樹海化が完了し、危機はあったが、超大型は無事貫かれた。しかし、まだ戦いは終わらない。
ようやく、月が燃え朽ちた。
どれくらいかかったろう。300年? くらいなんだ。
いよいよだね。ここまで、よく頑張ったね。
私はそう言って、ハツの頭を撫でようと手を伸ばして、跳ね除けられて、睨まれた。
それは悲しいことだ。だから、悲しい顔をした。
でも。
ハツの夢が。我が子の夢が、いよいよ叶う。
それは嬉しいことだ。だから、私は微笑んだ。
ハツに言われて、神々の遺灰で天浮橋をかけた。
よく出来てる。それは良い事だ。だから満足そうな顔をした。
地上を見下ろしていると、ヒルコちゃんの傍に誰かがやってきて、戦い始めた。その子の顔を見て、声を聞いた。それは懐かしいことだ。だから、懐かしそうな顔をした。
でも、誰だろう。よく分からなかったから、不思議そうな顔をした。
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泥の上。鍔迫り合う二人。若葉は顔色を変えず、千景は両眼を歪めて歯を強く食いしばっている。
間も無くして若葉は押し切り、千景は後退し距離をとる。すかさず若葉が大上段から剣を振り下ろし、千景はそれを慌てて受け止める。吹き抜ける剣圧によって泥の絨毯が滝のように一瞬吹き上がった。
「……」
若葉は静かに力を抜き、ぐるりと上体を捻り目前の腹を蹴りつけた。吹き飛ばされる千景の身体。泥に汚れたまま、すぐに震える両手を地に押し付けて顔を上げる。
「……クソっ」
そう吐き捨てる。力の差は歴然だった。
若葉の持つ神器、布都斯魂剣。かつて、素戔嗚が大蛇を斬り刻んだ際に用いたとされる、伝説の剛剣。所有者である素戔嗚から譲り受けたが故、その主は名実共に後継者たる乃木若葉となった。
無論、布都斯魂剣に、生大刀のように不死性を付与する機能は無い。しかし、単純な威力に関しては、生大刀を遥かに凌ぐ。
「……」
「……なんで何も言わないの。こんなの勝負にもなってない。奥の手なんてのももう無いのよ。だったら、勝ち誇るなり、煽り散らすなり、好きにすればいいじゃないのよ!!!」
また大鎌が迫ってくる。でこぼこで歪んでいたはずのその形状は、いつの間にか滑らかなものに戻っていた。
若葉は両脚を止めたまま、それを掌で受け止める。
つうっと紅い汁が垂れていく。だが、それだけだった。
無言で指先を刃の腹に押し付ける。そして呆気なく、大鎌は割り取られてしまった。
300年前、一度生大刀に切断されている大鎌の刃。その傷は、まだ完全に癒えてはいなかったのだ。
手に持った破片を泥へと放り投げ、若葉はまた向き直る。
「なんでよっ……神様なのに……神様、なのにいっ……!」
千景は唇を震わせながら、欠けてしまった鎌を力無く振る。これ対して若葉は回避の素振りも見せず、そのまま大腿部に半分になった刃が突き刺さった。千景は怪訝に顔を上げるも、若葉は少し目を細めるだけ。
代わりに、彼女は握っていた布都斯魂剣の腹を、千景の前にゆっくりとかざした。
「大量、もとい神度剣。死人と間違えられた阿遅鉏高日子根神の怒りの象徴。その神器の力を引き出すには、他人の肉体で生きる方が、それは都合が良いだろう。だが──」
磨き上げられた剣の腹。そこに映っている顔は、郡千景のそれではなく。
「さゆ……り……?」
「本当に?」
若葉はそう言う。
鏡となった布都斯魂剣に、次々と反射する誰かの記録。
『お前さん、捨てられちまったな』
『生まれてきてから、誰かの役にたったことなんてない』
『すごい』『がんばったね』
『思い出したんだ』
『私の命に、意味をくれてありがとう』
『死んだ方がいいんだよ。私たちみたいなのは』
『先に行くね──ステラちゃん』
「は……?」
少女は腰を抜かし、心臓を掻きむしる。
違う。違う。違う違う違う違う違う違う違う違う。
だって──
「もう捨てたはず、か?」
若葉は泥だらけの少女、七夕星を見下ろし、問う。
素戔嗚は、かつてこの剣を用いることで、田畑を荒らす水害に、大蛇の影を炙り出した。災害そのものを斬る。そんな出鱈目を成し得た所以は、まさにこの剣の力あってのもの。
「やめて……見ないで……見ないでよッ!!!」
発されるその声は、悲鳴であった。
少女の過去は、生きた足跡は、須らく汚点の連なりで。
歪んだ性質も、抱いた想いも、隠して隠して、決して見られないように。これ以上、自分が汚れないように。濁り切った穢れが、自分の目に入らないように。それで、自分を、これ以上、嫌いにならない為に。
神という、誰かになりすまして。
そうやって、ずっとずっと、なんとか誤魔化して生きてきたのに。
「はあっ……嫌……いやぁッ!!!」
それを暴くのが、乃木若葉だなんて。
そんなのって、あまりにも。
「……もう無駄だよ。私は随分前にお前の半分を見ている。私は、この世界で唯一のお前の理解者になってしまった」
若葉は剣を泥の上に突き立て、その柄にそっと触れ。揺れる星の瞳を、哀しげに見つめる。
「……まさか」
「ああ。三百年前、お前は生大刀の刃によって、己の魂が分断されてしまっていることに気付かなかった。お前はこの島のヒルに、保険として分霊を残しておいたんだろう? 故にその不安定な魂は、切断されたまま再接続する事が出来ず、生大刀に吸収されてしまったんだ。だから……まだ神になりきれていなかったお前の半分は、既に根に還ってお前を待っているよ」
若葉は脚に刺さった鎌を抜き、腰を降ろし、ステラに手を差し伸べる。ステラは何も出来ぬまま、その掌を見た。
「私は、お前が嫌いだ。だが同じ世界で生きていて欲しいと、そう思っている」
分からなかった。
その意味は分かっても、その理由は、余りにも不可思議で。
……そもそも彼女は、今でも乃木若葉を深く知らない。
求め、破滅し、再び対峙したというその因果は、互いの関係に宿命という意味をもたらすに足るかもしれない。だが、執着の理由は小百合という影に付随していたというそれだけで、一節の会話さえ介在せぬまま人としての生を終えたその間柄は、やはり、空虚そのものでしかないというのに。
「……若葉が、私の味方になってくれるって言うの?」
「……お前が、望むのなら」
嘘だ、と思った。叫びそうになった。
自分さえも信じることが出来ないこの世に、信じられるものなど、そもそも存在しない。
それでも。
ステラは、その手を振り払うことはしなかった。
出来ようはずが無かった。
自分を知る者。自分を理解する者。それでいて、自分を受容出来る者。それこそが、求めても最期まで手に入らなかった、ただ一つの願いだったが故に。
もし。
もし、都合のいい偶像に過ぎなかった乃木若葉という少女が、その希望を、叶えてくれるというのなら。
そこに縋らぬ理由など、余地の欠片もなく。
「私の半分は……なんて言ってたの?」
「……誰も私を助けられなかった。助かり方もわからなかった。一生懸命泣いて叫ぶほど、心配はされても、理解はむしろ遠ざかるだけだった。だから全部ひとりでやるしかなかった。でもそれが一番楽だった。いつしか、誰も居ない場所を探しては、声も無く泣き始める自分がいた。そんな自分に腹が立って仕方が無かった、でもやっぱり何もできなかった──」
ステラは目を見開いた。
彼女の言葉だった。疑いようもなかった。
抱え込んできた思いを、彼女の半分とやらは、本当にこの少女に全て解き放ってしまったらしい。
彼女は思う。阿呆だ。愚かだ。どうしようも無く恥知らずだ。それが出来なくて、今まで散々苦しんできたというのに。
お前には、本当に、そんなことが出来てしまったのかと。
「結局、私を信じて話してくれた。勇敢だった」
若葉はそう言って微笑みかける。ステラはそれを見て、何かが溢れそうになって、そっぽを向いた。
それに自信が持てなかった。
感じていいのかも、分からなかった。
「……でも、それでいいの? 私が小百合を死なせたのに。それだけじゃない。沢山の人間を殺してきた。そんなやつを受け入れるなんて、ちょっとおかしいんじゃないの」
若葉は目を伏せ、唇を噛み、拳を握りしめて、俯く。
「……もういいんだよ。別に私は死んだ人間の代弁者じゃない。正義の味方でもなんでもない。それに、小百合から戦う機会を奪い続けたのは私だ。本当は私が、お前の代わりにあいつを突き放してやらなきゃいけなかったんだ」
若葉は、顔を上げず続ける。
懺悔だった。
乃木若葉は、ステラにとっての断罪者ではなく、罪を両手に抱えて嘆く、ただの隣人に過ぎなかったらしく。
「私は、幾千幾万の魂の声を聞いてきた。だが、私自身の手によって救われたものはただの一人もいない。私の役目はただ一つ、最期まで穢れを吐き出せなかった者らを、文字通り斬り捨てることだけだった。言葉を交わすことが出来ようと。奥底にある優しさを見つけても。神樹の免疫細胞として、ただの……悪性として」
耐えきれず零れ落ちる。声を震わせ、見た目相応の少女のように。ステラは意を決して若葉に近付き、恐る恐る、背中をさすった。瞬間、自分の中で何かが決定的に切り替わったのを、どこかで感じていた。
「絶望に堕ち、喪い続けた誰かに、結局、お前はこの世に必要なかったのだと追い打ちをかけ、何もかもを抹消する。それの……その行いのどこに……正義があるっていうんだ……?」
若葉は叫ぶ。ステラはただそれを聞き続ける。
若葉の苦しみを憂いた。
若葉の哀しみを悼んだ。
若葉の絶望を嘆いた。
知らない世界だった。持ち得ないと諦めていた全てだった。
涙を通して手に入れたこの喜びと、それに対するこの引け目も。
自分の中に、人間が、ゆっくりと染み渡っていく──
「……結局、そいつを救えるのはそいつ自身の勇気だけってことさ。わざわざ生大刀の中に入っても、私は誰にも、なんにもしてやれなかった。昔も今も、私は無力なままだった。“世界を救う為に戦う勇者”なんて、最初から必要無かったんだよ。そんなだからもう、救世主きどりはやめたんだ」
消え入るような掠れ声。話す若葉の顔は、酷く暗く沈んでいた。
身体中を縛り付ける黒い鞭が、纏う闇が、光を奪っているように見えた。しかし、その闇こそ、彼女が最も恐れ、蝕み続ける根源と知りながら、全てに身を任せている。まるで、そうでなければならないのだと、それだけが唯一、許された贖罪であると妄信しているかのように。
確かに私は思う。妄信だと。赦しを求めて神を喰らった私のように、若葉は、罪を両手に抱えることで罪に形を与えている。そして若葉にとって、妄信というものが、贖い償うただひとつの手段だったのだろうとも。だからこそか。自分を救うことも、罰することも、若葉にしか出来なかったのだと、今この瞬間に、私は感じてしまった。
私にとって、あの子、さゆりを殺したのは若葉ではなく、私自身。七夕ステラというロクデナシなのだ。
ステラはさゆりであり、さゆりはステラである。故に分かる。さゆりは死に場所を探し求めていた。生まれながらに生を見ていなかった。ただひたすら、死ぬだけの為に呼吸をしていた。そんなあの子を守り続けたのは若葉しかいない。若葉がいなければ、あの子はあの歳まで生きてはいられなかっただろう。それなのに……それなのに、この人は、ずっと抱えたものを降ろさずにいるのだと──
「……馬鹿みたい。何でもかんでも自分のせいにして」
「……」
「……でも、一番馬鹿なのは私。自分自身で逃げ場を無くして、そのくせ駄々をこね続けて。だから──」
私は若葉の背中から手を離し、二歩、三歩と後退し。
どうしようも無く愛おしい、困惑するその顔に、微笑んで。
「──」
こんな風に、バチが当たるんだよと。
天の雷撃を、諸手を挙げて全身に浴びて、呟いた。
焼け焦げた身体は一瞬にして全ての機能を燃やし尽くし、ガラクタみたいに泥の中に埋まっていく。鼓膜は崩れ落ち、風の音さえ聴こえることはなく、灰色の視界に、若葉と思しき人の影が、白黒テレビのようにガチャガチャと動いていた。
今この時になって、私はようやく、断罪を欲さんとする自分に気付いた。その気持ち自体は多分あの子を死なせた時に既に生まれていて、神の声に素直に従ったのも、結局それが全てだった。けれど、追い求めていたものが本当に必要であるとは限らない。現に、私は何故か、縋り続けた神によるこの処刑を、ただの災害か何かにしか思えなかった。
私に必要だったのは、やっぱり乃木若葉だった。神なんかではなかった。自分自身で行き先を決められなかった私に、道標を与えた神。けれど借り物の道路はあまりにも歩きやすくて、それで気付けば歩き方が分からなくなって。やがて立ち止まり方も忘れ、行き先を考える頭を失った。
そうじゃなかった。もっと早く、ずっと早く、ちゃんと話をすればよかった。それだけだった。私のもう半分が見せた、その一握りの勇気が、私にもあれば、それで全部、大丈夫だったのに。
──ほんと馬鹿だよ……神様は……偉いかもだけどさ……善いことと、悪いこと……そんなの、決められるわけない……だって……だって私は苦しいよ、若葉。今までもずっと苦しかったけど、ちゃんと苦しいんだよ──
目の前にあるのは既に蜃気楼。それでも若葉に、私は呟く。
崩れかけの気道に、微風のような息を流し。ちゃんと言えているのかも分からなかったけれど、そう、呟く。
──若葉……私あなたに殺して欲しかったみたい……でも、きっとこれでいい……私にも、道はあったんだって、わかったから……私がすべきだったのに、できなかったことを……──
伝えたいという意思。
伝わって欲しいという願いだけを込めて。
──若葉……それ、随分重そうだね……私も、持つ……よ……ああ……あのさ、若葉……私……もっと正直に、生きたかったなあ……あなた……みたい……に──
死ぬな、頼むから。
言い終えて後、ぐちゃぐちゃの影が、そう、泣いて懇願しているように見えた。
馬鹿だなあ。
私は笑って、神力の残りカスで彼女を吹き飛ばす。
直後、石となった眼球に映る煌めきと共に、私の物語は終わった。