『……天使……』
『そうだ。ぼくは神様のメモ帳を見たことがある。そこに書かれた14万4千人の名簿も見た。
『……うそだ。——うそだ! う、そ』
男の頭が、がくんと落ちた。
「この、天使みたいな声ぇ……全部分かってるみたいなァ、むかつく話し方ぁ! テメェがっ、アリィスッ!」
『ぼくをそう呼ぶきみが、風見次郎か。その正気から逸脱した話し口調……フィックスしているのか?』
「このボールペンはナンだぁ!? 着信履歴からGPS割れないよう、携帯の電源切らせた意味がっ、なンもないだろうがぁ!」
大勢のやくざと拘束された私たちに見守られる中、声を出し会話するボールペンにがなり立てる風見氏。偽名だったことよりも、彼が喚いてる疑問点の方が確かに気になる。
どこか自嘲的に聴こえる嘆息が、ペンにしか見えない電話機から廃ビルの広間に流れた。
『確かにここまで早く辿り着けたのは、偶然渡したそのペンのおかげだよ。元々は盗聴と発信機付きだったが、遠隔操作できる着信機能付きへ改良されたことで、この奇蹟に繋がった」
私たちが初めて出逢ったあの日に、偶然借り受けたろくでもない代物が、人生終了のピンチを助けてくれた。有難味と意味不明さでわけがわからなくなる。
アリスちゃんの声の温度が、ぐっと下がる。
『ぼくからも聞きたいことがある。『ノッキン・オン・ザ・ヘブンズ・ドア』でトリップしなかったね。ならきみは、フィックスに選ばれなかった側のはずだ』
彼女がいるだろう氷温の機械部屋すら生温い、底なしの不気味さを孕んだ指摘だった。
薬に選ばれなかった。なら辿る運命は、地獄への身投げなはず。
『それでも生き続けていられるのは、墓見坂史郎への、腹違いの兄への妄執故かい?』
「クッ、クスリごときで、自殺してたら、兄ちゃんのとこに逝けねぇんだよぉ! フィックスすれば……ほ、ほラァア!」
風見氏は明後日の方向を指さしながら、声色が致命的に上ずる。活舌も話し方も更におかしくなっていく。
「ト、扉がひらいてっ、あ、あぁ……! にっ、兄ちゃんのぉ、えがぉ! つ、爪さき、またひっかかっ……! おっ、おぉ、おまえラこるぉして、兄ちゃんの、すぅこぉ、すっ、すくいぃ! シたいっ、かさねっ、ちかぁあづぅうう! にぃいちゃぁあん!!」
泣き喚く中毒者は銃を下向きにブルブル震わせている。自殺衝動すら捻じ伏せる怨念に取りつかれた、大きな遺児。
大声が残響する部屋に、今度は静かな声。憐れな存在に情けをかける、嘲笑の含み。
『ではニート探偵らしく、死者の代弁をしよう。墓見坂史郎がフィックスを生み出したきっかけはね、イランで見つけた白いケシの花だったんだ。突然変異種のさらに変異種だよ』
「は、はな? それはっ、原料だロウッ」
『それこそが本来の目的だったのさ。とある小学生男児や園芸部員を利用してまで、天使の翼のように咲き誇る花を求めた。その副産物として創られた薬物が、どこまで広まるのか気紛れに試した。つまりね、1人でも多くフィックスなんて妄言に、実験以上の意味はないんだよ』
「なっ……ちがっ、にぃちゃは、優し、から、コのクスぃで……! それヲ、オマエがぁああ!」
『クスリに塗れても遺る兄弟愛とぼくへの憎悪は認めよう。——戯言はここまでだ。風見次郎、きみを捕らえて計画も完膚なきまでに叩き潰す。依頼者を陽の当たる場所へ保護するために』
「つっ、つぶすぅ!? ず、図にのうなぁ! おまぇあの倍、へいたぃ、こっここにわ、来ぇなぁぃ!」
『ビルの外にも大勢待ち構えてるのは知っている。だから陽動として長々電話していたのだよ。もう十分だろう、そろそろ耳を澄まして現実に還りたまえ』
シンと静まり返る。私は胸の鼓動が活気づく中、聴覚に全神経を集中させる。捉えた、靴音だ。たくさん重なるその音が、どんどん大きくなる……!
「ナッ!? ケーカイ、しすてぅは!?」
『そのビルを拠点にしたなら知っているだろう。国道付近に仕掛けられている警戒システムは、元々ぼくの仲間の作品だ。作者がこちら側にいて、ぼくがオンラインで飛ばされる信号をジャックできないと思ったのかい?』
「ッィイイ! オイ、アレのめェ!」
風見氏がやくざたちに指示を飛ばすのと、男たちが広間になだれ込んでくるのは、同時だった。先頭の黒い短髪と、灰色のウルフヘッドが、廊下側にいたやくざを勢いのままに殴り飛ばす。テツさんと四代目さんだ。続いて、背中に蝶の代紋を背負った、黒Tシャツの男たちが吠える。
「てめぇら舐めたことしてんじゃねえぞ!」
「今度こそ殺してやる!」
「上等だクソガキどもぉ!」「ヒヒッ、舐めてんのはお前らだよぉ!」
何十という男たちが大乱闘を繰り広げる。そのどさくさに紛れて、小柄な男性が私の足下にしゃがみこんできた。ビクッとする私に「動くな、すぐ外す」と制したのは、探偵団の少佐だった。手錠の鍵穴へ細長い器具が差し込まれ、数秒とかからず輪っかが開く。この人解錠までできるの? 唖然としてる間に両腕も解放されたその時、テツさんの声が響いてくる。
「なんだこいつら!? 全部躱しやがる!」
「これは……フィックスで動体視力を上げてる、なら……!」
藤島さんがスマホを操作した後高く掲げ、そこから大音量の音楽が流れる。私を組み伏せていた男や風見氏を耄碌させた、魔法の調べ。でもテツさんや四代目さんのとてつもなく速い攻撃は、敵やくざにギリギリのところで避けられるばかり。
「効いてない!? フィックスじゃないのか!?」
「おっ、おまぇあコロすのにぃ、カイりょした、戦闘よぉだぁ!」
風見氏が藤島さんの前へ躍り出る。特別強い恨みを抱く相手へ、銃が向けられる……!
「シネェえ!」
「園芸部!」「ナルミッ!」「藤島中将!」
『……まだ着かないのかいッ!』
「——っさいのぉ」
最後の声は、真後ろから聞こえた。反射的に振り返る。外の仮設階段から窓枠へ着地した人影がさらに飛翔し、広間内を金のメッシュが稲妻みたいに奔る。目で追った先では、風見氏の構えた手が蹴り上げられた。発砲音みたいな衝撃の後、床に落ちた銃が着地する足に踏みつけられる。サングラスをかけた派手な乱入者に、敵味方全員動きを止めた。
足下の銃を拾う錬次さんは、Tシャツが昨日までと違っていた。白地に微細なグラデーションが施された、今にも飛び立ちそうな紫の揚羽蝶が、2羽。黒Tシャツの代紋や、四代目さんの体に刻まれた刺青と、同じ形。
錬次さんはサングラスを投げ捨て、狼の眼を哀し気に細める。
「復讐したい気持ちは嫌っちゅーほど分かるけどな。無関係なやつここまで巻き込んだら、洒落じゃ済まんで」
私たちを示すように、首がフイッと回される。私と目が合った瞬間、弾かれたように風見氏へ向き直り、顔面を殴り腹部に膝をめり込ませ、蹲った彼を蹴り飛ばす。狂乱者は握っていたペンだけその場に落とし物して、私の視界から吹き飛んで以降、私の目に映らなくなった。
錬次さんは銃を窓の外へ投げ捨て、「おっと、忘れんうちに」と、スボンのポケットから何か取り出してともりちゃんへ放る。自由になった両手が受け止めた。
「私の、スマホ。なんで、錬次さんが……」
「お前が大事なモン失くしそうになってどうすんねん。テメェの心配しろ、ゆーたやろ」
「それ言ったの、四代目……」
「あかんか?」
悪戯っぽく笑いかけられて、ともりちゃんが泣きそうな顔で頬を緩めるから、私までつられた。
「アリス、なんで錬次さんが……」耳のイヤホンに指をあてる藤島さんの、掠れ声。
『一縷の望みをかけて電話をかけ続けていたら、出たのが彼だったんだ』
「道端で拾ったスマホからまさか腐れ探偵の声聞くとは思わんかったけどな。その辺のバイク拝借して、ナビさせたんや」
錬次さんは飄々と歩いていく。離れていても、争いあっても、想いを交わし合っていた相棒の元へ。
「錬次、お前……」
「成り行きやけど、借りもあんねん。だから——」
錬次さんはペンギン柄の絆創膏が貼られた左腕を掲げながら、四代目さんとすれ違い、背中合わせになる。元組長の片割れが、仁義を背負う不良自警団たちへ、言葉を焚べる。
「壮。お前らも——任侠ごっこの続き、やるで」
「……おぉぉッ!」「押オオォ忍ッスッッッ!!!」
「漢、磨かせてもらいやぁああああッス!!!」
怒号の雄たけびをあげる平坂組員たちが暴れ出し、乱戦が再開される。
「上等だッ! 借金踏み倒した平坂諸共殺してやる!」
「やれるもんならやってみ……おろ?」
錬次さんのハイキックを避けた男が、既に先回りしていた四代目さんに殴り飛ばされる。敵に合わせたというより、相方の動きが分かっていたような連携。
「ドラッグブーストしてんだ、フツーにやったら躱される」
「なるほど、な! っとぉ」
今度は四代目さんが振り向きざまに裏拳を放つ。迫っていた男は後ろに飛び退き着地する寸前、錬次さんに横っ腹を蹴り飛ばされる。元ボクサーすら難儀したヤク中やくざたちが次々と倒され、包囲網がジリジリと敷かれていく。
その中心で、背中を預け合うコンビが言葉を交わす。
「足引っ張ったら殺す」
「こっちのセリフじゃボケェ!」
2人は同時に跳んで、蹂躙を始める。お互いの攻撃と隙を噛み合わせた無双っぷりに、組員たちが吠える。
「お二人は無敵だ! 俺たちはラリってない雑魚を着散らすぞ!」
「久方ぶりの平坂組完全復活、派手に祭り上げてやらぁ!」
「園芸部! 壁役何人か連れて女共と脱出しろ!」
「テツもついてったれ! 下にもまだおるやろ!」
「ハッ、ほざいたからには責任持てよ、錬次!」
「少佐! ピッキングは」「とっくに終わってる、ズラかるぞ中将!」
私はみんなを確認する。さきちゃんとたきちゃんが顔面蒼白のむつみちゃんを支えている。ともりちゃんは大丈夫そう。
テツさんが「逃げるぞ」と声をかけ、先頭を走り出した。そこにともりちゃんが続いて、最後尾の私が残りの3人を挟み、私たちを5人の組員さんが囲んでくれる。少佐と並ぶ藤島さんの声が後ろから飛んできた。
「ケガしてるみたいだけど、走れるッ?」
「だいじょうぶ、です……」
一歩ごとにお腹が蹴り上げられる痛みを堪えて走る。もう逃げられるんだ、泣き言吐いてる場合じゃない。
廊下に差し掛かる直前。まだ熾烈を極める闘いの様子を、私は横目で振り返る。やくざたちで構成されたリングの中、2人の男が血に飢えた狼の如く敵へ襲い掛かっている。その荒々しい様よりも、私の目に焼き付いていたのは、非対称に刻まれた4羽の揚羽蝶だった。
誰にも捕まらない流麗な動きで、息の合った円舞を繰り広げている。近づく輩は片っ端からバタバタと倒れ、あるいは弾き返される。たとえ長くは続かない、一時だけの営みだったとしても。見た目も性格も言葉も対照的な2人は、ずっと夢見ていた胸の高鳴りを愉しんでるみたい。
片方は研ぎ澄まされた鋭眼で、もう片方は残忍な笑みで、仇なすものを屠り沈める。2人の乱舞は凄絶な火花を散らし、打ち上げ花火みたいに乱れ咲いて、乱闘の奥へ紛れ消える。私はクライマックス途中に背を向けて離れるような気持ちで、目の前の逃走に意識を戻した。
階段を降りエントランスを抜けると、真っ赤な夕陽が目を刺してきて、顔をしかめながら辺りを素早く見回す。確かまだ敵がいるって話だった。でも、襲ってくる人は見受けられない。
ビルと森の間に広がる、広い駐車場みたいなスペースに立っている男は2人しかいなかった。ヒロさんと、灰色のスーツを着たオールバックのやくざが睨み合っている。やくざの周りには、大量の男たちが倒れていた。この数日で鍛えられた要らない勘が囁く。その辺の有象無象とは格が違う、真正の極道だ。
そんなヤバい人に、ヒロさんが笑みを保ちながらも、目に敵意を滲ませる。
「ヒマしてんなら上行って残りも片づけてくれよ」
「ここを制圧しただけで十分義理は果たした。そうだろ」これは藤島さんへの問い。
「は、はい。ヒロさん、とにかくこの子たちを帰しましょう」
「そう、だね。みんな乗って。1人は助手席だけど」
「私が座る」
硬い声のたきちゃんが率先して青い車へ乗り込んでいく。さきちゃんがむつみちゃんを優しく押して後部座席に乗せ、ともりちゃん、私も乗り込んでいく。窓からオールバック極道と一対一で対等みたいに話す藤島さんを見て、すぐ視界から外した。
車が静かに発進する。拘束され、薬物実験を聞かされ、一時は死よりも酷い絶望を覚悟した、地獄の廃ビルが遠ざかっていく。思い出さないよう、俯いて外の景色を遮断した。
そこで初めて、私がともりちゃんと手を握り合っていることに気付いた。感覚がない。ずっと黙ったままのむつみちゃんが、自分の肩を抱いて蹲る。隣のさきちゃんが震える手で抱きしめる。「もう大丈夫」たきちゃんの、憔悴しきってるのに思い遣りのこもった声。
「無事、なんて言わないけど。もう大丈夫。だから……安心、しろ……」
首を少しだけ回して、むつみちゃんの方へ投げかけていた。長い黒髪で顔は見えない。でも声にいっぱいいっぱいな水気を感じて、私の視界も潤んでくる。ともりちゃんが嗚咽を漏らし始めた。堪えきれず目から零れる。落涙を受ける私とともりちゃんの手が、きつくきつく握り合う。感覚がない。閉じ込められていた感情が堰を切ったように溢れ、頬を濡らし続けた。
車が加速していく。私たちの地元へ帰っていく。ただ平穏な毎日を過ごすことがどれほど奇蹟的な当たり前なのか、大雨みたいに止まらない水の世界で、私はお腹と顔の痛みを心に焼き付けながら噛みしめた。