脚部不安。
骨折や屈腱炎のように故障はしていないが、レースに出られない状況の事を指す。
程度にもよるが、酷くなればトレーニングに参加する事もできない。
さらに酷い状態になれば引退する子もいる。
エメラルドアイルはその脚部不安を理由にターフを去った。
幸い骨折等はしておらず、日常生活を送るには問題無いとの事。
その話を聞いたハーツは思った。
この前出かける時に話があるって言っていたのは、この事だったのではないかと。
なら、オンリーを連れて行ったから話せなかったのではないかと。
それを、姉の様子を見に行った際にハーツは尋ねた。
するとエメラルドアイルはこう返した。
「確かにあの辺りから脚に違和感はあった。けど、だからってそれをアンタに話すつもりはなかった。ただ不安を紛らわすために一緒に、姉妹で出かけたかっただけ。そこにオンリーちゃんも来て3人で出かける事になったけど、凄く楽しかったよ。だから、また3人で出かけようね」
と。
だが、タイミングが少々悪かった。
「ハァ、ハァ、ゼェ、ハァ……」
クロイツとの併走後、いつも以上に息を切らせるハーツ。
姉が取れなかったGⅠを必ず取る。
そのためにも自分をもっと強くしようとハードなメニューを行うようになったハーツ。
クロイツとの併走時にも重しを着けて走るなど、負荷を増やしていった。
そんな事をすればいずれ潰れてしまう。
「今日は休め。これはトレーナーとしての指示だ」
結果、文三から休みを言い渡されてしまった。
ならばとハーツは過去の自分のレース映像を見返し、改善点を洗い出した。
仕掛け所、レース中のポジションの位置等。
やれる事は全てやった。
結果……
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……ッ」
「ハーツさん……」
ある日の併走。
ローゼンクロイツはハーツと同時にゴールした。
体には確実に疲労が溜まっていた。
それも見過ごせないほどに。
「ハーツ。これ以上無理すんなら出走届に判押さねぇぞ」
目指す産経大阪杯までもう半月ほどしか無い。
これ以上無理すれば確実に潰れる。
潰れなくてもレースでの結果は出ない。
故に文三は、脅しにも近い事を言った。
レースに出たいのなら無理をするなと。
流石にそれは応えたのだろう。
その言葉に従う事にしたハーツ。
だが、早く強くなりたいという焦りを隠せない様子のハーツ。
そんな彼女を、先輩二人が見ていた。
そんな3月も中頃になった18日。
翌日にアドマイヤフジとハヤテエンペライザが出る若葉ステークスを控えた日の朝。
ハーツは練習用コースに来ていた。
それは昨日の練習が終わってからの事。
文三に次の練習から戻れと言われた後。
ダイタクリーヴァから明日の朝コースに来て欲しいと言われたのだ。
何か話でもあるのか。
そう思いながら待っていた時だった。
「おはよう。待たせたかな」
「急にごめんね。でも放っておけなくってさ」
聞こえて来たのはリーヴァと、ダンスインザダークの声だった。
「別に……」
待ってないですよ、と返そうと振り向くハーツ。
だが振り向いて、相手を見て、言葉が止まった。
だって
「今日は私達と走ろう」
「朝だけ。この短い時間だけ。私達はあの頃の姿に戻る。だから」
全力でおいで、と当時の勝負服姿の二人が、ハーツを誘った。
勝負服。
GⅠでしか着ない特別な服。
ダンスインザダークの勝負服はドレスの様なデザイン。
黒い生地で作られた肩出しタイプのデザイン。
裾には五線譜を思わせるラインが引かれており、さまざまな音符が描かれている。
青いインナーを着用している。
肩出しデザインのそこから綺麗な青が覗いている。
靴はロングブーツを履いており、上は黒で下は白。
綺麗なグラデーションになっている。
ダイタクリーヴァの勝負服は上が青いブレザーに白いYシャツと黄色のマント。
下が白いパンツと白いシューズとなっている。
マントはテイエムオペラオーやシンボリルドルフやトウカイテイオーのとは違い、クリップチェーンで止めるタイプになっている。
マントで見えないが、ブレーザーの肩に切れ込みが入っており、下のシャツが見えるようになっている。
そのシャツら袖の肩辺りが黄色になっており、ブレザーの切れ目からはその黄色が見える様になっている。
そんな、勝負服姿の二人はハーツにこう言う。
「君が何かに悩んでいるのは感じていたよ。でも何に悩んでいるのかまでは分からなかった」
「でも思ったんだ。君を見て。未だにあの時のレースに取り残されているんじゃないかなって」
そのレースとはダービーの事。
そう言うのはダンスインザダークだ。
「もし嫌なら良い。ただ、嫌じゃないのなら」
「一緒に走ってくれないかな?」
そう言われてどれだけのウマ娘が断るだろうか。
両者共に日本ダービーに出走者。
二人共結果としては負けてしまったが、全てのウマ娘の憧れのレースであるダービーに出たのだ。
そんな二人からの誘いを
「ハハッ。断るバカいませんよ。先輩」
ハーツは受けた。
「距離は2400。左周り。設定はそれで良いね?」
「それって……」
「うん。ダービーやジャパンカップと同じだね」
「私もあのレースには心残りがあるからね。だから」
君の気持ちが分かる、とハーツに言ったのはダークだ。
キングに届かず2着だったハーツとフサイチコンコルドに差し切られて2着だったダーク。
共に同じ2着だった。
故にあのレースに忘れ物があるのだとダークは思ったのだ。
「だから全力を出して。出し切って。もう心残りが無くなるように。私もそうするから」
「……もちろんです」
「私もいるからね。まぁ私は12着だったけどさ」
と言うのはリーヴァ。
12着と大敗だったが、もしもこう走っていたら結果は違ったのだろうか、と考えない日はなかった。
全員があの日に忘れ物をしていたのだ。
「それじゃ、走ろっか」
「はい」
横一列に並ぶ3人。
「これが落ちたらスタートだよ」
1番内側に並んだダークが、コインを真上に打ち上げる。
そのコインはクルクルと回りながら空へと向かい、そしてまたクルクルと回りながら芝へと落ちた。
それと同時に3人が駆け出した。
(これが先輩の走り……)
初めて共に走る二人に、ハーツは驚きっぱなしだった。
無駄の無いフォーム。
力み過ぎない姿勢。
前を見据える瞳。
呼吸も乱れていない。
(これだけの走りをして勝てないのか……)
それほどまでにダービーというのは勝つのが難しいレースなのだと、再認識するハーツ。
それもそうだろう。
これは結果論だが、彼女が出たダービーは故障者が続出するほどハードなものだった。
さらに言ってしまえばダービーを制覇したキングカメハメハも同年内に引退している。
それほどまでに彼女も消耗していたのだ。
それでも走った。
最強の大王として。
敗北はたった一度だけ。
世代最強は誰かと問われたら彼女の名が上がるだろう。
たった8度の走り。
たった7度の勝利で。
7度目の勝利で。
最強としての姿を見せつけた。
そこまでしてやっと勝てるのがダービーならば、自分が負けるのは必然だったのかもしれない。
そう思ってしまう。
だが
(なんで……)
隣を走るダイタクリーヴァも
(どうして……)
反対を走るダンスインザダークも
(そんなに楽しそうなんだ……)
楽しそうに走る。
いや、顔は真剣そのものだ。
だが楽しいという気持ちが伝わってくる。
(楽しい……)
ふと、走りながら幼い頃の事を思い出す。
家族と共に公園で走って遊んだ事。
友人と走って遊んだ日の事。
(あぁ、なんだ……ちくしょう)
知っていたのに。
「行くな」
走る事が好きだって。
「そのままでいろ」
走る事が楽しいって。
「お前は」
知っていたのに見失っていた。
「そのままで……」
後ろから影が追いかけて来る。
そちら側へは行かせまいと手を伸ばして来る。
だが
「あぁ、楽しいな」
ポツリとハーツが呟く。
「あぁ、そうだ。そうなんだよ!」
「走るのって楽しい事なんだよ!」
その呟きにリーヴァとダークが応じる。
それと同時に最後の直線に入る。
「負けねぇからな!」
「それはこっちのセリフ!」
「まだまだ後輩には負けないよ!」
3人一斉にスパートをかける。
グングングングンと加速していく3人。
その3人から引き離される影。
ハーツに伸ばした手はもう届かない。
影はもう届かない。
(あぁそうだ……オレは)
わずかに。
ほんのわずかに。
ハナ差にも満たぬわずかな差で。
(走るのが好きだったんだ)
ハーツが先にゴールし、影を振り切った。
その後もしばらく走り続けた3人。
そろそろ学校の支度だと解散し、リーヴァとダークは部室で勝負服から制服へと着替え、ドアを開けた。
「全く……」
「オヒョワァッ!?」
「なになになに!?」
ドアから出た二人に背後から聞こえる声。
驚き振り返るとドアの横。
壁に寄りかかりながら腕を組む文三の姿が。
「ここ最近なんっか鍛えていると思ったらこんな事考えていたのか全く」
どうやら怒っているようだ。
まぁ無理もないだろう。
リーヴァは屈腱を断裂し、ダークは屈腱炎でそれぞれ引退している。
練習の併走ぐらいならまだしも、先ほどハーツとやった併走は本気も本気。
本番さながらの勢いだったのだ。
それを文三はこっそり見ていたのだ。
「また脚をやったらどうすんだ」
「す、すみません」
「ごめんなさい」
部室に戻され、コンコンと説教される二人。
そんな時だった。
学園のチャイムが鳴った。
「……時間か。良いかお前ら。俺の言いたい事はまだ山ほどあるんだからな。放課後逃げないように」
「は、はい」
「はぁい」
そう返事をして立ち上がる二人。
そのまま部室を出ようとリーヴァがドアノブを掴んだ時だった。
「まぁその、なんだ……一応礼だけは言っておく」
椅子に座りながら新聞を読みつつ、文三が言った。
「……それと。ひとまず保健室には行っておけ」
トレーナーと担当ウマ娘という関係だが、彼女達の親から託されているのだ。
叱る時は本気で叱り、褒める時は本気で褒める。
喜ぶ時も本気で一緒になって喜んで、悲しい時は寄り添う。
第二の親とまではいかずとも、それに近い気持ちで向き合う。
だからこそ、再び脚を壊すような併走をした事を本気で叱った。
だからこそ、悩む後輩を励ましたり道を示してくれた事に感謝するのだ。
「……どうした。さっさと行け」
フンと鼻を鳴らして新聞をめくる文三にリーヴァが言う。
「じゃあまた! 午後に来まーす!」
ダークも言う。
「行って来まーす!」
それはまだ、彼女達が現役だった時の声だった。
パタンと閉まるドア。
パタパタと駆けて行く音が少しずつ小さくなる中。
「っ……っ……」
新聞をめくる音ではなく、鼻を啜る音が聞こえた。
ハーツの時間だけではない。
ダイタクリーヴァの止まっていた時間も、ダンスインザダークの止まっていた時間も。
そして文三の中でも止まっていた時間が。
やっと進み出したのだった。
場所は変わって学園の食堂。
「ご馳走様ッスー!」
「朝からよく食べるなお前」
「師匠だって食べてるじゃないかッス!」
「ん? オレのは普通だろ」
と、珍しくオンリーを朝食に誘ったハーツはペロリと食事を終えていた。
その姿はどこか憑き物が落ちたようにオンリーは思ったそうだ。
「師匠。なんかありました?」
「ん? いや……ちょっと良い事がな」
「なんッスか!? 何があったんスか師匠! 教えてくださいッス!」
「あー、プリンやるから黙って食え」
「ッス! あざッスッス!」
と、簡単に引き下がるオンリー。
そんな彼女を、可愛い後輩だというように見るハーツ。
そのあまりの変わりように
「……なんか変な物食べたッスか?」
と尋ねてしまうオンリーにハーツは
「お前。今日の併走無しな」
と、満面の笑みで言うハーツなのだった。
食事後。
教室へ向かうため、ハーツが廊下を歩いている時だった。
進行方向からキングカメハメが歩いて来るのに気付いた。
「よう。久し振り、か?」
「まぁ久し振り、ですかね」
フワリと笑んで返すキング。
彼女が引退してもう半年も経つのか、と思うハーツ。
「後輩の様子はどうだ?」
お互い後輩を持つようになった。
ハーツのチームにはクロイツやオンリー、リーチザクラウンがおり、中でもロジックは今年中にデビューさせられそうな仕上がりになっている。
対するキングのチームにはダイワスカーレットやフサイチホウオー、ブエナビスタがいる。
「まぁ、みんな頑張っているみたいだよ」
と、チームメンバーの練習中の様子を思い出して言うキング。
「そっか……楽しみだな」
「えぇ。楽しみです」
それで会話は終わってしまった。
歩き出すキング。
ハーツとすれ違うキング。
そんな彼女に
「……ッ、キング!」
振り返り、その背中に向かって呼びかける。
「オレはもう、お前を追いかけねぇ」
その言葉に脚を止めるキング。
その背中にハーツは続ける。
「お前に憧れるのはもうやめる。やめて、そんで」
「お前を超える」
憧れは対等ではない。
憧れとは見上げる事。
それではいつまで経っても超えられないから。
だから憧れるのをやめる。
そして超えてみせる。
そう背中に向かって言う。
すると
「そう……分かった」
それだけ言ってキングは歩き出す。
その背中をしばらく見て、ハーツも踵を返して歩き出す。
それは決別のように見えたが違う。
今までの関係のリセットだ。
だって
(そう、それで良い)
とキングは思っていた。
だって
(私が好きだったのは猛然と追いかけて来る貴女)
あの時、凄まじい末脚で追い上げて来たハーツを思い出す。
見なくても分かった。
背中に迫る凄まじい覇気。
まるで食われるのではないかと思うほどの勢いだったと、今になって思う。
(そう……)
そんな相手とのレースが楽しかった。
(私に憧れてたら、そんな走りできないわよ。ハーツクライ)
立ち止まり、一瞬振り返ってハーツの背中を見て、視線を戻してまた歩き出す。
その彼女の顔は、とても良い顔だった。
彼女も求めていたのだ。
憧れではない思い。
自分を見上げる相手ではない。
彼女が求めていたのはライバル。
だから自分を超えてと言った。
だが今となってはそれが間違いだったと思うキング。
だってきっと。
ハーツクライはそんな事言わなくても超えてくれるだろうから。
(期待しているよ……私の、唯一の)
そう思ってふと、脚を止める。
(……あれ)
そう思うのに。
(なんで……)
なぜ
(私はそこにいないの?)
強い光の後ろにはいつだって、暗く濃い影が伸びるのだ。
およみくださり、ありがとうございます。
遂に、遂に振り切った!
でも……
次回もお楽しみに!