『黙っていなくなるなよ』
『誰もいない部屋だけ残って、僕らはどうすればいいんだ。そんなことなら——』
アリス「想いというのは、不確かなものなんだ」
難しい論理を並び立てる探偵にしては人間味を感じる主張だった。
わざわざ探偵業務を中断したのに、ぬいぐるみを抱いたままこちらに背を向け続けるという、合理性を好み非効率を嫌いそうなこの子らしくない停滞と合わせて、妙に引き込まれる。
アリス「想いの中だけなら、矛盾するものが同居さえできる。そんなあやふやなものが、現実にそのまま写し取れてしまったらね。大抵の場合は、歪みや痛みをもたらすんだ。例えば何かを守るために身を投げ出したり。大切だからこそ嘘をついて離れたり。あるいは自分自身を守るため何も言わず消えても。のこされた者は皆傷つくだろう」
まさに避けたかった記憶を掠るセリフに、思わず自分の腕を抱いてしまう。効き過ぎな冷房に肌をさすり、寒いという感覚だけに意識を集中させる。それでも思考がとある記憶に引き寄せられるから、使い古された言葉で強引に捻じ曲げる。
仕方ない。人は電脳レベルで賢くないし、機械ほどの強さもない。だからあぁいうこともある、仕方ないことだった。ましてや小学生じゃ何もかも未熟なのに何の配慮もなく突然勝手に出て行って。
想いが不確かなんじゃない。渡し手と受け取り手が不完全なんだ。
だから。
アリス「だから、言葉が要るんだ」
古い瘡蓋がメスで綺麗に剝ぎ取られる。甘苦しい痛覚が脳を刺激して、温い幻に包まれる。
もしもあのとき言葉を交わせていれば、どうなっていたんだろう。
輪郭が朧げな夢に微睡みながらも、天使みたいな可愛らしい声に耳を澄ませる。
アリス「言葉は残酷なまでに確かだ。それは現実を切り分け、ただ一対の断面にする。矛盾は存在し得ない。言葉こそ、この世界で最も大切なものだ」
その通りだっただろう。幻が、あの頃のまま大きくなった、今と違う生き方の私を象る。不必要に笑わない、すまし顔の私。
でも。
アリス「でも、言葉は剣だ。それは想いを確かな形にするけれど、同時に、形にならなかった部分を容赦なく殺す」
そうはならなかったから。私とお母さんは切り捨てられて、今を生きている。
夢幻が死に絶え、私は冷酷なワンルームに還ってきた。
アリス「ゆえに探偵は、代弁者であることに留まらなければならない。闇に沈んでいる言葉を陽光の下に引き揚げることだけが、本来探偵の職務だ。他者の、形にならない想いを、言葉にすることは許されない」
祥子「それはつまり、人の想いを想像で決めつけることを嫌ってる、ということですか?」
睦「……だから、助けて欲しい理由を言葉にした燈にだけは、応えた」
アリス「それをするだけの意思も覚悟もない者にまで手を差し伸べていたら、無意味に傷つき無益な結末に嘆く者を増やすだけだ」
話の方も「依頼にこだわりすぎ」というきっかけに帰ってきた。帰結に一息ついた私は、思考の焦点を移す。
言葉は、未熟で不完全な存在が相互理解のために用いるツール。そして、想いを部分的に活かし、残りを殺す剣。
この考えを、バンドとして大事にしてきた心の叫び、つまり歌詞へ照らし合わせる。
もしかしたら、私たちの叫びだと信じていたものも、半面殺された半分の心かもしれない。形にできた代わりに、形にできなかった想いが死んだことを、作者じゃない私ですら哀しく思う。
なら、自ら切り捨ててきた当人は余計――
アリス「トモリ。詞を書くことが、怖くなったかい?」
死者の対弁者はそう訊ねながら、ズルズルと蹲り始めたともりちゃんへ体を向き直した。抱かれてくの字に折れたフクロウが、這いつくばる少女を心配そうに見下ろしている。
燈「……うん。でも、それだけじゃない」
床に膝と両手をつく彼女は、見えも触れもしない重みで潰されそうだった。
燈「分かってなかった。ただ想いを言葉にするだけで失うものがあるのに。
彼女がそこまで深く受け止めていた理由は、もう少し先で思い知ることになる。今はただ、詞に触れてきたバンド仲間として、想いと言葉に惑う気持ちを分かち合っているだけだった。
一方、少し引っかかったような顔をしていた探偵は、淡く微笑んだ。傷が増え続ける鏡を憐れむように。
アリス「何に絶望しているかはわからないが。それでもきみは、書かずにはいられない人種なのだろうね」
死にそうなほど抱えるからこそ、手放せない。難儀な因果を背負っている子だと、私も思う。
それでも。
燈「私は、私たちは、想いを叫びにして演奏するバンド。だから、知れてよかった。不確かな想いを言葉で形づくることが、どういうことか」
下を向いたままでも言い切るボーカルを、私は傍で支えていく。ベーシストとして、友達として。
削って失われる痛みを共有してでも、言葉を交わしたい仲間だから。
ともりちゃんの丸まっていた上半身が、ゆっくり起き上がる。
燈「アリスちゃんのことも、知れた。探偵して人を傷つけるのが怖くて、でもアリスちゃんもそれをせずにはいられなくて。だから、依頼が欲しい、アリスちゃんの想い」
アリス「……知ることは、死ぬこと。静謐に秘しておくべき想いを抉り出す虚しさが分かったかい?」
燈「ごめん、なさい。でも、その……きっと、アリスちゃんの想いは、誰かを助けてるから、その……」
アリス「昨日一昨日会ったばかりのきみに何が分かる?」
冷ややかな非難を、覚悟の滲んだ微笑が受け止める。言葉で想いに踏み込む、覚悟。
燈「だって。アリスちゃんには、たくさんの人がついてる。藤島さんっていう助手も、探偵団や四代目さんていう仲間も、ミンさんや彩夏さんだって。きっとアリスちゃんが依頼者を助けてきたから、信じてるから一緒にいる、んじゃないかな、って」
私はこの4日間で会ってきた人たちを思い浮かべる。それぞれ違いはあるものの、温かい人達ばかりだった。
燈「私の詞に意味があったから、みんなが一緒にいてくれてるのと、同じ。だからアリスちゃんの探偵も、周りにいてくれる人がいる分だけ、素敵なもの。だから……うん」
ともりちゃんは何かを探り当てたのか、目を閉じ間を噛みしめる。やがて泣き笑いの表情になった。
燈「アリスちゃんは……独りじゃ、ないよ」
孤独を自虐した話ではなかったはず。だから、彼女がどうしてそう励ましたのか、私には分からなかったけど。
アリスちゃんは一瞬表情を凍り付かせ、しばらく目を伏せて嘆息に沈む。どうも的外れじゃないらしい。
そんな彼女の声色を和らげて応えさせたのは、探偵とか以前の、彼女自身の矜持に思えた。
アリス「ここできみの言い分を否定することは容易だが、きみとCRYCHICの仲間意識を侮辱することにも繋がる。ぼくは愚かでも憐れでもないから、そういうことにしておいてあげるよ」
彼女らしい迂遠な言い回しに、ある意味同種がオチをつけてくれる。
立希「よく分かんないけど、アリスがどこまでも素直じゃないやつなのは分かり切ってる」
アリス「この部屋で一番きみが言えたことじゃないと思うのだがね」
「昨日一昨日会ったばっかのお前に何が分かんの!」なんて怒り立つ彼女を引きずって、私たちは4人で探偵事務所を出て行った。
「話は終わりだ、速やかな依頼遂行のためにも疾く出ていくがいい」なんて悪態をつく彼女のために。心から通じ合える友達のような子を残して。