さきちゃんのお母さんに感じた何かは、あっさり明かされることになる。
きっかけは、何気なくといった調子であがった質問だった。
立希「そういえば、祥子って昔からこんな感じだったんですか?」
瑞穂「小さい頃の祥子? そうねぇ……」
思い出すように視線を上に彷徨わせるさきちゃんのお母さん。そして、懐かしむように目を閉じながら微笑まれた。
瑞穂「今よりもっと可愛らしかったわ。私の好きなピアノ曲を、私の誕生日に合わせて一生懸命練習したり。清告さんが帰ってきたら、真っ先に駆け寄って抱きついたりしてね」
燈「ふふっ。祥ちゃん、健気で可愛い」
そよ「無垢可愛いね~」
祥子「よ、幼少期の頃なんてみんなそうでしょう!?」
まぁ確かにそうかもしれないけど。小さいさきちゃんが、素直にご両親を慕い甘える姿はありありと目に浮かぶのだから仕方ないよね。今でも無邪気に笑っている彼女のイメージにピッタリ。
あまりに微笑ましくて、ともりちゃんと一緒にクスクス笑う私は、完全に浮ついていた。
——お母さんがどんな容態から回復したのかを、忘れるほどに。
瑞穂「……でも。私が衰弱して寝たきりになってからは、その頃が嘘みたいに感情を見せなくなったわ」
夜が底冷え、神経が凍りつく。
庭から聞こえていた虫たちの鳴き声が、キーンという耳鳴りに吸い込まれて消える。声の出し方を忘れたように喉が固まった。
そこまで弱っていたのは聞いてたのに。失念していた間抜けさが、こうして私を硬直させている。
シンとした空気の中で、一人娘が遠慮がちに咎める。
祥子「お母様。せっかく楽しいお喋りでしたのに、その話は……」
瑞穂「そうね。皆さんも戸惑ってるようだし、心苦しいのだけど。それでも祥子にそんな頃があったことを、知って欲しいの。どうせ祥子は話そうとしないでしょう?」
立希「……4月にあなた方とお会いしたとき、その……命に関わるご病気だったことは聞きましたけど。それ以外は確かに、祥子からは……」
たきちゃんは顔を強張らせながらも、声色を落ち着かせようと努めてるのが伝わってくる。でも話の重さが、どうしたってしどろもどろにさせた。
その緊張は私にもリンクしていた。心臓がやけに速く鳴りだして、鼓動が嫌に強い。明るく元気なさきちゃんには似ても似つかない重い話を予感して、恐ろしくなっている。
それでも脳が勝手に想像を回す。もし母親が死に近づく病に罹ったら、普通娘はどうなる? 母親を健気に愛していた娘は——
瑞穂「私がピアノも弾けなくなったり、祥子と一緒に食事を取れなくなったり。どんどん弱っていく私に、祥子はとても不安がっていたわ。それが命に関わる病と知ってからは、私の前では泣きじゃくってばかり。娘にそんな顔ばかりさせるのが、申し訳なかった」
痛切な声だけ残して、お母さんの姿が陰に隠れる。空のかすかな明かりすら雲に遮られ、暗闇が一層悲愴感を煽る。でも、当時のさきちゃんはもっと心細かったはず。
家族を失う辛さは私も知ってるけど、彼女のはさらに上だった。だから分かったようなことは軽々しく言えないけど、子どもが背負えるレベルしてないのは想像に及んだ。
そんな風に、話を咀嚼できてるつもりの私は浅はかだった。さきちゃんの苦しみは、一般人の尺度で測れる単純なものじゃなかった。
瑞穂「けれど祥子は豊川家の一員。家から一歩出たら、涙も弱音も吐き出すことは許されなかったわ」
燈「——え」
瑞穂「豊川グループという大財閥としての外聞を守らなくてはいけないから。例え子どもでも、隙を晒すような振る舞いは家の、引いてはグループの隙に直結し得る。だから学校でも、令嬢として公の場に出席するときも、どんなときだって祥子は笑顔を作り、毅然としていたはず」
酷過ぎる世界に、血の気が引いていく。
大財閥クラスの家柄としてありそうな話と理解はできる。でも一般家庭じゃありえない権威主義な価値観を飲み込めない。
その矛盾が頭の中でぶつかり合い、常識が歪められる倒錯感から眩暈を覚える。
そよ(まだ10年くらいしか生きてない子どもなんだよ? お母さんが……し、死にそうなのに、それをしまい込んで、どこでも平気そうに笑う? そんなの耐えれるわけないじゃない……!)
思わず自分の体を抱いて、嘔吐感を必死に溜飲した。
睦「……おばさんが言った通り。祥が学校で弱さを見せたことなんて、一度もなかった。……事情を知ってる幼馴染の前でさえ、ほとんど吐き出さなかったぐらい……」
祥子「……一度綻んでしまうと、歯止めが効かなくなりそうだったから。少しも零す余裕すら、なかったんですの」
儚く微笑むさきちゃんに、「……そんな顔してた」と、むつみちゃんが同じ顔で呟く。お互いの心配と苦しみを分かち合うやりとりは、本当にあった出来事として鉛みたいな説得力を持っていた。
あの、いつだって眩しいくらい明るいさきちゃんが。地獄くらい絶望的な孤独を抱えてたなんて。
立希「う、嘘でしょ? CRYCHICじゃ誰より自由奔放にはしゃいでたお前が、そこまで家柄に縛られた生き方してたっていうの?」
祥子「縛られてた、とは思ってませんわ。私は豊川家に生まれたことを誇りに思ってますもの」
燈「だから……お母さんが病気のときも、悲しい気持ちを、ずっと隠してたの?」
祥子「……豊川の娘として、当然の責務ですわ」
さきちゃんは雲隠れした月に顔を向けてるせいで、どんな表情か分からなかった。いつも真正面から物申す彼女らしくなさが、どれだけ口にしづらい苦痛だったかを物語っている。
瑞穂「いっそ、取り繕えない方が楽だったかもしれない。泣きたいときに泣いたり、怒ったり、塞ぎこむのが自然なのでしょう。でもね、この子はそれを全部殺して振る舞い続ける強さがあったの。だからこそ……きっと、普通の人以上に苦しかったと思うわ」
誰にそんな在り方を貫き通せたんだろう。
苦々しい顔で斜を向いてるたきちゃんに、青い顔して心配そうにさきちゃんを見つめるともりちゃんに、哀しい無表情で俯いてるむつみちゃんに。同じことができたと思えない。離婚くらいでトラウマになる私なんて、もっての他。
心からの想いを押し殺しながら生きるなんて。いつ心を余分に思ってもおかしくないのに。そんな極限まで追い詰められながら、それでも茨の道を歩み続けたんだ。果ても見えない中、抗う分だけ棘に蝕まれようとも。
瑞穂「祥子が中学2年生の頃かしら。ついに話すことすらできなくなった私は、祥子のそういう強さが心配だった。私の前ですら泣かなくなったこの子は、これからもずっと、辛いことを1人で隠しながら生きてしまうから。いつか立場を忘れて曝け出せる場所に出逢いますようにって、祈ることしかできなかった。だから祥子が、泣きながら笑ってバンドのことを話してくれたときは、それだけで救われた思いだったわ」
記憶が思い起こされる。中学3年生の月ノ森音楽祭で、目が活き活きしてるさきちゃんと出逢ったこと。みんなで初めて集まった日に、キラキラした感情溢れる声で憧れと目標を語っていたこと。始動した日から問題だらけだったけど、変わらず真っすぐ朗らかだった、光みたいな在り方。
あのときは、私自身がその居場所に救われていたから自分のことで夢中だった。それがまさか、私以上に救われた子がいたなんて。
祥子「……Morfonicaさんのライブを拝見してからは、まるで生まれ変わったかのようでしたわ。それまで生きてる実感すらなかったのに。CRYCHICを結成して、心にも体にも力が漲って、飛んでしまいそうなほど軽く感じて。失くしたくなかった、だからこそ今度は一辺の後悔も残さないように全身全霊で生きよう。そう、思えましたの」
後半から声に彩りを感じて、ついさきちゃんを見やる。彼女が見つめる先では雲が流れ、月が顔を覗かせた。蘇った明かりに照らされる、今を生きる意思。彼女がどうして恥ずかしげもなく憚らないのか、胸が締め付けられるくらい思い知った。亡くす恐怖を知ってる人特有の、生き抜く覚悟。
瑞穂「覚えているわ。『私は大丈夫だから、元気で生きていくから。だからお母様も、諦めないで』って、言ってくれたわね。良かったって安心するんじゃなくて、ここまでこの子を解き放った人たちと、その人たちに囲まれる祥子を見れるまで死ねないって、ただひたすらに想ったんですもの。おかげで、あの世に連れていかれずに済んだわ」
本当なら拒否できなかったでしょうにね、とおかしそうに笑いながら言われても、こっちはクスリともできないけど。私たちの無反応を気にするでもなく、静かに微笑みながら月見に浸ってるようなので、そっとしておく。
正直、私はそれどころじゃなかった。こんな話を聞いたからには、もうさきちゃんの奔放さを茶化せない。どう向き合えばいいか分からなくなっていると、その迷いを察知したように彼女はこちらに向き直りながら明るく笑いかけてくる。
祥子「……まぁ、昔そんなことがあったというだけの話ですわ。つまり、もう過ぎたことですから。そよも、燈も、立希も。変な気は遣わずこれまで通り接して頂戴? せっかく、心のままに言いたいこと言い合える仲間に巡り合えたのですから」
他でもない当人がここまで言うなら、ウジウジ気に病むわけにはいかなかった。私とたきちゃんはぎこちない顔ながらも、何とか瞬きで頷き合う。全部知っていた幼馴染が視界の端で、安心と不安が半々な微笑をしている。
私は残りの1人に目を向けた。ともりちゃんはこの話の流れで、月を見上げていた。空と同調してるように青白い満月はこの世のものと思えなくて、怖いくらい幻想的だった。
そんな場所を、魅入られてるみたいにぼうっと見つめるともりちゃんが、何考えてるのか分からなかったから。
気になった私は声をかけようと口を開いた。