「次のレースだがハーツ。これに出ないか?」
デビューを勝利で飾った翌週のある日。
文三は次のレースの話を持って来ていた。
そのレースとはきさらぎ賞。
京都で行われるレースだ。
その話を聞いたハーツは
「2戦目でGⅢ? 少し早くないか?」
と返す。
「……嫌か?」
「いや、嫌ってわけじゃないが……デビューしたばっかだぞ?」
「でも出れるぞ?」
「いや、出れねぇレースの話を持って来るわけないからそんぐらい分かってるわ」
「俺としては、もうお前にはそれだけ走れる力があると考えている。それに俺はトレーナーだ。お前が勝てないレースの話を、持ってた来たりするもんかよ」
ニッと笑ってそう言う文三。
そんな彼に押されて
「……分かったよ。出てみるよ」
と頷くハーツなのだった。
「そういやお前。どんな目標があるんだ?」
「目標? 突然なんだよ」
早速きさらぎ賞に向け、トレーニングするべくコースに移ったハーツ。
そんな彼女が走る前に準備運動をしていると、思い出したように文三が尋ねた。
「いや、担当としては聞いておきてぇなって思ってな。目標はあんのか?」
「目標……やっぱり、クラシック三冠は取りてぇって思うよ」
クラシック三冠とは、皐月賞、日本ダービー、菊花賞の三つのレースで勝つ事である。
そしてそのレースには、クラシック期でしか出走する事ができない。
文字通り、一生に一度しか走る事ができないレースなのだ。
故にそのレースで三冠を取る事を目標にする者は多い。
ただし皐月賞は2000m、ダービーは2400m、菊花賞は3000mと距離がバラバラなため、目標としていても適性が無いので断念する者も決して少なくはない。
故に、目標であると同時に夢の舞台でもあるのだ。
その目標を聞いた文三は
(なら、なおさら持って来て正解だったな)
と、きさらぎ賞を勧めて良かったと思うのだった。
先ほども言ったが、重賞レースともなるとライバルのレベルもグッと上がる。
さらに目標の三冠レースが分類されるGⅠにもなれば、世間の注目度も格段に上がる。
レース場に来る観客数も増える。
だから文三はそれに少しでも慣れさせるために、GⅢのきさらぎ賞を持って来たのだ。
(コイツは少し神経質な部分もある。カリカリする事もあるし、繊細な所もある。少しずつでも会場の賑わいに慣れさせといた方が良いな)
元々走れる実力があると思っての出走だ。
が、クラシック三冠を目標にするのなら話が変わって来る。
皐月賞は4月に行われる。
年度が変わってすぐなのだ。
(効率良く、かつ負担少なめのメニューを考えねぇとな)
と思いつつ、すでにプランはいくつか考えてある。
ハーツがクラシック三冠を取りたいと言う可能性もあったからだ。
(が、まぁ……)
実戦に勝る経験は無し。
そして出る以上は勝たせたい。
「とりあえずハーツ。今日の所は」
その時だった。
二人の目の前を、黒い風が駆け抜けた。
「今のは……」
「ブラックタイドだな……今度の24日にある若駒への調整だろうな」
二人の前を駆け抜けたブラックタイドはそのままカーブへと差し掛かり、綺麗に曲がって行く。
そんな彼女をコースの外から、タイムを測りながら見ている女性に気付く文三。
(そういや奈瀬の嬢ちゃんが担当とか言っていたな)
ブラックタイドのトレーナーである奈瀬文乃の事は文三も知っている。
なんせ彼女が担当しているスーパークリークは、かつて芦毛の怪物と呼ばれたオグリキャップとレースで競い合った事があるのだ。
彼が担当していたザッツザプレンティというウマ娘がいるのだが、何度か彼女が担当するウマ娘とレースで競い合った事がある。
結果は、勝つ事もあれば負ける事もあった。
ちなみにこのザッツザプレンティはネオユニヴァースとサクラプレジデントと共にレースに出た事もある。
(できる事なら相手にしたくねぇ相手だが……そうも言ってらんねぇな)
この先、奈瀬が担当するブラックタイドとレースでぶつかる事もあるだろう。
その時確実に、ハーツクライの前にそびえ立つ壁となるだろう。
(こっちも気合い入れねぇとな)
その思いを感じ取ったのだろう。
ブラックタイドを見るハーツの眼差しは、気付かぬ内に鋭いものへと変わっていた。
そんな視線を受けながら、ブラックタイドは文字通り風を追い越さん勢いで走る。
いつか走るライバルに自分の走りを見せつけるように。
自分の担当に今の調子を見せるように。
ストレートでさらに加速し、文乃の前を駆け抜けた。
「うん。良いタイムだ。これなら若駒も問題無く行けるだろう」
走り終わったタイドにタオルと飲み物を渡しながらそう伝える文乃。
「当然だ。若駒までもう時間はそんなにねぇのに、調子が悪かったら話にならねぇ」
そう。
若駒ステークスは翌週の土曜日。
そこに調子を合わせるためにも今の時点である程度仕上がっていなければ話にならない。
そう言うように返すタイド。
「それに、俺の目標を前に言ったろ」
目標。
ハーツクライの場合はクラシック三冠を取る事。
ならばタイドの目標は
「会長の、ルドルフの記録を塗り替える。芝GⅠ七勝の壁。俺が超える!」
トゥインクル・シリーズ時代にシンボリルドルフが打ち立てた、芝GⅠレース七勝の記録。
テイエムオペラオーが同じく七勝し、タイ記録を出しはしたが超える事はできなかった。
そのままオペラオーは、ドリームトロフィーリーグに移籍し、現在も活躍している。
ルドルフもオペラオーと同じくドリームトロフィーリーグに移籍したものの、生徒会長の仕事だったり忙しいのであまりレースには出られていなかったりする。
そんな、トゥインクル・シリーズでの芝GⅠ七勝超え。
それもクラシック三冠と同じく目標とするウマ娘はいる。
「いつか俺もドリームトロフィーに行く。そんで、オペラオーや会長と走って勝つ。それが俺のゴールだ」
「そうか。なら、頑張らないとな」
と言う文乃。
というのもドリームトロフィーリーグは誰もが移れる訳ではない。
簡単に言うと、実績がある者に移籍しないかと打診が来るのだ。
それを受けて移籍となる。
つまり、実績を立てられなければ打診は来ないのだ。
ある意味残酷かもしれないが、その分それを夢とする者達は勝利への渇望が凄まじい。
「……よし。休憩終わり。もう1本走ってくるわ」
そう言って再び黒い風となるタイド。
瞬く間に小さくなる背中を、文乃は静かに見送った。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
コースの脇で息を切らしているのはデルタブルース。
前回走った未勝利戦で勝利を飾れなかった彼女は、次の土曜日に行われる未勝利戦に出走する事にしていた。
(ハーツは一発で勝ってみせた。私だって)
テレビで見たハーツのデビュー戦。
(負けたくない……)
勝ちたい。
先頭でゴールを駆け抜けたい。
見に来てくれたファンに、おめでとうと言ってもらいたい。
そして何より、見に来てくれたファンに1着を取る所を見てもらいたい。
(次は……勝たなきゃ)
彼女にも目標はある。
クラシック三冠。
だが今のままでは三冠のひとつである皐月賞への出走が危うい。
優先出走権を得るためには、弥生賞で3着以内、若葉ステークスで2着以内、スプリングステークスで3着以内に入る必要がある。
その条件を満たさずとも出走したいと届け出を出す事はできるが、勝率等で選ばれる。
また、皐月賞で4着までに入ったウマ娘には日本ダービーへの優先出走権が与えられる事となっている。
(……なんとか次で勝たないと)
いずれのレースも3月に行われる。
次の未勝利戦でなんとしても勝たなければレース間での調整が厳しくなる。
(次で……勝つ!)
休憩を終え、再び走り出すデルタ。
そんな彼女が挑む未勝利戦は……
「ハァッ、ハァッ、ハァッ……ッ! ハァッ」
ゴールを駆け抜け、息を切らし、両膝に手をついて呼吸を整えるデルタ。
そんな彼女の視線の先では
「おめでとー!」
「次も頑張ってねー!!」
ファンから祝福される、
(甘く考えたつもりはなかった……なのに、なのにこれは!)
マイネルディグノの次にゴールしたデルタ。
その差は0.2秒。
文字通り、相手の背中は手を伸ばせば届くほど近かった。
それでも遠く届かない所にいた。
紙一重。
まさにそうだった。
背中さんそこに見えていた。
すぐそこにいた。
なのに届かなかった。
(向こうの方が強かった……)
今回のレースに向け、トレーニングはしっかりやった。
手は抜かなかった。
本番でもそうだ。
1番になりたくて。
先頭に立ちたくて。
全力を出した。
それでも届かなかった。
ならばそれは、彼女に問題は無いのだろう。
純粋に、出せる力が違ったのだろう。
出せる力が、相手の方が上だったのだろう。
(泣くな……泣くな……)
悔しくても泣くな。
見に来てくれた人が心配するから。
トレーナーだって堪えているから。
他の子達も堪えているのだから。
だから
(泣いちゃ、ダメだ……)
涙は勝った時に残しておくんだと。
涙を堪えて顔を上げ、観客に向けて一礼する。
次こそは勝つ。
そう決意して。
今は涙を堪えた。
「いよいよ明日ですね」
その頃、中山レース場にとあるウマ娘が来ていた。
彼女は翌日行われる京成杯に出るために来ていた。
当日の天気は晴れの予報。
バ場の状態も良いと聞く。
勝つ自信に満ちた様子のウマ娘。
「調子はどうですか。キング」
そう話しかけるのは彼女のトレーナー。
「トレーナーさん。はい。万全です」
穏やかな笑みと共にそう返すウマ娘。
このレースのためにトレーニングに励んで来た。
そんな彼女にトレーナーは言う。
「そうですか。それなら良かったです」
安心したように。
彼女の目を見て伝える。
そんな彼に彼女は言う。
「明日もトレーナーさんに。ファンの皆さんに。勝利を届けます」
胸に手を当てて言う。
「この、キングカメハメハが。必ず」
吹き抜けた一陣の風が、彼女の髪を優しく靡かせた。
こうして各々がそれぞれレースに向けて進む。
勝利を夢見て。
勝つ事を夢見て。
憧れを形にするために。
先頭の景色をその目に映すために。
誰も前を走らない。
クリアな世界をその目に映すために。
観客の声援を背に背負って。
後押しされて。
ただ一人の勝者となるために。
そして始まる京成杯。
それが導火線に火を点ける。
一度点いた火は際限無く広がって行く。
それは激しく燃え上がらせる大火となる。
だがその激しさは、力強く輝かせるほど強い物。
だがその激しさは瞬く間に、導火線を焼き尽くす。
(勝ってみせる!)
(負けない……絶対!)
(勝ちたい……!)
(負けません。絶対に)
(今日も勝つ!)
(今日は勝つ!)
(行くぞ……)
(応援してくれるみなさんのためにも!)
(みんな、見ていてくれ)
(今日こそは勝つぜ!)
10人がそれぞれの想いを胸に、開いたゲートから飛び出した。
お読みくださり、ありがとうございます。
どれだけ頑張っても、勝者はただ一人。
その一人になるのは果たして……
どうか全員が無事に走り切る事を祈って。
次回もお楽しみに!