綺麗な蝶には毒がある   作:れいめい よる

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伊都岐島の空へと駆ける

 

 

オナガアゲハが翅を擦り合わせるように肩を回せば蝶のような身体の軽さに驚いた。眠気はないもののお風呂でのぼせてしまったときのように思考はふやけていた。拳を作っては掌を開いて、眼球をぐるりと回して見慣れぬ和室を見渡して、腹いっぱいに空気を吸い込んでは吐き出して。そんな動作を何度か試しているうちに自分の存在を実感できた。血液とともに体内を巡る呪力が命の温かさに加えて実存する世界が何処かを実感させて一息吐かせてくれた。 

 

すると今度は確かな現実が不安として安堵に取って代わった。どうやって俺は獄門疆から出たのだろうか。時が来れば出してやるって云ってたし三福が助けてくれたのだろうか。今は何年で渋谷事変からどれくらい経ったのか。今すぐにでも確かめたい事実から知るのが怖い未来まで。 

 

「夏油先生、ちゃんと生きてるかな。西野さん、虎杖達も皆。」 

 

大丈夫だろう。その為に時当さん…前世の俺が犠牲になってくれたのだから。だとしても俺に合わせる顔なんてない。 

 

原作を知っているからって呑気に肩の力を抜いていたくせにこまめに働いていた気分になってあんな事態を招いた。敵の老獪さを測り誤っていたのだ。呪術界の最盛期、宿儺に千万の呪霊たちが弱肉強食を開展していた平安時代から海に千年、山に千年と肉体を渡り歩き生き延びてきた怪物を相手によくも未熟な学生が対抗しようとしたものだ。三福はずっとそう言いたかったに違いない。それでも黙って嘱目してくれた彼を失望させ、剰え俺の魂と命の存続の為に義理もないのに迷惑を背負ってくれたのに…。 

 

「きっと嫌われたよね…」 

 

自責の念が骨髄にまで染みる。親友を——生き返ったとはいえ——みすみす死なせてしまった果敢ない教え子を、氷柱が心臓を引き裂くよりも鋭く白眼視を突き刺す五条先生の眼に耐えられる自信なんてない。先生どころか虎杖釘崎伏黒、学長に西野さんと日下部先生、沢山の人たちが後ろ指を指したら。 

 

「っゥ、うぅ」 

 

前向きに生きろと神様が鼓舞してくれたのに、早速期待を裏切るような軟弱っぷりの自分が情けなくて仕方ない。この悲観的な思考回路が駄目だと自覚しているのに一度落涙してしまえば流失する感情は留まることを知らなかった。 

 

…孤独だ。見知らぬ天井を見上げて目覚めて、そこに誰も居ないことが死にそうなくらい寂しかった。このまま何も存ぜぬと山奥にでも閉じ籠ってしまいたい卑屈さとたとえ恨まれていても一目でも皆に会いたい思いが拮抗して心を掻き乱す。 

遂に自分自身を持て余して身を起こした瞬間、襖が開いた。 

 

「いつ、き?」 

 

ひゅ、と息を呑むのが耳朶に届いた。心許ない声。どんなときも凛々しくてよく透る筈の声色が有らぬ事への衝撃に彩られている。こんなにも気概ない調子で名を呼ばれたことなんてなくて、涙も引っ込んで首を巡らした。 

今さっきまで彼程求めていた誰かが目の前に佇んでいた。 

 

「真希せんぱい、虎杖」 

 

月影に陰る不確かな梅の揺めきのような相好が、余光の中に浮かぶ巌のような面差しがあっという間に崩れた。だけど俺以上に夢が現実化したみたい表情をする二人に喜びよりも混迷が浮上したのは自然な流れだったろう。

碌に回っていない頭でどんな挨拶を交わすべきかも考えずに「久しぶり」なんて云おうとして、強烈な衝撃が前面に来襲した。鈍い音が腰のあたりで響いた。こちらが声を発する前に二人が突進してきたのだ。 

 

「いっ、たいよ…」

「舞南斗ッ!」

「うん」

「っ!舞南斗ぉ!」 

 

纏わりつく衣服の裡側にある体温が胸も背中も雁字搦めにしてくる。次いで湯たんぽみたいな熱が両肩に触れると優しい振動が伝わってきた。眼鏡の縁を押し付けてくる真希さんは顔色が窺えないけど虎杖と同じように再会を喜んでくれてるのだけは分かった。強くて優しい彼女だから泣いてる姿を見られたくないのかな、と頬を緩めれば「何笑ってんだよ」と嗜められた。先輩の目ってどこに付いてるんだろう。 

 

暫くして虎杖の号泣が収まった頃に真希さんも目許を拭って離れて、俺達は初めて正対した。 

 

「生きてたのかよ」

「見ての通り。俺もあの夜のことはあんまりよく分かってないんだ。」 

 

平将門を祓除して帰った渋谷で絶望して、絶えず迫り来る災難に真っ向からぶつかっているうちに獄門疆に封印された十月三十一日は人生で一番忙しい厄日だったろう。振り回して振り回されて、何時何処でどんな感情でいたのかも曖昧で結局は運命に翻弄されていた。 

 

「訳分かんないくらい泣いて怒って、もう二度と経験したくないってことだけははっきりしてるね。」 

 

二人は同感とばかりに頷いた。散々不安に打ちのめされた後にあっさりと抱擁を交わしたあとはまるで睦言でもしているみたいに是迄の桎梏がどうでも良くなった。只々また元気な姿で再会を果たせたことを噛み締めるかけがえのないひとときを全員が手放したくなかった。 

 

「舞南斗、獄門疆から出された時死にかけだったんだからな」

「マジで?」 

 

そういえば裏梅と真人に追い詰められた挙句崇徳天皇に袋叩きにされたんだっけ。起きて頗る健康だからすっかり忘れていた。擦り傷一つないということは家入先生が治してくれたのだろうか。小さな疑問を溢せば真希先輩が答えてくれた。家入先生は開封の儀の際に席を外していたらしい。 

 

「三福が?意外。」

「まああいつ舞南斗のこと大好きだし」

「えー?うっそだあ」

「ほんとだって!」 

 

釘崎が指摘したら図星を突かれたみたいに暴言を飛ばしてきたのだと、先生に同級生の悪戯を告げ口するみたいに虎杖が挙手した。 

 

「朝昼は出掛けていないけど夕方には必ず帰ってきて寝ずの番してくれるんだ。」

「虎杖、虎杖。その言い方だと俺が故人になっちゃうから。」

「てへぺろ。」 

 

ううん、俺の前でも毒舌三昧だから三福が微笑んでくれる想像すら思い浮かんでこない。それでも先輩が否定せずに相槌を打つってことは少なくとも二人にとっては真実なのだろう。要考察だけれども。 

ともあれ、無事に解放された俺は一ヶ月も眼を覚まさなかったようでその間無防備な身の安全を守る為に五条先生の自宅で療養させてもらっていたようだ。道理でそこらの和室に使用されている銘木とは格が違うと素人目にも解るものだ。

 

どうやら真希さんが確りと情報伝達していたらしく、程なくして弾丸の如く駆け込んできたのは西野さんだった。靴も脱がずに引き戸を倒す勢いで詰め寄って、脅迫でもするのかってくらいの形相に萎縮していると案の定引っ叩かれた。顔をまともに見る暇もなかった。

 

「いったあ!」

「生きてる…」

「叩かなくても見て分かるでしょ!」

「あのクソ生意気な呪霊の変装か…?」

「ちょっと聞いてます?俺!舞南斗!生きてる!」 

 

頬を引き千切らん勢いで引っ張られて涙目になったところで先輩からの制止が掛かって漸く俺は解放された。親父にも殴られたことないのに…呪霊なら五万回は足蹴にされてきたけど。真っ赤になった両頬を摩って明日の腫れを想像して怯えていると、ただでさえ目睫の間の距離が縮まってくるのを予感した。思わず平手打ちの第二波に備えたけれども頬抓りもやってこなかった。 

 

真希先輩と虎杖とは違って触れればすぐに壊れてしまいそうな人形を労るような抱擁だった。或いは生まれたての赤ん坊にどれくらいの力で触れて良いのかが分からなくて恐る恐る掌を接触させる程度の旦那さんみたいな。 

 

「貴方は馬鹿ですね。」 

 

感情の篭らないことを美徳しているような人がその実こんなにも繊細だったと気付いたのは意想外の発見だった。怒を除いた喜哀楽の権化のような西野さんが俺の鼓動を確かめている。それだけでどれ程の心配を掛けたのが犇と伝わった。 

 

「ごめんなさい。」 

 

小さな謝罪に後頭部に触れる指先がびくりと揺れた。 

 

「…馬鹿」

「うん……ふふ」

「聞いてるんですか。舞南斗は馬鹿だって言ってるんです。」

「名前、呼んでくれてありがとう。」 

 

到頭締め付けられて殺される直前の鶏みたいな呻き声を漏らすと笑いが弾んだ。桶を覆して頭からすっぽ抜けた言葉と様々な心境が晴れ晴れとした哄笑に溢れて止まなかった。 

余談だが西野さんがあんなに感情を露わにしたことが余程珍しかったので心配性なんだなとポツリと感想を溢したら、当たり前だろと日下部先生に叩かれた。翌日にたんこぶが積み重ならなかったのが不思議でならない。 

 

………。 

 

物理的時間が流れてない獄門疆に留まるどころか神域にお邪魔していた俺にとって一ヶ月ぶりの夕陽は新鮮でもなんでもない光景だった。唯その後お見舞いに来た沢山の人にもみくちゃにされて生存確認をされて叱られて、大切に思われていた、微塵も嫌悪されていなかったという実感が平凡な日の入りを格別で尊い一日にしてくれた。皆が学校に帰って家主の五条先生と彼が激選した複数人の女中さんだけが屋敷に残った。

 

坪庭をぐるりと囲むように造られた回遊式の離れは現代日本ではベルエポックなお屋敷という印象を抱かせるけれども、一人暮らしの俺にとって抱かせられる最初の感想は「掃除大変そう」だ。使用人という発想がないからいつまで経っても庶民なのかもしれない。 

 

今日の夕空はなんだか駆け出しの画家が橙色の絵の具を甚三紅と間違えて撒き散らしたような色紙細工を描いていた。所々雲間から金光を放ち、奔放な気配の感じられる空模様の下では落莫を孕んだ秋風が吹き抜けている。昔ながらの屋敷に備わっている離れの客室には豆電球一個程度しか設置されておらず、夜の濃度が増すにつれて指先の輪郭から覚束なくなっていった。

 

母屋で寛げば良いと誘ってくれる五条先生の誘いに遠慮せずに有り難く受ければ良かったのだ。赤茶けた幽霊屋敷と一度(ひとたび)錯覚してしまうと独りで居ることは耐え難くなった。恐怖心からか晩秋の気温からか判別のつかない悪寒に我慢ならなくなって立上がる。恥を偲んで先生の部屋に居座ってやろうと急いで飛び出して、誤って踏み入れた坪庭で彼を見留めた。 

 

「お前はいつも喧しいな。」 

 

幼稚園児でも嗜める声遣いで三福は呆れた眼差しを寄越した。斜陽の名残と混じった蒲葡色の横髪が巻き上げられる。控えめで楚々としたアイメイクが眼を惹いた。 

 

「三福」

「舞南斗」 

 

契約者とは呼ばれなかった。伝えたいこと、話したいことは沢山ある。あったはずだ。けれども彼を前にした途端、虎杖達の時みたいに心中に煌めく純粋な想いしか転び出てこなかった。 

 

「ありがとう。」 

 

そう告げた俺を恰も精神異常者でも見るかの眼で睨む仕種は矢っ張り好かれてるようには思えない。それでも神様が教えてくれたように「許容」は魂の領域から伝播してきた。 

 

「気色悪いことを言うな。イカれた契約者と出会ったのが運の尽きだ。」

「酷い言い方だなあ」 

 

素っ気無い態度の端々に、あの夕焼けのように色褪せた郷愁が溢れている。互いを束縛していた因縁はさっぱり解消されたのだと実感した。 

渋谷事変で最終的には俺を助ける選択をしてくれたこと、総監部を潰して、加茂家のお偉いさんを倒して五条先生達の負担を軽減してくれたこと、昏睡している期間ずっと見守ってくれたこと…沢山感謝しなければならないことはある。兄弟みたいに云ってやりたい文句もある。だけどこの場では単純な一言が最も俺の想いを伝えられると思った。そして三福は正しく受け取ってくれた。それが胸で理会できればそれで善いじゃないか。 

 

「まだ終わってないぞ。」

「うん。」 

 

信基の時世に犯した最大の過ち、羂索は失脚しちゃいない。五条先生たちによると一週間と四日前に加茂家は当主候補の憲紀と複数名の血縁者を除いて分家までもが行方を晦ましたという。御三家が一角の不穏な離脱は愈々台風直撃の前日にできる巻積雲を彷彿とさせた。その通り、まだ最終決戦は始まってもいない。

でも三福の音色は忠告とは程遠い前途洋洋の錦を纏っていた。俺と生き写しのような顔貌で、されども天下を取ったかの丈夫な血色が大丈夫だと励ましてくれる。 

 

とうに太陽は地平線の彼方に沈んだ筈なのに秋陽が仄かに香る蒼穹が幻視された。さらさらとそよぐ色なき空気の調べが俄に三福と俺を包んだ。精霊が舞うかの如く旋回し束の間視界を奪い、やがて穏やかな開眼が許されたときには一頭の蝶が坪庭の中央に浮遊していた。

青空を背にして聳える大鳥居と、神殿と瀬戸の海原を望む弥山の色彩を兼ね備えた眩暈のするほど美しい翅を広げて。毒を得たからこそ光輝さを増した蝶の神様はやっと帰る場所を取り戻したのだろう。そうして俺も魂の在るべき処へと帰ってきた。 

 

 

 

…数週間後、虎杖とは別な肉体を得て復活を果たした宿儺と羂索率いる呪詛師及び術師勢力対五条派が激突した。二十一世紀最大の呪術戦争と呼ばれた世界の帰趨を握る争いは僅か一ヶ月足らずで終結。辛勝の渋谷事変から一躍し快勝を果たした。

それから数年後が経ち、特級呪術師として第一線で活躍する俺はとある地域の百葉箱に祀られた「推魔怨敵」の指を回収した。

 

 

 




後書き

黎明夜です。
綺麗な蝶には毒があるシリーズはこれにて完結致しました。途中で更新が大幅に遅れたりと随分な時間が掛かってしまいましたが最後までお読み下さった皆様には感謝の念でいっぱいです。有難う御座います。

筆者が何故本シリーズを七話で据え置き天与呪縛シリーズを先に完結させたかは、双方をお読み下さってる読者様には本話の終盤でお察しいただけたかと思います。呪術廻戦の二次創作を描き始めた当時の作品には見切り発車が多く、それ故に終着点を定めずに漠然と執筆してきた所為で迷走したりもしています。本作品も渋谷事変後の設計図のメモを誤って消してしまった為に死滅回遊編を断念した次第ですが、これはこれで納得のいく結末を迎えられたのではと個人的には思っております。

ともあれ、存外簡潔な結びとなりましたが少しでも読書を楽しめたと思っていただけたなら本当に幸せです。
改めて、綺麗な蝶には毒があるを最後までお見守り下さり有難う御座いました。

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