西暦に産まれ、剣となり、他人として歩む日々。この世界で、あとはお前だけだったのに。
時の止まった、山の中。
葉は擦れず、幹は震えず、微風も流れず。
ただ、自らの呼吸と心音だけが、その存在を主張する。
「……」
銀は項垂れる小さな弟を背負い、歩み始める。鳥居を潜り、神を祀る小都市へと。
そして、途切れた記憶を辿り、今自分がここにいる意味を解析。
ヒトの形をした、怪物。地下鉄の階段に散乱していた、見知らぬ誰かの臓物。線路に投げ出されていた、弟……。
ズキ、と閃く頭痛。
あれは現実だった。
喉にせり上がる破滅、意識を潰す衝撃。
決して失ってはならないはずの、銀の全てが無に帰す終焉。
それを、己が背中に未だ感じている矛盾。
これは奇跡か。有り得ざる例外か。はたまた、何か相応の代価を犠牲にした、唯の等価交換にすぎないのか。
「……伊予島博士」
顔を上げ、そこに立っていた見知った大人。
彼女は、手紙を持ち、誰かに手渡す体勢のまま、無表情で固まっていた。
宛先は、三ノ輪銀。
弟を背負ったまま受け取り、中を取り出し。
『やあ。また会えて嬉しいよ銀君。この先は歩きながら読んでくれたまえ。前に案内した実験ホールは覚えているかな──』
読み、銀はもう一度伊予島博士の顔を見つめ、会釈し、そして、手紙の通り歩きながら読み進めていく。
『そこに、以前見てもらった概念剣があるはずだ。私は、君にそれを使って欲しい。勿論、あの剣は未だ不完全の代物だ。一度触れれば、二度と人間には戻れないだろう』
立ち止まり、頬を照らす炎の揺らめきを目に映す。
概念剣、名を現世。
勇者壱号弥勒夕海子と、研究者である伊予島夫婦を葬った忌むべき邪剣。伊予島柚希にとって、それは忘れてはならない罪のシンボルであり、同時に彼女の行動原理そのものであった。
決して、あのような惨劇を繰り返さない。
決して、あの犠牲を無駄にしてはならない。
その思いだけを抱えて、三つの完成品を生み出したが。
『それでも私は、この世界を終わらせたくは無い。だから、四国に生きる何万という人々、そして私達、私が愛する者の為に、君には死んで貰いたい』
手紙はそれで終わっていた。
彼女のその綴りには、微塵の乱れも無く。
ただ、身勝手に、実直に、冷徹に、死を迫っていた。
間もなく、視界を花びらが埋めつくして、背負っていた弟は消え、周囲の設備は根と化し、剣を囲っていたガラスも取り払われ。浮遊する炎の剣と、ふたりきり。
死を請われた十二歳の少女は、何を思ったか。虚ろな瞳を閉じぬまま、何か大荷物を降ろしたみたいに微笑んで。
「勇者……か」
呟き、その柄をしっかりと握り締めた。
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「死ぬな、頼むから……! あの世界で、会ってから……お前を連れ戻すって、約束したのに……だから、だから──!」
叫びも虚しく、若葉は突風のような何かに吹き飛ばされる。
立ち上がって直後、極光が視界のすべてを奪い去り、鼓膜を突き抜ける轟音が一瞬の意識を遮った。
幻惑に抗い、ふらつきながら駆け寄るも、そこにあったのは少し盛り上がった泥の塊それのみで。触れる掌には、何の情緒もない無機質な感触しかなかった。
そして。呆然と凍り付く若葉の全身に、ばしゃり、ばしゃりと大雑把な足音が響いてくる。
「ふう。着いた着いたあ。ここが地上かあー。うんうん。地上って感じだね」
快活明朗、元気溌剌。そんな音色は余りにもその場にそぐわない。
「貴様あ……!」
背に鬼神を乗せ、その主を視界に入れる。
人に仇なし、世界を簒奪せんと暗躍してきた天上に住まう最後の天津神。その神名、天照大御神。
何を是とし、何を否とし、何を尊び何を忌むのか。そこに宿る原理を、これまで地上の者らに知る術など無かった。
それでも、変わらない真実がある。
日常を奪った。友を奪った。
罪もなき人々を。クラスメートを。戦友を。最後に残った希望の星を。
それを、お前は──!
「お……まえ……は……?」
眼に映す現実と認識が、ぐにゃりと捻じれる感覚。
その顔。その髪、その瞳。
それは、運命の分岐点にあった、今なお薄れることのない記憶と重なる。
出雲大社。そこで見た、白絹を纏った桜の如き女神。
瓜二つだなんてとんでもない。そこに居たのは、その景色から切り抜いて取り出した真実というべきもの。
「んー? あー。違う違う。私はサクヤちゃんじゃないよ。私はねえ……私は……えっと、お母さんだよ」
狼狽する若葉を見て、目の前の女神はそう答える。
うん、そう。お母さんなんだよね。そう言って微笑むその表情は、一握りの邪気も孕んでいない。穢れを知らぬ無垢なる少女のような、輝きに満ちた情念を抱かせるような。
飲まれてなるか。
そう、若葉は奥歯を嚙み締め、剣を両手に構えたまま、その眼前に無言で進み。うねる大蛇のように身体を反り上げ、殺意の全てを込めてその左肩に刃を叩きつけた。
ぐしゃり、ぶちぶちと肉が千切れていく音がして、頬に紅のインクがぴしゃりと張りつく。
さあ見せてみろ。天神の見た世界とやらを。
*
その頃。
『私』は世界に存在しなかった。
『世界』が私だったから。
『全て』は私で、『私』はその中の『一つ』で、その『一つ』は『全て』だった。
私と世界に、物質と魂に、時間と空間に、生と死にさえも境界は無かった。
でも、それは結局、あてがわれた役割に過ぎず、『私』は『私』であると思い知らされることになる。
ある日。無機質でからっぽで、完全な空間である天上の空。そこに、『異物』が入り込んだ。
天上は森と成り、山と成り、村となった。
その因子を持ち込んだのは、地上に住まう一柱の女神。名を、木花咲耶姫。
彼女は私を見て言ったのだ。
わあ、私とそっくり。
彼女の目的は、私に、大地に大社を建てて貰うこと。神剣と引き換えに、私は言われるがままそれを建てた。
そして、目的を果たし、彼女が地上へと戻っていった後。その世界には、『世界』が残った。
やがて時は過ぎ、森を歩き、湖に映る私の顔を初めて目にした。
そう。
そこには私がいた。
私は存在していたのだ。
それだけで十分だった。
私は回帰した。
記憶、魂、次いで肉体。
そうやって、私は不具合となった。
そう。
かつて世界は、救われた。
稲となった友を愛で、ただゆるりと劣化を進めていく世界に独りぼっち。
幾千年。幾万年。幾億、幾兆、それでも続く、続く、続く。やっほー、と叫んでは、跳ね返る壁なんてなくて、自分の声さえもすぐに忘れて幾星霜。
気が狂った。
全てを憎んだ。
何もかもを壊したかった。
でも、私はただの墓標だった。
世界が、終わるまでは。
そう。そうだ。世界が寿命を終える間際、目の前に現れた天沼矛。
最後の最後、強くてニューゲームのボタンを押す、それだけの役割を、私はひび割れた世界から与えられた。
そう。そう。そうそうそうそうそうそう。
そうなんだよ。
私は私なんだよ。
私は、
私なんかに、世界なんて流し込むから。
天国さえも、滅んでしまうんだよ。
あー、あれ? あー、私、なんてことをー
全てが燃え果て、泥に沈んだ高天原を見て、確か私はこう呟いたっけ。
灰色の世界が広がっていて。死の残り香さえも消え失せ、等しく無だけが充満して。記憶の残滓が、それが凄く悲しいことなのだと伝えてくるけれど、悲しいというものがなんなのかも、もう、よくわからなくなっていて。
うん、そして、黒い泥の中から生まれたんだ。
その子は、私の子だよね?
うん。
子供を産んだら、育てなくちゃ。
幸せになって貰わないといけないよね。
あー、うん、そうだよ。
「うん……だから……私は、おかあ……さん……」
「……!」
笑顔で血をだらだらと流し続ける、傍らの女神を見て愕然とする。
眼窩に埋め込んだ宝石の煌めき。それは、ただの反射だった。
抜け殻なのだ。目的はあれど、意志はない。
ならば、真に討つべきその仇敵は、天照大御神ではなく──
「ああ、ごめんね。うちの子、もう我慢できないみたい」
その背後から、仮面を被った少女が、輝く剣を握りしめてはひょい、と現れて。
「づあっ──!?」
傍らの白絹が、一瞬にして火柱と化す。若葉は咄嗟にその場から飛び退くが、肉に突き刺さったままの布都斯魂剣は炎に吞まれ、神代の輝石で鋳造されたその刀身はすでに溶け始めていた。
猛炎となった天照大御神を火種として、足元に広がる泥へと瞬く間に引火していく。
「くそっ……!」
若葉は立ち尽くす仮面の少女を恨めしそうに見やり、その場から全速力で退避する。神たる肉体を持つ若葉の速度に肉薄する勢いで、足元へと熱が迫り来る。
感覚で既に理解している。この炎に触れた瞬間、神人自然、森羅万象あらゆるものが灰に変えられてしまうと。
この炎は尋常のそれではない。理そのものを燃やしているのだ。いや、『燃焼』という状態に書き換えているというのが正確か。神そのものを薪とくべたが故か、あるいはあの小さな少女の神力故か。
ようやく樹海の根まで辿り着いたものの、やはり、根之堅州国という異界であってもお構いなし。泥ほどではなくとも、既に引火し、かなりのペースで燃え進めている。
若葉は走りながら、電話を操作し耳に寄せては、焦りを隠さずに話し始める。
「楠隊長、状況はどうだ!?」
『副隊長の三好夏凜です。乃木様ですよね? あいにく芽吹はダウンしてて。状況は……なんとか持ちこたえてるってところでしょうか』
「戦える勇者は残っていないか、誰でもいい、今すぐに戦力が必要なんだ」
『……実は友奈も鷲尾さんも、力を使い果たしていて。さっき到着した園子のおかげで戦線は維持できていますが、園子なしでは、5秒と持たないと……』
「……そうか」
振り向き、熱で揺らめく根の世界を見渡す。
やりきれない。
世界の核である神樹が討たれてしまえば本末転倒。
しかしあの炎に対抗しうるのは勇者以外にない。
どうする。
どうする。
どうする。
……いや、もう術はない。
私だ。
私がやるんだ。
あの炎の中で何秒保つかは分からない。だが、今の私は最後にして最強の国津神なのだから。
筋繊維が一瞬で煙に溶けたとしても、辿り着いてなお一本の骨さえ残っていなくとも。
もう、私しか、居ないのならば──
「離れていてください」
「は?」
いつの間にか傍らに立っていた、ヨモギ色の髪の見知らぬ少女。
いや、違う。
変わり果ててはいるが、その声、その体躯。
「君は、まさか」
「……」
少女は剣を天に掲げ、踏み込み、突風を吹き抜かすように鋭い音を立てながら、真っ直ぐに振り下ろす。
根に、泥に付着した炎が押しのけられ、当然といった顔をして広い道を作り出した。
炎の海を斬った少女は振り向くことなく、あっという間にそこを走り抜けていく。後を追わんと根を蹴った若葉を締め出すように炎は元の位置に戻り、もはや彼女にこれ以上為す術もなく。
「……君が、私を追い抜くのか」
そう静かに呟き、炎に背を向けてその場を去っていった。