笑い声を響かせつつ、風は続ける。
「さて、折角会ったんだし、雨がマシになるまでそこいらのカフェで一緒にコーヒーでもしばいていかない? もちろん、先輩のオ・ゴ・リ」
「まじすか。是非に」
「よっし決まり。んじゃ、二人ともお会計行っておいで。アタシはお手洗いいってくるから」
そう言って、また店の奥へと去っていく。既に必要なものは見繕っていた銀は、樹と共に、レジの前へと進んだ。
この店は半分自動精算のシステムで、店員による商品のバーコード読み込みが済んだあとは、機械を使って会計を進めていく。樹に続き読み込みを済ませては、機械を操作していると、ポケットの中でスマホが揺れ出す。
取り出し、ひとまず画面を確認する。母からの不在着信、そしてメッセージだった。
「?」
メッセージアプリを開き、受信した内容に目を通す。
その瞬間、耳元に近付いてくる巨大な質量の摩擦。ぞわりと駆け巡る悪寒に急かされ背後を見ると、大型トラックが店の入り口を突き破っていた。
銀はわけも分からず、傍らに立ち尽くす樹を抱え込み、思わず瞼を閉じた。
──眼を開けよ──
「──は」
脳内で響く見知らぬ少女の声。見開いた視界には、凍り付いた少女の表情があった。
「い、樹ちゃん? 樹ちゃん!?」
銀は少女の頬に手を添え、必死に声を掛ける。まるで石と話しているようだった。
そして、銀は何かに気付く。雨音が止んでいる。それだけじゃない。窓の外は雫がびっしりと空間に張り付き、ぴたりと、空気の流れさえも感じなくなっていて、まるで、世界が一時停止したかのようだった。
銀は息を無理やり吸い込み、樹を背負ってトラックの方へと歩みを進める。辺りを見ると、商品棚があちらこちらに倒れていて、横転した車体の傍で米の袋が散らばっている。レジの店員はなんとか衝突を免れ、怯えた顔のまま立ち尽くしていた。
そのままトラックに恐る恐る近付く、すると運転席が静かに開き、中からぬっと飛び出したそれは、人間ではなかった。
いや。少なくとも人型ではあった。だが、その貌に目は無く、鼻は無く、歪な仮面のような、歯のようなものだけが貼り付けられていた。
駆け巡る記憶。そう、確か伊予島博士はこう呼んでいた。
「バー、テックス……?」
この静止した世界で、銀と同じく、地の上で体躯を揺らすその存在。
後ずさる両足。この怪物に人類は9割以上を死滅させられたのだ。このままでは──
(気にするな。そやつはお前も、そのおなごも認識してはおらん)
そう呼びかける声は、まさしく先ほど聞こえた音色そのもの。
(わしのことが気になるじゃろうが、ひとまず黙って話を聞いてもらおう。今、この大地は樹海化というプロセスの真っ最中じゃ。それにより、奴らは人類を認識することは出来なくなっておる。例外であるお主も奴らの標的ではない。じゃから、そのおなごはそこに捨て置いても問題は無い)
銀は聞きながら、バーテックスを観察する。確かにこちらに近付いてくる素振りは今のところはない。だが、ここに置いておくというのは、余りにも。
(気持ちは分かるが、もはやどこにいても変わらん。わしを信じて、導きを受けよ)
銀は黙ったまま、樹を化物の死角に座らせる。店の外では、いつの間にか同じ人型のバーテックスがうろつき始めているようだった。
はっとして、銀は精算機の傍に落ちているスマホを拾い上げ、読みかけのメッセージを再確認する。
(お主、わしの話聞いとるんか?)
「……鉄男」
(お、おい、どこいくんじゃ!?)
ひしゃげた入り口から飛び出す身体。全身に浮遊した水滴が染み渡っていく。
鉄男が、弟が、姉に会いに家を飛び出した。一人で、電車にだって乗ったことのない弟が。
こんな雨で、こんな滅茶苦茶な休日に、たった一人きりで、自分に会うそれだけの為に。
その気持ちが、その決意が、その覚悟が、どれほどのものだったのか。
それをさせてしまった自分は、一体彼に何をしてしまったのか。
地下鉄への湿った連絡通路を、滑りながら駆け抜けていく。やがて恐怖に追い立てられて顔を歪ませる人間の列と、半身を食い破られた泣き顔が目に飛び込んできた。
心臓が千切れる。頭が沸騰して、どうにかなりそうだった。
「て、鉄男、ここにいるのか、鉄男!?」
どうにも響かぬ声。両腕が震えて力が入らない。プラットホームは地獄絵図。静止した世界で強調される、ふらつく赤黒い化物のパレード。まばらに人の肉が散らばって、けれどその血の細胞は既に時を喪っている。目を背けるように、ドアが開いたままの電車に乗り込み、全車両を走り抜け、それでも、どこにも弟の姿は無く。
そして、頭の奥深くで一本の鋭い線のような響きが通過する。銀は祈りながら、振り向いて線路を覗き込んだ。
車両のない、一番乗り場。
もし、幼い少年が、この惨状に居合わせ、恐怖に渦巻く人の波に押しのけられていたとすれば。
「て……つお」
線路に飛び降り、駆け寄り、跪いて絶句する。
三ノ輪鉄男は、鉄製の線路の上で、頭から血を流して俯せに伏していた。抱きかかえて感じる感覚は、確かに、以前よりも重く。虚ろに開かれた瞳は、紅に濡れていた。
(哀れな。よもや人間に殺されてしまうとは)
「はっ……はっ……こ、ころさ……し、ま、まだ、いきて」
呼吸が出来なかった。今まで、そんな難しいことをどうやっていたんだろう。
眼を開けても何も見えなかった。今まで、なにが見えていたんだろう。
死ぬ。このままじゃ。苦しい。苦しい。はあ。はあ。死ぬ。死ぬ。
あれ。でも、別に死んだっていいのか。
だって、アタシの、弟、し、し、し、し、し、し、し、し、し、し、し、し、し、
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、ああ、ああ、ああああ、あああああああああ」
(ふむ。そうか。弟が大事か。ならば銀。わしがお主の弟を、
「あ、ああ? あああああ?」
(うむ。契約成立じゃ)
「……あれ?」
ガタン、ゴトンと鳴る響き。見開く視界は優先席。でもあれ、なんで電車なんか乗ってるんだろう。
「おお、気が付いたようじゃのう。何よりじゃ。魂は何割か死んでもうたみたいじゃが、まあよくあるよくある。どうせいつかは摩耗するしのー」
そう言いながら、隣に座って竹の子の丘を食べている姫カット黒髪の幼女。動きにくそうな十二単に身を包み、ばりぼりむしゃむしゃと一心不乱に貪り食っている。
「……誰?」
「誰ってお主、お月様じゃろー、失礼じゃのう。お主の弟も助けてやったというのに」
「え……そう、なんですか?」
「そうじゃろー。ほれ食べるか?」
「あ……じゃあ」
袋に指を入れ、チョコレートでコーティングされた小さなそれを口の中に放り込む。
ふと顔を上げ、窓の外を見る。
電車は、空を飛んでいた。それなのに、線路との摩擦音が聞こえるのは何故。
「細かいことはええじゃろ。乗ってみたかったんじゃ……さて。到着まで談話でもするかのー。あ、そうそう。わしもなー、きょうだいがおるんじゃよー。そいでなー? きょうだい全員、穢れから生まれた神なのに、物凄い偉い立場にあてがわれてしまってな。困ったもんじゃよー全く」
「へえ……」
「そいでなー、種還りっていってな。穢れから生まれた神は、ちょっとしたきっかけで溜め込んだ穢れを吐き出してしまうことがあってな。わしと弟はましじゃったけど、姉はもう酷いもんじゃった。お主もきょうだいを持つ身。身内の責任は身内で取るのが神情じゃろ? それで良かれと思って面白い人間を呼びよせてみたらこってり怒られてな? で一度地上に落とされてしまったわけじゃよ」
「はあ……」
「じゃけど、人間って面白いからのー、月に戻った後もすっかり好きになってしもうて。そういうわけじゃから銀、お主は、世界を救う神と成れ。よいなー」
「は?」
瞬きの後、そこは大社本部、敬精霊地神連宮入口、大鳥居前。
傍らにいたはずの幼女はおらず、意識を喪った弟が、木陰に背をもたれて眠っていた。