床だけ見ながら通路を突き進む。すれ違う人を肩で突き飛ばした気がする。そんなことより、誰もいない、音もしない空間を本能的に目指していた。行き止まりまで歩き続けると物置部屋みたいな暗い一室に辿り着いて、中に入りじっと佇む。何も考えたくなかったのに、体を支配していた羞恥と嫌悪のエネルギーが脳をドロドロと侵してくる。
氷水みたいな現実を頭にぶっかけられて、ようやく気付いてしまった。オファーをもらった、凄い人達に認めてもらえた。でもそれは、バンドが認められただけで私個人が凄いと認められたわけじゃなかったんだ。なのに、昔の連中を見返せるわけもなくて。つまり、さっき幼稚に逃げ出した私自身は、1年前と何も変わってなくて。
気付きたくなかった。足下がグニャリと歪んだような感覚に眩暈を覚えて、額に手を当てる。
じゃあ。私はこの先、どうすればいいっていいんだ? どうしたら私として認めてもらえる?
それとも私は『椎名真希の妹』として見られることから逃げられなくて、これからもさっきみたいに逃げ続けるの? 吐き気すら覚えて、気が遠くなってくる。
こうやって突っ立ったまま、グチャグチャ悩んでられたらまだマシだった。暗順応した目に、部屋中敷き詰められた楽器ケースや音響機材が映る。嫌でも今日のライブが連想される。グジャグジャ悩んでる場合じゃない、って、責められてるみたいだ。
なのに。ステージでドラムこなしてる私を、イメージできない。
自分への嫌悪感なのか、絶望感なのか、それとも焦燥感なのか。何にかき乱されてるのか分からなくて、爆発しそうな叫びを歯食いしばって堪えてるときだった。
「立希、こちらにいましたのね!」
背中側から、よく響く声がぶつけられる。乱れた呼吸から、派手な足音鳴らしてただろうに、全く気付かなかった。
それくらい、いっぱいいっぱいなんだ。頼むから放っておいて欲しい。
特に今、あの人と被るお前にだけは……。
私は胸の内を押し殺しながら、振り返らず声だけ返す。
「……今は、放っといて」
「そ、そうはいきませんわ! 仲間が苦しんでいるのを、放っておくわけないでしょう!」
「さきちゃん、いたの?」
「……立希」
「立希ちゃん……大丈夫?」
追いついてきた燈達に、何とか気力を振り絞って、もう一度やんわり返しそうとした。でも。
「……うん。後で戻るから、今は……」
「いーえ! とても大丈夫には見えませんわ!」
自信に満ち溢れた高貴な声が軽々しく遮ってくる。私と違って、何者にも脅かされない、眩しい存在感。
私の中で黒々と蠢ていた闇が、ふつふつと熱を帯び始める。
「立希、真希さんのことで苦しんでるのは分かりますわ。けれど、今でも落ち込んでしまうのは、違うと思うのです」
頭では分かってる。こいつは本心から私を想って語っている。嘘はない。
でも、正しくもない。
お前が? 私のことが分かるって? 私にないものばっかり持ってるお前が?
胃の底でぐつぐつ煮えたぎる泥を、押し留めようと腹に力を入れる。
「立希は立希じゃありませんか! 事実、オファーをもらった私達を認められたばかりでしょう? もっと自分に自信を持つべきです!」
「だからそれは……バンドが認められただけで、私自身ってわけじゃ……」
声を荒げないよう押し殺したせいなのか、私の話を祥子は聞いちゃいない。また遮られる。
「少なくとも、
必要? それはドラムがいないとバンドとして成り立たないからだろ。それこそ『ドラマー』なら誰でもいいのに、『私』を必要としてるって?
上っ面に感じた瞬間、私は改めて思い知ってしまった。
(あぁ……本当にこいつは、分かんないんだな……)
私と祥子の間にどうしようもない差があるのを、こいつは理解しようともせずに的外れな説得を投げつけて来る。それは火薬となって内側で蠢く熱泥と混ざり、凝固した。脈打つ塊が喉をせり上がって、口の中で燻る。
かろうじて残っていた理性を振り絞って、もう黙ってくれって、ちょっと強めに突き放そうと口を開きかけた。それより先に、祥子が割り込んでくる。
「いつまでも真希さんに囚われたままなんて、立希らしくありませんわ!」
その人と同種が言い放ったセリフが私の導火線に火をつけて、爆ぜる。
頭が真っ赤に染まって、意識は口の辺りから吹き飛んだ。
「ふざけんなッ! 何が私らしくないだ! お前に私の何が分かるッ!」
「……え」
「お前は燈の詞を活かした曲が作れて! お姉ちゃんみたいにリーダーが務まって、演奏も上手くて! ドラム叩くしかできない私と、何から何まで違うだろ!」
「わ、わたくしは——」
「なのに適当なこと言って分かったようなフリして、馬鹿にするのもいい加減にしろ! そんなに私を惨めにしたいのか、お姉ちゃんも、お前も——」
弾け飛んでいた意識が視界と繋がる。いつの間に振り返ってたのか、目の前に祥子がいる。その顔に致命的なヒビが入ったように見えた瞬間、体中暴れ回っていた灼熱のエネルギーが、嘘みたいに消え失せた。私は祥子から目を逸らし、口をつぐむことしかできない。
絶対晒したくなかったのに。最悪。
祥子も何も言わないから、重い沈黙が物置部屋に流れる。それを破ったのは、第3者だった。
「さきちゃん、今はそっとしておこう。たきちゃん、楽屋で待ってるからね」
いつも気遣しげな声してるそよにしては、平淡だった。でもこちらにちゃんと淡い微笑を向けている。こういう、変に気を遣い過ぎない気遣いも、するようになったんだな。
「立希、そ、その、私は……」
「いいからいくよ。ともりちゃんも」
「えっ、で、でも立希ちゃんはまだ……」
「……燈。大丈夫だから」
そよと睦が、残り二人を引っ張って部屋から出て行ってくれた。私は1人になれた。落ち着くはずだった。落ち着きすぎて、さっきよりも虚無な嫌悪感に落ちるだけだった。それを、吐き出さずにはいられなかった。
「何、やってんだ、私……」
何も返ってこないと分かってるのに、4人が出て行った廊下の方を見てしまう。そこから差し込んでくる、明るい光が目に痛いから背を向ける。何も目に映したくなくて、薄闇の部屋からさらに目を閉じて真っ暗な世界に逃げ込む。でも今一番思い出したくない、祥子の傷ついた顔がずっと浮かんで胸奥はかき乱されるだけだった。あいつは私を、仲間を馬鹿にできるようなヤツじゃないのに、私はなんであんなこと……。
膝が重みに耐えられなくて、その場に蹲る。
自己嫌悪、絶望、罪悪感、後悔。色んな悪感情に飲み込まれて溺れるだけだった。何一つ整理できず、この後のことも、何もかも考えられなくて、意識すら手放したくなったとき。
「……祥には、分からないと思う。身近な存在が原因で、自分が軽んじられる気持ち」
鈴の音みたいなソプラノボイスが、静かに部屋へ入ってきた。睦だ、と思ったら、背中全体に温かくて固い感触がした。背中合わせで座った睦が、言葉を続ける。
「……それに耐えるしかなかった。あの頃のことは、口で何言われても克服できる気がしない」
セリフが耳を伝って、心にすんなり沁み込む。それはこいつが、家族に有名芸能人がいるから。両親のことで騒がれるのを、何よりも嫌うやつだから。
嫌というほど分かってしまう。人気芸能人の娘としてばかり見られるというのが、どれほど個人として蔑ろにされることなのか。自我を持つ前からそう扱われることが、どれほど睦を追い詰めたのか。
共感しながら、荒れ狂う海が凪いでいることに気付いた。私は、私以上に傷ついてきた睦の言葉に耳を傾けることで、息ができた。
「……私は全部から逃げることしか考えられなかった。でも立希は、今でも全部に見返してやろうって、立ち向かってるんだよね。だから、さっきあんなに傷ついたんだよね」
凄いと思う、と、ポツリと付け加えられた。睦の励ましで、心が温まったらよかったんだろう。でも、そうはならなかった。
私にとっては、それが当たり前だったから。それ以外の生き方が思いつかなかっただけなのに、睦に認めてもらうだけの資格があるのか? それに見合うだけのことをしてきたか?
「……きっと、多くの人は仕方ないって受け入れるよ。そこで諦めなかったのが立希で、祥が言ってた立希らしさって、そういうことだよ」
私らしさ。優劣とかじゃなく、私そのものと認めるもの。睦が断言してくれたものが、深海みたいな心の底で塞ぎ込む私を引っ張り上げる。浮かび上がる先で、私自身を認めるための、本当の答えが朧げに見えた気がした。
さっきまで少しも身動き取れないほど深く沈んでいたのに。気づけば夜の波打ち際に放り出されていたように、心身の身じろぎがとれるようになったところで。
話が急に変わった。
「……立希。これからライブ。いつまでも凹んでる場合じゃない」
「……あの祥子ですらそこまでストレートに言わなかったのに。容赦ないやつ」
「……ここまで潔い方が、逆にいいかと思って」
実際そうだった。気遣いのない正論の方が、反論の余地なくて受け入れやすい。とはいっても、さっきまでのやりとりがなかったら、ムリだったろうけど。
私は目をあける。本当に夜みたいに真っ暗な視界の中、膝に力込めて立ち上がる。立った。でもここから、どこに向かってどう歩けばいいんだろう。
諦めたくはない。でも、それ以外何も分からない。そんな迷ったままでライブできるのか? 祥子にあんな形で傷つけといて、どう向き合えばいいんだ? 私は、結局『椎名真希の妹』でしかないのに。これから何をどう頑張れば、今度こそ『私』になれるんだ?
心臓から嫌な鼓動が巡って、手足から力を奪っていく。立ち止まってる場合じゃないのに。
「……お姉さんだって、Afterglowだって、勿論祥だって。みんな最初から凄かったわけじゃない。……想像しづらいけど、たぶん私の両親も」
急に睦が何の話を始めたのか分からなくて、思わず振り返る。
目が明順応してなくて、廊下から逆光を受ける睦の表情はまだ視えない。
でも。その声は、今までで一番力強くて、一番思い遣りが籠っていた。
「……だから、『まだ』だよ」
「え?」
「……立希は『まだ』、認めてもらえてないってだけ。でしょ?」
「お前……」
不思議な感覚だった。忘れるくらい前に贈ったものが、長い時間をかけて、おまけと一緒に自分の元へ戻ってくるような。そんな心持ちのまま、私の頭に一年前の夏の記憶が蘇る。祥子の別荘がある島で合宿中だった夜のこと。
都会じゃまず見れない満天の星空を眺めながら、そいつは「バンド楽しめない」って打ち明けてきて。
必死な声でそれでも一緒にいたいってうったえてきたヤツに、私は言った。
「——『まだ』楽しめてないってだけでしょ?」
合宿を通して、少なからず仲良くなれた気がした私からの、精一杯の歩み寄り。
そいつが、いつか私達と一緒に楽しめるよう、確かに心から願いながら。
それが、返ってきた。私がいつか、『私』として認められることを願う言葉として。
「……あの時貰った言葉、返せてよかった。真っ暗闇なところから抜け出せたみたいに、心が晴れたから」
お前はあのとき、こんなに嬉しかったの? 絶望的に先が見えない真夜中の道を照らすような、心強い光明を受け取ったの? 目が光に慣れて、睦の顔が分かるようになった。
薄暗い部屋の中で、穏やかな微笑みは月みたいに輝いている。紡いでくれる言葉は、星みたいに煌めいていた。
「……私は『椎名立希』に救われた。あれは『椎名真希の妹』としての言葉なんかじゃ、絶対なかった。忘れないで」
そうだ。あれが『椎名真希の妹』としての言葉であってたまるか。そう思ったら、さっきまでモノトーンに感じていた1年間が色づくように感じた。
私は『まだ』この程度。でも、微力なその程度でも、確かに築いてきたものがある。
だから。
「睦」
私は、私を引っ張り出してくれた友達を真っ直ぐ見つめる。1年前とあまり変わらず不愛想な無表情が多いけど、1年前と比べ物にならないくらい豊かに感情表すようになった、1年付き合ってきた大切な仲間。
普段素直な言葉を言いづらい私でも、伝えずにはいられなかった。
「ありがと」
「……珍しく素直。感謝したがるお年頃?」
「そんなくだらない茶化しまで返さなくていいんだよ」
「……自分で言った照れ隠しの癖に」
私達は2人で明るい廊下に出る。楽屋を目指して歩いている内に、私は腹を括った。