『——要するに、俺らは脳味噌ん中のA10神経系刺激して、幸せを感じるために生きてるんだよ。分かる?』
『だったらさぁ。薬でいいじゃん。ダイレクトで、分かりやすいだろ。頑張って仕事して金稼いでいい女と結婚する必要ないんだよ。薬で結果は同じなんだから。辛い部分ないから同じどころじゃないな、パーフェクトだよ』
『エンジェルは差別しないわけよ』
森に囲まれたこの廃ビルがどこなのか分からないし、両手両脚縛られた状態で、広間いっぱいのやくざに囲まれている。
それでも私は椅子に座ったまま、たきちゃんに乱暴しかけた男へ、笑顔で牽制を飛ばした。鬱陶しそうな顔へ、なおも柔らかい口調で言葉を放つ。
「逆の立場で考えてみてください。あなたの家族や組の仲間が拉致され、その上取返しのつかない傷を負ったら。あなたはどうしますか?」
「そんなもん——」
「ただじゃおかないですよね。そしてもしも、あなたが国内有数の経済力と権力を持っていたら? 多くの組織を動かす立場にいたら? あなたは犯人をどうしたら気が済むでしょうか」
男の表情からみるみる強きが失われていく。報復の可能性に自ら思い至ってくれた証拠。やっぱり、やくざ社会に置き換えるのが一番効くと思った。
ここから、事実にでまかせを混ぜ、嘲笑すら含みながら畳みかける。
「10億? 随分安いですね。もし溺愛してる孫娘に何かあったら、豊川家は何百億かけてでも持てる力とコネを総動員して、刑務所送りより悲惨な目に合わせますよ。ここにいる全員」
私には、その気になったら話を思い通りに操れる自信がある。弱みにつけこみ、自然に会話を誘導し、都合のいい展開を呼び込むことができる。
CRYCHICに関わることならなおさら。何を利用し犠牲にしようとも構わない、絶対的な自信がある。
「ご存じの通り、豊川グループは若葉家とも懇意にしてます。その子達も10年来の幼馴染です。残りの私たち3人はそこまでの付き合いじゃありませんけど。それでも会長の定治様から、とある事情で孫同然とのお言葉を頂きました。恐縮ですけど、ただの友人なんて関係じゃないんです。……そんな存在に乱暴したら、どんな返しが待ってるでしょうね」
たきちゃんから男の手が離れる。部屋中のやくざがひきつった顔を見合わせ始めた。組織全体で揺れ始めてるここしか好機はない。
私は、パソコン機器が詰まれた机の方へ視線を移す。私を睨みつける風見氏へ、笑顔のまま声を張り上げた。
「取引しましょう。あなた方の目的は身代金と、あとは探偵団たちへの復讐でしょう? そちらもお手伝いします。例えば、助けを求めるフリして誘導したりとか」嘘。隙見て脱出する。
「その代わり?」風見氏の目つきがさらに細くなる。
「私たちの拘束を解いて、解放するまで一切触れないこと。この条件で、そちらが効率的に目的を達成できるよう協力します」
今まで見た限り、風見氏は合理性重視の人。感情を排した実利主義な提案なら通じる余地がある、はず。私は笑みを保ったまま、汗でぬめる後ろ手を祈るように握り合わせる。お願いだから反応して。無視されたら一巻の終わり……。
その人が立ち上がって、こちらに歩み寄ってきた。話に応じてくれるようでふぅと脱力し、笑みも自然と柔らかくなる。
「良い取引ですよね?」
「あぁ。悪くない提案だった」
風見氏がやっと見せた笑みは、獰猛な薄笑いだった。私の目の前まで来たその人は、右手を自分の顔の横に回す。マスクで変装してた人が正体を露そうとしてるみたい。不自然さに脳が硬直する。
「口八丁の藤島みたいな真似しなければなぁ!」
手の甲が横薙ぎに振るわれる。頬に岩がぶつかったような衝撃、視界が途切れる。気づいたらぼやけた世界が横向きに倒れていた。頬がジンジンと灼けるように痛み、ひんやりしたコンクリの感触と埃の匂い。殴り、倒された? 未知の体験を飲みこむ前に、今度はお腹を蹴りつけられる。靴先か何かが胃に突き刺さって酸がせり上がり、錆の味がする唾液と混ざって口から吐き出される。
「ガッはッ……!」
バクバクと煩い心音と耳鳴りに、聞き取れない叫びが雑じっている。霞む視界にみんなの痛ましい表情がぼんやり見える。いつも太陽のように明るい顔が、ぐちゃぐちゃに汚れるのが、たまらなく嫌だった。どうしてこの子がこんなに傷つかないといけないんだろう。
私でよかった。頭が上から踏みつけられ、頭蓋が軋む苦痛に歯を食いしばる。みんなが傷つけられるくらいなら、こんなの何でもない。
痛みだけなら。
「おい。この女犯して殺せ」
「えっ……いや、でもコイツも豊川の身内同然って……止せっ待ってく——」
真上で風船が大爆発したかと思った。人力じゃまず出ない爆音に、私は予想が外れてることを願って横目で見上げる。刑事ドラマで見るような黒い拳銃を、捉えてしまった。
「お、おい……頭、カスめて……」
「次は片耳弾くぞ」カチリという、撃鉄を下ろす音に何の躊躇も感じない。
「わっ分かった、言う通りにする」
頭が軽くなる。足音が入れ替わって、うつ伏せから仰向けにされる。目に映るのは額に血を垂らした男の恐怖顔。とても女性の身体を弄ぼうとしてるように見えなくて、現実感がなかった。
でも見ている方は違うらしい。いつもぼやーっとしてる不思議系ボーカルの、発狂染みた悲鳴なんて聞きたくなかったな。
「な、なんでッ! なんでこんな、酷い……どうしてこんなことするんですかっ!?」
しばらく沈黙があった。嗚咽を漏らすともりちゃんへ矛先が移ると思った私は、ビクビクしながら挑発の言葉を喉元で急造する。杞憂で終わった。
「おい。カメラの位置、この女の前に移せ。お前は女うつ伏せにして顔見えるようにしろ」
やくざたちがそそくさと私の前にカメラを置く。私はまた転がされた。気が変わったにしても意図が読めない。そんな私の訝し気に歪んだ顔へ、右手に銃を、左手にピンク色の錠剤をつまんだ白衣の男が寄る。録画音の後、錠剤を私に見せつける。
「これ、分かるか?」
「く、クスリ……まさか」
「これがエンジェル・フィックスだ。兄ちゃんが創った、天国への切符。誰でも連れて行けるわけじゃないけどな」
巻き込まれて死んだって、そっち側か。そんな人を敬愛してる弟共々、人として終わってる。
「これの凄いところはな、隠匿性だ。フィックスしたやつにしか見つけられない売買が可能なんだよ。だから警察の囮捜査にも引っかからない」
ならどうやって暴いたんだろう。売人を見つけるのに思いつく手段が最悪なミイラ取りで、あり得ないと切り捨てる。
「誰にも邪魔されず、天使にフィックスしてもらえる薬を作るなんて、やっぱり兄ちゃんは凄いなぁ。しかも、それでたくさんの人を救おうとしたんだから。神様みたいだ……」
兄を崇拝する狂人は、恍惚とした表情で天使の羽が刻まれた、薄い血色の塊たちを見つめる。そのまま口に放り込んで、噛み砕いた。3粒あったのを、まとめて。近くにいたやくざがおそるおそる近寄る。
「お、おい、そんな一気に飲んだら流石にヤバ……」
「……グッ……、グッヒャ、ヒヤハハハッハババ! だっ、足りねぇくらいだ、こ、こんなんじゃ全然兄ちゃんのところに、辿りつけねぇんだよぉ!」
右手の銃が、振り払いながら発砲される。大のやくざたちが一目散に伏せていく。私を組み伏せている男でさえ、私を抑えつけることよりも身を低くすることに必死な感じだった。
「に、兄ちゃんのフィックスを飲んだ分際でっ、死にもせず兄ちゃんを捕まえた藤島をぉ! 兄ちゃんを陥れた天使を、アリスをぉ! そいつらだけはこの手で地獄に叩き落してぇ! ついでに1人でもフィックスしてぇ! そしたら僕もやっと、兄ちゃんのもとへぇ!」
鼓膜を痛める銃声が何発も続く。すぐ傍の床で金属が亜音速で跳ね返る音。跳弾だ、この人本当に正気を失ってる。自分も仲間も無事じゃ済まないかもしれないのに。
もっと恐ろしいのは、銃声が鳴り止んだ後だった。風見氏は白衣のポケットに手を突っ込んで、目にも止まらぬ速さで銃に弾を込めていた。薬でおかしくなってるのに、唯一の優位性だけは手放さないという確固たる表れ。私に乗ってる男が体を浮かせたけど、ビタッと止まる。
そんな挙動に風見氏は気づいたのか、首をグルンと回してきた。フチなし眼鏡の奥でぎょろっとした眼の下が、異様に赤黒い。明らかに異常な顔は私の真上に向けられていて、怪しい足取りで近づいて来る。
「はぁ、はぁ……は、話はここまでだぁ。クッ、クッ、お前も妙なこと考えてないでフィックスしろぉ」
「ゴッ!?」
胸元から取り出した錠剤を男の口へ突っ込んだらしい。薬に侵される痙攣が、振動になって私にも伝わってきた。
「あ゛ぁ~」という不気味に蕩けきった声と共に、三度私はひっくり返される。今度は発情しきった雄の貌。口端から垂れた涎が私の胸元に落ちる。それだけで言いようのない嫌悪感に襲われ、私は反射的に逃れようと藻掻く。髪を掴まれて止められた。風見氏の手だ。
「特別サービスだ、お前もフィックスしてやる。行き先は天国か地獄かは、お楽しみだけどなぁ!」
血が凝固したような、ドラッグ。飲んだらもう、戻って来れない。この人たちのようにおかしくなるか、さっきの女性みたいに——
「アリスゥ! お、お前のせいだ! お前のせいでこの女は薬づけにされて死んで、探偵団も平坂組も、藤島もぉ! み、みんな死ぬんだ! 残りの女も死ぬかもなぁ! ぜぇんぶ、兄ちゃんを追い詰めた罰だぁ!」
無我夢中で歯を閉じ髪の痛みを堪えて首を振り回す。顔面を殴られて抵抗を止められる。息を漏らした口へ、ピンク色の悪魔がねじ込まれる——
唇にざらっとした感触が当たった瞬間だった。突然聞き憶えのない音楽が大音量で響く。レトロなピアノ音とアコギによる、ゆったりしたイントロ。口に突っ込もうとしていた手が離れ、私の服を胸元から引き裂こうとしていた手も弱まる。頭で考える前に膝を折り畳んで、呆けたみたいに力の抜けた体を蹴り飛ばす。荒い呼吸で、私を呼ぶともりちゃんとたきちゃんの間に本能で這い戻った。
私は窮地を助けたらしい音源を探してグラグラと視界を彷徨わせる。その方向に、風見氏も頭を抑えながらフラフラと向かっていた。
やくざがかばんを漁っている。ともりちゃんのものだ、そこから取り出したのは、ペン? 確か藤島さんから借りたままだった、無駄に太いもの。なぜかそこから曲が流れている。
「貸せッ」と風見氏が乱暴にひったくって、ペンを粗い手つきでいじくっている間に、音楽が止まる。
代わりに、落ち着き払った声が不釣り合いな大音量で拡散した。幼いソプラノボイスが、その場を支配し始める。
『やぁ、我々探偵団と平坂組に恨みのあるやくざ諸君。その主犯格である、
✿後書き✿
携帯電話が発する微弱電波を捉えて、衛星でその位置を把握する探知サービス。本来なら、探知先の対象の許可が必要だけど、アリスなら。通話記録さえ割れるほどのクラッカーなら。