8月8日
コンクリートの壁に囲まれたステージ上で、私は眼前の屋外広間を見渡す。
階段状に広がる3000人の観客。その奥ではトラックに巨大スクリーンが乗っていて、画面の半分くらいは流れるコメントで埋まっている。そんな会場の周りには森林と茜色の夕空が見えていた。国内トップクラスの知名度を誇る野音に、私たち本当に立っているんだなぁ。配信準備とリハで何度も演奏しておいて今更だけど。
私の右隣、ステージ中央から大人しいフェアリーボイスが、マイクスタンド越しに拡がる。
「去年の、連続ライブで、フェケテリコの響子さんが、言ってました」
白地に暖色のグラデーションを淡く転写した衣装のともりちゃん。彼女のMCを聴きながら、以前スタッフさんから見せてもらったライブの録画を思い出す。
「歌は、どんなに遠くても届くから、いいね、って。私には、もういなくなった大切な人とかは、いないけど。ここにはどうしても来れない、大切な人が、いるから。だから……」
何千何万という群衆に埋もれない、たった1人への想い。緊張しいな彼女が、超大舞台でも目に確かな火が登っている理由。
当然聞いている人にはさっぱり伝わらない。それにともりちゃんもちゃんと気づけた。
「ごめんなさい、何が言いたいのか、分からないですよね。人に伝わるように喋りなさいって、そよちゃんに叱られたばっかりなのに」
「あー、ベースのそよは世話焼きなんです」
「……CRYCHICのママです」
「同い年でーす! お母さんじゃないでーす!」
3000人分の笑いを受けてしまった。温かい反応だし掴みも大事だけど、画面の向こうでも何万人に笑われたか考えたらステージ袖に引っ込みたくなる。必死に考えないようにした。
ちなみにむつみちゃんはおどけた空気作りの一環なのか、気の抜けるような柔らかい音色のギターで合いの手を入れていた。今日の彼女はヴァイオリンみたいな音色を出せるオートスウェルエフェクターと、それを切ったクリーントーンの2色を使い分ける。
「それで? 燈は何がおっしゃりたいんですの?」
たきちゃんから借りたノートパソコンでDAWを起動したさきちゃんが、話を繋ぐ。アコースティックピアノとストリングスのキーボードだけでなく、最初だけは特定のキーにピアノ音を割り振ったノートPCで演奏しよう、ってなったのだ。あの子の曲だからね。
「うん。私は、この歌を届けたい人がいる。せっかく貰った大切な歌詞を。想い全部込めて、叫んで、返したい人がいる。どうしようもなく悲しいことや辛いこと、絶望することで溢れた世界だけど。それでも私たちは負けずに生きていくんだって、このライブで示したいから」
客席側が静まり返る。周りの木々をさざめかせる風の音もよく聴こえる。楽器隊の私たちは、誰からともなく4人の中心で視線を交えた。冴えた神経がみんなのと繋がって縒り合うみたいに、意識も感覚も怖いくらい研ぎ澄まされていく。
私たちの代弁者はスタンドからマイクを抜き取り、締めに誓いを宣う。
「聴いてくれるみんなの、明日を生きる助けになるためにも、精一杯ライブします。カワルミライ」
森の中にぽっかり空いたライブ会場のステージで、さきちゃんの指がノートパソコンに降り始め、導入部が独奏される。
スウェルエフェクターを効かせたむつみちゃんのギターが、
——誰かのためなら悪くはないけれど
理由らしいものは今日も …見えない——
透明な声が静かに歌い出す。霧中に佇むような歌声は、さきちゃんの左手が漂わせる淡い浮遊感の和音に囲まれている。そして右手によって霧に浮かべられるソリッドで冷たいメロディは、真実を映す氷結として煌めき、閉じこもる声主へ翳りを落とす。テディベアを抱きすくめる少女。
氷霧の外からスプラッシュシンバルの快音が射し込んだ。
——曖昧なリアル 点と点をつなぐ光
消えそうな夢を そっと握りしめてみる——
光を依頼という鎖に換えようと、少女は抑制的な声で伺う。その内側で高鳴る鼓動を、私のベースが対旋律に代え、重低音の上向フレーズを歌に交錯させる。けれど繋がっていた人影は霧に溶け始め、少女から透けそうなほどの高音が漏れた。上昇音型のベースラインに突き動かされるように、伸ばした手から氷霧へ踏み入る。
——僕たちの声が 君の
癒せない傷痕に届けば——
さきちゃんの、薄く冷え切った細氷のストリングスが少女を覆い、肌に霜が張る。幻惑的に下降するコード進行が纏わりつき、頭の中まで曇らせる。それでも純粋に澄んだソプラノボイスは氷霧を搔き分け進む。
楽器隊がブレイクして少女の身が空白へ抜け出た。
ともりちゃんが上空を仰ぐ。
——ナガレテク 雲の速さへと
置いてかれないように叫ぶ
——
鎌鼬のように鋭いクリーントーンギターのストロークが上昇気流となって少女を飲みこむ。斬り揉みされながら血晶混じりのハイトーンが舞い上がる。ざらついた風は遥か上空の黒い積乱雲まで届き、雲にノイズが奔った。乱れ生じた亀裂へ鮮烈なストリングスが天光となって差し貫き、雲散させ、広がる青空で5声のユニゾンが想いのままに響き渡る。
——カナエタイ 静かな絶望の先に
新しい はじまりへのページ——
降り注ぐ陽のストリングスに少女は目を灼かれながら、眩く澄みきったヘッドボイスをあげて光に融ける。意識も感覚も薄れゆく中、瞼の裏に5つの背中が輝きの向こうへ遠のくのを視て、傷だらけの微笑を浮かべた。
歌の合間に、ともりちゃんが1歩分踏み出し前のめりになる。
——その手をとって 君が望むから——
足元を踏み固める前進的なキックの4ビートが、声を滾らせる。
——どこまでも行こう——
ロングトーンが投げ飛ばされる。高く、遠く、渋谷まで届くように。
むつみちゃんが省略したオープニングフレーズをなぞり、少女は再び引きこもる。でも向き合うのは氷霧ではなく、誰かだった。
——かたくなな瞳 いっぱいの涙で
潤んだセカイ 歪んで しまうね——
歌のリズムからすり抜けるように、リズム隊のシンコペーションが少女の胸奥を揺らす。不協和な鼓動で張り詰めた声色は、歌の切れ目にキラリと光るピアノのオブリガードで、
散った雫が、スプラッシュのフィルで飛び交うものへ変わる。
——不器用につむぐ 精一杯の言葉は
どれだけ正しく 交わしあえているだろう——
クリーントーンのギターがカッティングを疾走させ、その裏をドラムがスネアで埋める。息つく拍もない音のキャッチボール。けれども少女の暗室には、受け捕れずにこぼれた球が、尖った石が、投げられることなく捨てられた想いが、床に積もり、朽ちてゆく。
泉のように湧き上がる瑞々しいストリングスが、土中の哀しみを明るみへ連れ出す。
——だからこそ祈る どうか
君の朝に笑顔の調べを——
リズム隊が暗室を歪める。たきちゃんの叩くハーフタイムで時空を、私のピックが弾く重低音で床の輪郭を。敬虔な背信者は常闇に沈んでいく。
その反対側で、さきちゃんの燦としたストリングスとむつみちゃんの潤んだ音色で、朝靄を浴びる誰か。
なら。あなたのことは、私たちが。光と闇の狭間で、ともりちゃんがマイクを両手で握り込む。
——カワリダス 街も風の音も
とらえた息吹きの数
——
ベースのなだらかにうねるカウンターラインが、街の鼓動をユニゾンコーラスへ繋ぐ。
あの子にすくわれた多くの想いが重なると、信じられる。
でも。
——ナンドデモ 僕たちは歩き始める
くり返す 戸惑いの季節も——
たなびく歌声に、ピアノの導入変奏が被さる。アリスちゃんは再びタイピングに明け暮れ、16分音符のパッセージが日々を加速させる。
吹き荒れるギターのオープニング変奏。曇天が流れるような旋律に、周りの風景も高速で移り行く。1日ずつ削られ躓き、何かを落っことす誰かなんて構わず、世界は——
——ナガレテク ナガレテク ナガレテク——
重たい流水が足をとる。詞を歌い回すごとに水嵩が膝、腰へと増す。心身が蝕まれる。
——ナンドデモ ナンドデモ ナンドデモ——
負感情に溺れて沈み、身動きがとれなくなる。誰だってそんな夜に迷い陥る。
だから。道標を奏でよう。
人として生きていく上で避けられない練習曲。乗り越えて何かを得るための原動力。
あなたに贈る、即興演奏。
真っ暗で静寂な海辺。
そこに、家名の
——流れてく 雲の速さへと——
絶望を哀しんだともりちゃんが、水のように透き通った歌声で銀白の海水をすくう。手に昏い泥水が澱む。
——置いてかれないように叫ぶ 今日のエチュード——
仲間の傷が許せないたきちゃんは、ハイハットのゴーストノートで星屑を降らす。ともりちゃんの手の隙間から滴り落ち、失くなりそうな死水に煌めきが落ちて、鼓動が跳ねた。少女は歌声をクレッシェンドさせる勢いのままに握りしめ、胸元に抱える。
光が体に燈った瞬間。大事な想いを見失っていた私がベースをフィルインさせ、むつみちゃんの手を引くようにギターを招き入れる。
——叶えたい 静かな絶望の先に——
心の傷を抉られたむつみちゃんが、沖合に昇る朝陽の調べを掻き鳴らす。曙光に包まれたともりちゃんは、神様だって浄化しそうなほど高く清らかに叫び上げる。夜闇に隠れて見えなかった、海面に浮かぶ扉へ白光の道筋が伸ばされ、扉の向こう側さえ眩しい。
彼女を傍で支える私たち4人は、真ん中で笑顔の視線を交錯させる。
——
——
5人で先の見えない扉へ向き、私たちは一斉に駆け出して、光をくぐった。
——自由な意思で——
——変わりだす 街も風の音も
とらえた息吹きの数
——
目の前に広がる3000人が、拍子にノって縦に揺れている。画面の向こう側にも届いて欲しい。あなたの想いが、今を生かしたんだって。
心臓に深く刻まれて癒えないように、私たちは最後のユニゾンコーラスを全開で吠えた。派手で煌びやかなドラミングがその高揚を突き上げる。
——何度でも 僕たちは歩き始める
くり返す 戸惑いの季節も——
誰より返したかったものがあるボーカルは、歌の合間に片手を差し伸べる。
——その手をとって 君を連れ出すよ——
感情が高ぶりきったともりちゃん特有の、前かがみの姿勢で。
最後に願いを重ねて叫ぶ。強く高く、どこまでも遠く、
——変わる未来へ——
物語の
本を閉じるように、そっと、ささやかに。
長く伸ばされ消え入る終止和音と入れ替わるように、さざ波の拍手が横殴りの雨へと膨れ上がった。
✿大団円のエピローグ✿
今まで聞いたこともない大歓声を面映ゆい気持ちで浴びながら、私の視線はスクリーンに視線を吸い寄せられる。巨大画面を埋め尽くすほどなコメントの流れがまぁ目立つ。
ふと、映像から文字たちが不自然に消えた。余りに多すぎて不具合でも起きたのかな。
という心配はすぐになくなった。画面に1つだけコメントが流れる。
そしてすぐ、何事もなかったかのように、たくさんのコメントが流れ出す。こんなことがもし意図的に行われたのだとしたら、犯人は1人しか思い当たらない。
あの子らしい応え方に、楽器隊の私たち4人は苦笑を見合わせる。台詞がなんのことを言ってるのかは心当たりないけれど、私たちはきっとそれでいい。4人で残りの1人を見守る。
配信画面を映すカメラに向かって嬉しそうに片手を振るともりちゃん。満面の笑みが、スクリーンにもアップで映されているのだった。